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「物語」から離れることで生命力が溢れる─ツァイ・ミンリャンが引退作『郊遊〈ピクニック〉』を語る

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映画『郊遊〈ピクニック〉』より ©2013 Homegreen Films & JBA Production



台湾のツァイ・ミンリャン監督の『郊遊〈ピクニック〉』が9月6日(土)より公開される。ツァイ・ミンリャン監督は2013年9月のヴェネチア国際映画祭で引退を発表。最後の長編作品とされる今作は、彼が一貫して描き続けてきた現代社会における孤独をさらに鋭敏に突き詰めた内容となっている。ツァイ・ミンリャン監督の常連であるシャオカンことリー・カンションが主演を務め、幼い息子と娘とともに空き家で貧しい暮らしを営む男の漂流を忘れられない存在感をもって演じている。ツァイ・ミンリャン監督が今作について、長きに渡り彼の作品の顔となったシャオカについて、そして引退の理由について語った。



プロットと呼ばれるものを捨て、物語を削いでいくこと




──この映画には、たいへん驚かされました。住む家もなくホームレスのように暮らしている父親とその息子と娘、父親の悲しみが胸に迫って溜らない気持ちになりますが、「物語」という意味では、一体どうとらえていいのか分かりませんでした。なぜ、こうしたスタイルの映画を撮ろうと思われたのですか?



実は、面白い話があるのです。ベネチア国際映画祭で大きな賞をいただいたので、台北でその後すぐに上映したのですが、ある人は、この映画を「現代の台北の経済格差を描いた社会的な映画」と言い、ある人は「これはゴーストたちのファンタジー映画」だと言い、ある人は「ホラー映画」だと言いました(笑)。私は、観客のその反応をとても嬉しく思います。

いま映画館で上映され、たくさんの観客を集める映画は、多くが「物語」を語るだけの道具になっていると感じています。観客に素早くたくさんの情報を与える分かりやすい映画が好まれる傾向にあるからです。でも、そういう映画は観客を「物語」に縛りつけているとは思いませんか?

基本的に私は、最近の作品で「物語」を語ることから離れようとしてきました。ですから、『郊遊〈ピクニック〉』での最も重要な仕事は、プロットと呼ばれるものを捨て、物語を削いでいくことでした。

そのために、ひとつのシーンと次のシーンの間に直接の繋がりを持たせず、始まりも終わりもない感覚を与えることも重要でした。実はこの映画はカット選びを少しでも間違えたら、すべてが変わってしまうので、完成させるまでに少なくとも30ヴァージョンもの編集版をつくりました。「物語」を離れることで、それぞれのシーンに生命力に溢れた瞬間が生まれたと思います。観客の皆さんには、私の映画を「物語」を追うのでなく、自由に感じ取って欲しいですね。




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映画『郊遊〈ピクニック〉』のツァイ・ミンリャン監督




──「物語」はなくても、脚本はありますね。主人公と言える親子の設定を思いついたきっかけは何だったのでしょうか?



まず、製作の経緯をお話ししますと、この映画は、着想の元となった脚本ができてから3年かかって製作が動きだしました。台湾の公共テレビ局が、ある女性脚本家の書いた脚本を私にTVドラマにして欲しいと言って来たのです。正直に言って、その脚本はあまり好きではなかったのですが、ただ1点、失業者の男が出てくるところに惹かれました。その失業者のイメージが、10年ほど前に台北の路上で初めて見かけて以来ずっと気になっていた「人間立て看板」の男のイメージと重なりました。私が最初に見たのは、旅行会社のパッケージツアーの広告看板を持って、信号機のそばに立っている男でした。私は、その男を、私の映画の主演俳優であるシャオカン(リー・カンションがツァイ・ミンリャン作品で演じてきたキャラクターの名前)に演じさせてみたいと思いました。

そこで女性脚本家に提案して脚本を練り直してもらいました。彼女は8稿まで書き直して、毎回、脚本は変わっていったのですが、8稿目ができた時、一度作業を中断して、プロデューサーと話し合い、これはTVドラマではなく映画にしようと決めました。こういうケースでは通常、脚本の権利はテレビ局が離さないものですが、そのテレビ局は快く私たちに権利を売ってくれたのです。それから製作費を集めるのに3年もかかり、ようやく本格的に製作が始まった時点で、自分自身で脚本を書き直しました。




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映画『郊遊〈ピクニック〉』より ©2013 Homegreen Films & JBA Production





──この親子に『郊遊〈ピクニック〉』というタイトルをつけたのは、どのような意図ですか?



私はもともと「ピクニック」というものに興味がありました。そこに、都市の中を漂流する壊れた家族のイメージを重ねたのです。彼らは家もないし、食べていくためのギリギリの生活をしていますが、決して可哀想な悲惨なだけの人間を描いたつもりはありません。見方を変えれば、父親は毎日会社に行かなくてもいい、子供たちは学校に行かなくてもいい、空き家に暮らせば家賃も払わなくていい、というある意味での自由を彼らは得ています。私は、現代の人間は、「生活をする」ということに束縛されていると感じています。彼らはその束縛から解き放たれている。これは私が尊敬する老子の世界観に通じる考え方です。

撮影中、私はよく老子の「天地は仁ならず、万物を以って芻狗(すうく)と為す」という言葉を思い起こしていました。これは、天地には特別な思いやりや情があるわけではなく、人間もあらゆる命と変わりなく、ただ藁でつくった犬のように扱われるだけだという意味ですが、この言葉を残酷と思うかもしれませんが、そうではありません。人間は草木と変わらない、ただ生きるという存在なのです。それが老子の無情です。この映画の貧しい家族はまるで世界から見放されているようですが、それでも彼らは生きていく。「生活をする」という束縛から解き放たれて、そこにはある種の純粋な生があります。





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映画『郊遊〈ピクニック〉』より ©2013 Homegreen Films & JBA Production



人生の20年をかけて、シャオカンはキャベツを食べた




──あなたの映画で子供たちが主要な登場人物であるのは珍しいことですね。



二人の子供は、シャオカンの甥と姪です。妹の方はこれまでまったく演技の経験がありません。彼女は最初、出演することに強く抵抗しましたが、カメラの前での振る舞いは驚くべきもので、演技について指導する必要などないほどでした。兄の方は、私の『楽日』に出てもらったことがあります。私は彼らの自由にさせただけです。二人は、世界の悲しみを知らず、ただ楽しい時間と戯れている小さなゴーストのようでした。私も幼い頃、きっとそうだったのだと思います。



──いくつもの忘れ難いシーンがありますが、とりわけ印象に残るのは子供たちがいない部屋で父親がキャベツを貪る場面です。あれほど心に迫ってくるシーンはめったにないと思いますが、どのように演出したのですか?



日本のあるインタビュアーの方が、「この映画は〈キャベツ〉というタイトルにしたら良かったんじゃないか」と仰ってくださいました(笑)。実はあの場面では、私はシャオカンにキャベツを渡し、食べるように言っただけです。あの日の撮影はとても感動的でした。彼は、哀れみと後悔、悲しみと孤独、満足感と暴力性が噴出させ、怒りの感覚をたたえながら、静かにキャベツを食べました。彼は静かにキャベツを噛み、愛と憎しみの混ざったこもごもの思いでキャベツを齧り、むしゃむしゃと食べました。彼が私の映画で演技を始めて20年、人生の20年をかけて、彼はキャベツを食べたのです。あの場面を撮りおわったとき、彼は泣き、そして私も泣きました。シャオカンはこの映画で、金馬奨の主演男優賞などたくさんの賞をもらいましたが、彼が役者として評価されたことを心から嬉しく思っています。



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映画『郊遊〈ピクニック〉』より、シャオカン(リー・カンション) ©2013 Homegreen Films & JBA Production


──では、テイクの長さについてお伺いします。これまでもあなたの作品は「長回し」が多用されていましたが、過去の作品と比べても長回しのシーンが非常に多く、最後には「長回し」という概念さえ超越するような14分にも及ぶ長いカットがあります。なぜあんなに長いカットを撮ったのですか?



この映画が東京フィルメックスで日本で初めて上映されたとき、黒澤明監督のスクリプターとして知られる、私の愛する野上照代さんが会場にいらしていて、「長過ぎる!」とおっしゃったので、私は野上さんに「ああ、野上さんが私のプロデューサーでなくて良かったです」とお答えしました(笑)。あのシーンは、私にとってはとても意味のある長さです。5分では意味がないのです。私は映画にとって「物語」は最重要ではないと言いましたが、私にとって映画とは「映像」と「時間」です。あのシーンを撮るときに考えたことは「無為な時間」ということです。私は、シャオカンとチェン・シャンチーに、感情過多にならないようにただ立って欲しいと言いました。あの長さは俳優たちが無為になるために必要な時間です。あそこは、シャオカンが無為に「立つ」ということを完成させたシーンなのです。

現代は情報や物語があふれすぎていて、そこに価値はなくなっています。だからこそ無為である時間は人に届くのではないでしょうか。アジアの都市では、西洋に影響されて急速な開発が進み、あらゆることが加速しています。でも本来、芸術とはゆっくりとあるべきなのです。



──最後に。あなたは本当に劇場映画から引退するのですか?



私は、世界の映画を支配している市場価値による配給システムに疲れてしまったのです。この映画を撮っているとき、とても体調が悪く、もう生きられないかもしれないというような状態にもなりました。だから、私は興行価値など何も考えず、ただ私の映画をつくろうと思いました。この先どうなるかはわかりませんが、今は、この映画が最後となってくれたらと願っています。『郊遊〈ピクニック〉』が、最後の映画になるとしたら、私には一点の後悔もありません。でも、美術館で上映する映画をつくったり、舞台を演出したり、創作活動は続けていますよ。私の舞台を日本で公演してもらえたら、嬉しいですね。




(オフィシャル・インタビューより)











ツァイ・ミンリャン プロフィール



1957年、マレーシア生まれ。77年に台湾に移り、大学在学中からその才能で注目を集める。91年、テレビ映画「小孩」で、後に彼の映画の顔となるリー・カンションを見いだし、92年彼を主役にした『青春神話』で映画デビュー。つづいて発表した『愛情萬歳』、『河』が世界中で絶賛され、世界の巨匠のひとりとなる。2013年ヴェネチア国際映画祭にて、本作『郊遊〈ピクニック〉』を最後に劇場映画からの引退を表明。現在は、アートフィールドにて、映像作品や舞台演出などを手掛けている。










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映画『郊遊〈ピクニック〉』より ©2013 Homegreen Films & JBA Production



映画『郊遊〈ピクニック〉』

9月6日(土)より、シアター・イメージフォーラム、シネ・リーブル梅田他全国順次公開



現代の台北。父と、幼い息子と娘。水道も電気もない空き家にマットレスを敷いて三人で眠る。父は、不動産広告の看板を掲げて路上に立ち続ける「人間立て看板」で、わずかな金を稼ぐ。子供たちは試食を目当てにスーパーマーケットの食品売り場をうろつく。父には耐えきれぬ貧しい暮らしも、子供たちには、まるで郊外に遊ぶピクニックのようだ。だが、どしゃ降りの雨の夜、父はある決意をする……。




監督:ツァイ・ミンリャン

出演:リー・カンション、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチー

製作:ビンセント・ワン

脚本:ドン・チェンユー、ツァイ・ミンリャン、ポン・フェイ

撮影:リャオ・ペンロン、ソン・ウェンチョン

美術:マサ・リュウ、ツァイ・ミンリャン

衣装:ワン・チアフイ

編集:レイ・チェンチン

原題:郊遊

英語題:Stray Dogs

2013年/台湾、フランス/136分/DCP/カラー/1:1.85/中国語

後援:台北駐日経済文化代表処

配給:ムヴィオラ



公式サイト:http://www.moviola.jp/jiaoyou/

公式Facebook:https://www.facebook.com/jiaoyoumovie

公式Twitter:https://twitter.com/JiaoYou_movie















DVD『黒い眼のオペラ』



監督:ツァイ・ミンリャン

出演:リー・カンション、チェン・シャンチー

2006年/台湾、フランス、オーストリア/118分

定価:5,076円(税込)

ULD-465 アップリンク



★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。Amazonにリンクされています。









▼映画『郊遊〈ピクニック〉』予告編


[youtube:xR103yEQTgs]

『murmur magazine』編集長服部みれいさんと『聖者たちの食卓』ウィチュス監督が語る私たちの食に必要なこと

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新宿御苑からほど近い「ラミュゼ ラ・ケヤキ」にて、服部みれいさん(左)と『聖者たちの食卓』フィリップ・ウィチュス監督(右)



9月27日(土)から公開される異色のドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓』のフィリップ・ウィチュス監督が来日した。蝉が大声で合唱し、濃い緑溢れる「ラミュゼ ラ・ケヤキ」にて、『murmur magazine』編集長であり文筆家の服部みれいさんとの対談が行われた。エコ・カルチャー・マガジン『murmur magazine』や著作の中で、環境にも人にもやさしいファッションや、ライフスタイルを紹介し、若い女性から圧倒的な支持を集めている服部さん。3.11以降、食べものが自分の食卓までどのように届けられるのか、食事がどんな思いで作られているか、ますます食の重要性を感じているという。無料で10万食を振る舞う黄金寺院のキッチンを追った本作にインスパイアされ、安全でおいしい無農薬野菜を使い、こどもが安心して楽しくご飯が食べられる「こども食堂」を1日限定でオープンする。予約は即日満席となった人気ぶり。その経緯と、本作で描かれる黄金寺院のキッチンの裏話、シェフでもある監督の得意料理から、“食卓を囲む”ということ、さらに“食べる”という必然的な行為について、幅広く語りあってもらった。




私は映画を観て、ほんとうにチャパティを焼く係になりたいと思いました(笑)。食器を投げているのもすごくきれいで感動しました。(服部みれい)



服部みれい(以下、服部):最初に、この映画に登場するハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)で初めて食事をしたときのことを教えてください。監督にとってどのような体験でしたか?



フィリップ・ウィチュス監督(以下、ウィチュス):まず、その日はすごくお腹が空いていたので、夢中で食べました(笑)。最初はチャイとチャパティをいただきましたが、とてもおいしかったのを覚えています。すごく寒かった日でしたが、体の芯から温まりました。寺院ではいつも気候に合ったものを出すようにしていますので、とても寒い日には、あたたかいお茶をたくさん出す、そういうことが考えられているのです。



服部:黄金寺院のボランティアは1回300人くらいということですが、毎回人が入れ替わるのでしょうか、それとも同じ人が作っているのでしょうか?



ウィチュス:300人というのは1日の平均です。夜はずっとスローになるので人数も減ってきますし、時間帯によっても変わってきますが、基本的に300人くらいが野菜の皮を剥いたり働きます。



服部:それは志願してボランティアをするものなのでしょうか?



ウィチュス:いわゆる責任者がいて、その下にいるサブ的な人が奉仕者の配置を考えています。それはターバンの色で分かるようになっているんです。紺色のターバンを巻いている人が地位の高い人で、オレンジ色の人が長く働いている人です。彼らに「どの仕事をしたらいいか」と聞くと「チャパティ担当」などグループ分けされているので、指示されて配置されていきます。




webDICE_sub6_s食事を待つ人の列

映画『聖者たちの食卓』より



服部:私は映画を観て、ほんとうにチャパティを焼く係になりたいと思いました(笑)。投げているのもすごくきれいで感動しました。お皿を洗っているところもすごく面白かったです。



ウィチュス:まさに舞踏のようですよね。



服部:大勢で食べるということには、なにか宗教的な意味合いがあるのでしょうか?



ウィチュス:全ての人が平等に食べるということは、シク教の教えの根幹の部分です。シク教の思想を最初に提唱したのはグル・ナーナクという教祖です。「腹が減っては戦は出来ぬ」ではないですけれど、空腹の状態でお祈りなんかできない、ということで、シク教の行いの重要な要素としてこうした食事の提供が行われています。



服部:あの食材は協力者から提供されるのでしょうか、それとも買っているのでしょうか?



ウィチュス:野菜は基本的に寺院が持っている近くの畑から運ばれてくるものと、それだけでは足りないので、地元の市場で買ってきています。乳製品は会社のオーナーがお布施として提供してくれます。小麦とお米に関しては、寄付されたりしますが、精製されていないもみがらのついた状態で届きます。



服部:それらの食べものは農薬を使っていない、オーガニックの食材ですか?



ウィチュス:食べものは基本的にオーガニックです。インドの農家の人たちは自然栽培にこだわっていて、GMOに関しても、ある農家で遺伝子組み換えの種が混ざっていた事件が起きたことに怒りのデモを起こしたり、反対運動が盛んに行われています。彼らは自然でないものがもたらす結果を分かっているのです。



服部:それは歴史的に、農薬をたくさん使ったことなどによる被害があったからなのでしょうか?



ウィチュス:というよりは、自然でないものに対する不信感でしょう。従来のやり方でない、食物に対してのテクノロジーを信じていないのです。




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映画『聖者たちの食卓』より




服部:「こども食堂」でシェフをしてもらう友人の料理人が、この映画を観て、野菜の皮を剥くのも全て手作業で、フード・プロセッサーなどの機械を使う場面がまったく出てこないことにとても驚いていました。



ウィチュス:チャパティを作ることだけは機械に頼っていますが、それ以外は一切使いません。機械を寄付されることもあるそうで、特別なお祭りのときには、普段の3倍、30万人が来場するので、そういう時に使うのか聞いたのですが、「そのうちね」という感じで、機械の用意があっても、全然使わないのです。



服部:おもしろい(笑)。あと、私自身は専任の場所で整然と争いごともなく進んでいく工程の全てに、人間のなかにある神性を強く感じました。それがこの映画を観ていてもっとも感動した点です。



ウィチュス:確かに神々しい部分があります。その理由のひとつは、シク教がカーストを否定していること、全ての人にオープンな食堂であることがあると思います。




webDICE_sub4_sチャパティを焼く人

映画『聖者たちの食卓』より




服部:この映画に映っていない、監督が目にした印象に残っているキッチンの様子などがあれば教えてください。



ウィチュス:たくさん撮影をしたなかで、一見全てがとても清潔で、シンプルに見えますが、哀しい物語が隠れていることもあるのです。笑顔を見せる人のなかにも、辛い思い出を持っている人たちもいます。そこにある人々の物語がとにかく興味深かったです。



服部:なるほど……。世界中を旅するなかで、様々な食の事情をご覧になってきたと思います。監督が現在いちばん問題だと思うことはなんでしょうか?



ウィチュス:最悪だと感じたのがハイチの状況でした。ハイチは飢餓の問題が深刻で、さらに料理をするのに使う薪のために森林伐採が進み、土壌が侵食されて土地がやせ細っていくという悪循環から抜けられていません。こうした現状について、もっと啓蒙・教育が進んでいけばいいと思いました。



服部:反対に、これはグッド・ニュースだということはありましたか?



ウィチュス:最近私の住んでいるブリュッセルで起こったことなのですが、ケータリングで300人分の食事を作ってくれと頼まれたものの、そのことを宣伝するのを忘れて誰も食べに来ないことになってしまったんです。私は料金はもらっていたのですが、大きな鍋を前にポツンと取り残されました。しかし鍋を持って帰るわけにもいかないので、その地域にいるホームレスに「どうぞ食べてください」と声をかけたところ、彼らが伝言ゲームのように声をかけて「あそこでご飯が食べられるらしい」と人が集まってきました。彼らが自主的におまわりさんのように交通整理をしたりお皿を並べたりして、食事を食べてくれたのです。





服部:すごい!まさにベルギーの黄金キッチンですね!



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作る人と、食べる人、食材を提供する人。食べものに対して正しい対価なのかというバランスを常に考えることが重要だと思うのです(ウィチュス)



服部:私はいま東京に住んでいますが、外でご飯を食べるというと、友人の家にご飯を食べに行く以外だと、お金を払って食べる外食が多いです。でも、取材をしていくうちに、資本主義社会ではしょうがないことですが、人間にとって欠かせない食べものにお金を介在させることで、いろんな矛盾も生まれてきているんじゃないかと思うようになったんです。この黄金寺院で行われている無料で食事を提供するという行為について、監督はどのように感じたのでしょうか。



ウィチュス:確かに食べものに対してちょっと想像もつかない値段を払わなければいけないことがありますが、私はそのお金が食べものに対して正しい対価なのかというバランスを常に考えることが重要だと思うのです。例えば、自分で栽培しない限り、労働力に対して払っているという意識ですね。寺院では、野菜を栽培している人たちがそこにいるわけではないですが、無償で働くということの対価として食べ物を得るという部分があり、そこに価値が見出されているということだと思います。もちろん寺院でもお金は絡んできます。例えば食べものが運ばれてくるトラックのガソリン代が必要です。



服部:監督がおっしゃる必要な対価を払わなければいけないということ、お金を介在させるということに関してうまく説明することは難しいですね。確かに対価としてのお金には賛成なのですが、全ての目的が「お金」になってしまうと、新鮮さ、安全性、そしておいしさという点がないがしろにされてしまうことが多くて、そのことをとても残念に思っています。いまの日本ではこどもたちの“食”が貧しくなっているという現状があります。忙しい母親が手作りの料理を作れないために、デパートの地下で売っているお惣菜やコンビニのお弁当だけだったり、ひどいとスナック菓子だけを食べて育っているこどももいます。大手の外食産業の中には、低年齢からファストフードを食べさせることをする企業もあります。一方で、こどもたちにこそ生き生きとした「本物の」おいしいご飯を体験してもらう機会もあってもいいんじゃないかと、この映画とのコラボレーションとして「こども食堂」というプロジェクトを行います。誰でも食べにこられて、無償で提供するというコンセプトです。



ウィチュス:素晴らしいですね。



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服部みれいさんによる子ども食堂のイラスト





服部:『murmur magazine』で農業の特集を組んだことをきっかけに、日本の農薬も肥料も使わない自然栽培の農業を行っている人たちのイエローページをボランティアで作っています。「こども食堂」では、日本全国にある自然栽培の農家さんから野菜を提供してもらうことも試みのひとつとして取り入れています。



ウィチュス:現在の社会は生産地から消費者に届けられるスピードがとても早くなっています。野菜を送ってもらって、それをアレンジして、フレッシュでより健康的なファストフードを作る、ということができるかもしれませんね。



服部:はい。私が「こども食堂」を開催しますという告知をしたところ、自然栽培の農家さんから「農作物の提供をします」という声のほかにも、「ボランティアで働きたい」という問い合わせがたくさんきました。それがすごく嬉しかったですし、こうした試みをすることで、人間のいい部分が引き出されると感じました。



ウィチュス:優しい気持ちやいい目的のために何か行動を起こすと、必ずいい結果が生まれてくると私も思っています。




webDICE_sub3_s黄金寺院

映画『聖者たちの食卓』より


服部:私たちのような都市に生活している人間が、これから食べものについて取り組んでいくべきことがあれば教えてください。



ウィチュス:個人レベルでできることとして、20人や25人の規模で「月曜日はこの人が料理をする」「火曜日はこの人が」と分担を決めて食事を提供することはできると思います。自分がやるときはやるけれど、それ以外のときは手を出さない、それはつまり他人を信頼するということでもあります。それにより、新鮮な食材を使ってなにかちょっとした催しを行なうことはできると思います。



日本は家屋も部屋も狭いと聞いていますので、例えば屋外で広い場所を借りられるところがあれば、そこにかまどを用意して、代わる代わる人が来て料理をする。服部さんが提唱する「こども食堂」もまさにそうした試みのひとつと言えるのではないでしょうか。私もベルギーでこどものために料理を教えるワークショップをやっているんです。こどもたちはやり始めるとすごく集中して取り組んでくれます。食というのは生きるための基本ですから。



服部:こどもたちとどういうものを作るのですか?



ウィチュス:ベルギーという国自体はあまり食文化が豊かな国ではありませんが、ブリュッセルは様々な宗教や国籍の人が住む多様な文化を持つ街ですので、黄金寺院と同じように、宗教に関係なく誰でも食べられるベジタリアンの料理を作るようにしています。



webDICE_sub_sみんなでいただきます

映画『聖者たちの食卓』より




服部:監督はシェフとしても活動されていますが、そもそも料理の世界にどうして関わるようになったのでしょう?



ウィチュス:母がいつも料理を作っていて、私と兄弟とで必ず手伝うのが習慣だったので、生まれついての料理人ですね(笑)。



服部:それからおじいさまがシェフだったとか。伝統的なベルギーの料理を作っていたのでしょうか?



ウィチュス:実は私の両親は移民で、厳密に言うとベルギー人ではありません。母親がモロッコ出身で、父親がオランダ出身です。母方側の祖父はパン屋だったんですが、いつも近所の人に料理をふるまっていました。



服部:小さいころ、おじいさまやお母さまとご飯を作った思い出で印象に残ることはありますか?



ウィチュス:祖父については覚えていませんが、母とはとにかく毎日料理をしていました。でも今は、母は伝統的な料理が好きなこともあり、私の料理を食べてくれません。「このお魚はどこで買ってきたの?新鮮?」とことあるごとに注文をつけるんです(笑)。



服部:でもそのお母さまに料理の腕を鍛えられましたね(笑)。



ウィチュス:その通りです(笑)。



服部:最近はだいぶ男性も増えてきましたが、日本では家で料理をするのはまだ女性が多いです。ベルギーでは、監督のように小さいときから男の子に料理をさせるというのは一般的なのでしょうか?



ウィチュス:私も例外ですね。



服部:ウィチュス監督が作るモロッコ料理を食べてみたいです。今回の来日期間中、どんな日本食を食べましたか?



ウィチュス:昨日はそばをいただきました。ベルギーではガレット(そば粉のクレープ)が有名ですが、1100年ごろ、十字軍が小麦粉を持ち帰って来ることを命じられたものの、間違ってそば粉を持って帰ってきたことが、そば粉がヨーロッパで食べられることになった始まりなんです。フランス語でそば粉のことを「サラセン人(イスラム教徒)の麦」[※ble Sarrasin]と呼ぶのもそれが理由ですね。



(2014年8月27日、「ラミュゼ ラ・ケヤキ」にて 取材・構成:駒井憲嗣)












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服部みれい プロフィール


岐阜県生まれ。文筆家、『murmur magazine』編集長、詩人。育児雑誌の編集を経て、1998年独立。ファッション誌のライティング、書籍の編集・執筆を行う。2008年春に『murmur magazine』を創刊。2011年12月より発行人に。冷えとりグッズと本のレーベル「マーマーなブックス アンド ソックス」(旧mmsocks、mmbooks)主宰。あたらしい時代を生きるための、ホリスティックな知恵、あたらしい意識について発信を続ける。『冷えとりガールのスタイルブック』(主婦と生活社=刊)をはじめ、代替医療に関する書籍の企画、編集も多数。忍田彩(ex.SGA)とのバンド「mma」では、ベースを担当。メルマガ「服部みれいの超☆私的通信ッ」発行中。9月末には人気の「あたらしい自分になる手帖」2015年版と来年のカレンダーを発刊予定。

http://hattorimirei.com/



フィリップ・ウィチュス(Philippe Witjes) プロフィール


1966年生まれ。映像作家兼フリーの料理人。料理評論家としても活躍中。ブリュッセル国内で食に関連したさまざまなプロジェクトに携わるほか、マダガスカルやセネガルなど世界各地で1,000人分以上の食事を作るボランティアもしている。るボランティアもしている。













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映画『聖者たちの食卓』より

映画『聖者たちの食卓』

2014年9月27日(土)より、渋谷アップリンク、新宿K's cinemaモーニング

ほか全国順次公開



監督:フィリップ・ウィチュス、ヴァレリー・ベルト

2011年/ベルギー/65分/カラー/16:9/原題:Himself He Cooks



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/seijya/

公式Facebook:https://www.facebook.com/HimselfHeCooks.jp

公式Twitter:https://twitter.com/uplink_els





▼映画『聖者たちの食卓』予告編

[youtube:NAsa5gzQROM]

「ロマンティックじゃない」ニューヨークの現実描く『フランシス・ハ』バームバック監督語る

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映画『フランシス・ハ』より ©Pine District, LLC.




監督作『イカとクジラ』やウェス・アンダーソン監督作品の脚本で知られるノア・バームバックが、ニューヨークを舞台にモダンダンサーを目指す27歳の女性が独り立ちするまでを描く『フランシス・ハ』が9月13日(土)より公開される。進境著しい女優グレタ・ガーウィグを共同脚本と主演に迎え、ニューヨーク出身のふたりが、モノクロの映像とレナ・ダナムなど昨今のインディ映画に顕著な即興的な会話劇のスタイルを用い、失敗続きの冴えない主人公フランシスの生活をリアルに活写。またデヴィッド・ボウイなどのロックとジョルジュ・ドルリューのノスタルジックなスコアをミックスした音楽も魅力のひとつとなっている。



今回はノア・バームバック監督のインタビューを掲載する。



台詞がキャラクターを形作っていく



──グレタ・ガーウィグと共同で脚本を作ることで何か苦労はありましたか?



今回は本当の意味で2人のコラボレーションだった。最初の段階ではどちらかが単独で書いた場面があったりしたけれども、一緒に脚本作りしていく上で、お互いに直しを入れて、討論したりしたので、ここは彼女、ここは自分というふうに、振り分けして完成させたわけではないんだ。そういう意味ではとても楽しいコラボレーションだった。まさに共同作業だったね。




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映画『フランシス・ハ』のノア・バームバック監督




──主要なキャスティングの経緯についてお聞かせください。グレタは最初ヒロインをやるつもりはなかったとインタビューで読んだのですが、本当ですか?あと、ソフィーを演じたスティングの娘、ミッキー・サムナーも適役で素晴らしかったですね。




よく聞かれるんだけれど、僕は彼女以外の女優は最初から考えていなかった。彼女はおそらく脚本を書いている段階で、自分が俳優として参加することを前提として取り組むのではなくて、あくまで脚本家の立場で客観的にアプローチしたいと考えたから、そのようなコメントが出たのだと思う。最終的に彼女自身が演じることも知っていたはず。もともとその目的で一緒にやろうと始まった企画だったからね。メールでいろいろ意見交換しながら脚本作りに取り組んだから、その話をする機会がなかっただけかもしれない。





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映画『フランシス・ハ』よりフランシス役のグレタ・ガーウィグ(右)とソフィー役のミッキー・サムナー(左) ©Pine District, LLC.


キャスティングはとてもうまくいったと思っている。ニューヨークの若手俳優達と今回一緒に仕事できてとても楽しかった。全員オーディションで決まったんだ。レヴ役のアダム・ドライバーは、今回仕事をしてお気に入りの役者のひとりになった。新作『While we're young』にも出演してもらっている。オーディションの時は彼のことを知らなかった。グレタはすでに彼が出演した演劇を観ていて、すでに知っていた。とてもいい才能を持っている俳優だよ。フランシスの友人ソフィー役はなかなか決まらなかった。ただ才能あるだけでなく、グレタを相手に親密さが表現できる役者でなければいけなかった。結果的にソフィー役を演じたミッキーは、レイチェル役でオーディションに参加していた。クランクインが近づいて、まだソフィ役が決まっていなかったので、ミッキーのことを思い出して、彼女に読み合わせをしてもらった。するとグレタととても相性が合ったようで、素晴らしい駆け引きをしてくれた。まるで古い親友みたいなやりとりだったよ。




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映画『フランシス・ハ』より、レヴ役のアダム・ドライバー(右) ©Pine District, LLC.



──役者への演出はどのように行いましたか?会話が飛び交う場面など、とてもリアルな演技に見えました。



作品や俳優によってアプローチは変えているんだ。最初の頃は、何回もリハーサルを重ねて現場に臨んだ。ただ今回の場合は、リハーサルはあまりしなかった。今回は、たくさんのテイクを重ねたのがいつもとは違ったね。あまり即興演技は好きではないんだ。いつも脚本の完成に長い時間をかけている。思い通りの脚本ができない限り、現場入りはしない。僕の映画では台詞がキャラクターを形作っていく場合が多いからね。今回テイクをたくさん撮ったのは即興のためではなくて、キャラクターの動きを明確に打ち出すためだ。台詞はかわらなくても、動きが変わると表現も変わってくる。ただ今回のキャスティングは、ほとんどオーディションで決まっていて、みんなが才能ある役者で、役柄にピッタリなのは事前に解っていたから、とても助かった。あと今回に限り、グレタを除いて、役者全員に脚本を渡さなかった。彼らが出演する部分のページだけ読んでもらっていた。計算された実験とも言えるかもしれない。脚本全体において、それぞれの役柄がどのような機能を持っていたのかは、わからなかったはず。それがすごくいい結果になったと思う。役者によっては難しいと思ったかもしれない。ただ今回の作品にはフィットしたスタイルだった。



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映画『フランシス・ハ』より ©Pine District, LLC.




僕らは人生を通して

ニセモノっぽさを回避しようともがき続ける




──モノクロにすると最初から決めていたのですか?フランスのヌーヴェルヴァーグやウディ・アレンから影響を受けているように見えましたが。



そうだね。現代的課題を扱うモノクロ映画が大好きだ。僕らが撮ったキャラクターやニューヨークの風景はとても今っぽい感じがする。その時はもっと直感的だったけど、これはモノクロであるべきだと感じたんだ。モノクロにすると、たちまちノスタルジックになってしまうと思う。ロサンゼルスで『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』(原題:Greenberg)を作った後、ニューヨークに戻ったんだ。モノクロで撮影することで、新しい目で街を見ることができた。僕は映画に登場するキャラクターにロマンティックで、新鮮で、喜びに満ちて、おかしくて、切ない映画的な体験をさせたいんだ。モノクロはそれを実現させてくれるよね。




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映画『フランシス・ハ』より ©Pine District, LLC.



──ニューヨークで撮られた本作は、シニカルな今までの作品よりも純真で無邪気に描かれていましたね。あなたの心はいつもニューヨークにあるのでしょうか。



そうだね。ニューヨークは僕のホームだ。ブルックリン育ちだからね。で、これはグレタと僕が共有するものなんだけど、僕はブルックリン、彼女はカリフォルニア州サクラメント出身。僕らは二人とも、できることなら、その街にいつか戻るもんだと思っているんだ。マンハッタンはいつか住むことができる街だといつも思っていた。笑えるのは、僕は今マンハッタンに住んでるけど、周りのみんなはブルックリンに越してってるってことだよ。僕がフランシスに共感する部分は、街に対する幻想を抱いていて、それを経験をしたいと思っているところだね。この映画のスチールを見るとわかるけど、この映画を作ることは街を出来る限り美しく撮影できるチャンスだった。



一方で、主人公はニューヨークで経済的な現実に直面している真っ只中にあってロマンティックじゃない。ニューヨークでは、もはやお金なしではボヘミアンライフを送れないんだよ。この映画も、画的にはおしゃれなニューヨークを想起させるけど、扱っているものは今の、とてもリアルなニューヨークだからね。




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映画『フランシス・ハ』より ©Pine District, LLC.



──あなたの映画の登場人物は「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデン・コールフィールドのように、必死でニセモノっぽさや気取りを回避しようとしているように見えるけど、ときどき墓穴を掘ったりしています。今のあなたでさえ、こういったことにもがいているのでしょうか。



世界中のみんながあの本を好きだよね。僕らもみなあの主人公に共感している。もちろん、彼は15歳だけど(笑)。僕は人々の考えや人生に興味がある。それから彼らの理想世界と、それが実際に叶うのかどうか。『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』の主人公は、そういった現実に果敢に立ち向かうことができないし、そのように生きるには年を取り過ぎていた。映画がそれを反映していた。フランシスは、もし軌道修正できたら、とても幸せな人生を送れるかもしれない、人生の真っただ中にいるんだ。だから、この映画は異なったトーンと、喜びを持っている。僕は人々の人生の様々な時点に興味がある。『イカとクジラ』ではホールデンに近い年齢の人物を登場させたから、あの本や主人公ととても共鳴するんだと思う。僕らは人生を通してこうした問題にもがき続けるんだ。





──本作はアメリカをはじめ世界中で高く評価されヒットしています。この結果は今後のキャリアにどのような影響を与えると思いますか?



いま僕が作るような作品は、かつて70年代にスタジオが盛んに作っていたけれど、今はそうではない。そういう意味では、自分が作りたい作品を作れる位置にいれるのは、非常にラッキーだと思う。ただ作っている方としては、作品の規模はあまり考えない。どの作品も成功を収めて欲しいと思って取り組んでいる。作品が成功すれば、その次に取り組む作品を作るのは多少ラクになることもある。それが毎回起きてくれるといいんだけどね。




(オフィシャル・インタビューとA.V.clubによるインタビューより再構成)
















ノア・バームバック(Noah Baumbach) プロフィール



1969年9月3日アメリカ、ニューヨーク市ブルックリン出身。ニューヨーク州ポキプシー町にあるヴァッサー大学で学び、24歳の時にラブコメディ『彼女と僕のいた場所』('95)で監督・脚本デビュー。2005年、高校時代の実体験を基にした『イカとクジラ』がアカデミー賞脚本賞にノミネートされるなど、各映画賞を席巻し世界的に有名となる。2007年、二コール・キッドマン主演『マーゴット・ウェディング』を発表。2010年ベン・スティラー主演『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』でヒロインとしてグレタ・ガーウィグを起用。2012年、グレタ・ガーウィグと共同で脚本を書き、低予算で作られたモノクロ作品『フランシス・ハ』がアメリカの批評家筋に絶賛され、小さい作品ながら異例のヒットを飛ばした。公開待機作として、アマンダ・セイフライド、ベン・スティラー、ナオミ・ワッツが出演する『While we're young』が控えている。脚本家としての活動は、ウェス・アンダーソン監督『ライフ・アクアティック』('04)『ファンタスティックMr.FOX』('09)で共同脚本を担当したほか、アニメーション『マダガスカル3』('12)の脚本も執筆している。本作で主演したグレタ・ガーウィグとは私生活のパートナーでもある。











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映画『フランシス・ハ』より ©Pine District, LLC.



映画『フランシス・ハ』

9月13日(土)よりユーロスペース、伏見ミリオン座ほか全国順次公開




ニューヨーク・ブルックリンで親友ソフィーとルームシェアをして、楽しい毎日を送る27歳の見習いモダンダンサー、フランシス。ところが、ダンサーとしてもなかなか芽が出ず、彼氏と別れて間もなく、ソフィーとの同居も解消となり、自分の居場所を探してニューヨーク中を転々とするはめに!さらには、故郷サクラメントへ帰省、パリへ弾丸旅行、母校の寮でバイトと、あっちこっちへ行ったり来たり。フランシス周りの友人たちが落ち着いてきていることに焦りを覚え、自分の人生を見つめ直し、もがいて壁にぶつかりながらも前向きに歩き出そうとする。





監督:ノア・バームバック

出演:グレタ・ガーウィグ、ミッキー・サムナー、アダム・ドライバー、マイケル・ゼゲン、シャーロット・ダンボワーズ、パトリック・ヒューシンガー、マイケル・エスパー、グレース・ガマー、マヤ・カザン

脚本:ノア・バームバック、グレタ・ガーウィグ

製作:ノア・バームバック、スコット・ルーディン、リラ・ヤコブ、ホドリゴ・テイシェイラ

撮影監督:サム・レヴィ

美術監督:サム・リセンコ

編集:ジェニファー・レイム

音楽監修:ジョージ・ドレイコリアス

主題歌:デヴィッド・ボウイ「モダン・ラブ」

原題:Frances Ha

2012年/アメリカ/英語/86分/モノクロ/ビスタサイズ/DCP

日本語字幕:西山敦子

提供:新日本映画社

配給・宣伝:エスパース・サロウ

©Pine District, LLC.











公式サイト:http://francesha-movie.net

公式Facebook:https://www.facebook.com/francesha

公式Twitter:https://twitter.com/francesha_movie




▼映画『フランシス・ハ』予告編

[youtube:coKpbsSaaGU]

あがた森魚さんがギターを弾くようにビデオを構え「月刊日記映画」を撮り続ける理由

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渋谷アップリンクで開催中の「ドキュメンタリー制作上映ワークショップ」に登壇したあがた森魚さん


現在渋谷アップリンクで行われている「ドキュメンタリー制作上映ワークショップ」のゲストとして、あがた森魚さんが登壇し、自身の映像制作についてトークを行った。



あがたさんは、2012年からアップリンクにて「QPOLA PICTURE LIVE SHOW」を開催。自身の撮影により前月の1ヵ月の活動を約1時間にまとめた映画の上映とミニライヴによる企画を毎月続けている。この日は、あがたさんが映像制作を目指す受講者からの質問に答えながら、自身の表現について語った。



次回の「QPOLA PICTURE LIVE SHOW」は9月24日(水)に行われる。また「ドキュメンタリー制作上映ワークショップ」改め「アップリンク・映像制作ワークショップ」の新期は11月25日より開講となる。



そこに来ている「あなた」が驚いてくれたらいい



──毎月上映している『Qpola Purple Haze』ですが、2007年から毎月撮り続けてこられているなかで、なにか心境の変化はありますか?



素朴に言えば日記ですよね。自分が1ヵ月の間で見たものを撮っておいて、自分も見たいし誰かに見てほしい。誰かディレクターがいて「これを撮りましょう」という話じゃないから。今だったらみんながiPhoneで撮っているものを、僕はあえてビデオカメラで撮っているような感じですね。



僕はいま埼玉県の川口に住んでいて、都心まで出てくるときは京浜東北線で荒川を鉄橋で渡るんです。そこで定点観測的に「ここの鉄橋は撮っておこう」とか駅の表示など、ランドマーク的なものは撮っておこうというのはあります。こどもの視点で、面白いと思ったものを撮っています。



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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より



映像については、小さい頃から自分で撮ってみたいと思っていて、こういう教室にも通ったことがあるんです。そうした教室ではカメラを顔の前に構えて、自分の目で見ないと映像に力が出ない、と言われた。ただずっと顔の前に構えていると対話しづらいし、カメラってあるだけで圧迫感がある。とはいえ隠しカメラだと意味がない。だから、どこかで「あなたを撮っています」という姿勢を示したいから、下から構えたり、話しながら撮りたい。テーブルの上に置いておくこともあります。



──演奏シーンのときはどう撮影されているんですか?



カメラをいちばん前にいるお客さんに渡しちゃう(笑)。ライヴのときは、そのことで意識がいっぱいで、準備がうまくいっていると、あそこに置こうとか考えるんですけれど、会場スタッフがいたり、誰か親しい人が会場にいたら「そこから撮ってもらえますか」とお願いするときもあります。




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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より





──各地での風景も、おそらく地元の人だったら気づかないような視点で切り取られていると感じました。



たぶん何人かで旅に行って、それぞれカメラを持って、後で上映会をやったら、「こんなに人によって見るものは違うんだ」と思うでしょう。人によって興味を持っている視点は違う。これはそのいろんなカメラがあるなかのひとつだと思います。



──その月の出来事が順番に編集されていますが、これはあらかじめ決めているのですか?



自分のなかで約束が3つがあって、1つ目は「時系列は守る」。だから回想シーンはないんです。2つ目は「極力企まない」。じゃあドキュメンタリーって企んでないかといったらそうではなくて、ほんとうにあったものを真摯に撮ることには違いはないけれど、カットを繋ぐことで自分のアイデンティティを込めようとする。でもなるべく企まない。3つ目は「音楽はつけ加えない」。音楽の持つ力や楽しさ、映像に音楽を乗せたときのドラマチックさや気持ちよさはあるんだけれど、演奏しているシーンが多いこともあるし、黙っていても音楽的要素があるわけですから、あえてそこで鳴っている音以外はオーバーダビングしません。




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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より



──約60分の作品を仕上げるまでにどれくらいの時間撮影をされているのですか?



撮り始めた頃は、地方に行ってライヴをそのまま据え置きで撮っていたりするものを合わせると、60分テープ30本ぐらいありましたが、今はその半分ぐらい、撮る量は刻々減っていますね。



手ブレや編集の乱雑さがありながらも、スクリーンで見られる作品になっている。何年か前では信じられないことで、フィルムからデジタルになったことの良し悪しはいろいろあるけれど、テクノロジーの進歩というのはすごいなと思います。



編集の作業には立ち会ったり途中で意見を言ったりしますが、あえて第三者に託すことで少し客観性を出したいんです。どういう場所で撮られているのか、なぜこんな画を撮っているのか分かりづらい部分も残して、あえてテロップやナレーションも加えません。





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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より





──毎月60分の作品を仕上げるのは、かなりたいへんなことだと思いますが、アップリンクで上映するということが決まっているから続けられたということはありますか?



アップリンクは映画館というよりも学校のような感じがするんだよね。スクリーンがいくつかあって、部室で活動しているみたいなね。もちろん大きなスタジオで作られた映画にも感銘を受けるけれど初めて映画を制作するような人が撮った映画は「なんでこういう撮り方しているのかな」と新鮮なんです。ロックでも、どこのガキがなにやってるか分からないようなもののほうが驚きがある。それと同じ空気がこのアップリンクにあって、僕もその一員としてこのカメラを回しているのかもしれない。




──6月号の映像では、金沢の街で「音楽を目的に音楽をしない、旅を目的に旅をしない」とひとりで語る場面がありましたが、あのシーンにはどのような思いがあったのでしょうか?



目的はここにいる「あなた」しかいないんですよ。それは何人もいる漠然とした「あなた」のときもあるし、そのとき好きでしょうがない誰かかもしれない。2011年東北で大災害があって以降、ここから5年後10年後俺たちはなにをやっているのか、というのはよく掲げられるテーマだけれど、僕にはその答えは簡単には出せない。いま吸っているこの空気はどうなっているのか、考えはじめると追いつかない。音楽についても、今日の会場の音響どうなっているのか、ということよりも「あなた」に歌うということだけなんだということを言いたかったんです。





歌うことが目的化されても、結局商品価値の高い、それなりに収まるところに収まったものしか出来上がらない。それはそれで素晴らしいけれど、本当の目的ではないんです。アップリンクという場で演奏したり上映されたら、そこに来ている「あなた」が驚いてくれたらいい。それが音楽的な、映画的な営みであり認識だと思う。



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音楽と映像は僕の中で循環運動をしている






【以下、ワークショップの参加者からの質問】



──撮影に関してはなにか約束事はあるのですか?



僕もこうしていちおうナチュラルに話しているけれど、質問によっては言葉につまったり、すごく困った質問されると逆襲したり。映像というのはそういう態度です。劇映画や、ひとつのテーマについてドキュメンタリーにしようという作品であれば、カメラの視点はあるひとつの姿勢を保っていかなければいけないけれど、僕の場合はファウンド・フッテージ(他の作家によって制作された既存の映像[フッテージ]を作品の全体または一部に使い、新しく作品を作る手法)のように、落ちてるフィルムを拾ってかき集めて繋げたようなものだから。自分のなかには撮るものについての基準はあるけれど、今日はブルブル手が震えていたとか、鉄橋を撮ろうとしたらバッテリーが切れてる、一度バッテリー外して付け直すと30秒くらい撮れる、みたいなことの連続だから、約束事はありません。





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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より







──編集を任せていて、このシーンを入れてほしかったのに入っていない、ということもあるのですか?



「この流れだったこの画いらないなぁ」みたいなこともいっぱいあるけれど、あまりパーフェクトに自分が決めたことだけにはしない。時間的な理由もあるけれど、少しだらしなくしたいというか。絵画と同じで、絵って飾っていて1年くらい経ったらまた手を入れたりすることもある。無責任に聞こえるかもしれないけれど、それくらいの距離で付き合ったほうが毎月作り続けるにあたってはいいんです。



──ギターを持っている位置にカメラがあるなと思ったんです。だからギターを鳴らしながら考え事をするみたいに、カメラを撮ってるのかなと思いました。



うまいこと言いますね。そういう感じはある。いいフレーズが思いついたときに記録するのと同じように、なんか気になるものに目が向くと「そんなもの後で何に使うの」みたいなものもムービーで撮るみたいな感じかもしれないね。





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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より



──私の本職はライターで、誰かに何かを伝えるときは書くという方法がありますが、この映像制作ワークショップに参加しています。あがたさんは音楽というものを持っていらっしゃるのに、どうして映像が必要だったのでしょう?



言葉があるからなんですよ。日本語で話すほうが伝わりやすいかもしれないけれど、それでも全ては伝わらない。言葉を超越している、別のものを歌や映像に託したいのかもしれない。



そして、映像は僕のなかにはもともとあったんです。僕はいま1964年というテーマ、50年前東京オリンピックの年をテーマにアルバムを作っています。その翌年の1965年、ボブ・ディランが「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌いましたが、高校2年生のときこの曲を聴いて「歌ってみようかな」と思ってしまったんです。それまでは歌を歌う気はなかった。あなたと一緒に物書きになりたいと思っていたし、小学校の頃は二番館で東映の時代劇を毎週観て感化され、俳優になりたい、自分でも監督してみたい、映像をやってみたいと思ったこともある。歌い手になることはなにかのはずみでなってしまった選択肢なんです。でもあと何年かは分からないけれど、音楽はやり続けます。



──映像制作をすごく楽しんでいらっしゃるように思うんですけれど、辛い、辞めたいと思ったことはないんですか?



好奇心や思いつきでなんでもパッと撮って出していくのは楽しいけれど、でもいちばん撮りたいのは人間なんだ。人が楽しそうにしているのを撮りたい。恋人同士が楽しそうにしているのを遠くからこっそり撮るのが最高です。「あなたたちのこと素敵なので撮らせてください」と聞いてみたことがあるんですが、男のほうに何だと?とすごまれたので、それ以降やってないんですが(笑)。もっと猥雑でたわいないいろんなことを…、街の路上で別れ話をしている男女も、彼らの幸せなシーンが撮れるなら、合わせ鏡として撮りたい。彼らがどこでどう愛し合っているのか、一体全体を撮りたいんだ。撮るためにロケハンしたりはしないから、撮ることを目的にはしない。歌うことを目的にはしない。いま日本が戦争の道に進んで危ないといったときに、反戦運動をするために反戦運動をしたくないんです。昔はもっと、いろんな人たちが溢れていたような気がする。




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あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」より



──撮ることでご自身を奮起させている部分もあると思うんですけれど、私の場合、撮ってみて、まとまったところで他の人は面白いと思えるのか、と思うと急に撮る気が失せてきてしまうんです。



画家でも映像作家でもミュージシャンでも、直感的なひらめきで書ける人と、いっぱい書き散らしてやっと1枚できる人もいる。資質や才能は人それぞれだから。あなたも私もそうなんだけれど、自分にこだわりがあれば時間がかかっても、たくさん撮って、捨ててしまうものがあってもいいんじゃないかな。レコードの衝動買いと同じで、自分が撮りたいと思ったらバカらしいと思っても撮り、気力・体力があれば、撮り続けるのがいいんじゃないですかね。撮っているうちに、いいものとムダなものとだんだん分かってくる。それは表現者のバランス感覚だから。



──あがたさんの映像は誰かを面白がらせよう、感動させようというかっこつけの映像じゃなくて、気負ったところがなくて、あがたさんと一緒に旅をしているような気持ちになりました。一緒に電車に乗ったりいろんな人にあったり、おばちゃんにチョコレートあげたり、カメラがゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじみたいに一緒に生きてすごしている、みたいな。だから、ブレるときもあるけれど、いつも一緒にいて世界を見ている。面白かったです。



ありがとう。そういう意味ではあなたは僕が見てほしかった「あなた」になってくれた。




──あがたさんはあなたに見てもらいたくて撮りたい、とおっしゃいましたが、私はそんなに優しい気持ちになれなくて、見せるからにはかっこいいものにしたいと、それがつまらないと思われたらどうしようという怖さがあって、もっと楽しめるためにはどうしたらいいでしょうか。



「この作品どう思う?」ということや「なぜ映像を撮っているのか」という悩みをあなたが親密さを感じる人に語ったり、撮った映像を観てもらうことがいいかもしれない。たくさん突きつけてみて、いろんな「手応え」をいろんな人と試してみることじゃないかな。誰かともっと親密になること、恋愛かもしれないし友達かもしれない。そこを葛藤してみるのがいいと思う。「この人だったらどう撮るんだろう」と一週間だけ2カメで撮ってみるパートナーを見つけるとか、シナリオや絵コンテを描いたら、一緒にやってみてぶつかってみると、「こんな画を撮ったのか」と驚きがあったりする。




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── 映像を撮ることによって、曲作りの部分では変化はありましたか?



僕は音楽を聴くことで音楽を作ることってあまりないんです。デビュー曲の「赤色エレジー」を聴いてもボブ・ディランの影響は聴こえない。なぜこの24歳の白人の青年が60歳くらいのブルースシンガーみたいな歌い方をするんだろうということは衝撃だったけれど、それを真似しようとは思わなかった。音楽以外のいろんな要素のなかで、自分は歌を作った。「赤色エレジー」は林静一さんが漫画雑誌「ガロ」に連載していた漫画に感動して勝手に主題歌をつけたんです。そのように、映像や文学、絵画、社会現象……いろんなものが影響を与えています。だから、僕自身の映像が僕の音楽に影響を与えるかは分からないけれど、たぶん自分のなかでは循環運動をしている。だからこそ毎月作っているんだと思います。



(2014年9月2日、渋谷アップリンク・ファクトリーで開催のドキュメンタリー制作上映ワークショップにて 取材・文:駒井憲嗣)












あがた森魚 プロフィール



1948年9月12日、北海道生まれ。1972年「赤色エレジー」でデビュー。デビューアルバム『乙女の儚夢』以降、あがた森魚世界観をはらんだアルバムを発表しながら活動を続ける。80年代にはヴァージンVSを結成。87年『バンドネオンの豹』を発表、ワールドミュージックへと視野を広げ、90年代初頭には、雷蔵を結成しアルバムをリリース。21世紀にはいり、初のベスト盤『20世紀漂流記』を発表。2007年デビュー35年を迎え、アルバム『タルホロジー』リリース。2009年2月22日、一大記念イベント『Zipang Boyz號の一夜』を開催。2009年ドキュメンタリー映画『あがた森魚ややデラックス』を劇場公開。2011年、アルバム『俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け』『誰もがエリカを愛してる』CD2枚を連続リリース。さらにあがた森魚と山崎優子『コドモアルバム』を完成しリリース。2012年、デビュー40周年を迎え記念アルバム『女と男のいる舗道』リリースや記念コンサートを開催、アルバム『ぐすぺり幼年期』をリリース。2013年、アルバム『すぴかたいず』をアナログ盤でリリース。2007年から続いている月刊日記映画を毎月制作、上映会を行い、ライヴも全国で展開、ひきつづき意欲的な活動が続いている。

http://www.agatamorio.com/













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あがた森魚 日記映画上映&LIVE!

「QPOLA PICTURE LIVE SHOW 2014」#8

(あがた森魚の2014年8月の日記映画)

2014年9月24日(水)

渋谷アップリンク・ファクトリー



19:00開場/19:30開演(ライブは20:30頃より)

出演:あがた森魚

ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/event/2014/30661










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【2014年11月期】

「アップリンク・ムービー制作ワークショップ」

11月25日(火)開講



期間:2014年11月25日~2015年3月31日[隔週火曜日、全10回]

時間:19:00~21:30(事前告知による日程変更あり)

■会場:渋谷アップリンク(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル)

参加料:現金 36,000円/クレジット 38,000円(一括のみ ※分割・リボ払いは後からご自身で設定してください)

■ナビゲーター:浅井隆(アップリンク主宰)

お申込みは下記より

http://www.uplink.co.jp/workshop/log/000990.php










▼あがた森魚月刊映画「きゅぽらぱあぷるぶるっくりんへいず」2014年7月號予告編

[youtube:3seoBH6GCRE]

「誰の心にも刺さる記憶のカケラを放り込む」矢崎仁司監督が新作『太陽の坐る場所』を語る

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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会



辻村深月の同名小説を『ストロベリーショートケイクス』『スイートリトルライズ』の矢崎仁司監督が映画化した『太陽の坐る場所』が9月27日(土)からの山梨での先行公開に続き、10月4日(土)より全国公開される。

常に今までの観客を裏切るような映画を作りたいという矢崎監督。今回は、過去と現在を時系列で描くのではなく交差させる編集で、映画を見ている観客に今を感じてほしいという意図があったという。

そして埼玉でも千葉でもなく、また金沢でも山形でもない、東京との距離感では遠くて近い山梨という土地の若者が抱くコンプレックスを描くために、同じく山梨出身の辻村深月の原作を選び、そして主題歌にも山梨出身のレミオロメンの藤巻亮太を起用し製作された。

高校の同窓会を舞台に、誰の記憶にもある教室での格差や嫉妬、妬みなどをリアルに描き、同じ名前を持つ二人のキョウに隠された秘密に迫るミステリーだ。

webDICEでは矢崎仁司監督が撮影の経緯などについて語ったインタビューを掲載する。



痛々しいほどの裸の心たちが日々を懸命に生きている




──原作のどんな部分に惹かれましたか?



辻村さんの小説は「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」、「ぼくのメジャースプーン」、「スロウハイツの神様」などなど愛読していました。人間の心の底を抉る辻村文学に、いつか挑みたいと思っていました。この『太陽の坐る場所』には、痛々しいほどの裸の心たちが、服を着て仮面を被り、日々を懸命に生きている。この小説の登場人物たちを、生身の人間の姿で映し撮りたいと強く思いました。思春期の心の傷の包帯を解き、自分でも忘れていた傷口を太陽に曝すことで自分の新しい一歩を踏み出していく映画にしたいと思いました。




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『太陽の坐る場所』の矢崎仁司監督




──長尺な原作を脚本にする際にどこにポイントを置いたのでしょうか?



30稿以上書き直した七か月の格闘の末、愛すべき登場人物たちを一人、また一人と削っていくなかで、辻村文学の深い海底の砂に埋もれた記憶に触れた気がしました。観る人の心の底に眠る宝箱の蓋を開けられたらいいなと思います。



──30稿以上書き直されたということですが、具体的に拘った点はありますか?



私は、いくつか原作を映画にしてきました。映画と文学は違いますが、常に心掛けていることは、原作者を、第一の観客にすることです。幸い今までの原作者の方々には、出来上がった映画を愛していただきました。もちろん、辻村さんにも、喜んでいただき嬉しかったです。



──原作の辻村さんとは脚本の段階からやりとりをされていたのでしょうか?読まれたときの辻村さんの反応はいかがでしたか?



やはり辻村さんは、活字に命を削られている方なので、ト書きや科白などに対する鋭い指摘には、驚かされました。反面、原作には無いシーンでも、映像表現に理解を示していただき、逆に独自のアイディアをくださったり、感謝しています。




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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会




──この原作を映像化するにあたり一番苦労されたシーン、拘ったシーンはどこでしょうか?



すべての登場人物が愛おしかったので、全員描きたかったです。映画の時間の中で、一人、また一人と登場人物を切っていかざるを得ないことが辛かったです。

小説は、高校生活と10年後の現在の話ですが、回想形式の映画にしたくないと拘りました。登場人物の回想ですと、彼、彼女たちのストーリーになってしまうので、観客に物語しか渡すことが出来ない。誰の心にも刺さる記憶のカケラを放り込むことで、あらゆる年齢層の観客一人一人の感情に触ることが出来ると思います。



──出演者についてお聞かせ下さい。また、高校時代を演じている若手俳優たちのキャステイング理由や、撮影現場での手応えはいかがでしたか?



私は、俳優さんたちとの出会いに恵まれているなと感じます。水川あさみさんも、木村文乃さんも、三浦貴大さんも、森カンナさんも、みんな素晴らしい俳優さんです。私は演出なんかしていません。今の彼、彼女たちの命を映し撮りたいと必死でした。高校時代のキャストについては、300人を超えるオーディションで選ばれた俳優たちですが、正直、出会ったと言いたいです。オーディション会場で順番待ちをしている彼、彼女たちを見て、「あ、響子ちゃんだ」とか「リンちゃんだ」とか、出会った感じです。みんな素直で勘がよく、素晴らしい俳優です。日本を代表する俳優さんたちの若い頃に出会ったみたいな感じ。もう直ぐにブレイクして、きっと私なんかと一緒に映画を作ってくれなくなっちゃうんだろうなって思います。




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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会





──「キョウコ」を演じるうえで、水川さん、木村さんの2人に監督から伝えたことは?



2人の「キョウコ」は、今日であり、響きであり、鏡でもあるということだと思います。この鏡に自らを映すことで、登場人物たちは、各々の道を見つけて歩き出す。この映画も、観客ひとりひとりを映す鏡になり、映画館の暗闇から外に出た時、新しい何かを発見する予感の映画にしたいと伝えました。



──現代と過去のシーンを交錯させて描くことでどんな世界が見えてくると思いますか。



非常に個人的な記憶ほど、他人の心に触れると信じています。過去は回想ではなく、記憶のカケラだと思います。そしてそのカケラはガラスのように尖っていて、観る人の記憶に刺さると思っています。



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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会




──出身地である故郷の山梨での撮影はいかがでしょうか。



原作者の辻村さんも私も同じ山梨県人だから。2人とも原風景は山梨にあり、この物語の語り手たちの感情を肌で感じることができたと思います。この地で生まれ育ったこと。近くて遠い東京との距離感。優越感と劣等感。孤独と葛藤など。でも、これは山梨だけではなくて、大都市以外の地方都市に育った多くの日本人に共通した感覚でもあるのではないかと感じています。



──矢崎監督からのラブコールで藤巻亮太さんの主題歌書下ろしが決まったということですが、初めて曲を聴いた時はいかがでしたか?



シナリオを書いているとき、レミオロメンの「永遠と一瞬」をずっと聴いていました。だから藤巻さんにはお願いしたかった。山梨から東京に向かうバスの中で聴いていたのですが、流れる車窓の風景が涙で滲みました。「アメンボ」は、この曲がラストに流れて、はじめてこの『太陽の坐る場所』は完成したと、思います。



(プレスより引用)



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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会









【9月7日に開催された第10回やまなし映画祭でのトークより】



“辻村文学”と言っていただいたのは矢崎監督が初めてなんです。そんな風に真摯に向き合ってくれる方にこの作品を映像化していただけたことが何より良かったと思います。心が震える程嬉しかったんです。原作は二人の名前をキョウコという表記にしてミスリードを誘っているので、映像にするのはとても難しいと思っていました。でも、映画を観させていただいて、水川さんと木村さんが演じるキョウコの間に何があったのか、そこにとても引き込まれていて。私にとっては、大事に大事に育ててきた娘をお嫁に出すような感覚でもあったので、本当にいいお家に嫁がせてもらったなと実感します。



映画の冒頭、原作通りの映像からスタートします。私ここ書いた!!とも思ったし、自分の高校時代を観ているようでもありました。きっと、自分の人生の一場面が封じ込められている作品になっていると思います。(辻村深月)



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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会










矢崎仁司 プロフィール



山梨県出身。日本大学芸術学部映画学科に入学。在学中の1980年、『風たちの午後』で監督デビュー。1992年、『三月のライオン』でベルギー王室主催ルイス・ブニュエルの『黄金時代』賞を受けるなど、国際的に高い評価を得る。1995年、文化庁芸術家海外研修員として渡英し、ロンドンを舞台にした『花を摘む少女 虫を殺す少女』を監督。主な作品に、『ストロベリーショートケイクス』(2006年)『スイートリトルライズ』(2010年)『不倫純愛』(2011年)『1+1=1 1』(2012年)などがある。












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映画『太陽の坐る場所』より ©2014「太陽の坐る場所」製作委員会




映画『太陽の坐る場所』

10月4日(土)より、有楽町スバル座他ロードショー

9月27日(土)より、山梨にて先行ロードショー



学校中の人気を集め、クラスの女王として君臨していた響子。自分の立場も、好きな人も、友達すらも、欲しいものは何でも手に入ると信じていた完璧な高校時代。彼女の傍には、いつも、同じ名前を持つ同級生の今日子がいた。しかし、完璧だった高校生活も終わりが近づいてきたあの日、ある出来事をきっかけに光と影が逆転する。 そして高校卒業から10年。過去の輝きを失い、地元地方局のアナウンサーとして満たされない毎日を過ごす響子と、彼女とは対照的に、東京に出て誰もが憧れる人気女優として活躍する今日子。そんな2人の元にクラス会の知らせが届く。卒業以来、言葉を交わすことすらなかった2人がそこで再会を果たすとき……初めて語られる10年前の残酷な真実とは?




監督:矢崎仁司

出演:水川あさみ、木村文乃、三浦貴大、森カンナ、鶴見辰吾

原作:辻村深月(文春文庫刊)

脚本:朝西真砂

主題歌:「アメンボ」藤巻亮太

配給:ファントム・フィルム

2014年/日本/102分




公式サイト:http://taiyo-movie.jp/

公式Facebook:https://www.facebook.com/koutei.kousyaku.movie2013

公式Twitter:https://twitter.com/taiyou_movie





▼映画『太陽の坐る場所』予告編


[youtube:3C2oDyYMOeU]

女子として育てられた監督自身の半生を本人と母親2役で映画化『不機嫌なママにメルシィ!』

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映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM



フランスの国立劇団コメディ・フランセーズ出身で、『イヴ・サンローラン』などでもバイプレーヤーとして活躍する男優ギヨーム・ガリエンヌが自らの半生を描いた戯曲を映画化した『不機嫌なママにメルシィ!』が9月27日(土)より公開される。心酔する母親に女の子として育てられた少年ギヨームが、様々な経験を経て俳優として成長していくまでを、監督・脚本のほかギヨーム役と母親役の2役を演じ描出している。今回webDICEでは、ギヨーム・ガリエンヌによるプロダクション・ノートを掲載する



■戯曲から映画化への経緯




本作は、舞台劇としてつくられたものを映画用に翻案したものだ。舞台での笑いのすごいこと、それに芝居がはねたあと、ぼくの楽屋を訪ねて来てくれる人たちの数もまたとんでもなくて、これならもうちょっといけるんじゃないかと思っていた。映画に翻案してみるのはどうかなって。なんて妄想!だって、舞台と同じようにすべての役をひとりで演じるなんて……。エディ・マーフィが『ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合』でやったように、自分も同じことができるんじゃないかなんて考えるのは、誇大妄想もいいところじゃない!?



不機嫌なママにメルシィ! サブ1

映画『不機嫌なママにメルシィ!』のギヨーム・ガリエンヌ監督



『不機嫌なママにメルシィ!』が舞台にしか存在しないというのは、ぼくにとってフラストレーションが溜まることだった。ぼくはこの作品を、映画として見ていたからだ。ママがあんなにも活気にあふれて生き生きとしているのはなぜなのか、もっと近くから観察し、もっと強くママのことを感じたかった。舞台の上では見えてこない細部を明らかにすることによって、そこから単なる笑い以上のものを引き出したかった。




舞台では、ぼくはすべての役をひとりで演じたけれど、映画では、ギヨームとママの役を演じることになる。これらの役については、もうすでに15年もの間にわたってリハーサルを繰り返して、しかも40年間もずっと磨きをかけ続けてきたわけだ。






■自らの出自を描いたストーリーについて




【STORY①】「開演5分前」の声に、ステージへ向かうギヨーム・ガリエンヌ。俳優としての成功を手にした彼は今日、ハプニングとサプライズの連続だった自らの青春時代を演じる。最初の台詞は、「ママ」。なぜかいつも不機嫌だけれど、この世でいちばん大切な人だ。満員の観客席を前に、ギヨームの物語が始まる──。




ぼくは裕福なブルジョワ家庭の出身だ。奇妙で風変わりで、コスモポリタンで、どんな猥雑なことであっても、すべてを合理化してしまうような。その社会の中では、たとえちょっと暴力的だと思えることも、不平や不満を言うことはできない。どんなに残酷だったり野卑で破廉恥なことであっても、上品に繊細に表明することが求められる。人を笑わせるにも感動させるにも、媚びへつらうことなく、優雅であることが必要とされるんだ。映画化にあたっては、ブルジョワ階級に属する人間が、どんなふうにして舞台に立つまでになったのか、とんでもなくエレガントなその脱皮と道程を観客と共有したかった。



この映画が描くのは、ありきたりの真実じゃない。ぼく自身の真実だ。どんな恋愛経験から、ぼくが形成されたのか。それが役者になるにあたってどんなふうに作用したのか、その心の秘められた部分を誠実に語る映画なんだ。もしかしたら、悲劇的な結末に終わっていたかもしれない。けれど、幸いなことに冒険は成功し、ちょっとおかしくてシュルレアリスム的なところすらある作品に仕上がった。


 
不機嫌なママにメルシィ! サブ4

映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM






■現代の舞台のシーンと少年時代のシーンを交錯させる演出



シュルレアリスム的と言えば、この映画でのぼくは、瞬時に少年時代から現在に移ったり、男から女へも変わる。しかもある場所から次の場所へと瞬間移動したりもする。どんなふうにしてぼくが今いるところに至ったのかを語ること。幻惑するのかそれとも幻滅させるのか。舞台から舞台へ、瞬時に場面転換ができる映画ならではの愉しみによって、この冒険物語のそれぞれのエピソードをより印象深いものにできたと思う。



これこそ、映画の愉しみであり魔法だよね。ぼくの記憶のなかにある出来事であり、そのとき経験した感情がシーンに反映する。幸福な瞬間だったのか、恐怖を感じているときだったのか、セット、照明、衣装……それらすべてが協調することによって、映画のなかのギヨームの世界を形づくってゆくんだ。



映画のもっともステキなところは、視線の定まらない眼差しや細かな仕草、突飛な表現など、一瞬にして過ぎ去っていくものをじっくりと見せられることだ。喜劇的状況にぴったりのテンポを与え、セリフによって豊かな人間的感情を引き出すわけだね。でも、そこでもっとも重要なのは身体演技であり、それがあって初めて、その人物をよりよく感じることができる。




不機嫌なママにメルシィ! サブ3

映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM



この映画の美学的な部分については、舞台の悲痛なユーモアを、より効果的に見せることに主眼をおいた。それとは逆に、ギヨームの頭のなかにあるものを演じるに際しては、視線や所作、それにセリフはそのままでも、視覚的に行き過ぎと思えるような演出を施すことによって、力強くドラマティックなものとなり、さらに笑いを呼ぶきっかけをつくろうとした。



ぼくはぼく自身が創造したキャラクターに固執した。この映画を見るのは、ちょっと奇妙な体験だ。稀なことなのだけれど、もういちど劇のなかで自分の人生を生きているようにも感じる。でもまあ、それも悪くはないね。ぼくはぼく自身の物語を語るために存在しているわけなのだから。








■子どものころからお手本だった母への愛情




【STORY②】3人兄弟の末っ子で、ママに女の子のように育てられたギヨームは、ゴージャスでエレガントなママに憧れ、スタイルから話し方まですべてママを真似していた。兄弟や親戚からは100%ゲイだと思われていたが、なんとか息子を男らしく方向転換させたいパパに、無理やり男子校の寄宿舎に入れられてしまう。


 

これは、女性に対する真実の愛の告白だ。とりわけママに対するね。ぼくが子どものころ、ママは僕ら3人兄弟にこう言った──「男の子たちとギヨーム」って。厳しくて並外れたところのあるママが、いつもこんなふうに、ほかの兄弟とぼくとを区別して呼んでくれるたび、ぼくは自分が特別な存在だってことを確信できた。「男の子たち」っていうふうに十把一絡げにされるのじゃなく、ひとりのなにか特別な個人として見てもらえていると思えたんだ。


 

子どもの頃のぼくは、とにかく女の子のように振る舞おうとしたけれど、そのモデルはママをおいてはいなかった。それが、ぼくが演技を始めた最初であり、ママを真似ることから演じ始めたんだ。次第にぼくは、ママと同じ声、同じ振る舞い、同じ仕草を身につけていった。なよなよしていったわけじゃなく、女性に、それもママになりきっていったんだ。やがて、女性のすべてがぼくを惹きつけるようになった。それがぼくにとっての女性に対する愛であり、我を忘れるように魅惑されていった。舞台では見せきることができなかったママの優しさや優美さを、映画のおかげでようやく、ぼくは取り戻すことができたんだ。




映画『不機嫌なママにメルシィ!』 ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM

映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM






■コメディ映画としてのスタイル



【STORY③】寄宿舎でイジメにあったギヨームはイギリスの学校に転校、親切にしてくれた男子生徒への初恋に破れ、人生最初の絶望を味わう。自分のセクシュアリティを見極めようとトライしたナンパも、とんでもない結末に。うまくいかない人生に疑問を感じ始めたギヨームは、“本当の自分”を探す旅に出る……。



映画では、とにかくテンポのよいコメディになるよう目指した。笑いが弾けるようなセリフやシチュエーションがつながり合って、ぼく自身の物語が紡がれてゆき、それにしたがって観客の目の前で丸裸にされてゆくような恐怖を感じることもある。でも感動を呼び込むためには、誠実じゃないとダメだと思うんだ。きっと、それぞれ心の奥底で共感してくれるんじゃないかと思う。そして、不意に涙腺を緩めてくれることだってあるんじゃないかと思う。




不機嫌なママにメルシィ! サブ2

映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM



コメディ映画における最高におかしな瞬間は、主人公がどんなふうにして茫然自失状態に陥るかにかかっている。ある物事を受け止め、どうそれに反応するか。ところが、彼がやることなすこと、ことごとくが的外れで、しかもまったくその間違いに気づいていなかったりするときほど、滑稽な瞬間はない。こうした瞬間は、当然のこと本作にも存在している。主人公は、最初は女の子でいようと真剣に悩み、次にはホモセクシュアルだと思い込み、それらしく振る舞おうとする。ぼくが演じる人物=ギヨームは、おかしなシチュエーションに陥るわけだけれど、それは同時にとても滑稽なものでもあるんだ。



映画『不機嫌なママにメルシィ!』 ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM

映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM


■主人公ギヨームのアイデンティティ探しの物語



訳の分からない理由で人と区別されてしまい、それに右往左往するような本来は受け身な男なのに、逆に彼があくせく動くことによってもがき苦しんでしまう。演出の肝は発想を逆転させたことにあると言えるかもしれない。物語が進み、ギヨームが男として、また俳優として、新たなステージに飛び込もうかどうしようかという瀬戸際にいる瞬間、彼のアイデンティティ探しの最高のハイライトとなるような、なにか突拍子もない、でも観客にも十分納得できるような演出ができないものかと考え続けていた。最も心の奥底にある秘められたものと、最高にユーモラスなものとを融合させられないものか。ギヨームとママとの特別な絆を描くと同時に、ホロリとさせることができないものかって。



これは、パリかどこかのカフェで、カップルが別れてゆくのをじっと見ているような映画じゃない。女の子と思われたり、ゲイだと思われたり混乱したセクシュアリティを抱えていたギヨームが、あちこちで本物の冒険を繰り広げながら、運命を切り開いてゆこうとする映画なんだ。







(プレスより引用)











ギヨーム・ガリエンヌ(Guillaume Gallienne) プロフィール



1972年2月8日、パリ近郊のヌイィ=シュル=セーヌ生まれ。19歳のとき、最大の彼の理解者だった従姉妹のアリシアが若くして突然亡くなったのをきっかけに、自分の将来を演劇の世界に定め、フロランの演劇学校へ。05年よりコメディ・フランセーズの正規団員として数々の舞台に立つ。舞台活動に並行して、90年代より映画にも『タンゴ・レッスン』(97年)などに出演を重ね、2000年には大ヒット作「Jet Set」に出演したことをきっかけに、映画の世界でもその名を知られる。その後、『花咲ける騎士道』(03年)『モンテーニュ通りのカフェ』(06年)『オーケストラ!』(09年)で好演を見せ、ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』(06年)にも出演。同時にダンスにも傾倒し、フランスを代表するソリスト、シルヴィー・ギエムとの親交から、バレエに関するブックレットを執筆。加えてバルザックの「幻滅」をバレエ用に翻案したりもしている。08年、自身の子どものころに材を採った『不機嫌なママにメルシィ!』を舞台劇に仕立てて自作自演し、大評判に。これにより10年モリエール賞を獲得。さらに13年には自ら映画化して大ヒットを飛ばし、セザール賞10部門にノミネートののち、最優秀作品賞をはじめ5部門を獲得し、世界にその名と才能を知らしめた。2014年にはジャリル・レスペール監督の『イヴ・サンローラン』に出演。













映画『不機嫌なママにメルシィ!』 ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM

映画『不機嫌なママにメルシィ!』より ©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM




映画『不機嫌なママにメルシィ!』

9月27日(土)より 新宿武蔵野館ほか全国順次公開





監督:ギヨーム・ガリエンヌ

出演:ギヨーム・ガリエンヌ、アンドレ・マルコン、フランソワーズ・ファビアン、ダイアン・クルーガー、レダ・カテブ ほか

脚本:ギヨーム・ガリエンヌ

共同脚本:クロード・マチュー、ニコラ・ヴァシリエフ

製作:エドゥアール・ヴェイユ、シリル・コルボー=ジュスタン、ジャン=バティスト・デュポン

撮影:グリン・スペーカールト(SBC)

編集:ヴァレリー・デセーヌ

音楽:マリー=ジャンヌ・セレロ

美術:シルヴィー・オリヴェ

衣装:オリヴィエ・ベリオ

特殊メイク:ドミニク・コラダン

原題:Les garcons et Guillaume, a table!

2013年/フランス、ベルギー/87分/フランス語、英語

協力:アンスティチュ・フランセ日本、ユニフランス・フィルムズ

配給・宣伝:セテラ・インターナショナル



公式サイト:http://www.cetera.co.jp/merci/

公式Facebook:https://www.facebook.com/fukigennamama

公式Twitter:https://twitter.com/fukigennamama





▼映画『不機嫌なママにメルシィ!』予告編

[youtube:2aj95m9XXBo]

哲学と思想に従いグローバルに創作せよ!ヴィデオ・アートの先駆者・中嶋興語る

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中嶋興 ヴィデオ・インスタレーションの様子


携帯やスマートフォンで誰もが映像を撮って、世界に配信できる現在。今より50年前の1960年代半ばより手持ちのヴィデオ・カメラが登場し、新しい映像表現に果敢にチャレンジしたアーティストが日本でも現れた歴史がある。そのなかの一人、中島興の特集上映「中嶋興 -ヴィデオ万物流転- Ko NAKAJIMA’s Video Vicissitudes」が10月10日(金)と17日(金)の2回にわたり、渋谷アップリンク・ファクトリーにて行われる。この上映に合わせて、併設のアップリンク・ギャラリーではリソグラフや写真を中心にした平面作品の展示も催される。



中嶋興は1960年代より実験アニメや写真、デザインを手掛け、70年代よりヴィデオ・アート、インスタレーションなど数々の視覚芸術・映像作品の展示を手掛けたメディア・アートの先駆的存在。商業的な映画やテレビとは異なり、『MY LIFE』(1976-)での長期間にわたり彼の人生そのものを映像作品化する作風や、東洋思想の要素を取り入れたコンセプトで、現代メディア社会での生き方・生命の問題を提起するその手法は、海外からの評価も高い。



今回の特集上映の開催にあたりwebDICEでは、自身のキャリアと中嶋流のユニークな発想と表現の源泉を語ったインタビューを掲載する。












60年代後半、映像との邂逅:

フィルムとヴィデオに同時に出会う



──映像との出会いを教えてください。



僕は1968年ごろとヴィデオと出会ってる。お正月に銀座でヴィデオを使った技術デモンストレーションをやってて、「こういうのが出来たのか」って調べたらヴィデオだった。「ポーターパック」という、ヴィデオ初期のオープンリール型の録画ユニットと撮影ユニットのセットだった。




KoNakajima-portlait-interveiw

中嶋興


──新しい技術に興味があったのですか?



それ以前はアニメ、写真、デザインや絵を描いたりして、そういう表現メディアを一つずつ組み合わせて作った方が面白い作品ができるんじゃないかなと思って。だからいろんなメディアを勉強したいと思ってた。まずフィルム映画の勉強をしなきゃいけないと思ってね、映画プロダクションにアシスタントで入って、フィルム撮影を覚えた。ロケ仕事が終わると、アシスタントは車庫まで撮影機材を持って帰るじゃない。その準備中にこっそり持ちだして、翌朝早く行って戻しておくと誰もわからない。



ロケ仕事が1ヶ月ぐらいかかると、30日ぐらい毎日撮影することができる。それでサンゴー(35mmフィルム)の構造を覚えたんだよ。その時作った映画作品は、心臓手術の女の子をテーマにつくったんだけど、それが1968年にモントリオール映画祭で受賞したんで、カナダに授賞式に出かけていった。それからカナダとの付き合いが始まった。だからフィルム映画と同時にヴィデオと出会ったんで、こっちでヴィデオやりながら、一方でフィルムの勉強しなきゃなんない状況でけっこう大変だった。



メディアアートは機材と一緒に発達してくるじゃないか。だからテクニックは大事だから、勉強したんだね。





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「塩の幻想」(1993)





ヴィデオは長期戦で撮れ!



──70年代には「ビデオアース東京」というグループを作られますね。



そう、東京総合写真専門学校ってところで重森弘淹という人がいて、学校に教えに来ないかと誘われて、その条件にヴィデオをやりたいって言ったら、「じゃ、機材買いましょう」って、すぐポーターパック型ヴィデオを買ってもらった。あと自分で買った機材と学校の機材と、モノクロだけど、それで作品をそこの学生さんと一緒に作り始めてそれでビデオアース東京をつくったんだ。



──なぜ「アース」だったのですか?



地球をヴィデオで表現してやろうってことで、地球倶楽部だから「アース」。それで世界中のヴィデオ・アーティストとコミュニケーションをとるために「ビデオアース東京」を作った。10年間ぐらい活動して、その時のメンバーには今でもケーブルテレビに活躍してる人もいる。



ヴィデオは元々パーソナルなメディアだから一人で出かけて行って一人で撮るとか。ま、多くても2、3人で組んで撮るとかってしないと、仲良しクラブで何かオタクになっちゃうとダメじゃないか。ある対象に対して考えるのが表現だし、運動だと思ってるから。



──どういう作品を作られたのですか?



一つには、70年代ごろから自分と家族をテーマにした『MY LIFE』(1976-)。36年ぐらい撮ってるんだけども、ヴィデオはメディアの特性として、長期戦で作らないとだめだってことに気がついたんだ。即興でパッと創るのも一つの手だけども、ヴィデオ・メディアの特性は長く撮ることなんだよ。




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「MY LIFE」(1976-1992)





もう一つには、70年代にはいってからうちの奥さんが道教の勉強を始めたんで、その話を聞いて自分でも日本の文化を調べ始めたら、「木・火・土・金・水」という5つの元素の発想法・コンセプトがあって、それにすごく日本文化が影響を受けてるとわかったんだ。暦や方角などにも浸透してるな、と。




そこで、その考えを素にエコロジカルな作品を作ると面白いんじゃないかと考えて、木、火、土、金属と水の作品を作ってる。「木・火・土・金・水」で一つの宇宙観を作れば、日本の文化は「花・鳥・風・月」の思想だから、連結してくるんじゃないかなと。




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「精造機」(1964)



──世界各国でヴィデオ作品を創られてますね?



五大陸で作るっていうのがテーマなんだ。ニュージーランドは火山があって、日本と似てる。マオリ族という原住民の思想があって、それをちょっと勉強して、日本の神道や道教の考えを少し入れながらニュージーランドで作った。今はインドで作ってる。あとヨーロッパや、あとカナダでも作った。あとアメリカか南米あたりで創れたらいいな、と思ってる。いろんな大陸の面白さとか環境の違い、そこの文化を取り入れて作っていかなくてはいけないと思っている。



海外にも影響を与えた中嶋的発想




──東洋思想を取り入れた経緯をもう少し詳しく教えてください。



さっきの「木・火・土・金・水」は、地球上は五元素で成立してるという考え方。君は時計を持ってるけども、それは金属とガラスでできてて、それも五元素でできてる。道教思想はよくできてて、「木」は日本だと酸素をだして綺麗なイメージがだけど、中国の道教では「木」は体内にアルゴリズムと計算時計を持っていて「すごく構造的だ」という。




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「タオ・インスタレーション」(2011)




それで「火」はエネルギーだから太陽、ガス、発電とかを意味する。このヴィデオ・カメラもバッテリーで動いているからエネルギーじゃないか。だから中国では「火」はすごく大事だと言われている。「火」は突発的で、爆発なんだよね。脳機能的では「火」はインスピレーション。さっきの「木」は構造だから、そういうのを生み出さないということなんだ。



あと「土」は、すごく栄養分が沢山あって生命を育てる素になる、母なる大地なんだ。それは教育も含んでいて、学校みたいに教育機関で人を育てるのが「土」の役目じゃないか。確かに学校とか図書館とかアーカイブなんてのは人を育てるよな。育たないと次が出てこないから。アーカイブとかネットワークは一種のコンテンツになるものを一生懸命育てる。裏をかえせば「土」はアーティストに作品を作れって言ってるんだよ。



「金」は金属のことで、鉄が鉄鉱石からできるように、石が変幻自在に化けたもの。このカメラでも元を辿れば、石が全部化けたもんじゃないか。外側はプラスティック、中身は全部チタンとかでできてる。ヴィデオ・テープは鉄粉を塗ってるだけだからね。そういうものが変化するのが「金」の強さだと。




最後の「水」は中国の五行学で言うと、情報のことなんだ。確かに情報は流れているじゃないか。



そういったことが書物に書いてあるから中国四千年の歴史はすごいなぁと思った。それで5つの元素から発想して、何か構築していけば一つになると思って、インスタレーション作品でも「水」、つまり情報を大事にしたり、「火」の要素を組み合わせていくってことをやってきた。



そういう思想をビル・ヴィオラに一生懸命話をしたんだ。そしたら、あいつ納得したんじゃないかな。でもあいつ極端だから、いきなり火をもってきて、こっちのスクリーンで水をポンってもってきたりするでも、そういう東洋思想が、あいつが日本にいる間に、頭に入力されたと思う。俺はそれをちょっと切り口を変えて、本当の東アジアの立場に立って、その5つの元素の面白さを作品にどうやって面白く組み合わせていくかを考えてる。



『MY LIFE』を作ってもう36年目だけども、国内では中川素子さんや、フランスではジャン=ポール・ファルジェといった人が評価してくれてた。




img_nakajima004_rangitoto_1988

「ランギトート」(1988)




「死ぬ」ということに対してもっと目を向けてほしい



──観客にどのように作品を見てもらいたいですか?



観客が自分の人生をどういう風に生きるかっていうのを考えて欲しいね。それがひとつ『MY LIFE』という作品の方向性。例えば、ホーム・ヴィデオはアルバムみたいにいっぱい映像が残る。でも、それを作品化する人はなかなかいなくて、どんどん溜まってるだけ。その映像をどういう風に自分の「生きた」証拠にするかというと、「生きた」という言葉だけじゃダメで、「死んだ」っていうのが片方にないとね。



皆、「生きた」ってことしか撮らないんだよ。「骨が燃える」とか「死体が横たわってる」という「死んだ」っていうのは撮らない。「死んだ」ことを撮ることによって、「生きた」ということが立ち上がってくるじゃないか。皆、脳の構造はそうなってるのにさ、なかなかその「死んだ」っていう方向に向かわないんだな。



ニューヨークで『MY LIFE』を上映しても、「もうちょっと『生きた』作品を持って来い」と言うんだ。プラグマティズムの、「人生今しかない」って人達だから、「『死んだ』ってのがないと意味がない」って言ってもよくわかんない。それはアメリカとの思想の違いだよ。ところが、フランスやベルギーといったヨーロッパの伝統のある場所の人は、「死んだ」ってことに対してかなり理解するんだよね。




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中嶋興 ヴィデオ・インスタレーションの様子



プラスティックでできた骸骨の骨をいっぱい持っていって、インスタレーション作品の周りに石と一緒に敷き詰めて、映像を流したことがあるんだ。そしたら黒人がいっぱい見に来てえらく喜んだ。その骨をつかんでさ、「これどういう関係があるんだ」ってさ、すごく感激してくれた。だから、「死ぬ」っていうことに対してもうちょっと日本人が目をむけてくれればいいなって思う。



カンヌやベルリン映画祭じゃなくても、カナダの映画祭でもどこでもいいんだけど、ヴィデオ・アーティストが作った作品が映画祭に通用するかってのをちょっと試してみたいね。うまくいかなかったら、短編作品としてばらして公開すりゃ、いいんだから。



[「キカイデミルコト -日本のヴィデオアートの先駆者たち-」(2012)インタビューから採録 インタビュー:瀧健太郎(ヴィデオアーティスト)、録音:大江直哉(ビデオアートセンター東京)、書き起し協力=渡邉由紘]












中嶋興 Ko NAKAJIMA



1941年熊本生まれ。九州より上京し60年代より映画技術を学びながら、実験的なアニメーションなどを手掛ける。70年よりポータブルのヴィデオ・カメラを購入し、グループ「ビデオアース東京」を結成。ヴィデオを個人の記録メディアとして、また生命や思想な表現を行う媒体として捉え、ユニークな視点でパフォーマンスやドキュメンタリー、インスタレーションなど広い範囲での活動を行う。『MY LIFE』(1976-)のシリーズは、ビル・ヴィオラの作品『ナント・トリプティック』(1992)など影響を与えたとされるなど、世界的に評価が高く、近年は仏クレルモンフェラ「VideoFormes」で特集が組まれ、また『ランギトート』(1988)を制作したニュージーランドを再訪し、大規模なインスタレーション展示を行っている



中嶋興ウェブサイト http://www.age.cc/~ko-ko-ko/blog/










中嶋興-ヴィデオ万物流転-

Ko NAKAJIMA’s Video Vicissitudes

2014年10月10日(金)・17日(金)

会場:渋谷アップリンク・ファクトリー



19:00開場/19:30開演/21:30終演

料金:一般1,500円/学生1,000円




【両日とも中嶋興とゲストによる対談あり】

10月10日(金)

Vol.1:メディアの精製と流転 Generation and Vicissitude of Media

ゲスト:クリストフ・シャルル(メディアアーティスト)

10月17日(金)

Vol.2:ヴィデオの陰陽五行 5th Elements of Video Art

ゲスト:上崎千(慶應義塾大学アート・センター)



主催:アップリンク、ビデオアートセンター東京

助成:アーツカウンシル東京

ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/event/2014/31249








中嶋ギャラリー


中嶋興 リソグラフや写真を中心にした平面作品の展示

2014年10月1日(水)~10月20日(月)

会場:渋谷アップリンク・ギャラリー



10:00-22:00

入場無料

http://www.uplink.co.jp/gallery/2014/31652




▼中島興:ヴィデオ万物流転 Ko NAKAJIMA"Video Vicissitudes" trailer


[youtube:XFI1-yd7kOA]

パレスチナのヒップホップ・グループDAM語る「7月のガザ空爆はリリックにするにはまだ早過ぎる」

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2014年10月6日、HMV record shop 渋谷にて、来日中のDAMのメンバー、マフムード・ジュレイリ(右)、スヘール・ナッファール(左)



パレスチナ史上初のヒップホップ・グループ、DAMが初の来日公演が10月7日(火)渋谷WWWを皮切りに行なわれる。自身もパレスチナにルーツを持つジャッキー・リーム・サッローム監督が、パレスチナのヒップホップ・ムーブメントを追ったドキュメンタリー映画『自由と壁とヒップホップ』により、日本でも一躍その存在を知らしめた彼ら。MotionGalleryでの来日ツアープロジェクトで2,169,500円を集め、ジャパン・ツアーが実現した。



今回は残念ながらメンバーのターメル・ナッファールが急病により来日ができなくなってしまったため、スヘール・ナッファール、マフムード・ジュレイリの2MCでのパフォーマンスとなる。ツアー開催にあたり、マフムード・ジュレイリに現地の状況について、そして自身の表現について聞いた。



なお、ツアー終了後の10月11日(日)には代官山「山羊に、聞く?」にてフェアウェル・パーティーも開催されることが決定、彼らと直接接することができる貴重な機会となっている。



また、現在『自由と壁とヒップホップ』を上映中の渋谷アップリンクでは、10月12日(日)12:50の回上映後にDAM、ジャッキー・リーム・サッローム監督を迎えてのトークショーも行われる。



リアリティはいつも僕らの音楽に影響を与える




──『自由と壁とヒップホップ』で描かれているように、あなたがたはイスラエルの街リッダを拠点とし、パレスチナ人でありながらイスラエルのパスポートを持ち、ガザでライヴすることはできない、という特殊な環境に置かれています。7月8日から8月26日の停戦合意まで続いたイスラエルとパレスチナ自治区ガザの大規模な戦闘の間、どんなことを考えていましたか?



世界の人々がこの戦闘を監視し、人々がガザについて話すことはできたり、メディアを見たりすることはできても、ガザに住む150万のパレスチナ人の状況を現実に変えることができないでいます。



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映画『自由と壁とヒップホップ』より



──今回のガザでの出来事は、これからのあなたがたのリリックのテーマにどう影響するでしょうか?



リアリティはいつも僕らの音楽に影響を与えます。1948年にイギリスによる委任統治が終了し、イスラエルが誕生したときから始まった「争い」について、いつも語ってきました。僕らはアーティストとして、愛についてやダンスについて歌いたいときでも、ドラッグや犯罪、悪事が蔓延するリッドの暮らしを曲にしてきました。



でも、先日の空爆についてはあまり語りたくありません。2008年や2012年の空爆については、僕らは曲にしました。でも今回の出来事はもはや歌にできない。それは……多くの血が流れ、多くの子どもが殺されたのを目の当たりにして、僕の音楽に何ができるだろう、と思ったからです。そう考えることはたぶん間違いだと思います。このまま停戦の状態が続いてほしいと願っていますが、根本的な解決がされていないので、また戦闘は起こるでしょう。



僕たちはパレスチナの現実を、音楽を通して伝えたいと活動してきました。音楽は僕らが生きているこの世界で起こっていることを説明するための手段です。全ての人がそれぞれの方法で何か行動を起こしてほしい。それこそが、これからのイスラエルとパレスチナの戦争を止める方法だと思います。




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映画『自由と壁とヒップホップ』より






──パレスチナを描いた映画といえば、日本では2015年にアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたハニ・アブ・アサド監督の『オマール、最後の選択』が公開されます。この作品はご覧になりましたか?



はい、彼とはとてもよい友だちなんです。彼のドキュメンタリー映画『Ford Transit』(2002)では僕らの音楽が使われました。『オマール』は素晴らしい作品です。実は『オマール』でもDAMの音楽が使われる予定だったのですが、最終的に監督の判断で本編には使用されませんでした。





──『自由と壁とヒップホップ』は、若い人々にとってパレスチナ、イスラエルの状況をわかりやすく伝える作品だと思います。



そうですね、僕らは普段の言葉で語っているから。音楽は人をグローバルに繋ぐことができます。パレスチナの映画シーンは、全体として人々を繋ぐ感情を伝える方向に変わってきていると感じています。CNNやBBCが報道するようなやり方では音楽もカルチャーも見えません。しかし、映画や音楽は人々がどう生きているか、それを伝えることができます。それが状況を変えるための最も強い方法なのです。



(2014年10月6日、渋谷東急インにて インタビュー・文:駒井憲嗣)












DAM プロフィール



パレスチナ最初のHIPHOPグループであり、アラビア語ラップの先駆者。2パックなどアメリカのHIPHOPアーティストに憧れ、1990年代の後半からグループを結成し、歌い始める。2000年に占領地で勃発した第2次インティファーダ(イスラエルの支配に抵抗する民衆蜂起)に触発されて制作した「誰がテロリスト?(Who's the terrorist?)」をネット公開したところ、たちまち100万回以上のダウンロードを記録し、DAMの名前はまたたく間に中東の若者のあいだに浸透した。彼らは世界各地で公演を行う傍ら、故郷のリッダで、近郊の集落もふくめたアラブ系の若者たちや、イスラエルのパレスチナ人に閉ざされているチャンスや教育を与えるため活動。地域社会におけるリーダーの役割も引き受けている。 今年8月、セカンド・アルバム『DABKE ON THE MOON』の日本盤をTuff Beatsよりリリース。

公式HP:http://www.damrap.com











【関連記事】

アラブ人といえば民族紛争というステレオタイプに挑戦、パレスチナのヒップホップ誕生の瞬間を活写する:ジャッキー・リーム・サッローム監督インタビュー(2013-12-13)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4059/

パレスチナ初のヒップホップ・グループDAM来日招聘クラウドファンティング(2014-05-21)

http://www.webdice.jp/dice/detail/4208/
















DAM Japan Tour 2014



2014年10月7日(火)渋谷WWW

http://www-shibuya.jp/schedule/1410/005539.html

2014年10月8日(水)大阪CONPASS

http://www.conpass.jp/5642.html

2014年10月9日(木)京都METRO

http://www.metro.ne.jp/schedule/2014/10/09/index.html

2014年10月10日(金)横浜Thumbs Up

http://stovesyokohama.com/thumbsup/live201410_1-15.html



主催:シグロ

企画:シグロ/Tuff Beats/LIVIZM

制作:LIVIZM











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映画『自由と壁とヒップホップ』

渋谷アップリンクにて上映中



10月12日(日)12:50の回上映後トークショーあり!

ゲスト:DAM、ジャッキー・リーム・サッローム監督


http://www.uplink.co.jp/movie/2014/22701



監督:ジャッキー・リーム・サッローム

製作:ラムズィ・アラージ、ジャッキー・リーム・サッローム、ワリード・ザイタル

編集:ジャッキー・リーム・サッローム、ワリード・ザイタル

ナレーション:スヘール・ナッファール(DAM)
出演:DAM、マフムード・シャラビ、PR、ARAPEYAT、アビール・ズィナーティ

2008年/パレスチナ・アメリカ/デジタル/カラー/アラビア語・英語・ヘブライ語/86分

字幕翻訳:吉田ひなこ

字幕監修:田浪亜央江

配給:シグロ

宣伝:スリーピン、シグロ




公式HP:http://www.cine.co.jp/slingshots_hiphop/

公式Facebook:https://www.facebook.com/slingshotshiphop

公式Twitter:https://twitter.com/slingshothiphop













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映画『オマール、最後の選択』

2015年公開決定




占領下のパレスチナに暮らす若者たちの一筋縄ではいかない友情や恋、そして、死んで英雄になるか、裏切り者として生きるのかという究極の選択を迫られ苦悩する青年オマールの状況を、切実に、サスペンスフルに描く。監督は、自爆攻撃へ向かう若者たちを描き、2006年ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞、2006年アカデミー賞外国語部門にノミネートされた『パラダイス・ナウ』のハニ・アブ・アサド。

アカデミー賞外国語映画部門(パレスチナ代表)ノミネート

カンヌ国際映画祭ある視点部門 審査員賞受賞



監督・脚本・製作:ハニ・アブ・アサド

撮影:エハブ・アッサル

編集:マーティン・ブリンクラー、イヤス・サルマン

出演:アダム・バクリ、ワリード・ズエイター、リーム・リューバニ、サメール・ビシャラット、エヤド・ホーラーニ ほか

2013年/パレスチナ/アラビア語・ヘブライ語/カラー/ドルビーデジタルSRD 5.1/スコープサイズ/DCP/97分






▼映画『自由と壁とヒップホップ』予告編

[youtube:4lml2aE74iI]





▼映画『オマール、最後の選択』海外版予告編

[youtube:WJn7vCy9M6Y]






現代美術や映画で亜流として培われてきた“ヴィデオ”という複製芸術

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「 交換可能都市」瀧健太郎(2002)


11月7日と14日の2夜にわたり渋谷アップリンク・ファクトリーで、ふたりのヴィデオ・アーティストの上映イベント「ヴィデオ:コラージュ/モンタージュ 瀧健太郎×西山修平」が開催される。映像が氾濫している現代の社会において、ヴィデオとは果たして何かを問いながら、世界を映像によって切り刻み続けた瀧さんと西山さん。このイベントでは彼らの軌跡を追いつつ、ヴィデオによるコラージュ/モンタージュという視点で、情報メディア社会を読み解き、空白の美術史・映像史を問いかける。

開催に先駆け、webDICEでは恵比寿映像祭の多田かおりさんによるインタビューを掲載する。



瀧作品はパズル、西山作品はシュレッダー



──今回の特集上映には、「コラージュ」と「モンタージュ」というキーワードがありますが、おふたりはどのようにこれらの言葉をとらえていらっしゃるのでしょうか?



瀧:ヴィデオアートは、映像ですが直線的な物語性のある「映画」でもないし、支持体が電子メディアなのでこれまでの「美術」とも違うので、僕と西山さんのふたりで特集やるなら、ふたりともヴィデオを使っているので「ヴィデオ性」なるものを際立たせるためにわざと映画や美術のキーワードをもってきました。僕自身は1998年からの作品を見せますが、はじめはニュース映像とかのテレビ映像、身体、日記的な映像を使って、それでコラージュをしているということに最近に気付いたんです。好きなんですかね?



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瀧健太郎


西山:「コラージュ」も「モンタージュ」も美術と映画の用語ですが、目新しい概念ではなく、美術や映画の分野だけでなく日常でも使用され、ヴィデオの表現でもごく当たり前に行われていますが、あえてヴィデオによって行われる「コラージュ」と「モンタージュ」として考え直すことによって、ヴィデオの芸術の特異性が見えてくるのではと考え、あえてこの概念を挙げたと言えます。



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西山修平


──テーマとしては瀧さんが「コラージュ」で西山さんが「モンタージュ」ということですか?



瀧:そうですね。物の本によれば、「コラージュ」はフランス語で「貼り付け、糊付けする」、「モンタージュ」は「組み立て、据え置く」という意味から来ているようです。映画ならあるシーンを前後の映像の時間軸に据え置くのが「モンタージュ」、それと「コラージュ」は似てるんですが、二つ以上のものを空間的に配置するという風に捉えて、今回は何となく瀧作品を「コラージュ」として、西山さんの作品を「モンタージュ」としてみたらどうなるかな、と。両方に「ヴィデオ」をくっ付けてみて。サブタイトルで瀧をパズル、西山作品の特徴をシュレッダーとしてみました。それぞれの違いが対比的に見えればいいですね。



作品が社会で批評性を持つことを目指す




──コラージュは視覚芸術における平面上に、モンタージュは映画における時間軸において共にイメージを対立させる手法として出てきた用語ですね。さきほど仰ったとおり映画でもない美術でもないヴィデオアートのなかで両方の用語を使って第三の場を作るということかなと理解しましたが。



瀧:ヴィデオアートにおける作り手は、作品を作りながら、発表や批評といった状況そのものも作らないといけないんです。とくに日本の場合そうだと思います。



──「モンタージュ」はエイゼンシュテインが提唱し、「コラージュ」はキュビスムから発生してダダイズムでも用いられた方法ですが、ともに作品が社会で批評性を持つことを目指しています。そういう社会性を意図された試みの場として作品を作られていますか?



西山:日常のものを引用してくる「コラージュ」や、異なる要素をぶつける「モンタージュ」により新たな価値を生み出そうとするといった社会性が制作のベースにあると思いますが、今回はクルト・シュヴィッタース、ジガ・ヴェルトフをキーワードとして引用してみたんですね。



シュヴィッタースやヴェルトフと比較できるのは、ヴィデオとそれらの類似性があるんではないか、そういうヴィデオの特異性が、現代美術や映画で亜流として培われてきたことと僕らの作品と関連づけられたらいいかなと思いました。



瀧:シュヴィッタースは、初期に平面上に封筒や新聞などの切れ端を貼り付けていたのですが、だんだんとはみ出して立体的になって、「メルツバウ」の様になっていくんですけど、それと自分のヴィデオ作品もモニターというフレームから出て、空間を使い始めてゆき、かなり参考にしたところがありました。「100年を越えて、同じような気持ちなのかな」とか勝手に思ったりして。



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「ビルト・ミュル#8」瀧健太郎(ヴィデオインスタレーション, 2013)



ダダにしても、当時は新聞や雑誌、広告、看板といったイメージが生活の周りに溢れてきはじめていたということ、表現・創作の素材が絵具やキャンバスに限らず、詩やパフォーマンス、ベルリンのダダなんかは銃をぶっぱなすこともやっていて、自分がヴィデオで創るときもどんなものでも素材になるという気持ちがあります。



西山:瀧さんの作品は、映像をリサイクルしてるよね。切り捨てるのではなく、循環させているような……。



瀧:ヴィデオは時間要素があるので、繰り返したり、あるいは空間的にもトリミングする。つまり、あるシーンの一部分だけを切り取ったりするのは、鋏で写真をチョキチョキ切る感覚と似ています。それが楽しい作業でもあります。



──瀧さんのインスタレーションからは、そのようなイメージが切り貼りされ増殖していく印象を受けます。ヴィデオが増殖して空間に寄生してるみたいですね。またシングルチャンネル・ヴィデオを制作されるさいも同じ作り方をなさっているということですね。



瀧:もってきた映像を、完全に読み違えて、勘違いだらけの空間を作るというのがありますね。それを音楽的に配置するか、身体を使って抑圧をテーマにやるか、日記的にやるかなどそれぞれの作品で少しずつ違うとは思いますが。既存の映画的な手法とは、まったく違う方法をどうやるかということに心血を注いでいる感じです。



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「タングラム」瀧健太郎(2001)


創ることと、考えることが同時に進行していく




──ヴェルトフを引用したことについてもう少し伺ってもいいですか?



西山:ヴェルトフの『カメラを持つ男』はすごい作品ですが、また同じ様な作品を作ろうと思っても作れないだろうし、同じテーマであの作品を越える作品もその後ないと言えます。彼はキノ・グラース(映画眼)という概念で、単純に言うと、映画カメラのレンズと人間の目を同一視していて、見る側と見られる側との距離や関係性が、近づいたり、反転したりして、映像を見ることと現実を見ることがもっと密接に結びついていると思います。



その点、エイゼンシュテインの方は、映像に映っているイメージ同士がぶつかるといった、見られる対象と見る者の関係性がくっきり分かれているという点で違っていて、ヴェルトフの方がもっと複雑なものとして現れています。その関係におけるモンタージュが、ヴィデオのモンタージュと近いと思っていて、自分の作品でもそれを意識しています。



──西山さんの過去の作品では、一つの画面の中に帯状の異なる時間が同居しているものがありましたね。 あるイメージを見ることとそれを操作することが同時に現れている映像、という点で、今仰ったことと近いように思います。



西山:ヴェルトフもシュヴィッタースも未だに批評的に分析して、語ることができない作家たちだと思います。増殖していくような、創ることによって思想が展開している感じが、今のヴィデオの作り方に似ているかも知れない。創ることと、考えることが同時に進行していくような。



瀧:プロットとか無く、着地点もなく作っていくような。



──ブリコラージュということですか?試行錯誤を重ねていくうちにできるということですか?



瀧:そうですね。有り合わせのものでやる、アッサンブラージュとも言えますが。



西山:ヴィデオだと「フィードバック」と言えると思います。システムの中に入っていく感覚だと思います。ヴェルトフだと映画のシステムの中に入っていくし、シュヴィッタースだと空間の中に入っていく、自分が分裂していくのかも知れませんが、そういう感覚に近いんだと思います。



──人間が半分、装置になって作っていく感じですか?



西山:危険だよね。



瀧:ヴィデオ人間になるんだものね。だから僕なんかはパズル的に謎解きしながら作るという……以前は音楽的な快楽性に決着をつけるところ、オチを付けてしまうみたいなのがあったから。いいも悪いもなくそのままの状態をどうキープしていくか、仮の結論として定着させるというか。



西山:観客を困惑させるような?



瀧:作者ははじめにそのヴィデオのシステムに入り込んで、ヴィデオの記号にも信号にも翻弄される役割なんです。多少整理をするけどどうやって、その状態のまま見せるかということです。




現代美術の文脈で映像を作る人たちとの違い




──現代美術の文脈におけるヴィデオアートをどう考えますか?ヴィデオアートを歴史的にみると、その時々の制作体制に支えられていた部分も大きいと思います。技術と市場の条件下でどういう風にヴィデオアートがアート足り得ると考えられますか?



瀧:上映用のシングルチャンネル・ヴィデオは画面というフレームに納まっているので、ひょっとしたら市場に出やすいのかも知れません。一方で現代美術の中では空間を暗くしてダーク・キューブにして見せるという方法がここ20年間くらいで行われてます。それとは違って屋外で夜間に投影するような実験もあり、実験的な作品はいつも異形のものとして見え、なかなか受け入れられないですね。




先ほどのヴィデオ・システムに入り込んで出来上がる作品はアウトプットがどうなるかわからない場合があって、それが市場に向けて作ることとは相容れないですね。そういう意味で、当初から売るためのアートを作っている作家を見ると苦しそうだし。先ほど挙げた100年ほど前の先達、ヴェルトフやシュヴィッタースにしても市場がそれほど成熟していなかったにせよ、はじめからそれを意識して作ったとは思えない。



西山:テクノロジーとヴィデオの結びつきがあると思いますが、皆が映像作品を作れるようになって、現代美術作家との差異化がないと思われるかも知れない。でも「ヴィデオ」っていうと語感的に古臭いと思われるかも知れないけど、映像作品のメディアであるヴィデオというものに対する意識の有無に関しては、現代美術の文脈で映像を作る人たちと明確な違いがあると思います。例えば、現代美術での映像作品は、絵画というメディアの延長上で映像を、色を見せるだけに使っていたり、スケールに関しても大きければ良くて、小さいとダメというような感性でやっているような気がします。僕らはもっと家庭用のTVモニターで見せても成立すると思って作っている。そこには、ヴィデオというメディアに対する感性、作品に対する感性の根本的な違いがあるように思います。




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「瞬く間に」西山修平(2013)


現代は人生の時間のタイム・コラージュの時代




──現代の多様なメディア状況で、おふたりがとくに意識されていることとは何でしょうか?



西山:僕の定義だとヴィデオは、電子信号の映像と音声というメディアをどう扱うか、なんです。ヴィデオが、例えばアナログであるだとか、テレビ用のメディアだとか、コンピューター上のデジタル情報になって近くで見たり、インターネットで遠隔地に飛ばして観たり、4Kになって高解像度になろうが、音声情報と映像情報の組み合わせであることには変わりない。だからすべてをヴィデオというメディアとして捉えることができると思っている。



瀧:ヴィデオは複製芸術で、ベンヤミンが言うアウラの消失したメディア表現だから、資本と交換可能な現代美術の文脈において、ヴィデオは作品足り得ないのかな?わからないけど、そういった状況を観客や作者をどう結び付けなおすか、という確認作業なのかも知れません。



──先ほど仰っていたヴィデオの場のような……?



瀧:そうですね。日常生活の時間が僕らの作品以上に、細切れにされた時間を生かされていて、そのことはもっと誰しもが考えなければいけない問題だと思いますけどね。



西山:そうそう、僕たちのように映像の時間のことをすごく考えている人が変わっているではなくて、映像は現実にすごく近いから、すべての人に共通の問題として考えてもらえたら。



瀧:ナム・ジュン・パイクに「タイム・コラージュ」という本がありますが、現代はまさに人生の時間のタイム・コラージュの時代。一本の連なった人生を歩んでいる人が都市生活者に果たしているのか。だったら皆細切れになった時間を切り貼りして、ランダムアクセスとして生きる、パイクの言うタイム・コラージュとしてそこから何かを導き出すようなことが必要になってるんじゃないか、と思います。



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「1 / 100*100 タイムレスヴィデオ」(2013)西山修平



──オーディエンスについてはどう考えられますか?



瀧:映画にも、テレビにも、インターネットにも飽きてしまった観客がいたら、ヴィデオアートで得られるリアリティはあると思います。自分自身が1970年代に登場した頃のヴィデオアートの様々な問題にシンパシーを感じるところがあって、逆に先ほどの話ではないですが2000年代以降の作品にはあまり魅力を感じない。だからこそ僕らが尖がったことやらないとね。



西山:社会の状況に対して、僕たちは真剣に向き合おうとしているとは思いますが、たとえば美術や映画の作り手が市場に囚われ過ぎているのに対して、そうじゃないものを求めているオーディエンスが居たら、いいのかも知れません。





──今回の作品について話してもらっていいですか?



瀧:当初はヴィデオカメラを持って無く、当時VHSで録画した映像を部品にして作ったヴィデオ・コンポジションというのがあります。最近ヴィデオ・フッテージをアーカイヴ化してるので、そこから展開できるなと。90年代後半は技術的な制約があったのですが、今は音楽を指揮するようにヴィデオの交響楽が作れそうだなと思っています。ノイズを作曲するように。上映作品として今回はやりますが、ゆくゆくは空間的な作品にも応用できそうです。



西山:僕は映像と音声を全く別々に作りたいと思ったんです。通常は映像が先にあって音とか、音が先にあってそれに合わせた映像を作るということがあるんですが、それを別々に作ったらどうなるかというトライをしています。



瀧:チャンスオペレーション的なもの?



西山:いや、偶然的に異なる要素をくっつけるというのではなく、自分が言いたいことを伝えるために、自分を3つに分けて、違う方法によって一つのことが語れるかどうか。それがもし可能となれば何かを語るに際して、雄弁に語れるのではないか、と。映像はふつうの映像を使って、音声もふつうなんだけど、ずれてくる。混ざった時にどうなるか。やってみたらテキストも画面に入ってきて、偉そうなニコニコ動画みたいになってしまうんだけど、そういった新しい事をやろうとしています。



(聞き手・文:多田かおり[恵比寿映像祭、東京藝術大学映像研究科後期博士課程])










瀧健太郎 プロフィール



1973年大阪生まれ。文化庁派遣芸術家研修員)(2002)、ポーラ美術振興財団の研修員(2003)としてドイツでヴィデオ、メディア芸術について学ぶ。「アジアンアートビエンナーレ2009」(台湾国立美術館)、「Video Life」(2011, StPaulstGallery, NZ)、「黄金町バザール2011」にて屋外での映像投影、「Les Instant Video:50 ANS D’ARTS VIDEO」(2013, Marseille)でのヴィデオアート誕生50周年展などに参加、またヴィデオアート先駆者の証言を集めたドキュメンタリー「キカイデミルコト」(2011)など啓蒙活動も行なう。

http://takiscope.jp/






西山修平 プロフィール



1976年、神奈川県鎌倉市生まれ。立命館大学文学部にて美術批評を専攻。アヴァンギャルドシネマ やヴィデオアートに影響され、1998年からヴィデオ、8mmフィルム、写真を用いて作品制作を開始。 シングルチャンネル、インスタレーション、パフォーマンス作品を制作。2007年から2008年までオー ストラリアに滞在し作品を制作し、シドニーにて個展を開催。2009年から東京を拠点に活動。2012 年は新宿ゴールデン街グリゼットにて個展、パリ・ポンピドゥーセンターにて上映。これまで欧米、ア ジア各国での映像フェスティバルにて作品が上映されている。

http://www.shuhei2480.net/











VIDEOREFLEXIVE Vol.3

ヴィデオ:コラージュ/モンタージュ

Video : Collage / Montage

特集:瀧健太郎・西山修平

2014年11月7日(金)・14日(金)

会場:渋谷アップリンク・ファクトリー



19:00開場/19:30上映(上映後トークショー)/21:30終演予定

料金:一般1,500円/学生1,000円




2014年11月7日(金)

vol.1 瀧健太郎 Kentaro TAKI Video Collage/Puzzling

ヴィデオ・コラージュ/パズル

※上映後、瀧健太郎×平本正宏(作曲家)とのトーク



2014年11月14日(金)

vol.2 西山修平 Shuhei NISHIYAMA Video Montage/Shredding

ヴィデオ・モンタージュ/シュレッダー

※上映後、西山修平×沢山遼(批評家)とのトーク



ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/event/2014/32391






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【同時開催】

瀧健太郎・西山修平ギャラリー展示

11月5日(水)~ 11月24日(月)

会場:渋谷アップリンク・ギャラリー



10:00-22:00

入場無料

主催:UPLINK ビデオアートセンター東京

助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)

http://www.uplink.co.jp/gallery/2014/32486





▼ヴィデオ:コラージュ/モンタージュ Video : Collage / Montage 瀧健太郎・西山修平

[youtube:XZTlavpSjig]

「まんがが描く『非』常識は生きていく上での本質」ひらのりょう×三浦直之対談

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渋谷アップリンクで「ひらのりょう まんがまつり」を開催するひらのりょう(左)、三浦直之(右)



アニメーション作家、ひらのりょうが12月13日(土)から19日(金)まで7日間連続の上映イベント「ひらのりょう まんがまつり」を渋谷アップリンクで開催する。



先日行われた新千歳空港国際アニメーション映画祭2014では国内グランプリを獲得、現在webマガジン「トーチ」で連載中の漫画『ファンタスティック・ワールド』では連載わずか4話目(もちろん!まだ単行本化されてません!)という異例の早さでメディア芸術祭マンガ部門審査員推薦作品となるなど、アニメーションだけでなく、漫画でも才能をいかんなく発揮しているひらの。



今回のイベントでは、しりあがり寿、長尾謙一郎、クリトリック・リスら多彩なゲストを迎え、ベスト盤的内容の上映と、紙芝居ライブなどのパフォーマンス・ライブによる2部構成で、彼のかわいさとグロテスクさを兼ね備えた世界観が表現される。


開催に先駆け、15日のゲストで、ひらの自身もファンだという劇団ロロ・主宰の三浦直之を迎え、同世代クリエイター2人の対談をお届けする。






母親にとっては全部が「まんが」



──イベントタイトルの「まんがまつり」。アニメーションではなく、「まんが」としたのには何か思い入れがあるんですか?



ひらのりょう(以下、ひらの):母がテレビのアニメも漫画本も全部に対して「まんが」って呼んでた記憶があって、母の使ってた「まんが」という言葉の曖昧さが僕の中に象徴的に残っていたんですよね。古くは、お笑いにも「漫画トリオ」(1960年代に人気を博した横山ノック・横山パンチ[上岡龍太郎]・横山フック[青芝フック]のトリオ漫才コンビ)がいたり、音楽も「コミックバンド」と呼ばれる人たちがいたり、「まんが」っていう言葉自体がジャンルレスで、幅広い意味合いの言葉に思えて、付けてみました。



──だから「漫画」ではなく「まんが」なんですね。



ひらの:「まんが」って常識を飛び越えた部分だと思うんです。「常識」というのが人間の理想の形だとして、でも生きていると理想通りにはなかなかならないじゃないですか。うまくいかないこともあるし、自分の行動が不条理な瞬間もすごくある。「非」常識っていうのは、そういう生きていく上での本質なのかなって思ったりするんですよね。僕の作品のテーマにも共通するところがあると思います。



──確かに、ひらのさんの世界観にもかなり常識を超えたファンタジックさを感じます。



ひらの:人間の行動が常識から外れちゃう瞬間って、すごく「まんが的」になると思うんです。人と出会って恋に落ちた瞬間、スパークしておかしな行動をするとかもそうだと思うし。そういう瞬間っていう意味も含め、「まんがまつり」はむき出しな場にできたらなと思っています。ゲストの方もむきだしの方たちをお呼びしておりますので。





ひらのりょう『ホリデイ』より

「ひらのりょう まんがまつり」上映作品『ホリデイ』


ひらの作品に感じるエロス



──ひらのさんは、7月に行われたロロの舞台公演『朝日を抱きしめてトゥナイト』にアニメーション作品を提供され、チラシビジュアルもひらのさんが担当されました。



ひらの:はい。ずっとファンで。2011年の『常夏』で初めて観て以来、ずっと通い続けていたので、オファーをいただいたときは本当に驚きました。



──三浦さんの作品には、共感する部分が多いそうですが。



ひらの:ロロの作品をずっと見てきて、三浦さんの作品にすごく影響を受けていると思うんですけど、肉体的な部分に関する考え方がすごく共感できるなぁと。



三浦直之(以下、三浦):それはどういう部分で?



ひらの:自分の作品でも河童の腕が取れたり、『パラダイス』では熊の鼻がなかったり、身体の一部が欠けるということに対する何かがあって。フェティッシュなのか恐怖なのか、まだ分からないでいるんですけど。




ひらのりょう『パラダイス』より

「ひらのりょう まんがまつり」上映作品『パラダイス』



三浦:たしかにそういう描写は僕の作品でもよく登場していますね。僕もひらのさんにシンパシーを感じるなぁと思うのは、男対女とか、人間対人間以外のなにか、という二項対立をさらに少しずらしている所ですかね。ぼくも「ボーイ・ミーツ・ガール」イコール「男と女」の話にはしたくないんですよ。「単純な二項対立をどう変にしていけるか」でいろんなことを考えています。ベタな話が基本的にはすごく好きではあるんですけど(笑)。



ひらの:僕もベタな話好きです(笑)。最初に演劇を初めて見た時、アニメーションを作る上ですごく勉強になると思って、それから積極的に見るようになったんです。舞台って削られた世界ですよね。背景があるわけでもないし、物語の中の時間・時空も自由。アニメーションに似ている部分があるなぁと思います。でも僕は時間の使い方という意味では、演劇ほど自由にできていないなぁと思っているんですけど。



三浦:そうかなぁ。ひらのさんの作品て別々の世界がふとしたことで繋がるってことがありますよね。『パラダイス』でもそうですけど。演劇の舞台ってセリフで場面をいくらでも転換できるんですよね。「海」って言えば海になるし、「宇宙」って言えば宇宙になる。同じ空間の中でいくらでも変えていける。演劇って、そういう自由度みたいなものとは相性がいいと思いますね。



──お互いの作風については、どういった印象ですか?



三浦:「走る」という動きがすごく好きで、ひらのさんのアニメーションには走るエモーションをすごく感じます。あと、水とか土だったりの質感のフェティッシュさだったり、物語の世界とキャラクターのバランスとか、すごくエロいなと思うんですよね。



ひらの:あはは(笑)。



三浦:おそらく、ひらのくんとはフェティッシュを感じるものがすごく近いんだと思います。





ひらのりょう『河童の腕』より

「ひらのりょう まんがまつり」上映作品『河童の腕』




──ひらのさんは三浦さんの作風についていかがですか?



ひらの:まず、かわいい(笑)。ただ、第一印象では「かわいいな」って思うんですけど、それだけじゃないですよね。パワフルでポップなキャラクターがいっぱい出てきて、ファンタジックでキラキラした世界なのかと思っていると、ぜんぜんかわいさに留まっていかなくて、そういう瞬間が舞台に何度もあるんですよね。そこがすごく好きな所です。僕自身も作品の中で成功させたい部分でもあります。




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三浦直之が脚本・演出を手がけるロロ「朝日を抱きしめてトゥナイト」(2014年)より 撮影:三上ナツコ





──集団で作る演劇と一人で作るアニメーションの世界はそれでも異なる部分が多いように感じますが。



三浦:僕も脚本の段階では一人で作るんですが、全部自分で確定しないといけないっていうのは怖いことですよね。演劇ってどんなに決めて詰めていっても、その通りにはならないんですよ。その事に安心するんです。



ひらの:ああ、分かります。自分で完成させることの恐怖はすごくありますね。



三浦:延々と作っていけるわけだからね。



ひらの:そうなんですよね。だんだん作品と向き合えなくなりますよね。アニメーションって最初から最後まで一人で作っているので、見ていて「作ってる人」自体がどうしても見えてきてしまうと思うんです。




ひらのりょう『ギター』より

「ひらのりょう まんがまつり」上映作品『ギター』





──「まんがまつり」でより裸にされるであろう、ひらのさんはいまどんな心境ですか?



ひらの:そうですね(笑)。ガチでぶつかりあったらジャンルは関係ないと思うので、いろいろ勉強させてもらえたらと思います。ごちゃまぜで何が起こるか分からない7日間になると思うので、それを楽しんでもらえたら。そのことが、自分のアニメーションにも通じている部分だと思うので、作品も含め、ぶちまけた世界観を感じてほしいですね。



三浦:ひらのさんの作品は、音にすごく気を遣ってますよね。劇場の音響で楽しめるのはいいなぁと思います。



ひらの:アニメーションは半分音ですからね。へたしたら絵よりこだわっているので。





三浦:最終日の紙芝居も気になります。



ひらの:実は僕、人前で話すのが本当に苦手で、足も震えるし、辛い部分も多いのですが、むき出しになるためがんばります。



三浦:え、それはなんか修行でやるの(笑)?




(取材・文:ヤマザキムツミ/石井雅之)










ひらのりょう プロフィール



1988年埼玉県春日部市生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科卒業。産み出す作品はポップでディープでビザール。文化人類学やフォークロアからサブカルチャーまで、自らの貪欲な触覚の導くままにモチーフを定め作品化を続ける。その発表形態もアニメーション、イラスト、マンガ、紙芝居、VJ、音楽、と多岐に渡り周囲を混乱させるが、その視点は常に身近な生活に根ざしており、ロマンスや人外の者が好物。

http://ryohirano.com/






三浦直之 プロフィール



1987年10月29日生まれ。宮城県出身。2009年、日本大学藝術学部演劇学科劇作コース在学中に『家族のこと、その他たくさんのこと』で王子小劇場「筆に覚えあり戯曲募集」に史上初入選。 同年、主宰としてロロを立ち上げ、以降全作品の脚本・演出を担当。 自身の摂取してきた様々なカルチャーへの純粋な思いを、情報過多なストーリーでさらに猥雑でハイスピードな演出で物語る。 俳優に役を貼り付け、キャラとメタとベタを混在させた登場人物が成立させる独特な世界観が特徴。2013年、初監督・脚本映画『ダンスナンバー 時をかける少女』がMOOSIC LAB 2013 準グランプリほか3冠を達成したほか、ドラマ脚本提供、MV監督、ワークショップ講師なド幅広く活動している。

http://lolowebsite.sub.jp/












【関連記事】



歴史をふまえてアイデンティティと向き合っていくこと ひらのりょうが新作『パラダイス』で見つめる景色(2014-01-08)



http://www.webdice.jp/dice/detail/4073/











ひらのりょう まんがまつり

2014年12月13日(土)~12月19日(金)

渋谷アップリンク




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第一夜 オープニングトーク「はじまりのごあいさつ」

ゲスト:飛永翼(ラバーガール)


2014年12月13日(土)19:50開場 20:00上映 終映後トークショー

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33713




第二夜 「かっこいい人!!まつり」

ゲスト:井上涼、クリトリック・リス


2014年12月14日(日)19:15開場 19:30上映 終映後パフォーマンスLIVE

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33717



第三夜 「ミュージックビデオの日」

ゲスト:三浦直之

★三浦さんがトークゲストで登壇するこの日は、

三浦直之監督作品・東京カランコロンMV「恋のマシンガン」の上映も決定!


2014年12月15日(月)19:50開場 20:00上映 終映後トークショー

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33720





第四夜 「どうそうかい!」

ゲスト:谷口菜津子、沼田友


2014年12月16日(火)19:50開場 20:00上映 終映後トークショー

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33722



第五夜「漫画の日」

ゲスト:関谷武裕、長尾謙一郎、しりあがり寿


2014年12月17日(水)19:50開場 20:00上映 終映後トークショー

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33724



第六夜「ぼくたちの好きな あのうごき」

ゲスト:ぬQ


2014年12月18日(木)19:50開場 20:00上映 終映後トークショー

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33726



最終夜「おんがくとかみしばい」

ゲスト:ゴンドウトモヒコ、今泉仁誠(Imaizumi Jinsei)[ギター]


2014年12月19日(金)19:15開場 19:30上映 終映後パフォーマンスLIVE

http://www.uplink.co.jp/event/2014/33728







「ひらのりょう まんがまつり」関連展示

2014年12月3日(水)~12月19日(金)渋谷アップリンク・ギャラリー



「ひらのりょう まんがまつり」に先駆け、作品関連オブジェ、ぬいぐるみ等を展示

10:00~22:00

入場無料

http://www.uplink.co.jp/gallery/2014/33730











初日に10名様をご招待!




「ひらのりょう まんがまつり」2014年12月13日(土)の第一夜 オープニングトーク「はじまりのごあいさつ」に10名様をご招待いたします。




【応募方法】


メールにてご応募ください。



■送付先


webDICE編集部

info@webdice.jp



■件名を「12/13 ひらのりょう」としてください



■本文に下記の項目を明記してください


(1)お名前(フリガナ必須) (2)電話番号 (3)メールアドレス (4)ご職業 (5)性別 (6)応募の理由



■応募締切:2014年12月10日(水)午前10:00


※当選者の方には、2014年12月10日(水)中にメールにてご連絡差し上げます。




▼ひらのりょう『パラダイス』予告編

[youtube:yh86GdB9aME]


▼ロロvol.10『朝日を抱きしめてトゥナイト』予告


[youtube:Qsm7KVb9pVk]

▼東京カランコロン「恋のマシンガン」ミュージック・ビデオ


[youtube:pU7PkZZ5tjo]

サハラ青衣の遊牧民が奏でる革命の音楽、バンド「トゥーマスト」インタビュー

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サハラ砂漠の遊牧民、トゥアレグ族のバンド「トゥーマスト」。支配と反乱の歴史を塗り替えるために闘う彼らを追ったドキュメンタリー映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』が渋谷アップリンクにて2015年2月28日(土)より公開される。公開に先駆けて2014年12月16日(火) にはピーター・バラカン氏、デコート豊崎アリサ氏、2015年1月16日(金)にはサラーム海上氏(よろずエキゾ風物ライター)、粕谷雄一氏(金沢大学教授)を迎えてのトークイベントの開催も決定している。webDICEでは「トゥーマスト」ムーサ・アグ・ケイナ氏のインタビューを掲載する。













「私は主義主張のために、革命のために音楽をやっているんです」

ムーサ・アグ・ケイナ、インタビュー



トゥアレグ族とは、ベルベル人系の遊牧民族である。サハラ砂漠を遊牧していたが、20世紀初めにフランスによる植民地政策が始まり、60年代にはアルジェリア、ニジェール、リビア、マリ、プルキナファソの5つの国に分散した。また、ニジェールは世界有数のウランの産地でもあり、トゥアレグ人の居住地区で発掘されるウランの領有権問題(ニジェールのウランは仏アレバ社が権益を保有し、日本にも多く輸出されている)や放射能汚染が問題となっている。



青衣(あおごろも)の民としても知られる彼らは、一般のイスラム世界とは逆に、男性が衣装で顔や身体を隠し、女性は肌を露出していることもある。また、一夫一婦制で、女性が夫を選ぶ権利を持つ女系社会である。



本作の主人公であるトゥーマストの中心人物、ムーサ・アグ・ケイナは、80年代にリビア、カダフィ大佐の元で兵士としての訓練を受け、そこで西洋の文化や音楽に触れたことでギターを手にし、銃ではなく音楽で世界を変えるための戦いをすると決意したという。政治難民として20年前にフランスに移住したという彼に、パリの自宅で話を聞いた。



映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』


映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

「トゥーマスト」ムーサ・アグ・ケイナ






トゥアレグ社会での階級とは部族のようなもので、すべての階級は平等。そしてイスラム教ではあるが、最も崇めているものは"自然"である。



トゥアレグ族の正確な人口は誰も知りません。遊牧民で、身分証明書も出生証明もないですから。アルジェリア、リビア、ニジェール、マリ、プルキナファソにいるトゥアレグを合わせると250万人くらいいるんじゃないでしょうか?砂漠は広いから、人口密度はすごく少ないですけどね。



映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

トゥアレグ族が住むサハラ砂漠西部



トゥアレグの社会は、大統領制とか民主主義のシステムではなく、昔ながらの家長システムです。家長、その上に酋長、さらにその上にも長がいます。長はだいたい年寄なんですが、死んだら息子が継ぐのではなく、よそから知性のある人を連れてくることになっています。



カーストがありますが、インドのカーストとは違い、部族のようなもので、すべてのカーストは平等。トゥアレグ族というのは、元々同じ母から三人の兄弟が生まれ、そこから派生したものだ、という神話のようなものがあります。母系社会なのです。



宗教に関しては、イスラム教ではありますが、礼拝などの義務はありません。でも、トゥアレグが最も崇めるのは、自然です。砂漠、太陽、植物、どれも何物にも代えがたい大切なものです。そして、トゥアレグにとって一番重要なのは、自由であること。結婚に関しても、家族同士のしがらみよりも、愛が重要。"愛があれば幸せになれる"という考え方なんです。



家族愛も同じです。遊牧民ですから日々砂漠を移動するわけですが、子どもが大きくなって結婚して子供を持ち、独立して一緒に移動しなくなったとしても、「テントが離れても心は近く」という格言があるように、心はいつも近くにあります。私は今パリにいて、兄はサハラにいますが、心はいつも一緒です、私の心はいつでもサハラにあります。パリは必要があるから住んでいるけど、好きではないです。現在、フランス国内にトゥアレグは80人くらいいるけれど、来てもすぐに砂漠に帰ってしまう。街の喧騒がストレスになるんです。あくせくするよりも、日々のゴハンを食べられれば満足、というのがトゥアレグのメンタリティだから、都会には合わないんでしょうね。




映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』より






トゥアレグの言葉で砂漠を指す言葉は「無」を意味する。砂漠は無であり、全てである。



ニジェールは世界でも有数のウラン産出国です。そこに、フランスのアレバが入ってきた。採掘権の問題はもちろんですが、放射能汚染による被害も深刻です。古くからのトゥアレグの言い伝えで、直接的に放射能汚染のことを言っているわけではないけど、「土地に手を加えると人間に影響がある」というような言い伝えがあります。「土地は人のものではない。自分たちが土地に属しているんだ」というように、人間は自然の一部なんだと教えられてきました。



例えば、木を理由なく切ってはいけませんし、土は人間と同じく生きものだと思っています。木や植物は人間と同等。もちろん土も同じ。



砂漠はトゥアレグにとって全てです。家族であり、祖先であり、自由です。砂漠が僕を作ったと思っている。血肉です。砂漠は生き物です。「サハラ」というのはアラブ人の言葉で、我々トゥアレグは「ティネリ」と言います。ティネリとは「無」のことです。砂漠は無であり、全てなのです。フランスの2.5倍もの広さがあり、昼は暑くて夜はあまりに寒い。なにも目印もなく、先へ進むのも、トゥアレグのガイドがなければ無理でしょう。なにもないところですが、歌を歌ったりダンスをしたり話したり、我々のすべてがそこにあります。



映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』より




ギターを選んだのは、インターナショナルだから。私は革命のために音楽をやっている。



我々トゥアレグは文字を持ちません。そしてラジオも新聞などのメディアもないので、音楽でメッセージを伝えました。ですから、1976~97年の期間、すべてのトゥアレグの音楽は禁止されたんです。今は取り下げられましたが、例えば戦争を直接訴えるような内容のものはNG。政治的なものは今でもだめなんです。



銃をギターに持ち換えてから20年ほど経ちます。兵隊として闘うよりももっと手ごたえがあります。ミューシャンとしてアメリカに行って、NYタイムズで経歴を紹介してもらったり、テレビに出たり、ヨーロッパではいろんな音楽フェスに出て、世界中の様々なメディアが取り上げてくれます。音楽を通してメッセージを伝えられているという実感があります。



もともとトゥアレグ人はギターを弾きませんでした。リビアに行って西洋の文化に触れ、ギターを始めました。兄貴分のティナリウェンが第一世代で、私たちは第二世代。ギターという楽器を選択した理由はインターナショナルだからです。トラディショナルなものだけをやってるよりは、ギターを介した方が開かれている。私は主義主張のために、革命のために音楽をやっているんです。






Festival Vieilles Charrues 2007のライヴ映像




土地も、資源も、学校や病院も持たないトゥアレグが闘いの先に望むもの。



まず自分たちの土地を自分たちで管理する自治区にしたい。政府がその土地で資源を発掘したら、我々トゥアレグも権利を共有したい。我々にはそういった権利はもちろん、学校も病院もなにもないんです。フランスのお仕着せの教育は、裏になにかあるように感じます。我々の言葉やトラディショナルなものをなくさないのなら良いとは思いますが…我々が昔から培ってきたものを捨ててフランスに迎合するつもりはありません。だから、私たちの学校や病院を作りたい。生まれた赤ちゃんがなくなったり、母親も大量出血で亡くなるケースも多い。そういうのを救いたいんです。



映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』より











TOUMAST(トゥーマスト)プロフィール



リビア、カダフィ大佐の元でレジスタンス兵として訓練され、同じくレジスタンス兵で「砂漠のブルース」の旗手的なバンド、ティナリウェンのメンバーと出会い、音楽を始める。2008年にピーター・ガブリエルのワールド・ミュージックのレーベル「Real World」より1stアルバム『ISHUMAR』MP3版)でCDデビュー。現在はパリ在住で、ヨーロッパ各地でコンサートを行い、活躍している。

http://toumast.net/










映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

2015年2月28日(土)より、渋谷アップリンクにて公開



監督:ドミニク・マルゴー

出演:トゥーマスト

(スイス/2010年/ 英語/カラー/88分)

配給・宣伝:アップリンク

公式サイト




2014年12月16日(火)

『トゥーマスト』を通して見る、抵抗運動と音楽について


ゲスト:ピーター・バラカン(ブロードキャスター)×デコート豊崎アリサ(ライター/ジャーナリスト/写真家/「サハラ・エリキ」主宰)

詳細・チケット購入はこちら



2015年1月16日(金)

アフリカ音楽と「砂漠のブルース」について


ゲスト:サラーム海上(よろずエキゾ風物ライター)、粕谷雄一(金沢大学教授)

詳細・チケット購入はこちら




映画『トゥーマスト ~ギターとカラシニコフの狭間で~』

















カンヌを熱狂させた予測不能のメロドラマ・ミステリー『二重生活』に込めたロウ・イエの真意とは

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映画『二重生活』が2015年1月24日(土)より公開となる。監督は『天安門、恋人たち』『スプリング・フィーバー』のロウ・イエ。第65回カンヌ国際映画祭ある視点部門のオープニング作品として上映され、大きな反響をよんだ本作は、監督史上、最もスキャンダラスなエンタテインメント作となっている。



優しい夫と可愛い娘。夫婦で共同経営する会社も好調で、なにも不自由のない満ち足りた生活を送る女ルー・ジエ。愛人として息子と慎ましく生活しながらも、いつかは本妻に、と願う女サン・チー。流されるまま二人の女性とそれぞれの家庭を作り、二つの家庭で生活する男ヨンチャオ。「二重生活」が原因で巻き起こる事件、さらにそれが新たな事件を生み、事態は複雑になっていく。3人の男女、事件を追う刑事、そして死んだ女。それぞれの思わくと事情が何層にも重なりあい、物語はスリリングに進む。



現代中国社会のダブルスタンダードや、一人っ子政策の弊害という問題をも浮き彫りにしつつも、激しい感情のぶつかり合いをロウ・イエ作品独特の漂うような画で魅せている。webDICEでは、ロウ・イエ監督のインタビューを掲載する。












「中国という社会が昔からずっと二つの顔を持っているんだから、人々は"二重"であることに馴れているんだよ」

ロウ・イエ監督インタビュー



映画『二重生活』

ロウ・イエ監督





──2006年の『天安門、恋人たち』以降、フィルムメーカーとしてのあなたの境遇は、どんなものだったのですか?



『天安門、恋人たち』以降、僕は5年間、映画製作を禁じられたので、中国を離れ、アメリカのアイオワ大学に行った。そこで教えていた中国人作家のニエ・フォアリンに招待されたんだ。それから脚本家のメイ・フォンと、後に『スプリング・フィーバー』(2009)となるプロジェクトを進めた。というのも僕は映画製作を禁じられていたので、海外で撮影できる脚本を探していた。かなりの数の脚本を読んだが、満足できるものはなかったね。



『スプリング・フィーバー』は南京で、ほぼゲリラ撮影に近い手法を使って、小さなDVカメラで撮影した。次にパリに行って、リウ・ジエの小説『裸』を脚色して作ったのが、『パリ、ただよう花』(2011)だ。あの映画が完成したころには、5年が過ぎていたので、中国に戻れるようになったんだ。





DVD『スプリング・フィーバー』発売中(→購入はこちら





DVD『パリ、ただよう花』2015年3月4日発売(→購入はこちら






──5年のブランクの後、前のような状態に戻りましたか?



フィルムメーカーにとって、5年間、映画製作を禁じられるというのは、恐ろしいことだ。あの処罰を受けた時、公式に拒否の声明を出そうと考えた。多くのフィルムメーカーやアーティストから寄せられた抗議の署名が書かれた手紙を公表することでね。でも結局、何もしないことにした。映画を作り続けることが、一番の対応だと考えたからだ。この5年間は、そのことにエネルギーを注いできた。中国で『スプリング・フィーバー』を撮ったのは、処罰には屈しないことを見せたかったからだ。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より




──『二重生活』を作ることになったきっかけは?



『パリ、ただよう花』の後、共同で脚本を書いたメイ・フォンがインターネットで中国の日常が書かれた話を探していたんだ。脚本のヒントになりそうな素材がないかと思ってね。僕らは彼が見つけた3つの話を使って、階層によって異なるものの見方を描くことができた。二重生活や犯罪、新興富裕層の暮らしなんかを織り交ぜながらね。脚本を書く段階で、そういったものの見方をとりまとめた。僕は二重生活が原因で犯罪が起こるというのが面白いと思った。



二重生活というのは、中国で顕著に見られる現象だ。奥さんが二人いるという男はかなり多く、人間関係における象徴的なことなんだよ。自分の暮らしに不満な人間は、新たに別の環境を作り出すんだ。表面的に分からなくても、どこか隠れた場所で行われているんだよ。中国では、二面性を持ち、なんとか現実に対峙しながら暮らす人間がいるんだ。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より



──ミステリーを撮るのは『パープル・バタフライ』以来ですね。なぜ今またミステリーを撮ろうと思ったのでしょうか?



ミステリーとはいろんな受け止め方ができるものだからね。作家が伝えたいことをしっかり描きながらも、検閲に対応しやすいんだ。もちろんそれが1番というわけではないけど。実は、初めからミステリーにしようと思ったわけではないんだ。2稿めか3稿めで、現代中国社会を描くにはミステリーがふさわしいんじゃないかと思って、すこしずつその方向になっていった。映画とはそもそも、検閲にとっては「やっかいなこと」を語るものだからね。人の想いや社会の「やっかいなこと」を反映してしまうのが映画なんだと理解してほしいよ。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より




──二人以上の男性と関係を持つ女性が主人公となる同様の映画というのはあり得ますか?



もちろん二人以上の男と関係を持っている女性はいるだろけど、まれだよ。女性は自由度が低いからね。二人以上の女性を養っている男というのは、世間が受け入れているんだ。それが成功者の証というふうに思われているふしもあるが、男の愛人が複数いる女性というのは、敵意を持たれるだろうね。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より




──映画の中で登場するカップルは、東京やパリやフィラデルフィアといった都市に暮らすミドルクラスと似たようなライフスタイルですね。



この15年の中国の経済発展で、ミドルクラスという階層が生まれたわけだが、いろいろな点で道徳観念も似ているし、特に見た目は他の国と変わらない。しかし世界的な基準から見れば、いかにも中国人らしいところもあるね。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より




──中国人らしさを最も物語るものとは何だと思いますか?



男が自分の人生において二重の生活を築こうとする、そのやり方だね。そこにある矛盾を解消しようとはしない、そのやり方が中国人らしい。もちろん、愛人を持っている人は世界中にたくさんいるし、中国に限った話ではないと思うけれど、中国には「政治も二重」という側面があるからね。中国という社会が昔からずっと二つの顔を持っているんだから、人々は「二重」であることに馴れているんだよ。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より




──中国だけに限ったことではありませんが、若い世代、新興富裕層の子供や、権力者と折り合いを付けている刑事たちの態度といったものは、その国の現在の状況を暗示していますね。



まさのその通りだね。同じことが中国人の精神性にも現れていると思う。金で解決ができると思っている、誰かが尻拭いをしてくれる裕福な子供たちと、真実を追求することなく捜査を中止する刑事は、精神構造が同じ生活様式の中で生きている。永遠に妥協し続ける世界に生きているんだ。



現代の中国では、法律そのものに威力がなく、すべてが交渉の世界だ。つまりモラルなんて存在しない。だから(この映画の)主人公は、自分の感情に折り合いを付けるために、ある決意をするんだ。捜査を中止する刑事のやり方と同じようにね。バランスを保つために、おかしな選択をする。それこそが、まさに中国人らしさだよ。でもそれは、中国という巨大な国規模で考えれば遙かに深刻な悲劇を生むことになる。誰も真実とは何かなんて気にしていない。その結果が、この映画の(英語の)タイトルである「ミステリー」なんだ。



冒頭で死んでしまう若い女の子は現代中国の犠牲者と言える。彼女は死ぬけれど、誰も彼女を「殺そう」とはしていない。そういった社会の犠牲者はけっこういて、その死はすぐに忘れられてしまう。その犠牲によって社会が発展していくかもしれないが、忘れて良い死などない。登場人物たちは、誰も悪いことをしようと思っていたわけじゃない。しかし、それぞれの行動すべてが悲劇的に作用してしまったんだ。



映画『二重生活』

映画『二重生活』より










ロウ・イエ(婁燁 / Lou Ye)プロフィール



1965 年劇団員の両親のもと、上海に生まれる。1983年に上海華山美術学校アニメーション学科卒業後、上海アニメーションフィルムスタジオにてアニメーターとして働く。1985年北京電影学院映画学科監督科に入学。



『ふたりの人魚』(00)は中国国内で上映を禁止されながらも、ロッテルダム映画祭、TOKYO FILMeX2000でグランプリを獲得。1989年の天安門事件にまつわる出来事を扱った『天安門 恋人たち』(06)は、2006年カンヌ国際映画祭で上映された結果、5年間の映画製作・上映禁止処分となる。



禁止処分の最中に、中国では未だタブー視されている同性愛を描いた『スプリング・フィーバー』は、第62回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した。パリを舞台に、北京からやって教師と、タハール・ラヒム演じる建設工の恋愛を描いた『パリ、ただよう花』の撮影後、2011年に電影局の禁令が解け、中国本土に戻って撮影された本作『二重生活』は、第65回カンヌ国際映画祭ある視点部門に正式招待され、高い評価を受けた。



中国現代文学の代表的作家でありロウ・イエと親しい友人でもあるピー・フェイウー(畢飛宇)の小説を原作にした『ブラインド・マッサージ(原題:Blind Massage/推拿)』は第64回ベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞受賞)を受賞。日本では2014年9月にアジアフォーカス・福岡国際映画祭にて先行上映された。










映画『二重生活』

2015年1月24日(土)より、新宿K's cinema、渋谷アップリンクほか全国順次公開



監督、脚本:ロウ・イエ

脚本:メイ・フォン、ユ・ファン

撮影:ツアン・チアン

編集:シモン・ジャケ

音楽:ペイマン・ヤズダニアン

出演:ハオ・レイ、チン・ハオ、チー・シー、ズー・フォン、ジョウ・イエワン、チャン・ファンユアン、チュー・イン

配給・宣伝:アップリンク

(2012年/中国、フランス/98分/1:1.85/DCP)

公式サイト




[youtube:wbcjauaG8q4]



映画『二重生活』

















NY在住の恩田晃が語る、どうしようもない日常の音をアートに変える方法

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恩田晃 パフォーマンス リオ・デ・ジャネイロ 2014年12月 Photo by Eduardo Magalhães (I Hate Flush)



現在ニューヨークに在住のアーティスト、恩田晃氏が荏開津広氏と六本木の「SHIMAUMA」にてトーク・イベントを行った。今回恩田氏は5年ぶりに東京を訪れ、六本木SuperDeluxeで行われた「Tokyo Experimental Performance Archive」でのソロ・パフォーマンスや、渋谷WWWで行われた「サウンド・ライブ・トーキョー 2014」でマイケル・スノウ、アラン・リクトとのパフォーマンスを行った。



今回のトーク・イベントのテーマは『カセットとレコード、ニューヨークと東京/文化の器』。10代の頃より海外と日本を行き来し、2000年からニューヨークでの活動を開始。音楽、映像、美術というフィールドを横断して活動する恩田氏の代表作と言える、カセット・テープレコーダーで日記のように録り溜めたフィールド・レコーディングを用いる「カセット・メモリーズ」誕生のきっかけ、そして恩田氏の表現の源泉について語ってくれた。




寺山修司の表現から学んだこと




荏開津広(以下、荏開津):「カセット・メモリーズ」をスタートさせるきっかけは何だったのですか?



恩田晃(以下、恩田):15歳くらいから写真をやっていたんですが、19歳ぐらいだったかな、ロンドンでカメラが壊れてしまったんです。お金がなかったので、道ばたで売られていたソニーのテープレコーダーを買って、カメラの代りに日常のありとあらゆる音を録りまくり始めました。



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恩田晃氏(右)と荏開津広氏(左)、当日は「カセット・メモリーズ」の作品群が会場に持ち込まれ、トークが行われた


私は母親が画家で、小さいころから美術の展覧会を観に行っていたので、もともと音楽よりもアートや映像への興味が高かった。とりわけ寺山修司からの影響は大きくて、天井桟敷の最後の公演も観にいき、寺山をきっかけにジョナス・メカスやマヤ・デレンなどの前衛映画にはまりました。



荏開津:寺山修司のどういうところに影響を受けたのですか?



恩田:寺山は俳句や短歌のような日本の詩から自分の表現を始め、演劇、映画、小説、ラジオ、果ては競馬まで、何にでも手を出した。欧米の文化にも精通していたし、実際に海外でも受けた。グローバルな感覚と青森出身というローカルな感覚をうまく結びつけたところが面白いと思ったんです。







日常的なマテリアルから

オルターナティブな現実をクリエイトする



荏開津:どのように「カセット・メモリーズ」の作品は作られるのですか?



恩田:一度録ったら、たいていそのままレーベルに何も書かずに放っておくんです。日記みたいなものですが、記憶のためでなく、忘却のために録る。何年か経って忘れたころに取り出して聴いてみて、面白い音だと思えばそこから作曲やパフォーマンスの素材にしていく。それらをコラージュして作品にしていく。面白くなかったら消してしまってテープはリサイクルする。



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恩田晃「カセット・メモリーズ」





恩田:「カセット・メモリーズ」は2000年にニューヨークに移ってから始めました。フランスのピエール・シェフェールやリュック・フェラーリといった電子音楽にも興味がありましたが、それ以上にハリー・スミス、ジョセフ・コーネル、ジャック・スミス、マイケル・スノウ、ケン・ジィコブスらのニューヨークの60、70年代の前衛アーティストからの影響が大きかったですね。



日常的なマテリアルを元に、オルターナティブな現実をクリエイトする。マジックリアリズムという言葉がありますが、私がやっていることはそれに近いところがあって、自分の経験を日記的としてそのまま伝えるのではなく、もっと大きな文化そのものに連なっていこうとしている。




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恩田晃「カセット・メモリーズ」


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恩田晃「カセット・メモリーズ」



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恩田晃「カセット・メモリーズ」


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恩田晃「カセット・メモリーズ」



(参加者からの質問):毎日録音していくなかで、どうしようもない日常もあると思うのですが、どうやって私小説的な部分を排除していくのですか?



恩田:最初はただのオブセッションで録音していました。でもそれを10年、20年やっていくと、アートのプラクティス(実践)になってくる。それを極端にやってみようと、この3年間は毎日テープを1本録り続けていました。まあ、毎日録るとどうしようもない音もたくさんありますよ(笑)。私小説的な部分を排除していくには、客体化することでしょうね。行為にも、考え方にも、クリティカルは視点を導入していく。



音楽より美術やダンスの世界のほうがはるかに面白い



荏開津:自分のやっていることが美術の領域に入り込むことは、気づいていたんですか?



恩田:以前はあまり自覚していませんでした。でも今やっている仕事は、音楽だけのコンテクストは少なくて、美術と音楽の中間、もしくは音楽と映像の中間が多い。今の音楽は保守的な傾向が強いと思うんです。以前は決してそうではなかった気がする。今は美術やダンスの世界のほうがはるかに面白いものがあるし、次々と新しいものが生まれてエキサイティングだと思う。



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恩田晃 サイト・スペシフィック・パフォーマンス リオ・デ・ジャネイロ 2014年12月
Photo by Eduardo Magalhães (I Hate Flush)


荏開津:でもそんななかで、恩田さんご自身で音楽をする必要はあったのでしょうか?



恩田:どうせやるなら面白いほうがいいじゃないですか(笑)。音楽の普通のプレゼンテーションは興味がなくなってきていて、通常のコンサートではないサイト・スペシフィックなパフォーマンスに移行しつつある。あとは、会場でもステージ、客席とわけるのをやめて空間全体を使ってしまうとか。ルールに縛られるのをやめて、発想を少し変えてみるといくらでも可能性は広がるんじゃないかな。




(2014年11月2日、六本木Shimaumaにて、取材・文:駒井憲嗣)














恩田晃 プロフィール



音楽家、美術作家、パフォーマー。日本に生まれ、現在はニューヨークに在住。カセット・ウォークマンで日記のように録り溜めたフィールド・レコーディングを用いた「カセット・メモリーズ」でよく知られている。音楽、映像、美術にまたがる幅広い分野で、メディアを縦断する活動を精力的に行っている。主なプロジェクトとして、前衛映画の巨匠ケン・ジェイコブスとの「ナーバス・マジック・ランタン」、マイケル・スノウ、アラン・リクトとの即興演奏トリオ、サウンドアートの鈴木昭男とのサイトスペシフィック・ハプニング、美術作家ラハ・レイシニャとのコラボレーションなど。ニューヨークのキッチン、MoMA PS1、パリのポンピドゥー・センター、カルティエ・ファンデーション、パレ・ド・トーキョー、ロンドンのICA、マドリッドのラ・カサ・エンセンディーダなど、世界各地のフェスティバル、芸術センターに頻繁に招待され、パフォーマンス、上映、展示をつづけている。

http://www.akionda.net





荏開津広 プロフィール



執筆/DJ/翻訳。音楽/映像/アートに関わる様々なプロジェクトを手がけている。東京藝術大学、京都精華大学などの非常勤講師。主な翻訳「サウンド・アート」(フィルム・アート社、2010年、木幡和枝、西原尚と共訳)、主なエッセイ “Attempt To Reconfigure ‘Post Graffiti’”、 “Art As Punk”など。











▼Aki Onda - Dust from album "South of The Border" Cassette Memories Vol.3



ドイツの配給会社ラピッド・アイのステファン・ホールが語る終わらぬ「アジア映画愛」

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ラピッド・アイ・ムービーズのステファン・ホール氏



第27回東京国際映画祭でワールド・プレミア上映された浅野忠信主演作『壊れた心』。フィリピンのケヴィン監督が、スラム街を舞台に殺し屋と娼婦の逃避行をカオティックに描く今作のプロデュースを手がけたのが、ドイツのステファン・ホール(Stephan Holl)氏だ。ホール氏は1996年に配給会社で劇場上映のほかDVDリリースも行うラピッド・アイ・ムービーズを設立。日本やインドをはじめとするアジアの作品をドイツの映画ファンに届けることに尽力してきた。外国映画はアートハウス系の作品をのぞいては字幕ではなく吹き替えで上映されるというドイツにおいて、2000年代前半から起こったインド映画ブームは、ラピッド・アイ・ムービーズが立役者と言われている。また2011年に公開されたいまおかしんじ監督の『UNDERWATER LOVE-おんなの河童-』をきっかけにプロデューサーとしても活動している。



今回は、東京国際映画祭のために来日したホール氏に、彼がこよなく愛するアジア映画への情熱と、プロデュースを手がけた『壊れた心』について話を聞いた。





ただアジア映画への好奇心のままに



──最初に、ラピッド・アイ・ムービーズはどのように始まったのですか?なぜ映画配給を始めようと思ったのですか?




私と妻で1996年にスタートしたラピッド・アイ・ムービーズで初めて配給したのは『攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)』(1995年)でした。しかしそのときは配給の仕事について何も知りませんでした。当時はどうやったら劇場上映できるか権利についてなにも知らなかったので、ドイツのソフト会社から上映権を買いました。私たちにはビジネス・プランがありませんでした。お金もなかったし、コンセプトもなかった。釜山や香港などの映画祭でたくさんの映画に接し、北野武やキム・ギドクといった監督たちの作品を紹介したくて、ただアジア映画への好奇心のままにやってきたことが、ビジネスになってきたのです。



私はアジア映画が大好きで、香港映画のファンでした。ドイツの映画は、アジア映画に比べてとても退屈に感じられたのです。ロッテルダムやベルリン映画祭で香港ニュー・ウェイヴに触れ、映画のプログラミングの仕事をしていました。「香港&アクション特集」として、10本ほどの香港映画を、ミュンヘン、ケルン、ハンブルグなどの小さい映画館まで自分で車を運転して35ミリフィルムを運んで上映しました。




休暇で滞在していたニューヨークのフィルム・フォーラムでジョン・ウーの『狼 男たちの挽歌・最終章(The Killer)』を午後2時のアフタヌーン・ショーで観たとき、私はものすごい衝撃を受けました。この体験を人々にシェアしたい、と思い、香港の映画会社に連絡し、ライセンスを買いました。ラピッド・アイ・ムービーズとして公開した最初の2作『攻殻機動隊』『狼 男たちの挽歌・最終章』は私の原点です。



インド映画の爆発的ヒットが転機



──会社のビジネスとしてのターニングポイントは何だったのですか?



インド映画を手がけたことです。それまでキム・ギドクなどとても暴力が描かれた映画を扱っていたのですが、あるとき、とても紳士的なインド映画のプロデューサーからある映画を紹介してもらいました。それは『家族の四季 愛すれど遠く離れて』(『Sometimes Happy Sometimes Sad』/2003年)でした。シャー・ルク・カーンをはじめ多くのインド映画のスターが出演する3時間半の作品です。私たちはその作品に魅了され配給を決め、ものすごい成功を収めました。劇場公開だけでなく、DVDでの売上も含めて、現在まで最も売上を記録した作品で、信じられない体験でした。



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カラン・ジョーハル監督『家族の四季 愛すれど遠く離れて』より



──それまでは香港アクションやバイオレンス映画がメインだったのに、なぜヒットしたのでしょう?



新しいオーディエンスが観てくれたことでしょう。メインストリームのテレビ局が「3時間半の映画をテレビで放送するのは難しいが、放送したい」と金曜の夜に放送し、同じ日にDVDをリリースしたんです。テレビ放送の視聴率もとてもよかったので、視聴者のDVD購入に繋がり、セールスチャートの1位になりました。『トイ・ストーリー』よりもヒットした、まさに現象となりました。翌日、テレビ局の人が来て「インド映画をさらに20本買いたい」と言ってきたんですよ!生まれて初めての経験でした。



会社の運営にあたってはその後、たくさんの浮き沈みがありました。私たちは私たちの会社とマーケットを守らなければいけません。例えばインド映画では、同じ映画が別の会社に二重に売られていたりするんです。最初の成功があったから配給を続けようと思ったのではありません。新しい映画に好奇心を持ち、そして興奮を求めることで続けられたのです。




──ラピッド・アイはあなたと奥さんの二人で初めて、その後スタッフは何人くらい雇ったのですか?



初めは5人くらいにいたスタッフですが、インド映画で成功した後は15人まで増やしました。月刊誌を発行したり、サウンドトラックやインド映画に関する書籍を発行したり、いろんな野望があったのです。たぶん150本のボリウッド映画をこの10年間にリリースしてきました。でもそれがピークで、いまは5、6人に戻りました。昨年は6、7作をDVDでリリースし、何作かは劇場でも上映しました。




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ラピッド・アイ・ムービーズのHPより




──現在は、基本的にはDVDリリースがメインなんですね。



そうです。素晴らしい映画業界の人たちとの出会いがありました。例えば東京国際映画祭で来日しているアーミル・カーンは『チェイス!』のようなアクション大作に出演するだけでなく、プロデューサーとしてインディペンデントの小さな映画を手がけています。いつも業界のしきたりを変えようとしている。彼からは、多くのことを学びました。



──ドイツも含めインド国外でのビジネス・マーケットのポテンシャルも考えているということですね。



世界中で最もヒットした映画は彼の『チェイス!』ですが、ドイツでは私たちがリリースした『家族の四季 愛すれど遠く離れて』です。DVDセールスはハリウッド・スケールなんです。


──現在ドイツではDVDとVODのセールスの割合はどれくらいですか?



幸運なことに、ドイツではまだDVDを買って自分の手元に置きたいと思っている人が多いので、DVDマーケットがある。音楽は違いますね、コレクターの為のアナログレコードか、ダウンロードかどちらかになって、CDは消えてしまいました。



──DVDとブルーレイではどうですか?



ブルーレイとDVDが同じ価格だったら、ブルーレイを買うでしょう。でもインディペンデントのディストリビューターにとってブルーレイを制作するのにはお金がかかる。消費者もまだDVDのほうが多いです。



──VODはどうでしょう?



上向きですが、iTuensとはアグリゲーターを介してやりとりしていて、クオリティチェックが厳しく、ハードルが高いので、リクープできないのが難点です。60パーセントがDVDセールス、15から10パーセントがテレビ、残り20パーセントが劇場、10パーセントがVODという割合です。先日ジャ・ジャンクーの『罪の手ざわり』をリリースしたとき、劇場での動員は1万人、DVDは10ユーロの価格設定で1,000本売れました。



ニック・ケイヴの映画が初心に帰らせてくれた




──あなたはインド映画での成功の後、日本の映画を数多く配給していますよね。



私が最初に恋に落ちた日本映画は、北野武の『ソナチネ』そして石井聰互監督の『ELECTRIC DRAGON 80000V』でした。そしてもうひとつ転機となったのが三池崇史監督の『オーディション』でした。「あなたが配給した作品で最も誇れるのは?』と聞かれたら、『オーディション』と答えます。『ソナチネ』は直接松竹と交渉し、配給することができました。






──日本の映画をドイツでリリースするとき、吹き替えを用いるのですか?



そうです、劇場上映のためだけでなくDVDにも必要です。ユーザーが吹き替えか字幕か選べるのがDVDのいいところですが、吹き替えにはとてもコストがかかる。たくさん日本映画をセレクトしても会社のチームから「これはだめ」と言われてしまうのがフラストレーションです。でもリリースし続けています。



マーケットに行って映画を探して会社に行って、機械のように働く……仕事に対してプレッシャーがのしかかっていました。そんなとき、ベルリンで『ニック・ケイヴ/20,000デイズ・オン・アース』を観ました。もともとニック・ケイヴが好きだったのですが、それを観終わった瞬間、私は我に返りました。これが私の配給したい作品だ!!そのためにここまでやってきたんだ、と思いセールス・エージェントそして監督に交渉し、配給することを決めました。そして、ドイツでの公開初日まで、髭を剃らないことにしたんです。10月16日に無事プレミアは終わりましたので、帰国したら剃りたいと思っています(笑)。



Nick Cave in 20,000 Days on Earth. Picturehouse Entertainment

『ニック・ケイヴ/20,000デイズ・オン・アース』より、日本では2015年2月7日(土)より公開


──オーディエンスの反応はいかがでしたか?



期待より少し少なかったけれど、熱狂的な観客が観にきてくれました。UKより多い、52スクリーンで上映しました。ニック・ケイヴは現在はブライトンに住んでいますが、80年代はベルリンにいたので、ドイツの人々にはよく知られているんです。彼はジョニー・キャッシュのように、キャリアを重ねるごとにますますよくなっていく。クオリティ、そしてセールスもドイツではいいですね。



この映画はドイツ語字幕で公開しました。配給を始めたころに返って、情熱をまた感じることができたのがうれしかったです。





セリフではなく映画を観るという体験から、

ストーリーを味わってもらいたい




──ではプロデュース作品について教えてください。最初のプロデュース作『UNDERWATER LOVE -おんなの河童-』はどのようにしてはじまったのですか?



『花井さちこの華麗な生涯』など日本のピンク映画をドイツで紹介してきて、日本の制作スタッフとコラボレーションをしたいと、国映に提案したんです。ピンク映画のルーティーンでなく、クレイジーなミュージカルを作りたいというアイディアに、いまおかさんがOKしてくれました。クリストファー・ドイルにも撮影を依頼して、35ミリで5日間日本で撮影をしました。最初のプロデュース作品です。




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『UNDERWATER LOVE -おんなの河童-』より ©2011 国映株式会社/Rapid Eye Movies/インターフィルム



──配給とDVDの仕事をずっとしてきた立場として、ビジネスの面はプロデューサーとしてどう考えていたのですか?



お金は限られていましたが、クリスといまおか監督の共同作業でたくさんのことを学びました。リクープはできませんでしたが、テレビ局のアルテが買ってくれたのはよかったです。



次のプロデュース作品が、『Mondomanila』(2012年)で、この作品でケヴィン監督と出会いました。彼は40作もの作品を撮っていて、デジタル・アンダーグラウンド・フィルムメイキングを実践しています。ポストプロダクションの段階から私は関わりました。



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ケヴィン監督『Mondomanila』より


──そして今作『壊れた心』が3作目のプロデュース作品ということですね。



最初この作品は、2012年のベルリン国際映画祭のコンペティションに短編として出品されました。タイトル(『Ruined Heart! Another Love Story Between a Criminal and a Whore』)とアイディアがいいと思い、長編にすることを決めました。





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ケヴィン監督『壊れた心』より


──今作の予算は全体でどれくらいですか?



ポストプロダクションや最初のDCPを含め、15万ドルです。<ヨーロッパでファンドを探しましたがどこも断られたので、ラピッド・アイ・ムービーズとケヴィンの資金のみで、4、5日ALEXAを使いフィリピンで撮影をスタートしました。その後クリストファー・ドイルを招き撮影を続けました。




いわゆる台本はなく、ケヴィンは45口径の拳銃にちなんで、45のシーンで構成され、ランダムに入れ替えることのできるミニマルなストーリーのアイディアを持ってきました。実際の撮影では、タガログ語やフィリピン語や日本語、ヒンディー語などが入り混じっています。



──セリフがない脚本にした、というのはプロデューサーとして「吹き替えのコストがかからない」という考えからですか?



いいえ(笑)。ケヴィンとふたりで決めました。北野武監督やジョニー・トー監督の映画は、例えばフランス映画と比べると全く違う映画的言語を用いている。そういう方が好きなんです。そして観客を驚かせたかった。ヴィジュアルで語ることで、映画を観るという体験からストーリーを味わってもらいたかったのです。



──音楽スーパーヴァイザーとしてもクレジットされていますが、どんなことをしたのですか?



今作は音楽がとても重要な役割を果たしています。ケヴィンはエディターでもあるのでマニラで編集を行い、その後ドイツで融資を得ることができ、プリプロダクションを進めることができました。ベルリンでクリスも立ち会ってカラコレを行い、音楽を録音して、ケルンでミキシングを行いました。



ケヴィンはミュージシャンでもあるので、メインのシーンの音楽は作曲していましたが、私は別のミュージシャンを起用し再レコーディングすることにしました。私はその音楽録音のコーディネイトをしたのです。そのほか浅野さんが踊るシーンで使われる60年代風の曲などは既成楽曲については、クリアランスのためにとても時間がかかりました。



音楽を担当したステレオ・トータルはドイツでとても人気のあるバンドなので、彼らに協力してもらって、ベルリンのプレミアではバンドの演奏を含めた上映を2015年4月に考えています。




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ケヴィン監督『壊れた心』より、オープニング・シーケンス




最期に、ひとつ面白いエピソードを教えましょう。オープニング・クレジットは、タトゥーで出演者の名前が表現されていますが、実はすべて、フィリピンの有名なタトゥー・アーティストを起用して、ある男の身体にぜんぶ本当に刺青を入れたんです。



──えっ、あなたは入れなかったんですか!?



私は入れませんでした。ケヴィンのアイディアでしたが、クレイジーでしょ(笑)。




(2014年10月27日、渋谷アップリンクにて インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)












映画『壊れた心』




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監督/脚本/プロデューサー/作曲/音楽 : ケヴィン

撮影監督 : クリストファー・ドイル

プロデューサー/音楽スーパーバイザー : ステファン・ホール

プロデューサー : アチネット・ビラモアー

音楽 : ブレッツェル・ゴーリング

美術 : フランシス・ゼーダー

編集 : カルロス・フランシスコ・マナタド

音響デザイナー : ファビアン・シュミット

振付 : ミア・カバルフィン

キャスト:浅野忠信、ナタリア・アセベド、エレナ・カザン、アンドレ・プエルトラノ、ケヴィン、ヴィム・ナデラ

73分/フィリピン語/Color/2014年/フィリピン=ドイツ



公式サイト:http://ruined-heart.com/






▼『壊れた心』海外版予告編


[youtube:evDc6aej4z4]

もう見ることのできない日本の祭祀の原点を記録した『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』

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映画『イザイホウ』より


渋谷アップリンクで2014年12月より公開され、連日満席を記録したドキュメンタリー映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』が1月24日(土)より再上映される。



『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』は、沖縄島の南東5キロの海に浮かぶ久高島で12年に1度おこなわていた祭祀を記録したドキュメンタリー。久高島は、男が漁業、女が農業を営む半農半漁の離島で、今作は1966年に4日間の本祭を中心に1ヵ月余の時をかけて行われた祭祀をフィルムに収めている。

今回は野村岳也監督へのインタビュー、そして公式ホームページに掲載されている、撮影当時の模様をつぶさに捉えた野村監督による日誌を掲載する。













【野村岳也監督インタビュー

「人間のプリミティブな生活が残っている」】








『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』は2008年に学術研究者に向けての上映が行われたが、一般の観客のための公開は今回のアップリンクが初となる。なお、今回インタビューと合わせて掲載する撮影日誌は、2008年の上映の際に書かれたものだという。



野村監督はアップリンクの最初の上映で連日満席を記録したことについて「イザイホウに興味を持ってい人がいたことは知っていたものの、ここまで観にくる人がいるとは想像していませんでした」と驚く。



映画『イザイホウ』野村岳也監督

映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』の野村岳也監督



野村監督は慶応大学で美学を学び、監督の道へ進んだ。東京でCMの制作など映像の仕事をしていた野村監督は、1965年に仲間たちと古くから神さまが天から降りてきて国をつくったという「建国神話」がある久高島を訪れた。久高の風景や島の様子に翌年に魅了され、翌年に久高島最大の神事イザイホウが行われるということを聞いて、撮影することを決めた。島に一軒家の住まいを借りた監督たちは、最初の1ヶ月はカメラをまわさず島の人たちとコミュニケーションをとることに努め、2月目くらいから風景や生活を撮りはじめた。



「僕たちも、初めから上映を目的にして作ったわけではないのです。非常に私的な気ままにやりたいように撮った。だからどんなふうに展開するか分からなかった」。



野村監督は撮影当時30代前半、「僕たちも〈貧〉を気にせず撮影、久高島の人も貧を気にしない。〈貧〉で結びついていた」と回想する。「昔話の〈おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川で洗濯に〉、というような、非常にシンプルな生活なんです。土地もみんなで共有して、資本主義社会ではない、人間のプリミティブな生活が残っている」。



現在、久高島の人数はどんどん減っており、撮影当時は600人くらいだったものの、今は3分の1の200人くらいになっているため、祭祀を行うとしてもできない状況だという。「ノロ(神女)になるのは久高で生まれて、久高に住んで、久高の男と結婚している人でないといけないんです。その決まりは年々ゆるくなっていますが、それでもだんだん減ってきています」。




映画『イザイホウ』より アシャギへ向かう

映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より




このドキュメンタリーに記録されている1966年は戦後最大のイザイホウだった(その後、1978年にも行われ、岡田一男氏が代表の東京シネマ新社が『沖縄 久高島のイザイホー』として映画化している)。その後、2008年まで上映を封印してきたことについて野村監督は「久高島の人々の〈秘祭〉だから広めたくない、秘めたものにしておきたいという気持ちが伝わってきたから」と明かす。そして「それでも島の人々が撮影に協力してくれたのは、失われてきつつあるイザイホウにとって撮影することは保険であり、影のように残るものとして島の人たちは認識していたからではないか」と語る。




野村監督は久高の人たちの神に対する考え方を「人でも自然でもなく、どんなかたちというのはなく、ただ神なんです、非常に観念的なんです」と説明する。



「久高島以外でも似たようなことは行われていたんではないでしょうか。日本の祭祀の原点という感じがします」



今回の上映を経て、野村監督は最後にこんな構想も明かしてくれた。



「この祭祀は1ヵ月前から、だんだん島全体が祭祀一色になっていく。押さえに押さえていて、クライマックスになっていたところで始まって、4日間でだんだん日常に戻っていく。だから野外劇にしたら、非常にいい劇になると思います。やってみたいですね(笑)」。



(取材:浅井隆 構成:駒井憲嗣)












【野村岳也監督によるコラム:『イザイホウ』撮影当時】







私たちが上映とDVD普及に取り組んでいるドキュメンタリー映画『イザイホウ』(49分)の製作にまつわる裏話を、思いつくままに話してみたいと思います。そうすることで、なぜ私たちが40年間埋もれていたこの作品を、敢えて掘り起こし、みなさんに見ていただこうとしているのかわかってもらえるような気がするからです。(野村岳也監督)






①きっかけ



この映画は、1966年に撮影し、翌年に仕上げたモノクロ16ミリフィルム作品です。

普通映画製作は、上映することを目的にスタッフ編成とスケジュール、予算を組んで製作されます。私たちの映画「イザイホウ」は、そんな普通の作品ではありませんでした。

1965年、初めて沖縄へきた私は、沖縄島の東に神の島といわれる小島があることを聞き、フラッと渡ったのでした。久高島は私に並々ならぬ印象を与えました。その清冽な風景、そこで人間生活の原型のような暮しをするやさしく気品に満ちた島人 - ここでは、年間30にも及ぶ祭を通して島の暮しが営まれています。そして私は翌年に12年に一回の祭、島の女が神になる、久高島最大の神事イザイホウが行われることを聞いたのです。東京に帰って仲間に話すと、撮りたい、撮れないか、ぜひ撮ろうとたちまち決まってしまいました。

当時私たちは、みんな映画、テレビ、CFなどの仕事をしていました。翌年、仕事の整理をし、私たちはなけなしの金をかき集めて撮影に取り組むことになったのです。

いってみれば、ゲリラ的製作でした。

そんなわけで、私たちの撮影行には、通奏低音のようにビンボーがつきまとうことになります。しかし、必ずしもビンボーがマイナス要因ばかりではなかったことを、話が進むにつれて皆様にはわかっていただけると思います。





②ドイフレックス



当時、ドキュメンタリー映画やテレビの撮影には、どこでも西ドイツ製の「アリフレックス」というキャメラを使っていました。しかし、私たちビンボースタッフには、このキャメラを用意することができません。10日や20日間ぐらいなら借りられないことはありませんが、そんな短期間で撮影するつもりはありませんでした。仕事でなく楽しみで撮るのですから、島への滞在は長ければ長いほどよかったのです。

そんなわけで、安く借用できるキャメラをさがしました。フィルモやボレックスという手巻き式のキャメラはありましたが、それらは1カットせいぜい20秒そこそこで、長まわしが出来ません。どこかにいい出物がないものかとさがしていたところに、耳寄りな話が聞こえてきました。

その頃の東京には、映画の機材屋がいくつかありました。その一つに、アリフレックスそっくりなキャメラを手造りしている機材屋があり、さっそく訪ねてゆきました。

それが「ドイフレックス」との出会いでした。

テストをすると、結構いいのです。機材屋のおやじは、気に入ったら使ってくれ、いくらでもいい、といってくれました。

私たちは、このキャメラに決めました。ズームレンズなんかはありません。広角、標準、望遠の3本の単レンズを交換しながら撮らなければなりませんでした。

ちなみに機材屋のおやじは名前を「土井」といいました。

こうして、私たち3人のスタッフは、「ドイフレックス」を1台もってイザイホウ本祭の2ヶ月前、待望の久高島へ上陸したのです。





③上陸



1966年10月のあの日のことを忘れることができません。私たちは、神世の時代へタイムスリップしたような気持ちにとらわれたのでした。

久高上陸の翌日から、毎日憑かれたように島中を歩き回りました。美しい砂浜、せまる岸壁、そこに並んだ用途を異にするカー(井戸)、クバの林、幾つもの神の森(拝所)、箱庭のような村落の家や道、海辺にひっそりとたたずむティラバンタ、 - そんななかで島人は、男は海へ、女は原へと人間生活の原型のような暮しをしておりました。浜辺のサバニのかげで魚網をつくろう老人、畑で働く子連れの女、漁から帰ってくる男、遊びまわる子供たち。私たちは、出会う人みんなに話を聞きました。外で出会う人ばかりでなく、家々を訪ね歩いて話を聞きました。どこそこの家に祝い事があると聞けば、呼ばれもしないのに、50セントをつつんで押しかけてゆきました。島の祭(久高には年間30もの祭があった)には、すべて参加しました。島人と一緒にニガナあえのサシミを食べながら島人の話を聞きました。1ヶ月もするとほとんどの島人と顔なじみになっていました。親しく付き合う人も何人もできてきました。その間私たちは1カットも撮影してはおりません。そんななかで、だんだん島人の死生観がわかるような気がしてきたのです。

その頃から少しずつ、島の風景や島人の暮しの断片を撮影し始めました。





④宿舎


私たちに与えられた宿舎は、しっかりしたヒンプンと石垣に囲われた格調高い屋敷でした。それもそのはず、久高島で一番古い、ムトゥといわれる大里家だったのです。その頃、大里家は子孫が死に絶えて、無住の空家でした。しかも大里家は、第一尚氏最後の王、尚徳の恋人だった名高いノロ、美人の誉れ高いクニチャサの生家だったのです。

その悲恋を人々は次のように伝えています。

尚徳王がクニチャサと恋に落ち、政治を忘れて久高ですごすうちに、城内で反乱が起こり、急遽帰ろうとするが、絶望のあまりその船から身を投げて死んでしまう。悲しみに打ちひしがれたクニチャサは、家の前のガジュマルで首を吊って死んでしまった。

大里家に向かって右に小さな森がありました。そして、この木がクニチャサの首吊りの木だといわれるガジュマルもありました。私たちは毎日その木を眺めながらクニチャサを想い、王位を簒奪された尚徳王を想ったものでした。

15・6世紀の沖縄をイメージするには、久高島は絶好の島であったし、大里家の宿舎は、最高の宿舎だったのです。

私たちは毎晩のように、前の森を見ながら昔の沖縄を語り合ったのでした。





⑤事故発生!


イザイホウを描くためには、命がけで、海へ出て行く男たちの姿をとらえる必要がありました。なぜなら、イザイホウは、島の女が神になるまつりですが、それは男たちを守るためなのですから。

遠洋漁業に出ない島の男たちは、サバニで一本釣りに出かけます。小さなサバニですから、私たちスタッフが同乗することができません。撮影のための船を得るには、チャーター料が必要でした。



そうこうしているうちに絶好の撮影日和(海の荒れた日)がやってきました。後でチャーター料を送るということでお願いするしかないと海辺でみんなで話していると、友人の漁夫が海仕度でやってきました。

「今日は久高漁夫のほんとうの姿が撮れる日だよ。俺は漁を休んで撮影に付き合うよ。チャーター料?いらない、いらない。油代もいらないよ。久高の海人のほんとうの姿を撮ってほしいんだ。」というじゃありませんか。私たちは嬉しくなって喜び勇んで海へと出たのです。

海は大波が荒れ狂っています。漁夫はそんななかでサバニに仁王立ちして釣り糸を操るのです。私たちは夢中で、勇壮なその姿を追いました。

ところが - アッという間もありません。キャメラに波がかぶってしまったのです。

浜に上がったときは、キャメラはもうまったく動きません。まだ祭祀も始まらないというのに一台しかないキャメラが故障してしまったのです。代替機を送ってもらうことは私たちにはできません。私たちは頭を抱えてしまいました。

その時、キャメラマンのSが「俺が直す、2・3日時間をくれ」と決然といったのです。Sもキャメラは廻せても、キャメラの構造などわかるはずがないのです。でも任せるしかありません。

図面を引きながら、1日かけて分解しました。そして、油で一つ一つ洗浄し、図面を見ながら2日かかって組み立ててゆきました。Sは、夜もほとんど寝なかったと思います。そして3日目に組み立て完了。テスト!快調なモーター音が聞こえました。

私たち3人は、飛び上がって喜びました。

今考えてもどうしてもわからないのは、ビスが3本あまったことです。書き出した図面の通り組み立てたはずなのに、どうして3本のビスが余ったのでしょうか。Sはいつまでも首をかしげていました。




⑥電灯がついた!



島での私たちのくらしは、人間生活の原型に近いものでした。かまどで火をおこし、汲み置きの水で米を研ぎ、汁をつくります。暗くなれば、ランプに灯をともします。電気・ガス・水道などすべてがない、実にさわやかなくらしでした。

島では水汲みは子供たちの仕事でした。毎日何度も、西海岸のカー(井戸)から空缶やバケツに水を汲み、それぞれの家へ運ぶのです。私たちの宿舎へも運んでくれるのです。

宿舎には大きなかめに汲みおきの水がためられていました。雨がふれば、雨水もそこへたまるようになっていました。

水がめには、いつもボーフラが浮かんでいました。子供たちが、せっかく運んでくれた、あるいは、天から恵まれた貴重な水を、ボーフラがわいたぐらいで捨てることはできません。かめのふちをポンとたたくと、スッとボーフラが沈みます。その間に汲みあげるわけです。



ある日、久高島へ小さな発電機が上陸してきました。大人たちが小さな発電機を取り囲んで長い間、ああでもないこうでもないと嬉しそうに話し込んでいました。その夜から、一部のおもだったところで、一定時間電気がつくようになりました。静かな島に、発電機の音が響きました。そして、ある家でテレビが映ったのです。大人も子供もその家へ寄り集まって、大きな音の小さなテレビに釘づけになりました。窓の外にも、上気した大勢の子供たちが群がっていました。



私たちは、毎日相変わらず島の中を歩き回りました。学校が終わる頃になると、いつも10名以上の子供たちがついてきます。そして機材など荷物を持ってくれました。私たちはすぐ子供たちと仲良しになりました。
子供たちは、島のいろいろなことを教えてくれました。神の島であるこの島には、立ち入ってはいけないとされる神聖な場所があちこちにあります。子供たちは何でもどこでも知っており、いろいろ教えてくれるのです。立ち入ってはならないそんなところを撮った後など子供たちと私たちの間に共犯者同士のような連帯感が生まれて、私たちと子供たちはますます仲良しになったのです。

私たちは、毎日いつも十数名の大スタッフ(?)で島を歩き回っていました。真に楽しい撮影行でした。



映画『イザイホウ』より 神酒

映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より



⑦フトン




年の瀬が迫るに従い、日一日と寒さが身にしみるようになってきました。

南国沖縄が、こんなに寒いとは思ってもみませんでした。私たちには、毛布が一枚ずつあるくらいで、まともな寝具など全く用意していなかったのです。宿舎は板の間で畳などはありません。私たちは毛布にくるまって寒さをこらえて寝るしかありませんでした。



そんなある日のこと、掟神のNさんたち3人の神人が、それぞれ頭に二枚の布団をのせてニコニコしながら私たちの宿舎へ入ってきたのです。私たちは福の神が迷い込んできたかのように驚きました。

当時、学校(久高小中学校)の先生方は、それぞれ宿舎に住み、週末に本島の自宅へ帰るという生活ぶりでした。そんな一人に、馬天に家のある若い女の先生がいらっしゃいました。その先生が週末に帰ったおり、わたしたちが寒かろうと3人分の布団を船で運んできて下さったのです。それは私たちの全く考えてもみなかったことで、大変恐縮したことでした。

あの頃、久高航路は馬天港とつながっていました。たまたま桟橋に荷揚げされる布団を見たNさんたちが、私たちの宿舎への運搬を引き受けて、あの日福の神の訪れとなったのでした。

翌日、子供たちの嬉しそうに笑っている、ワケありげな顔を見て、アッと気づいたのです。子供たちが先生に私たちの惨状(?)を話したに違いありません。恥ずかしさに身の縮む思いをしながらも、たいそう嬉しい気持ちになったことを覚えています。

その日から、私たちはみんな暖かい布団のなかで、ぐっすり眠ることができました。




⑧底をついたロケ費



本祭一ヶ月前の「御願立」の儀も終り、ナンチュたち(今度の神事で神女となる30歳から41歳までの女)が、定期的なウタキ参りをくり返し、島は日一日と緊張感が盛りあがってきました。

そんな一日、私たちはスタッフの命綱であるロケ費が底をついていることに気がつくのです。

「おい、金がないぞ。どうする?」

「いまさらどう出来る?米さえあれば、ひと月やふた月人間死ぬようなことはないよ。」

幸い米と塩だけは十分ありました。

「野菜は野にニガナがいっぱいあるじゃないか。芋のかずらをつんでも誰も文句はいわないよ。どうしてもタンパク質が不足するようなら、一日休んでみんなで魚釣りをやろうじゃないか。」

「あ、それはいい!」と、みんな金のないのも忘れて釣りの計画に夢中になったのでした。

私たちスタッフは、その出発点から、ビンボーにはあまり驚かない体質を持っていたのです。沖釣りは船がないからできません。磯釣りしかありません。ここでまた、子供たちの登場です。どこで何が釣れ、糸の長さは、釣り針の大きさは、と、小さい師匠について、現場実習を積み重ねたのです。

一方、島の人々の暮らしには、清貧と言っていいような清々しさがありました。
生産用具といえば、サバニと漁具、鍬、鎌とカゴぐらいで、いわゆる文化的な色合いの不純物は何一つありませんでした。この貧しさの爽やかなトーンが私たちのビンボーという通奏低音と共鳴したのかも知れません。

この後、私たちの暮らしに全く思ってもみなかった事態が展開することになるのです。




映画『イザイホウ』より 静かに合掌

映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より





⑨本祭近づく



一日の撮影が終って、夕方宿舎へ帰ってくると、大盛りのサシミが置いてありました。そのおいしそうなサシミ皿をみんな、様々の思いで眺め入りました。

「幻覚じゃないんだろうね。」

するとそこへ数人の漁師たちが酒を持って入ってきたのです。疑問はたちまち氷解、楽しい酒盛りの開宴です。こんなことがたびたび行われるようになりました。そんな翌日には、前夜の漁師の奥さんたちが野菜や芋を持ってきてくれました。私たちはロケ費が底をついたというのに、前にも増して優雅な食生活をおくることになったのです。ニガナを採集したり、魚釣りをする必要もなくなり、イザイホウのことだけを考えておればいいのです。もうこうなると外来の撮影班ではありません。神事にかかわる島人のようなものでした。



本祭が近づくと沢山の報道関係者、観光客が入ってきます。無遠慮にあちこち歩き回られたのでは、たまったものではありません。その前に、島の若者たちで、報道管制をしくことになりました。縄張りをして、立入禁止の紙をぶら下げるのです。

私たちも、ごく自然に島の若者たちと一緒に、立入禁止の張り紙をはって回りました。



祭の二・三日前から大勢の人々が入ってくるようになりました。島の外に働きに出ている島の人たち、報道関係者、学者や文化人、一般の観光客などで島は膨れ上がりました。

私たちは、そんな外来者とほとんど接触することなく、神事の進行にとけこんで行ったのです。


⑩思い出に残る外来者




島へ上陸した学者や文化人、そして報道関係者は目を光らせて歩き回っておりました。祭関連の場所を見、写真を撮り、島人に話を聞くのです。その真剣な姿は見ていて本当に怖いくらいでした。私たちにもひとりでに緊張感が忍び寄るような感じでした。



そんななかで、いつもたった一人、にこやかな表情で飄々と歩いている方がありました。T先生です。たしか当時琉球政府の文化財保護委員会のメンバーだったと思います。なぜかよく出会うものですから、いつしか私たちは先生と立話をするようになっていました。先生の話には、イザイホウのイの字も出てきません。久高島の植生について、実物の植物を指し示しながら、話をしてくださるのです。その話を興味深く聴いているうちに、私たちの心は自然と安らぎ、とても落ち着いた気持ちになるのでした。

先生には、道であったり、海辺であったり、井戸端であったり、不思議によくお目にかかりました。そんな先生のご様子は、本祭期間中も、まったく変わりませんでした。ほとんどの人が、目を血走らせて走り回っているのに、先生だけは飄々と祭事の周囲を歩いておられるだけでした。島の植物を通してイザイホウを見ておられるような感じでした。本祭期間中でもイザイホウのことは一言もおっしゃいませんでした。いつも島の植生について穏やかに話されるのです。

私たちは先生の話に接してどれだけ心休まる思いをしたかわかりません。




⑪A君のこと


スタッフのA君は、主として進行と録音を担当しておりました。

彼とは松竹のシナリオ研究会で初めて会ったのですが、わたしより4・5才は若かったと思います。妙に積極的な、ずうずうしいと言ってもいいくらいな性格の持主でしたが、何故か憎めない男でした。

何かの時、「そんなこと言って君、恥ずかしくないのか」というと、「私のモットーとするところは、ハレンチになること、これです」といってにっこり笑うといったあんばいでした。私もキャメラマンのS君も、どちらかというと引っ込み思案の方でしたから、A君の積極性には、ずいぶん助けられたものでした。



本祭がせまる頃、メインの祭場ウドゥンミャーのキャメラ位置に悩んでおりました。

祭の全体像を捕えるには、どうしても高見の位置が必要だったのですが、それがないのです。本祭の前日、突然A君が、ちょっと本島まで行ってくると、出かけていったのですが、その夕方金もないのにどうして手に入れたのか、建設用の鉄骨足場を船に積んで、意気揚々と荒海を渡ってきたのです。さっそく組立て、現場にフカン台として据えつけました。

祭事の撮影にどれだけ威力を発揮したか分りません。他の撮影スタッフの中にもこのフカン台の恩恵を受けた人たちがあったはずです。

もう一つ、撮影用のフィルムが足りなくなってきたのを見て、どう交渉したのか、テレビ局のスタッフから2000フィート(約1時間分)のフィルムを借りてきたのもA君でした。これには後日談がありますが、今は触れません。

いずれにしても、A君は私たちスタッフにとってなくてはならない存在でした。




映画『イザイホウ』より 花挿し遊び

映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より




⑫心のキャメラマン・S君




S君は、永い間一緒に仕事をしてきた盟友でした。海水につかって動かなくなったキャメラを三日がかりで直したあのS君です。彼は、対象にのめりこむようなキャメラマンでした。

本祭二日目、髪垂れ遊びが終った夕刻、暁神遊びが行われます。これは前日の夕神遊びに参加しなかった、午年生まれと乳飲み子をもった女で、夕神遊びと同じことを行うのです。この時はたしか8名だったと思います。私たちは、祭場で見ていたのですが、その時はライトがなく撮れないのです。



なぜかというと -



前夜の夕神遊びの時、全撮影班が話し合い、島人に頼んで発電機の電気を引き、ライティングして待っていたのです。

ナンチュが「エイファイ、エイファイ」と祭場へかけこんで来ます。このとき、突然ライトが消えてしまいました。島人の誰かが、電源を切ったに違いないのです。私たちは、そんなときに備えてフライヤー(照明用の松明)を用意しておりました。すぐフライヤーを点火して、なんとか撮影することが出来たのです。どの撮影班も、私たちの灯したフライヤーの灯で撮影したはずです。

さて、二日目はもうフライヤーはありません。ところがS君はどうしても撮るといってきかないのです。ライトがない以上、撮っても写るわけがありません。S君は、「オレはどうしても撮りたい。写らなくても撮りたい」といいはるのです。私たちは貴重な160フィートを無駄回しすることにしました。でないとSの心がおさまりません。

撮影が終って、Sはちょっと恥ずかしそうにいいました。

「いいカットだと思う。必ず使ってくれ。」

東京へ帰ってラッシュプリントをあげてみると、延々と真暗な画面が続きます。そして時々、パッとナンチュの洗い髪姿がひらめくのです。それは観光客のスチールキャメラのフラッシュのおかげなのです。

映画のフィルムは1秒間に24コマまわりますが、フラッシュが感応するのはわずか1コマです。真暗ななかで、パッパッとナンチュのひきつった顔が浮かびます。このカットに、ナンチュの「エイファイ、エイファイ」と島の男たちの怒鳴る「フラッシュたくな!」「やめろ!」をかぶせてみると、実に緊迫感のあるカットになりました。S君には申し訳ないが、やっぱり、このカットを作品に使うことは出来ませんでした。

実は、この三ヶ月間の撮影期間中にS君の長男が誕生しておりました。彼は一言も言わなかったから、東京へ帰ってから初めて、私たちはそのことを知ったのです。




⑬元旦の海水浴



12年に一回の神事・イザイホウは終りました。

潮が引くように、大勢の人々が島から出て行きます。久高島は元の静かなたたずまいを取り戻します。出会う島人は、みんな決まってホッとしたような笑顔をみせます。厳粛な神事から解きはなたれた安らぎを、覚えていたのでしょう。私たちも、歴史的な素晴らしい時間を共有できた喜びを感じておりました。



新しい年(1967年)を迎えました。

久高島では、すべての行事が陰暦で行われますから、新正月は何もしないのです。



「海へ行こう、泳ごう」



私たちは、心ときめかせて海へと歩き出しました。久高島へ来て、初めて海へ入るのです。しかし、南国沖縄でも正月は結構寒いのです。波も相当荒いのです。私たちは、岩にたたきつけられないよう気をつけながら、おそるおそる元旦の海へ入って行きました…

そんな海岸へ、ドラム缶を担いだ人が現れました。掟神のNさんです。Nさんは、私たちのために即席の風呂を沸かしてくれました。震えながら海から上がってきた私たちは、ドラム缶の風呂に入って温まりました。三ヶ月間、井戸水で体を洗ってきたのですから、久高へ来てはじめての入浴でした。

ドラム缶の風呂に身を沈めながら、私たちは三ヶ月余にわたる心あたたまる島人との交流を思い起こしておりました。

もう別れのときが迫っているのです。





映画『イザイホウ』より 神の印

映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』より


⑭思わぬ訪問者




これは話さないつもりでしたが、やっぱり聞いて頂くことにします。

「イザイホウ」が終った後のこと、私をたずねて中年女性が久高島へ渡ってきました。「イザイホウ」の新聞記事に撮影班の名前を見て、もしやと思い、尋ねてこられたのでした。沖縄戦の時、野戦病院壕で私の父と一緒に働いていた看護婦のTさんでした。

父は北陸の寒村で開業医をしておりましたが、1944年に召集され、軍医として沖縄へ派遣され、沖縄戦で戦死したのです。1965年に私が初めて沖縄へきたのも、父の終焉の地を一目見ておきたいと思ったからでした。

Tさんは私が一緒に働いていた軍医の息子であるとわかり、野戦病院の毎日の様子、そして父のことなどを熱っぽく語ってくれました。そして帰京前沖縄本島へ渡った時、そのガマ(壕)に案内して下さったのです。
彼女にとって、21年ぶりのガマでした。



…ここの両側にベッドが並んでおり、奥に処置室があり、いつも、うめき声や叫び声が響いておりました。麻酔薬などありませんでした。大勢で押さえつけ、切り裂き、切断したのです…



Tさんはガマへ入りながら当時の様子を憑かれたように語り出したのです。そして、走りこむように、ガマの中へ入ってゆきました。気がつくと、彼女は何も語ってはいませんでした。立ち止まって奥の方をじっと見つめているのです。そして声もなく涙を流していたのです。

Tさんたちがガマを出たのは6月23日だったといいます。 その時父は、まだガマに残っていたそうです。その後はまったく消息が知れません。

敗戦の翌年、公報が来て6月10日戦死となっておりました。しかし本当は6月10日にはまだ生きていたのです。その後、寺院で遺霊祭があり、遺骨を受け取りに行きました。

家に帰ってあけてみると、一片の紙切れに父の名が書いてあるばかりでした。



Tさんは後年、北陸の草深い我家の墓まで墓拝りにたずねて来て下さいました。

本当に有難いことでした。




⑮港の別れ


あの港の別れは心に焼きついて忘れることが出来ません。

沖縄本島が遠望できる西側の桟橋(今はもうない)を、まさに出港しようとする連絡船に私たちが乗っています。桟橋には見送りに来た十数人の神女たちが立っています。

エンジン音が高まり、船が島を離れて行きます。

神女たちは涙を流しながら「行ってらっしゃい」「行ってらっしゃい」と口々に言い、手を振って別れを惜しんでくれました。

私たちも何か叫んでいたように思います。

永い映画人生で、ロケーションに来て餞別もらって (前日、神女たちから餞別をもらっていた) 涙で送られた経験は、後にも先にもこの時しかありません。

私たち3人のスタッフは、神女たちからもらった餞別をもとに、船で鹿児島までたどりつきます。

しかし、そこからの旅費がありません。

さいわいその時、私は結婚祝いにもらった、ちょっと高価な時計をもっておりました。

さっそく、質屋へ飛び込みました。行き当たりばったりです。ところが偶然質屋の息子が東京の某録音スタジオで働いていることがわかったのです。

そのスタジオは、私たちがいつも利用していた録音所です。名前を聞いても、その人はわかりませんでしたが、たちまち質屋のオヤジさんとうちとけて東京の話・録音所の仕事の話などで盛り上がりました。

オヤジさんは口調をあらためて

「わかりました。3人分の旅費と宿泊費ですね。用立てましょう」

と、途中の食費まで含めた十分な金額を貸してくれました。あの時計にそれだけの価値があったかどうかわかりません。

そうして東京駅にたどりつき、三ヶ月余にわたる私たちのヤジキタ珍道中は終りを告げたのです。

多くの人にお世話になった旅でした。そして、実に楽しい旅だったのです。





⑯結


イザイホウ撮影当時のことを思い出すままに書き綴ってきました。

41年前、久高島で過ごした三ヶ月余の日々は、昨日のことのように心に焼きついています。その前後の時の流れの中で、あの三ヶ月だけはまさに別天地だったのです。

久高島の風土と島人の暮らしの中で、私たちは夢の中を生きているように流れておりました。そのせいでしょうか、私たちは普通では考えられないくらい妙なずうずうしさで島を楽しんでいたように思います。

呼ばれもしないのにお祝いの家へ押しかけたり、用もないのに一軒一軒訪ね歩いたり…

よくもまあ、と思わずに入られません。ところが、出向いたお祝いの家では「よく来てくれましたねえ」などと膳部まで用意して歓迎してくれましたし、訪ね歩いたどの家でも嫌な顔一つせず、いろいろ話を聞かせてくれました。



また、こんなこともありました。

クボウウタキに大勢の神女たちが集まった時(御願立の儀)のこと。私たちは神女たちの行列の後をおい、一緒にウタキへ入ってゆきました。ここは本来男子禁制の場で、私たちなど入ってはならない神聖な場所だったのです。
私たちもそのことは聞いてわかっていたのですが、抑えることが出来なかったのです。

そうして私たちは「御願立」の儀を撮影しました。そんな私たちを誰もとがめだてをしませんでした。



その夜、ノロ家へみんなであやまりに行きました。何か大変な事をしでかしたと思ったのです。しかし、ノロさんは私たちが話し出す前に「あんたたち何も言わなくていいんだよ。神様には私があやまっておいたから」と言ってくれたのです。私たちはノロさんの温情に救われたのでした。



そのことがあって以来、私たちと神女たち、島人たちとの垣根がとり払われたように思います。
そして、久高の神様とも…



私たちは、許されたる者の思いでイザイホウの中へ溶け込んでいったのです。(終)













野村岳也 プロフィール



石川県七尾市出身、沖縄県豊見城市在住。映画監督としてドキュメンタリー映画制作に携わる。2010年12月株式会社 映像製作 海燕社を創立。











映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』

1月24日(土)より渋谷アップリンクにて追加上映




監督:野村岳也(海燕社)

1966年製作/ドキュメンタリー/モノクロ/スタンダード/モノラル/デジタル上映/49分



http://www.uplink.co.jp/movie/2014/34130



公式サイト:http://www.kaiensha.jp/

公式Twitter:https://twitter.com/kaiensha





▼映画『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』予告編

[youtube:Xvv55fvIi2c]

ウソみたいな真実の話だったから映画にしたかった『ビッグ・アイズ』ティム・バートン語る

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映画『ビッグ・アイズ』より © Big Eyes SPV, LLC. All Rights Reserved.



実在の画家マーガレット・キーンとその夫ウォルター。60年代のアメリカ、ポップアート界に衝撃を与えた〈ビッグ・アイズ〉シリーズを巡る騒動をティム・バートン監督が描いた『ビッグ・アイズ』が1月23日(金)より公開となる。自らも〈ビッグ・アイズ〉シリーズを愛し、コレクターでもあるティム・バートン監督が、エイミー・アダムスとリストフ・ヴァルツを主演に迎え、60年代以降のモダン・アートに大きな影響を与えたその独特のタッチの画の秘密について迫っている。アンディ・ウォーホールからも賞賛され、セレブリティの仲間入りを果たしたふたりにふりかかったスキャンダルを、ティム・バートン監督はどのように描いたのか。



先日発表された第72回ゴールデン・グローブ賞で、エイミー・アダムスがコメディ/ミュージカル部門の主演女優賞を受賞した今作について、ティム・バートン監督が語ったインタビューを掲載する。




「ビッグ・アイズ」は日本のアニメのようだとずっと思ってた





──マーガレット・キーンの大きな瞳の絵の魅力は何ですか?




幼い頃からずっと記憶に残ってるんだ。彼女の作品はいろんな場所に飾ってあったよ。家や病院、歯科医院、どこに行ってもね。子供ながらにすごい存在感を感じたんだ。

可愛いんだけど……なんだか恐ろしい。だから、みんながこの絵に何を感じ、興味を持つんだ。

大好きな人も、大嫌いな人もいる。そういった反応が私には興味深くてね。





ティム・バートン監督Photo:Yoshiko Yoda

映画『ビッグ・アイズ』のティム・バートン監督 Photo:Yoshiko Yoda



──彼女の作品を集めていると聞きましたが?



いくつか持ってるよ。新しい作品が多く、古い作品は少ないね。

その中でも、古い作品は実に面白い。

最初は多くの人がウォルター・キーンの作品だと思ってて……後になって本当のことに気がつくんだ。






映画『ビッグ・アイズ』より

映画『ビッグ・アイズ』より © Big Eyes SPV, LLC. All Rights Reserved.




──日本の“カワイイ”文化を知っていますか?若い女性はみんな「ビッグ・アイズ」のように描かれます。




ああ、知ってるよ。これは日本のアニメのようだとずっと思ってた。

どっちが先だったかは忘れたけど、日本のアニメや、この絵のような雰囲気は……今でも大きな目のキャラクターは多いけど、多くの人に好き嫌いに関係なく、影響を与えてきたんだ。そんな中である程度日本のアニメを感じさせる要素があることには気づいていたよ。



──この物語を映画にした理由は?



これは奇妙な話で、実話だけど、信じられないというか……ウソみたいな話が事実だったりするけど、これもそうだ。

私は絵に興味があり、ウォルターとマーガレットのこじれた関係の話を聞いた。

マーガレットが描いたけど、名義はウォルターで……そんなところが面白かったんだ。



映画『ビッグ・アイズ』より

映画『ビッグ・アイズ』より © Big Eyes SPV, LLC. All Rights Reserved.



──実在する人物を元にした映画は久々ですが、今回の作品で最も重要だったことは何ですか?



発想が気に入ったんだ。真実だけれども信じられない側面が多い。

これは『エド・ウッド』に少し似てるんだ。彼は最低の映画監督と言われても多くの人が彼の作品を覚えてる。そこが似てると思う。

この絵を嫌う人も多いが、それでも何か人の記憶に残るような強烈なものを持っている。

だからこの2つの映画には共通点がある。

どちらも実在の人物で、少し常識外れで……まるで作り話に聞こえる。




映画『ビッグ・アイズ』より

映画『ビッグ・アイズ』より © Big Eyes SPV, LLC. All Rights Reserved.


実際のマーガレット・キーンは内気で、とても内向的だった



──キャスティングの意図は何ですか?クリフトフ・ヴァルツとエイミー・アダムスを選んだ理由は?



クリストフは芸達者で、ウォルターにぴったりだ。

魅力的だが、いじめたり脅したり、そういう2つの面を同時に表現するのがとてもうまい。

エイミーは静かな力を表現した。ある意味、彼女の役の方が難しかったと思う。

内向的で内気な人物を演じつつ、見ている人に強烈な印象を抱かせた。

そんな2人が合わさってカップルとなるが、完全にゆがんだカップルだね。



──この映画は60年代のポップアート全盛期が舞台ですが、当時のポップアートを表現する上で気をつけたシーンや風景はありますか?



実際のところ、制作費が少なかったから、ある分だけで頑張った。

色々と工夫を凝らして当時を再現した。でも制作費は大した問題じゃなかったんだ。

この作品は人間関係が中心の映画だ。だから少しは困ったけど、大方問題ない。

むしろ急いで撮影したり、あちこちへ飛び回ったりとすごく楽しかったし、前向きに仕事をこなせたよ。




映画『ビッグ・アイズ』より

映画『ビッグ・アイズ』より © Big Eyes SPV, LLC. All Rights Reserved.




──マーガレット・キーンには実際に会われたとのことですが、どんな人でしたか?



内気で、とても内向的だった。なんで彼女が映画を気に入ったか不思議だったよ。

でも、自分についての映画を見ること自体が、異様な体験だと思ったね。

ましてや、その人が内気で内向的な場合は。

だから彼女にとっては、法廷に立って苦しい過去を告白することは大変なことだったと思う。



──今回の映画には目の大きいキャラクターがいますが、自分も彼女の絵に影響されたと思いますか?



もちろん。多くのアーティストが今も昔も影響されてる。たとえば私の娘も、“ビッグ・アイ”な人形をコレクションしてる。20体ほど。

こういう人物描写はディズニー映画でも見られるし、現代の画家もこういう絵を描く。好きか嫌いかは別として、多くの人が影響を受けてるんだ。





(オフィシャル・インタビューより)













ティム・バートン(Tim Burton) プロフィール



1958年、アメリカ、カリフォルニア州生まれ。ディズニーの特別奨学金でカリフォルニア芸術大学に入学、1979年にアニメーターとしてディズニーに入社する。短編アニメ『ヴィンセント』(82)で監督デビューを果たした後に退社し、『ピーウィーの大冒険』(85)で初めて長編映画の監督を務める。1989年、『バットマン』が世界的大ヒットを記録。続く『シザーハンズ』(90)では、ダークファンタジーと切ないラブストーリーを一体化させ、広く女性ファンも獲得する。その後も『ビッグ・フィッシュ』(03)、『チャーリーとチョコレート工場』(05)、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(07)、『アリス・イン・ワンダーランド』(10)など、多彩なジャンルを“バートン・ワールド”に塗り替え、唯一無二の映像作家として広く愛されている。その他の主な作品は、『エド・ウッド』(94)、『スリーピー・ホロウ』(99)、『PLANET OF THE APES 猿の惑星』(01)、『ダーク・シャドウ』(12)、アニメ『フランケンウィニー』(12)など。映画以外にも様々な芸術活動で特異な才能を発揮、2009年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)が、スケッチからデッサンや写真、映画製作用のキャラクター模型などを集めた「TimBurton展」を開催。MoMA歴代3位の入場者数を記録し、パリ、トロントなど世界5都市を巡る。その後、展示形態をテーマ毎に変えて新たに150点の作品を加えた「ティム・バートンの世界」が、2014年3月にチェコ、11月より東京で開催されて大成功を収め、2015年2月より大阪にも登場する。













映画『ビッグ・アイズ』

2015年1月23日(金)TOHOシネマズ 有楽座他 全国順次ロードショー




映画『ビッグ・アイズ』より

映画『ビッグ・アイズ』より © Big Eyes SPV, LLC. All Rights Reserved.




内気で口下手なマーガレット・キーン。彼女の描く悲しげな大きな瞳の子供たちの絵は、1960年代に世界中で大ブームを巻き起こした。──ただし、夫のウォルターの絵として。富と名声。両方を手にしたふたり。しかし、マーガレットは真実を公表し闘うと決心する。なぜ彼女は、夫の言いなりになったのか?なぜ彼女は、全てを捨てると決めたのか?アート界を揺るがす大スキャンダルの行方は?




監督:ティム・バートン

出演:エイミー・アダムス、クリフトフ・ヴァルツ

音楽:ダニー・エルフマン

美術:リック・ハインリクス

衣裳:コリーン・アトウッド

2014年/アメリカ/カラー/106分/ヴィスタ/5.1chデジタル



公式サイト:http://bigeyes.gaga.ne.jp/

公式Facebook:https://www.facebook.com/moviebigeyes

公式Twitter:https://twitter.com/bigeyesfilm











『オイスター・ボーイの憂鬱な死』







奇才ティム・バートン監督による大人の絵本

フリーキーな子供たちが次々と登場、

悲しく残酷なストーリーでありながら、

キュートさとユーモアを感じさせる

バートン独特の世界が結実。



ティム・バートン:著、イラスト

サイズ:B6変型

定価:2,855円(税別)

頁:127ページ

発行:アップリンク

発売:河出書房新社





公式サイト:http://www.uplink.co.jp/burton/










▼映画『ビッグ・アイズ』予告編

[youtube:NDrOmd7qJ90]

『二重生活』ロウ・イエ監督、東大で特別講義!「海賊版DVDで日本映画を勉強した」

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東京大学の特別講義より、『二重生活』のロウ・イエ監督(左)、樋口毅宏氏(右)



映画製作・上映禁止処分を受けた中国の鬼才ロウ・イエ監督が、5年ぶりの新作『二重生活』を引っ提げ来日を果たし、日本公開記念イベントの第1弾として23日、東京大学・本郷キャンパス 石橋信夫記念ホールにて特別講義を行った。この日は、ロウ監督の大ファンであり、『タモリ論』『日本のセックス』などの著書でも知られる作家の樋口毅宏氏と、中国の現代文学を研究し、中国映画にも精通する同大学の刈間文俊教授が登壇。ロウ監督本人を交えながら、それぞれの視点から本作の魅力について熱く語った。



この映画の原題には、

水の上を漂う根無し草の意味が込められている(刈間氏)



本作は、天安門事件を扱った『天安門、恋人たち』で映画製作・上映禁止処分を受けたロウ監督が、禁止令解除後、5年ぶりに中国で製作した衝撃のメロドラマ・ミステリー。経済発展が著しい中国湖北省・武漢市を舞台に、交通事故で死亡した女子大生、彼女と最後に接触した二つの家庭を持つ男、その妻と愛人が織り成す複雑な物語がスキャンダラスに展開する。また本作は、カンヌ国際映画祭ある視点部門のオープニング作品として上映され、予測不能のジェットコースター的展開が観客を驚愕させた。



ロウ監督は、「5年間の禁止令が解かれたあとの最初の作品なので、劇場公開することができてとても感慨深い。資金面などさまざまな問題が山積していましたが、それらを全てクリアし、1本の作品として撮り上げたことで、これからも作品を撮り続けることが可能になった」とコメントし、再スタートへの意欲を見せた。




著書『日本のセックス』が『天安門、恋人たち』に影響を受けたという樋口氏は、本作を観終わったあとの余韻に浸りながら、「困ったことに、年が明けて間もないですが、もう今年のベストワンを観てしまった感じですね」と放心状態。さらに、「わりとありきたりなテーマではあるのですが、ロウ監督の手にかかると、新たな息吹が感じられ、『こんな映画、初めて観た!』という錯覚に陥ってしまう」と、すっかり本作の魔法にかかってしまったようだ。





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樋口毅宏氏





一方の刈間教授も、「経済的に世界第2位となった今の中国をどう描くのか、予想がつく映画はたくさんありますが、この作品は『こんな撮り方をするのか!』という驚きがありました。現代中国の都市を生きる焦燥感が画面から伝わってきましたね。新しい感性というか、とても成熟している」と、手放しで絶賛。また、中国語の原題『浮城謎事』についても言及し、「城は街を表しますが、水の上を漂う根無し草の意味も込められていると思う」と、タイトルから映画の世界観を読み解いた。




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刈間文俊氏



『浮雲』から『砂の器』まで、

日本映画から大きな影響を受けた(ロウ監督)




これに対してロウ監督は、二人の称賛の言葉に感謝しながら、「この映画は、メイ・フォン(『スプリング・フィーバー』『天安門、恋人たち』などロウ監督と共に脚本を手掛けている盟友)と共に、主に日本の1970〜80年代辺りの作品を研究し尽くしました。例えば、『砂の器』(松本清張原作、野村芳太郎監督)や『Shall we ダンス?』(周防正行監督)などからは多くのことを学びましたね。若い頃から、日本映画をたくさん観てきましたが、アジアの中でも、日本映画と中国映画のテイストはとても似ている」と、自身の映画が日本映画から大きな影響を受けていることを明かした。



この言葉を聞いて、思わず顔をほころばせた刈間教授。それもそのはず、1985年、フィルムセンターと協力して日本映画の回顧展を中国で開催した立役者の一人でもあるのだ。これについてロウ監督は、「当時、北京電影学院の1年生でしたが、授業の一環として40本以上、貴重な日本映画を観ることができました。大島渚監督の『日本の夜と霧』もありましたね。これまで(あまり大きな声では言えませんが)海賊版のDVDでしか観られなかった作品も多かったので、とても感謝しています」と、刈間教授の尽力に敬意を表した。




映画『二重生活』より

映画『二重生活』より



また、樋口氏から、とくに気に入っている日本の映画監督や作品ついて聞かれたロウ監督は、神代辰巳監督と深作欣二監督の名を即座に挙げ、作品では『浮雲』(成瀬巳喜男監督)、『二十四の瞳』(木下惠介監督)、『魚影の群れ』(相米慎二監督)と回答。とくに『浮雲』については、「映画を勉強する人は何度も観る作品」と、中国でも監督を志す人たちのバイブル的作品であることを明言。すると、会場に駆け付けたファンから、「『天安門、恋人たち』は、村上春樹の『ノルウェイの森』に影響を受けているのか」との質問が飛び出し、ロウ監督は「確かに彼の本は読んでいるし、とても素晴らしかった。1968年の日本は、1989年の天安門事件後の中国と共通する雰囲気だったと思う」と述べ、それは影響を受けた一部の要素ではあるが、全てではないと語った。




映画『二重生活』より

映画『二重生活』より

 

主人公は絶倫クソ野郎、

ロウ監督はなぜ男を滑稽に描くのか(樋口氏)




本題の『二重生活』から、話が逸れつつある中、樋口氏から主人公ヨンチャオに対する過激な質問がロウ監督に放たれた。「本妻がいて、愛人がいて、女子大生にも手を出すあの“絶倫クソ野郎”ですが(笑)、彼にとって、愛の行為も、性の処理も、跡継ぎを作ることも、女性に対する制裁も、全てがセックス。なぜ、あそこまで男を滑稽に描くのか」と投げ掛けると、苦笑いしながらもロウ監督は、「ヨンチャオは、あちこちバランスを取って生きなければならないとても可哀相な男。彼の姿を通して、偽りの中では生きていけないことが学べるはず」と迷いなく回答。さらに、劇中、顔のアップが多いことについてロウ監督は、「言葉では表現できない微妙な心理の変化を、顔のクローズアップで表現したかった。『迷い』と『矛盾』が物事を決定していく、その思い惑う姿を描くことが、この映画には必要だった」と説明した。




映画『二重生活』

映画『二重生活』より




第5世代と呼ばれるチェン・カイコーとチャン・イーモウの2大巨匠が1984年に発表した『黄色い大地』で、中国映画は変貌したと刈間教授はいう。映画を監督の個性で語る時代になり、もうあとには戻れない。彼らを乗り越え、新しい感性を生み出していくのは、紛れもなく第6世代と呼ばれるジャ・ジャンクー監督(『罪の手ざわり』『一瞬の夢』)であり、ロウ監督だ。



禁止令中、フランスで撮影した『パリ、ただよう花』や『スプリング・フィーバー』は、驚くほど自由に撮れたとロウ監督は振り返った。それでも、5年間の禁止令を耐え抜いて、再び中国での映画製作に挑んだのはなぜだろう。表現の自由が厳しく規制される母国・中国への思い…。抑圧への反発がロウ監督の映画魂に火を付けるエネルギーの源なのか。時に凶暴なほど研ぎすまされた感性が映像の中に宿るのは、怒りの向こうにある母国への愛なのかもしれない。「目の前にある出来事と緊密な関係を築きながら『現実』を切り取ることが重要なのだ」、その強い信念と共にロウ監督は『二重生活』を完成させ、現代中国が抱える心の闇を我々に突きつけた。






(2015年1月23日、東京大学・本郷キャンパス 石橋信夫記念ホールにて 取材・文・写真:坂田正樹)










映画『二重生活』

新宿K's cinema、渋谷アップリンクほか

全国順次公開中




二重生活flyer_omote_s



監督・脚本:ロウ・イエ

脚本:メイ・フォン、ユ・ファン

撮影:ツアン・チアン

編集:シモン・ジャケ

音楽:ペイマン・ヤズダニアン

出演:ハオ・レイ、チン・ハオ、チー・シー、ズー・フォン、ジョウ・イエワン、チャン・ファンユアン、チュー・イン

配給・宣伝:アップリンク

原題:Mystery(浮城謎事)

2012年/中国、フランス/98分/1:1.85/DCP



公式HP:http://www.uplink.co.jp/nijyuu/






▼映画『二重生活』予告編

[youtube:Z58mbWAgVMY]

雨宮まみ氏、『二重生活』ロウ・イエ監督の「愛は説明できない、体が感じるもの」に納得?

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映画『二重生活』公開記念トークイベントより、ロウ・イエ監督(右)と雨宮まみ氏(左)


著書『女子をこじらせて』などで知られるライターの雨宮まみ氏が25日、東京・渋谷アップリンクで行われた映画『二重生活』のトークイベントに出席し、ロウ・イエ監督が描く「満たされない主人公たち」の姿を通して、恋愛、結婚、その先にある幸福について赤裸々に語った。




日本は正しい結婚・恋愛観を重視する国、

不倫や浮気は愚かな行為と言われる(雨宮氏)


 

本作は、天安門事件を扱った『天安門、恋人たち』で映画製作・上映禁止処分を受けたロウ監督が、禁止令解除後、5年ぶりに中国で製作した衝撃のメロドラマ・ミステリー。経済発展が著しい武漢市を舞台に、事故死した女子大生、彼女と最後に接触した二つの家庭を持つ男、彼の妻と愛人が織り成す複雑な物語がスキャンダラスに展開する。


 

雨宮まみ(以下、雨宮):この作品には、夫、妻、愛人という主に三人の登場人物がいますが、誰かの視点に偏るのではなく、均等かつ客観的に描かれていて、三者全員の気持ちが凄くわかる、という印象を持ちました。誰の選択が正しいとか、誰の生き方が正しいとかではなくて、それぞれの瞬間や状況を描く作品として意識して観たのですが、その辺りはどう思われますか?




雨宮まみ氏

雨宮まみ氏


ロウ・イエ監督(以下、ロウ):誰もがあのような行為、行動を起こす可能性があり、その結果、失敗に終わることがある。ですから、この映画を作るにあたっては、決して製作者の色眼鏡で見ない、余計な道徳、倫理観は持ち込まず、まずは、その人物を観察する、そういう気持ちで作品を作り始めていきました。



雨宮:そこが素晴らしかったですね。日本では、建前はクリーンだけれど、実際は不倫や浮気もあるし、二重生活まではいかなくても何人もの異性と関係を持っている人もいる。ただ日本では、正しい結婚観、正しい恋愛観が重要視されていて、浮気をされても「そんな男とつき合うのが馬鹿なんだ」と安易な自己責任論にされたり、「一人の男と落ち着いて幸せになるのがいい」と昔ながらの定番の幸せを推奨されていて、この作品で描かれているような男女関係を受け入れる女性は、とても愚かなものとして受け止められているんです。



ロウ:男女問わず、人は二面性を持っています。結婚はプロセスであって、結果ではない。映画では、満たされない結婚を二重生活で解決しようとしますが、うまくいくはずがない。現状から逃げる生き方は、愛も自由も守ってはいけないんですね。この映画で最も重要なのは、「虚構」と「真実」との落差。そしてもう一つ、彼らの犠牲となって事故死した女子大生の姿に「生」と「死」という意味も込められているんです。




映画『二重生活』より

雨宮まみ氏


愛は言葉で表現できない、

強いて言うなら、体が感じることだと思う(ロウ監督)



雨宮:愛に苦しみ、満たされない主人公は、ロウ監督の作品にとって欠かせない存在だと思うのですが、監督にとって、ずばり恋愛とは何ですか?



ロウ:うーん、それはすぐには答えられないですね。一言二言では表現できない(笑)。はっきりと言えないからこそリアルだし、説明できないからこそ恋愛映画が次々と作られるんだと思います。ただ、強いて言うなら「愛とは、体が感じること」。好きな人と一緒にいたいと思うことも、体が感じることではないでしょうか。それはちょうど観客と映画の関係と同じで、観客は視覚・聴覚を使い体験することで映画との交流が成立する。ですから僕は映画を作り続けているのです。



雨宮:苦しさを生々しく感じる一方で、そんなに苦しみ抜くほど夢中になれる恋愛をしていることがうらやましくもあるんですが、幸せを感じる状態、充実感のある状態って、どんな状態なのでしょうね。



ロウ:例えば、『天安門、恋人たち』の主人公ユー・ホンは、愛について悩み、苦しむわけですが、その反面、彼女はその状態を楽しんでいるかのようでもある。苦しみを楽しむ、これは往々にしてあると思いますね。逆に本作のヨンチャオのように女性と遊びまわっていても満足できない者もいる。人間には表面ではわからない、いろんな側面がある。私も5年間の中国での映画撮影禁止令は確かに苦しかったですが、その状況を利用して、アメリカのアイオワ大学で映画史を学んだり、新作の『ブラインド・マッサージ』の原作者と出会ったり、楽しいことや収穫もありました。何より、『スプリング・フィーバー』と『パリ、ただよう花』の2本を自由に撮れましたしね(笑)。




雨宮:まさに苦しい時間を楽しむ……ロウ監督ってタフですね!




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映画『二重生活』より




映画製作・上映禁止令といえば、天安門事件に触れたこともそうだが、中国ではタブーとされていた過激な性描写も原因の一つ。雨宮氏も、そこがどうしても気になる様子で、とくに男性の肉体が美しすぎると感嘆する。



雨宮:ロウ監督の作品は、男性の裸の撮り方がとても魅力的なのですが、男女の別なく人の体の魅力をどう捉えているのでしょう。



ロウ:人の体を描くことは、映画にとってとても大切なこと。体というのは、その人物を描く上で非常に重要な情報になる。そして、その情報が詰め込まれた映画というものは、非常に力を持っている。ただし、そこには、国からのさまざまな制限が加わってくる。なぜ、政治家たちは映画を恐れるのか、それは力を持っているからなんですね。彼らにとって映画は、記録するものでもなく、芸術でもなく、社会を揺るがすニュース。私は電影局とよくぶつかり合いますが、「映画はそんなに重要なものではない、だから怖がらないでください」と、よく言うんです。そう言っておけば、映画がパスし易くなるかと思ってね(笑)。




対談終了後、観客との質疑応答の中で、いくら理屈を積まれてもヨンチャオの行動が腑に落ちないという女性から、「彼はいったい何を求めているのか?」という質問が投げ掛けられた。宮台真司氏との対談でも出ていた疑問だ。これに対してロウ監督は、「彼は求めているものにまだ出会っていない。そして、自分が欲しているものを探す中で、さまざまな女性を傷つけてしまう」と真摯に答えた。裕福な生活、本妻と愛人、それでも飽き足らず女子大生にまで手を出す心の渇き……人間の心に内在する捉えようのない「闇」は、今後も議論を呼びそうだ。




(2015年1月25日、渋谷アップリンクにて 取材・文・写真:坂田正樹)











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映画『二重生活』

新宿K's cinema、渋谷アップリンクほか

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監督・脚本:ロウ・イエ

脚本:メイ・フォン、ユ・ファン

撮影:ツアン・チアン

編集:シモン・ジャケ

音楽:ペイマン・ヤズダニアン

出演:ハオ・レイ、チン・ハオ、チー・シー、ズー・フォン、ジョウ・イエワン、チャン・ファンユアン、チュー・イン

配給・宣伝:アップリンク

原題:Mystery(浮城謎事)

2012年/中国、フランス/98分/1:1.85/DCP



公式HP:http://www.uplink.co.jp/nijyuu/






▼映画『二重生活』予告編

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社会学者・宮台真司氏が『二重生活』を男目線で語る、「私も主人公と同じニンフォマニアック(淫蕩症)だった」

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映画『二重生活』のロウ・イエ監督(左)、宮台真司氏(右)

 

社会学者の宮台真司氏(首都大学東京教授)が24日、東京・新宿K's cinemaで初日を迎えた映画『二重生活』のトークイベントに出席し、ロウ・イエ監督と作品における街の描き方や本妻、愛人、そして女子大生たちと交わりを持ちながらも満たされない主人公の心情について熱いトークを展開した。


 

人間とシンクロする武漢という街が、まるで生き物のように描かれている(宮台氏)


 

本作は、天安門事件を扱った『天安門、恋人たち』で映画製作・上映禁止処分を受けたロウ監督が、禁止令解除後、5年ぶりに中国で製作した衝撃のメロドラマ・ミステリー。経済発展が著しい武漢市を舞台に、交通事故で死亡した女子大生、彼女と最後に接触した二つの家庭を持つ男、その妻と愛人が織り成す複雑な物語がスキャンダラスに展開する。


 

宮台真司(以下、宮台):そもそも監督は、なぜ武漢という街をこの映画の舞台に選んだのですか?



ロウ・イエ(以下、ロウ):この街は、中国でも特殊な位置にあり、東部、西部、南部、北部、それぞれの地域の雰囲気を全て持ち合わせているようなところ。もともと好きな街で、『天安門、恋人たち』でも一部撮影に使ったこともあり、両作に主演した女優のハオ・レイも気に入っていたんです。



宮台:過去の作品もそうですが、監督は街を生き物のように描きます。単なる背景ではなく、人がそこに埋め込まれている大きな生き物。生き物としての街のダイナミズムと人がシンクロしているように感じられます。巨大ビルとホームレス。ディスコと屋台。高級車とトラック。眩暈をもよおすこうした街の落差が、そのまま人の落差になっています。



と、ここで突然、「実はですね……」と、含みのある笑顔を浮かべながら、宮台氏が自身のプロフィールをロウ監督に告白する。



宮台:1980~90年代の僕は、街の──とりわけ援助交際の──フィールドワーカーでした。本作でも女子大生たちの援交がほのめかされていますね。僕はこの新宿、そして渋谷の周辺を中心に調べていました。しかし同時に、当時の僕は、二重生活を送る主人公・ヨンチャオと同じように、常時5人以上の女がいるニンフォマニアック(淫蕩症)でした。



ロウ:そういえば、宮台さん、ヨンチャオと雰囲気が似ていますね!(場内大爆笑)



宮台:それから20年経ち、東京では、微熱に包まれていた街も冷え切り、街の微熱とシンクロしていたカオス的性愛もすっかり消えました。かつて熱に浮かされた都市のカオス的性愛を生きていた僕は、この映画を見て懐かしく感じます。監督は、時間の大きな流れの中で、やがて失われる都市と性愛のカオスを描いている、という意識がありましたか?




ロウ:確かにありましたね、中国は1980年代から経済の成長がどんどん進んでいますが、それに伴い不安定な状況が社会の中に現れはじめ、さまざまな階層の人々が都市にどんどん集まってきた。私は、カオスの中にいる人間にとても関心があるんです。




映画『二重生活』トークイベントより




フェミニズムの部分も一部認めるが、この映画は男の映画でもある(ロウ監督)



そして、その象徴が主人公のヨンチャオ。どの登場人物も均等に描いてはいるものの、ロウ監督の心は、本妻や愛人ではなく、やはりこのカオスの塊のような男に思い入れがあるようだ。



ロウ:彼はこれまで一生懸命仕事をして、お金を儲けて、会社を作り、彼女も作って、家庭も営んで、ここまではとても成功した人生でした。そんな彼の半生を武漢で車を走らせる冒頭のシーンに込めたんです。過ぎてしまった記憶をそこに留める、そんなイメージですね。ところが本国では、この作品は「女性映画」という偏った見方をされており、中国のある有名な社会学者は「これはフェミニズムの映画だ」と語っている。ある部分では認めますが、この作品は男性の映画でもあると私は思っているんです。だから今日は、宮台さんがヨンチャオに着目してくださってとてもうれしい。



宮台:ヨンチャオと自分を重ね合わずにはいられませんでした。ヨンチャオが単なる性欲過剰な男ではないことが、とても重要です。思い描いた通りの仕事の成功や、豊かな中流生活を獲得したのに、彼はどこか満たされません。そんな心の空洞を埋め合わせるために、次々と違う女性とセックスを重ね、それでも満たされない。かつての自分そのものです。




映画『二重生活』より

映画『二重生活』より




ロウ:中国のメディアから、「彼は全て揃っているのにいったい何がしたいんだ?」とよく聞かれるんですが、彼はずっと何かを探し続けている男。生きる目的を探している男。ところがそれが何かわからない。わからないから、最後に危険な道に走ってしまうのです。



宮台:だから、成功者であるはずのヨンチャオが、常にうつろな表情を浮かべます。玩具のピアノと戯れる子供を眺める時も、お洒落な自宅で寛ぐ時も、幼稚園で歌う子供の晴れ舞台を見る時も、まさしく「心ここにあらず」。夢であるはずの中流生活が、不確かなで儚い「蜃気楼」のように描かれます。心に突き刺さる描写です。



ロウ:これまで多くの中国人が中流生活を体験していますが、物質的には恵まれているものの、何か物足りなさを感じているのは事実。先ほど、お客様から「中国人にとって『幸せ』の基準とは?」という質問がありましたが、それはずばり、クエスチョンマークです。幸せの概念は人によっても、国によっても異なるものですが、私は体が感じるものだと思っています。



これまで、女性側の視点から映画『二重生活』を語られることが多かったというロウ監督。一部トークの中で、本妻、愛人の駆け引きについても語られたが、首謀者であるヨンチャオに焦点を当てたトークセッションに新鮮さを感じているロウ監督の思いを汲んでこのレポートでは男性目線に終始したい。



(2015年1月25日、新宿K's cinemaにて 取材・文・写真:坂田正樹)










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監督・脚本:ロウ・イエ

脚本:メイ・フォン、ユ・ファン

撮影:ツアン・チアン

編集:シモン・ジャケ

音楽:ペイマン・ヤズダニアン

出演:ハオ・レイ、チン・ハオ、チー・シー、ズー・フォン、ジョウ・イエワン、チャン・ファンユアン、チュー・イン

配給・宣伝:アップリンク

原題:Mystery(浮城謎事)

2012年/中国、フランス/98分/1:1.85/DCP



公式HP:http://www.uplink.co.jp/nijyuu/






▼映画『二重生活』予告編

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栗原類、ロウ・イエ監督に新作『二重生活』についてファン目線で終始質問攻め!

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ロウ・イエ監督(右)と栗原類氏(左)




モデルの栗原類氏が、26日、渋谷アップリンクで行われた映画『二重生活』のトークイベントに登場。憧れのロウ・イエ監督に「俳優とのコミュニケーション方法」や「舞台俳優と映画俳優の違い」など積極的に質問を浴びせ、演技に対する意欲を垣間見せた。また、この日は司会進行役として、映画ライターのよしひろまさみち氏も出席した。





自分の理想のためなら犠牲者も厭わない、

人間らしい「闇」と「欲望」に驚嘆(栗原氏)



本作は、天安門事件を扱った『天安門、恋人たち』で映画製作・上映禁止処分を受けたロウ監督が、禁止令解除後、5年ぶりに中国で製作した衝撃のメロドラマ・ミステリー。経済発展が著しい武漢市を舞台に、事故死した女子大生、彼女と最後に接触した二つの家庭を持つ男、その妻と愛人が織り成す複雑な物語がスキャンダラスに展開する。



栗原類(以下、栗原):登場人物たちの行動が、自分の理想のために人を犠牲にするという人間らしい「闇」と「欲望」が凄く出ていて素晴らしかったですね。中国の今の日常が監督の表現したいヴィジョンであることがはっきりしている反面、この映画は、果たして現実なのか、フィクションなのか、観る側を構えさせるようなところも深いと思いました。



ロウ・イエ監督(以下、ロウ):この話は、ある女性が書いていたブログが基になっているのですが、劇中に登場するさまざま人物は、今の中国の日常の中で話題になっているタイプの人たちばかり。例えば、お金持ちのボンボンであったり、愛人であったり、遊びで誰とでも付き合うようなイマドキの女の子だったり。そういう人たちを映画の中に登場させることによって、現代中国を見渡せるような作品にしたいと思ったんです。




映画『二重生活』より

映画『二重生活』より



栗原:これは僕が感じたことですが、俳優のカメラ目線が気になって、観ている僕たちが映画の中にいるような、第三者として存在しているかのような臨場感を味わいました。また、『スプリング・フィーバー』もそうでしたが、音楽がほとんどなくて、周りの雑音や環境音だけで表現されている。これも映画をよりリアルに表現するために意図されたことなのですか?



ロウ:そうですね。ドキュメンタリー・タッチで人物を描くことによって、その人物が置かれているリアルな境遇を表現したかった。例えば、幼稚園のシーンでは、実際の幼稚園の生活の中に俳優を紛れ込ませましたが、幼稚園自体は演出ではなく、いつものスケジュールで自然に生活が営まれている。あるいは、夫と子供の帰りをキッチンで迎える本妻役のハオ・レイは、20分前から実際に食事を作っていて、すでに3品の料理が出来ていた。つまり、そこまで生活のリアリティを追求して作っているわけですが、私のこうしたやり方に俳優たちがよく対応してくれたと思います。



よしひろまさみち(以下、よしひろ):監督は結構ムチャブリするから(笑)、俳優の方から意見されたり、ディスカッションになったりしませんか?



ロウ:いつも必ず俳優たちと事前にミーティングをやるんですが、今回はクランクインの1週間前から集まって、台本の読み合わせをしながら理解を深めていきました。ミーティングには、俳優のほかにカメラマンや照明さんなどスタッフも参加するので、1度映像で撮ってみて、現場の雰囲気を少し出してみたりしますね。ダメな意見は採用しませんが、いい意見の時はどんどん脚本を書き直しますよ。




栗原さん

ロウ・イエ監督(右)、栗原類氏(中央)、よしひろまさみち氏(左)


私が役者に求めるのは、演じるのではなく、

その役に成り切って生きること(ロウ監督)



瞬きもせずロウ監督の話に耳を傾ける栗原氏。近年、自身が舞台などにチャレンジしていることもあるせいか、俳優の話になると、さらに興味津々の様子を見せ、質問にも熱が入る。



栗原:舞台を得意とする俳優を映画で指導するのは、どんな感覚なのでしょう。やはり、難しいものですか?

ロウ:映画と舞台では、演技に求めているものが全く違うので、舞台の方法を映画に持ち込むとさまざまな問題が生じてくる。私が求めているのは、『役者は演じるのではなく、その役に成り切って生きる』ということ。今回は、しばらく中国を離れていたので、俳優探しから始めましたのですが、舞台で活躍していた愛人役のチー・シーも、最初は戸惑っていたものの、すぐに私のやり方を理解してくれました。



よしひろ:そういえば、ロウ監督は、5年間の禁止令を受け、海外での映画製作を余儀なくされた。一方、栗原さんは、日本を母国に持ちながらニューヨークで育った経験がある。いったん母国から離れて過ごすと、中国であったり、日本であったり、母国を客観的に観察することができるのでしょうか?



栗原:それは人によると思いますが、僕の場合は半年ニューヨーク、半年東京というサイクルの生活だったので、ギャップはまったくなかったですね。



ロウ:確かに一度離れて母国を見直すと、別の視点で見ることもできますが、忘れてしまうことも結構ありますね。



映画『二重生活』より

映画『二重生活』より


よしひろ:僕はこの映画を観て、現代中国の「闇」を浮き彫りにするのがうまい監督だなって思ったんですが……今、中国で一番大きな問題は何だと思いますか?



ロウ:中国には社会的問題がいっぱいありすぎて、一言では言えませんが、おそらく、今年大きな問題になっていることも、来年にはまた別の問題が発生している。そういうめまぐるしい社会の中で暮らしていると人間は疲れますよね。だからこそ、人と人との関係性が大切になってくるんだと思います。




本作は、武漢という地方都市が舞台となっている。本妻が住む富裕層のエリアと、愛人が住む貧困層のエリアが水路で区切られ、そこに架けられた大橋を主人公ヨンチャオがうつろな表情で車を走らせる。『二重生活』を最も象徴するシチュエーションだ。自分はいったい何を求めているのか、自分はいったい何をやりたいのか、目的も置かれている状況も、全てを見失ってしまったヨンチャオ。めまぐるしい時代の変化に疲弊しながら、いつしか大切な人との関係性が歪んでしまった男の象徴なのかもしれない。



(2015年1月26日、渋谷アップリンクにて 取材・文・写真:坂田正樹)











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ロウ・イエ監督×宮台真司氏 映画『二重生活』公開記念トークイベント第2弾レポート

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監督・脚本:ロウ・イエ

脚本:メイ・フォン、ユ・ファン

撮影:ツアン・チアン

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原題:Mystery(浮城謎事)

2012年/中国、フランス/98分/1:1.85/DCP



公式HP:http://www.uplink.co.jp/nijyuu/






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