映画『イザイホウ』より
渋谷アップリンクで2014年12月より公開され、連日満席を記録したドキュメンタリー映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』が1月24日(土)より再上映される。
『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』は、沖縄島の南東5キロの海に浮かぶ久高島で12年に1度おこなわていた祭祀を記録したドキュメンタリー。久高島は、男が漁業、女が農業を営む半農半漁の離島で、今作は1966年に4日間の本祭を中心に1ヵ月余の時をかけて行われた祭祀をフィルムに収めている。
今回は野村岳也監督へのインタビュー、そして公式ホームページに掲載されている、撮影当時の模様をつぶさに捉えた野村監督による日誌を掲載する。
【野村岳也監督インタビュー
「人間のプリミティブな生活が残っている」】
『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』は2008年に学術研究者に向けての上映が行われたが、一般の観客のための公開は今回のアップリンクが初となる。なお、今回インタビューと合わせて掲載する撮影日誌は、2008年の上映の際に書かれたものだという。
野村監督はアップリンクの最初の上映で連日満席を記録したことについて「イザイホウに興味を持ってい人がいたことは知っていたものの、ここまで観にくる人がいるとは想像していませんでした」と驚く。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』の野村岳也監督
野村監督は慶応大学で美学を学び、監督の道へ進んだ。東京でCMの制作など映像の仕事をしていた野村監督は、1965年に仲間たちと古くから神さまが天から降りてきて国をつくったという「建国神話」がある久高島を訪れた。久高の風景や島の様子に翌年に魅了され、翌年に久高島最大の神事イザイホウが行われるということを聞いて、撮影することを決めた。島に一軒家の住まいを借りた監督たちは、最初の1ヶ月はカメラをまわさず島の人たちとコミュニケーションをとることに努め、2月目くらいから風景や生活を撮りはじめた。
「僕たちも、初めから上映を目的にして作ったわけではないのです。非常に私的な気ままにやりたいように撮った。だからどんなふうに展開するか分からなかった」。
野村監督は撮影当時30代前半、「僕たちも〈貧〉を気にせず撮影、久高島の人も貧を気にしない。〈貧〉で結びついていた」と回想する。「昔話の〈おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川で洗濯に〉、というような、非常にシンプルな生活なんです。土地もみんなで共有して、資本主義社会ではない、人間のプリミティブな生活が残っている」。
現在、久高島の人数はどんどん減っており、撮影当時は600人くらいだったものの、今は3分の1の200人くらいになっているため、祭祀を行うとしてもできない状況だという。「ノロ(神女)になるのは久高で生まれて、久高に住んで、久高の男と結婚している人でないといけないんです。その決まりは年々ゆるくなっていますが、それでもだんだん減ってきています」。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より
このドキュメンタリーに記録されている1966年は戦後最大のイザイホウだった(その後、1978年にも行われ、岡田一男氏が代表の東京シネマ新社が『沖縄 久高島のイザイホー』として映画化している)。その後、2008年まで上映を封印してきたことについて野村監督は「久高島の人々の〈秘祭〉だから広めたくない、秘めたものにしておきたいという気持ちが伝わってきたから」と明かす。そして「それでも島の人々が撮影に協力してくれたのは、失われてきつつあるイザイホウにとって撮影することは保険であり、影のように残るものとして島の人たちは認識していたからではないか」と語る。
野村監督は久高の人たちの神に対する考え方を「人でも自然でもなく、どんなかたちというのはなく、ただ神なんです、非常に観念的なんです」と説明する。
「久高島以外でも似たようなことは行われていたんではないでしょうか。日本の祭祀の原点という感じがします」
今回の上映を経て、野村監督は最後にこんな構想も明かしてくれた。
「この祭祀は1ヵ月前から、だんだん島全体が祭祀一色になっていく。押さえに押さえていて、クライマックスになっていたところで始まって、4日間でだんだん日常に戻っていく。だから野外劇にしたら、非常にいい劇になると思います。やってみたいですね(笑)」。
(取材:浅井隆 構成:駒井憲嗣)
【野村岳也監督によるコラム:『イザイホウ』撮影当時】
私たちが上映とDVD普及に取り組んでいるドキュメンタリー映画『イザイホウ』(49分)の製作にまつわる裏話を、思いつくままに話してみたいと思います。そうすることで、なぜ私たちが40年間埋もれていたこの作品を、敢えて掘り起こし、みなさんに見ていただこうとしているのかわかってもらえるような気がするからです。(野村岳也監督)
この映画は、1966年に撮影し、翌年に仕上げたモノクロ16ミリフィルム作品です。
普通映画製作は、上映することを目的にスタッフ編成とスケジュール、予算を組んで製作されます。私たちの映画「イザイホウ」は、そんな普通の作品ではありませんでした。
1965年、初めて沖縄へきた私は、沖縄島の東に神の島といわれる小島があることを聞き、フラッと渡ったのでした。久高島は私に並々ならぬ印象を与えました。その清冽な風景、そこで人間生活の原型のような暮しをするやさしく気品に満ちた島人 - ここでは、年間30にも及ぶ祭を通して島の暮しが営まれています。そして私は翌年に12年に一回の祭、島の女が神になる、久高島最大の神事イザイホウが行われることを聞いたのです。東京に帰って仲間に話すと、撮りたい、撮れないか、ぜひ撮ろうとたちまち決まってしまいました。
当時私たちは、みんな映画、テレビ、CFなどの仕事をしていました。翌年、仕事の整理をし、私たちはなけなしの金をかき集めて撮影に取り組むことになったのです。
いってみれば、ゲリラ的製作でした。
そんなわけで、私たちの撮影行には、通奏低音のようにビンボーがつきまとうことになります。しかし、必ずしもビンボーがマイナス要因ばかりではなかったことを、話が進むにつれて皆様にはわかっていただけると思います。
当時、ドキュメンタリー映画やテレビの撮影には、どこでも西ドイツ製の「アリフレックス」というキャメラを使っていました。しかし、私たちビンボースタッフには、このキャメラを用意することができません。10日や20日間ぐらいなら借りられないことはありませんが、そんな短期間で撮影するつもりはありませんでした。仕事でなく楽しみで撮るのですから、島への滞在は長ければ長いほどよかったのです。
そんなわけで、安く借用できるキャメラをさがしました。フィルモやボレックスという手巻き式のキャメラはありましたが、それらは1カットせいぜい20秒そこそこで、長まわしが出来ません。どこかにいい出物がないものかとさがしていたところに、耳寄りな話が聞こえてきました。
その頃の東京には、映画の機材屋がいくつかありました。その一つに、アリフレックスそっくりなキャメラを手造りしている機材屋があり、さっそく訪ねてゆきました。
それが「ドイフレックス」との出会いでした。
テストをすると、結構いいのです。機材屋のおやじは、気に入ったら使ってくれ、いくらでもいい、といってくれました。
私たちは、このキャメラに決めました。ズームレンズなんかはありません。広角、標準、望遠の3本の単レンズを交換しながら撮らなければなりませんでした。
ちなみに機材屋のおやじは名前を「土井」といいました。
こうして、私たち3人のスタッフは、「ドイフレックス」を1台もってイザイホウ本祭の2ヶ月前、待望の久高島へ上陸したのです。
1966年10月のあの日のことを忘れることができません。私たちは、神世の時代へタイムスリップしたような気持ちにとらわれたのでした。
久高上陸の翌日から、毎日憑かれたように島中を歩き回りました。美しい砂浜、せまる岸壁、そこに並んだ用途を異にするカー(井戸)、クバの林、幾つもの神の森(拝所)、箱庭のような村落の家や道、海辺にひっそりとたたずむティラバンタ、 - そんななかで島人は、男は海へ、女は原へと人間生活の原型のような暮しをしておりました。浜辺のサバニのかげで魚網をつくろう老人、畑で働く子連れの女、漁から帰ってくる男、遊びまわる子供たち。私たちは、出会う人みんなに話を聞きました。外で出会う人ばかりでなく、家々を訪ね歩いて話を聞きました。どこそこの家に祝い事があると聞けば、呼ばれもしないのに、50セントをつつんで押しかけてゆきました。島の祭(久高には年間30もの祭があった)には、すべて参加しました。島人と一緒にニガナあえのサシミを食べながら島人の話を聞きました。1ヶ月もするとほとんどの島人と顔なじみになっていました。親しく付き合う人も何人もできてきました。その間私たちは1カットも撮影してはおりません。そんななかで、だんだん島人の死生観がわかるような気がしてきたのです。
その頃から少しずつ、島の風景や島人の暮しの断片を撮影し始めました。
私たちに与えられた宿舎は、しっかりしたヒンプンと石垣に囲われた格調高い屋敷でした。それもそのはず、久高島で一番古い、ムトゥといわれる大里家だったのです。その頃、大里家は子孫が死に絶えて、無住の空家でした。しかも大里家は、第一尚氏最後の王、尚徳の恋人だった名高いノロ、美人の誉れ高いクニチャサの生家だったのです。
その悲恋を人々は次のように伝えています。
尚徳王がクニチャサと恋に落ち、政治を忘れて久高ですごすうちに、城内で反乱が起こり、急遽帰ろうとするが、絶望のあまりその船から身を投げて死んでしまう。悲しみに打ちひしがれたクニチャサは、家の前のガジュマルで首を吊って死んでしまった。
大里家に向かって右に小さな森がありました。そして、この木がクニチャサの首吊りの木だといわれるガジュマルもありました。私たちは毎日その木を眺めながらクニチャサを想い、王位を簒奪された尚徳王を想ったものでした。
15・6世紀の沖縄をイメージするには、久高島は絶好の島であったし、大里家の宿舎は、最高の宿舎だったのです。
私たちは毎晩のように、前の森を見ながら昔の沖縄を語り合ったのでした。
イザイホウを描くためには、命がけで、海へ出て行く男たちの姿をとらえる必要がありました。なぜなら、イザイホウは、島の女が神になるまつりですが、それは男たちを守るためなのですから。
遠洋漁業に出ない島の男たちは、サバニで一本釣りに出かけます。小さなサバニですから、私たちスタッフが同乗することができません。撮影のための船を得るには、チャーター料が必要でした。
そうこうしているうちに絶好の撮影日和(海の荒れた日)がやってきました。後でチャーター料を送るということでお願いするしかないと海辺でみんなで話していると、友人の漁夫が海仕度でやってきました。
「今日は久高漁夫のほんとうの姿が撮れる日だよ。俺は漁を休んで撮影に付き合うよ。チャーター料?いらない、いらない。油代もいらないよ。久高の海人のほんとうの姿を撮ってほしいんだ。」というじゃありませんか。私たちは嬉しくなって喜び勇んで海へと出たのです。
海は大波が荒れ狂っています。漁夫はそんななかでサバニに仁王立ちして釣り糸を操るのです。私たちは夢中で、勇壮なその姿を追いました。
ところが - アッという間もありません。キャメラに波がかぶってしまったのです。
浜に上がったときは、キャメラはもうまったく動きません。まだ祭祀も始まらないというのに一台しかないキャメラが故障してしまったのです。代替機を送ってもらうことは私たちにはできません。私たちは頭を抱えてしまいました。
その時、キャメラマンのSが「俺が直す、2・3日時間をくれ」と決然といったのです。Sもキャメラは廻せても、キャメラの構造などわかるはずがないのです。でも任せるしかありません。
図面を引きながら、1日かけて分解しました。そして、油で一つ一つ洗浄し、図面を見ながら2日かかって組み立ててゆきました。Sは、夜もほとんど寝なかったと思います。そして3日目に組み立て完了。テスト!快調なモーター音が聞こえました。
私たち3人は、飛び上がって喜びました。
今考えてもどうしてもわからないのは、ビスが3本あまったことです。書き出した図面の通り組み立てたはずなのに、どうして3本のビスが余ったのでしょうか。Sはいつまでも首をかしげていました。
島での私たちのくらしは、人間生活の原型に近いものでした。かまどで火をおこし、汲み置きの水で米を研ぎ、汁をつくります。暗くなれば、ランプに灯をともします。電気・ガス・水道などすべてがない、実にさわやかなくらしでした。
島では水汲みは子供たちの仕事でした。毎日何度も、西海岸のカー(井戸)から空缶やバケツに水を汲み、それぞれの家へ運ぶのです。私たちの宿舎へも運んでくれるのです。
宿舎には大きなかめに汲みおきの水がためられていました。雨がふれば、雨水もそこへたまるようになっていました。
水がめには、いつもボーフラが浮かんでいました。子供たちが、せっかく運んでくれた、あるいは、天から恵まれた貴重な水を、ボーフラがわいたぐらいで捨てることはできません。かめのふちをポンとたたくと、スッとボーフラが沈みます。その間に汲みあげるわけです。
ある日、久高島へ小さな発電機が上陸してきました。大人たちが小さな発電機を取り囲んで長い間、ああでもないこうでもないと嬉しそうに話し込んでいました。その夜から、一部のおもだったところで、一定時間電気がつくようになりました。静かな島に、発電機の音が響きました。そして、ある家でテレビが映ったのです。大人も子供もその家へ寄り集まって、大きな音の小さなテレビに釘づけになりました。窓の外にも、上気した大勢の子供たちが群がっていました。
私たちは、毎日相変わらず島の中を歩き回りました。学校が終わる頃になると、いつも10名以上の子供たちがついてきます。そして機材など荷物を持ってくれました。私たちはすぐ子供たちと仲良しになりました。
子供たちは、島のいろいろなことを教えてくれました。神の島であるこの島には、立ち入ってはいけないとされる神聖な場所があちこちにあります。子供たちは何でもどこでも知っており、いろいろ教えてくれるのです。立ち入ってはならないそんなところを撮った後など子供たちと私たちの間に共犯者同士のような連帯感が生まれて、私たちと子供たちはますます仲良しになったのです。
私たちは、毎日いつも十数名の大スタッフ(?)で島を歩き回っていました。真に楽しい撮影行でした。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より
年の瀬が迫るに従い、日一日と寒さが身にしみるようになってきました。
南国沖縄が、こんなに寒いとは思ってもみませんでした。私たちには、毛布が一枚ずつあるくらいで、まともな寝具など全く用意していなかったのです。宿舎は板の間で畳などはありません。私たちは毛布にくるまって寒さをこらえて寝るしかありませんでした。
そんなある日のこと、掟神のNさんたち3人の神人が、それぞれ頭に二枚の布団をのせてニコニコしながら私たちの宿舎へ入ってきたのです。私たちは福の神が迷い込んできたかのように驚きました。
当時、学校(久高小中学校)の先生方は、それぞれ宿舎に住み、週末に本島の自宅へ帰るという生活ぶりでした。そんな一人に、馬天に家のある若い女の先生がいらっしゃいました。その先生が週末に帰ったおり、わたしたちが寒かろうと3人分の布団を船で運んできて下さったのです。それは私たちの全く考えてもみなかったことで、大変恐縮したことでした。
あの頃、久高航路は馬天港とつながっていました。たまたま桟橋に荷揚げされる布団を見たNさんたちが、私たちの宿舎への運搬を引き受けて、あの日福の神の訪れとなったのでした。
翌日、子供たちの嬉しそうに笑っている、ワケありげな顔を見て、アッと気づいたのです。子供たちが先生に私たちの惨状(?)を話したに違いありません。恥ずかしさに身の縮む思いをしながらも、たいそう嬉しい気持ちになったことを覚えています。
その日から、私たちはみんな暖かい布団のなかで、ぐっすり眠ることができました。
本祭一ヶ月前の「御願立」の儀も終り、ナンチュたち(今度の神事で神女となる30歳から41歳までの女)が、定期的なウタキ参りをくり返し、島は日一日と緊張感が盛りあがってきました。
そんな一日、私たちはスタッフの命綱であるロケ費が底をついていることに気がつくのです。
「おい、金がないぞ。どうする?」
「いまさらどう出来る?米さえあれば、ひと月やふた月人間死ぬようなことはないよ。」
幸い米と塩だけは十分ありました。
「野菜は野にニガナがいっぱいあるじゃないか。芋のかずらをつんでも誰も文句はいわないよ。どうしてもタンパク質が不足するようなら、一日休んでみんなで魚釣りをやろうじゃないか。」
「あ、それはいい!」と、みんな金のないのも忘れて釣りの計画に夢中になったのでした。
私たちスタッフは、その出発点から、ビンボーにはあまり驚かない体質を持っていたのです。沖釣りは船がないからできません。磯釣りしかありません。ここでまた、子供たちの登場です。どこで何が釣れ、糸の長さは、釣り針の大きさは、と、小さい師匠について、現場実習を積み重ねたのです。
一方、島の人々の暮らしには、清貧と言っていいような清々しさがありました。
生産用具といえば、サバニと漁具、鍬、鎌とカゴぐらいで、いわゆる文化的な色合いの不純物は何一つありませんでした。この貧しさの爽やかなトーンが私たちのビンボーという通奏低音と共鳴したのかも知れません。
この後、私たちの暮らしに全く思ってもみなかった事態が展開することになるのです。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より
一日の撮影が終って、夕方宿舎へ帰ってくると、大盛りのサシミが置いてありました。そのおいしそうなサシミ皿をみんな、様々の思いで眺め入りました。
「幻覚じゃないんだろうね。」
するとそこへ数人の漁師たちが酒を持って入ってきたのです。疑問はたちまち氷解、楽しい酒盛りの開宴です。こんなことがたびたび行われるようになりました。そんな翌日には、前夜の漁師の奥さんたちが野菜や芋を持ってきてくれました。私たちはロケ費が底をついたというのに、前にも増して優雅な食生活をおくることになったのです。ニガナを採集したり、魚釣りをする必要もなくなり、イザイホウのことだけを考えておればいいのです。もうこうなると外来の撮影班ではありません。神事にかかわる島人のようなものでした。
本祭が近づくと沢山の報道関係者、観光客が入ってきます。無遠慮にあちこち歩き回られたのでは、たまったものではありません。その前に、島の若者たちで、報道管制をしくことになりました。縄張りをして、立入禁止の紙をぶら下げるのです。
私たちも、ごく自然に島の若者たちと一緒に、立入禁止の張り紙をはって回りました。
祭の二・三日前から大勢の人々が入ってくるようになりました。島の外に働きに出ている島の人たち、報道関係者、学者や文化人、一般の観光客などで島は膨れ上がりました。
私たちは、そんな外来者とほとんど接触することなく、神事の進行にとけこんで行ったのです。
島へ上陸した学者や文化人、そして報道関係者は目を光らせて歩き回っておりました。祭関連の場所を見、写真を撮り、島人に話を聞くのです。その真剣な姿は見ていて本当に怖いくらいでした。私たちにもひとりでに緊張感が忍び寄るような感じでした。
そんななかで、いつもたった一人、にこやかな表情で飄々と歩いている方がありました。T先生です。たしか当時琉球政府の文化財保護委員会のメンバーだったと思います。なぜかよく出会うものですから、いつしか私たちは先生と立話をするようになっていました。先生の話には、イザイホウのイの字も出てきません。久高島の植生について、実物の植物を指し示しながら、話をしてくださるのです。その話を興味深く聴いているうちに、私たちの心は自然と安らぎ、とても落ち着いた気持ちになるのでした。
先生には、道であったり、海辺であったり、井戸端であったり、不思議によくお目にかかりました。そんな先生のご様子は、本祭期間中も、まったく変わりませんでした。ほとんどの人が、目を血走らせて走り回っているのに、先生だけは飄々と祭事の周囲を歩いておられるだけでした。島の植物を通してイザイホウを見ておられるような感じでした。本祭期間中でもイザイホウのことは一言もおっしゃいませんでした。いつも島の植生について穏やかに話されるのです。
私たちは先生の話に接してどれだけ心休まる思いをしたかわかりません。
スタッフのA君は、主として進行と録音を担当しておりました。
彼とは松竹のシナリオ研究会で初めて会ったのですが、わたしより4・5才は若かったと思います。妙に積極的な、ずうずうしいと言ってもいいくらいな性格の持主でしたが、何故か憎めない男でした。
何かの時、「そんなこと言って君、恥ずかしくないのか」というと、「私のモットーとするところは、ハレンチになること、これです」といってにっこり笑うといったあんばいでした。私もキャメラマンのS君も、どちらかというと引っ込み思案の方でしたから、A君の積極性には、ずいぶん助けられたものでした。
本祭がせまる頃、メインの祭場ウドゥンミャーのキャメラ位置に悩んでおりました。
祭の全体像を捕えるには、どうしても高見の位置が必要だったのですが、それがないのです。本祭の前日、突然A君が、ちょっと本島まで行ってくると、出かけていったのですが、その夕方金もないのにどうして手に入れたのか、建設用の鉄骨足場を船に積んで、意気揚々と荒海を渡ってきたのです。さっそく組立て、現場にフカン台として据えつけました。
祭事の撮影にどれだけ威力を発揮したか分りません。他の撮影スタッフの中にもこのフカン台の恩恵を受けた人たちがあったはずです。
もう一つ、撮影用のフィルムが足りなくなってきたのを見て、どう交渉したのか、テレビ局のスタッフから2000フィート(約1時間分)のフィルムを借りてきたのもA君でした。これには後日談がありますが、今は触れません。
いずれにしても、A君は私たちスタッフにとってなくてはならない存在でした。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より
S君は、永い間一緒に仕事をしてきた盟友でした。海水につかって動かなくなったキャメラを三日がかりで直したあのS君です。彼は、対象にのめりこむようなキャメラマンでした。
本祭二日目、髪垂れ遊びが終った夕刻、暁神遊びが行われます。これは前日の夕神遊びに参加しなかった、午年生まれと乳飲み子をもった女で、夕神遊びと同じことを行うのです。この時はたしか8名だったと思います。私たちは、祭場で見ていたのですが、その時はライトがなく撮れないのです。
なぜかというと -
前夜の夕神遊びの時、全撮影班が話し合い、島人に頼んで発電機の電気を引き、ライティングして待っていたのです。
ナンチュが「エイファイ、エイファイ」と祭場へかけこんで来ます。このとき、突然ライトが消えてしまいました。島人の誰かが、電源を切ったに違いないのです。私たちは、そんなときに備えてフライヤー(照明用の松明)を用意しておりました。すぐフライヤーを点火して、なんとか撮影することが出来たのです。どの撮影班も、私たちの灯したフライヤーの灯で撮影したはずです。
さて、二日目はもうフライヤーはありません。ところがS君はどうしても撮るといってきかないのです。ライトがない以上、撮っても写るわけがありません。S君は、「オレはどうしても撮りたい。写らなくても撮りたい」といいはるのです。私たちは貴重な160フィートを無駄回しすることにしました。でないとSの心がおさまりません。
撮影が終って、Sはちょっと恥ずかしそうにいいました。
「いいカットだと思う。必ず使ってくれ。」
東京へ帰ってラッシュプリントをあげてみると、延々と真暗な画面が続きます。そして時々、パッとナンチュの洗い髪姿がひらめくのです。それは観光客のスチールキャメラのフラッシュのおかげなのです。
映画のフィルムは1秒間に24コマまわりますが、フラッシュが感応するのはわずか1コマです。真暗ななかで、パッパッとナンチュのひきつった顔が浮かびます。このカットに、ナンチュの「エイファイ、エイファイ」と島の男たちの怒鳴る「フラッシュたくな!」「やめろ!」をかぶせてみると、実に緊迫感のあるカットになりました。S君には申し訳ないが、やっぱり、このカットを作品に使うことは出来ませんでした。
実は、この三ヶ月間の撮影期間中にS君の長男が誕生しておりました。彼は一言も言わなかったから、東京へ帰ってから初めて、私たちはそのことを知ったのです。
12年に一回の神事・イザイホウは終りました。
潮が引くように、大勢の人々が島から出て行きます。久高島は元の静かなたたずまいを取り戻します。出会う島人は、みんな決まってホッとしたような笑顔をみせます。厳粛な神事から解きはなたれた安らぎを、覚えていたのでしょう。私たちも、歴史的な素晴らしい時間を共有できた喜びを感じておりました。
新しい年(1967年)を迎えました。
久高島では、すべての行事が陰暦で行われますから、新正月は何もしないのです。
「海へ行こう、泳ごう」
私たちは、心ときめかせて海へと歩き出しました。久高島へ来て、初めて海へ入るのです。しかし、南国沖縄でも正月は結構寒いのです。波も相当荒いのです。私たちは、岩にたたきつけられないよう気をつけながら、おそるおそる元旦の海へ入って行きました…
そんな海岸へ、ドラム缶を担いだ人が現れました。掟神のNさんです。Nさんは、私たちのために即席の風呂を沸かしてくれました。震えながら海から上がってきた私たちは、ドラム缶の風呂に入って温まりました。三ヶ月間、井戸水で体を洗ってきたのですから、久高へ来てはじめての入浴でした。
ドラム缶の風呂に身を沈めながら、私たちは三ヶ月余にわたる心あたたまる島人との交流を思い起こしておりました。
もう別れのときが迫っているのです。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より
これは話さないつもりでしたが、やっぱり聞いて頂くことにします。
「イザイホウ」が終った後のこと、私をたずねて中年女性が久高島へ渡ってきました。「イザイホウ」の新聞記事に撮影班の名前を見て、もしやと思い、尋ねてこられたのでした。沖縄戦の時、野戦病院壕で私の父と一緒に働いていた看護婦のTさんでした。
父は北陸の寒村で開業医をしておりましたが、1944年に召集され、軍医として沖縄へ派遣され、沖縄戦で戦死したのです。1965年に私が初めて沖縄へきたのも、父の終焉の地を一目見ておきたいと思ったからでした。
Tさんは私が一緒に働いていた軍医の息子であるとわかり、野戦病院の毎日の様子、そして父のことなどを熱っぽく語ってくれました。そして帰京前沖縄本島へ渡った時、そのガマ(壕)に案内して下さったのです。
彼女にとって、21年ぶりのガマでした。
…ここの両側にベッドが並んでおり、奥に処置室があり、いつも、うめき声や叫び声が響いておりました。麻酔薬などありませんでした。大勢で押さえつけ、切り裂き、切断したのです…
Tさんはガマへ入りながら当時の様子を憑かれたように語り出したのです。そして、走りこむように、ガマの中へ入ってゆきました。気がつくと、彼女は何も語ってはいませんでした。立ち止まって奥の方をじっと見つめているのです。そして声もなく涙を流していたのです。
Tさんたちがガマを出たのは6月23日だったといいます。 その時父は、まだガマに残っていたそうです。その後はまったく消息が知れません。
敗戦の翌年、公報が来て6月10日戦死となっておりました。しかし本当は6月10日にはまだ生きていたのです。その後、寺院で遺霊祭があり、遺骨を受け取りに行きました。
家に帰ってあけてみると、一片の紙切れに父の名が書いてあるばかりでした。
Tさんは後年、北陸の草深い我家の墓まで墓拝りにたずねて来て下さいました。
本当に有難いことでした。
あの港の別れは心に焼きついて忘れることが出来ません。
沖縄本島が遠望できる西側の桟橋(今はもうない)を、まさに出港しようとする連絡船に私たちが乗っています。桟橋には見送りに来た十数人の神女たちが立っています。
エンジン音が高まり、船が島を離れて行きます。
神女たちは涙を流しながら「行ってらっしゃい」「行ってらっしゃい」と口々に言い、手を振って別れを惜しんでくれました。
私たちも何か叫んでいたように思います。
永い映画人生で、ロケーションに来て餞別もらって (前日、神女たちから餞別をもらっていた) 涙で送られた経験は、後にも先にもこの時しかありません。
私たち3人のスタッフは、神女たちからもらった餞別をもとに、船で鹿児島までたどりつきます。
しかし、そこからの旅費がありません。
さいわいその時、私は結婚祝いにもらった、ちょっと高価な時計をもっておりました。
さっそく、質屋へ飛び込みました。行き当たりばったりです。ところが偶然質屋の息子が東京の某録音スタジオで働いていることがわかったのです。
そのスタジオは、私たちがいつも利用していた録音所です。名前を聞いても、その人はわかりませんでしたが、たちまち質屋のオヤジさんとうちとけて東京の話・録音所の仕事の話などで盛り上がりました。
オヤジさんは口調をあらためて
「わかりました。3人分の旅費と宿泊費ですね。用立てましょう」
と、途中の食費まで含めた十分な金額を貸してくれました。あの時計にそれだけの価値があったかどうかわかりません。
そうして東京駅にたどりつき、三ヶ月余にわたる私たちのヤジキタ珍道中は終りを告げたのです。
多くの人にお世話になった旅でした。そして、実に楽しい旅だったのです。
イザイホウ撮影当時のことを思い出すままに書き綴ってきました。
41年前、久高島で過ごした三ヶ月余の日々は、昨日のことのように心に焼きついています。その前後の時の流れの中で、あの三ヶ月だけはまさに別天地だったのです。
久高島の風土と島人の暮らしの中で、私たちは夢の中を生きているように流れておりました。そのせいでしょうか、私たちは普通では考えられないくらい妙なずうずうしさで島を楽しんでいたように思います。
呼ばれもしないのにお祝いの家へ押しかけたり、用もないのに一軒一軒訪ね歩いたり…
よくもまあ、と思わずに入られません。ところが、出向いたお祝いの家では「よく来てくれましたねえ」などと膳部まで用意して歓迎してくれましたし、訪ね歩いたどの家でも嫌な顔一つせず、いろいろ話を聞かせてくれました。
また、こんなこともありました。
クボウウタキに大勢の神女たちが集まった時(御願立の儀)のこと。私たちは神女たちの行列の後をおい、一緒にウタキへ入ってゆきました。ここは本来男子禁制の場で、私たちなど入ってはならない神聖な場所だったのです。
私たちもそのことは聞いてわかっていたのですが、抑えることが出来なかったのです。
そうして私たちは「御願立」の儀を撮影しました。そんな私たちを誰もとがめだてをしませんでした。
その夜、ノロ家へみんなであやまりに行きました。何か大変な事をしでかしたと思ったのです。しかし、ノロさんは私たちが話し出す前に「あんたたち何も言わなくていいんだよ。神様には私があやまっておいたから」と言ってくれたのです。私たちはノロさんの温情に救われたのでした。
そのことがあって以来、私たちと神女たち、島人たちとの垣根がとり払われたように思います。
そして、久高の神様とも…
私たちは、許されたる者の思いでイザイホウの中へ溶け込んでいったのです。(終)
野村岳也 プロフィール
石川県七尾市出身、沖縄県豊見城市在住。映画監督としてドキュメンタリー映画制作に携わる。2010年12月株式会社 映像製作 海燕社を創立。
映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』
1月24日(土)より渋谷アップリンクにて追加上映
監督:野村岳也(海燕社)
1966年製作/ドキュメンタリー/モノクロ/スタンダード/モノラル/デジタル上映/49分
http://www.uplink.co.jp/movie/2014/34130
公式サイト:http://www.kaiensha.jp/
公式Twitter:https://twitter.com/kaiensha
▼映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』予告編
[youtube:Xvv55fvIi2c]