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脚本・音楽のニック・ケイヴとヒルコート監督が語る『欲望のバージニア』の作り方

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『欲望のバージニア』より (C)MMXI by BOOTLEG MOVIE LLC All Rights Reserved



1930年代を舞台に密造酒ビジネスをめぐる3人の兄弟と特別補佐官らの駆け引きを描く『欲望のバージニア』が6月29日より公開。監督のジョン・ヒルコートと、彼とこれまでも頻繁にコラボレーションを行い、本作では脚本と音楽を担当したニック・ケイヴが今作について語った。話題はプロジェクトのきっかけから、撮影現場やふたりの共同作業の模様、そしてデジタル撮影にまで及んだ。










これは西部劇の終わりで、ギャングたちの時代の始まり



── このプロジェクトはどのように始まりましたか?



ジョン・ヒルコート監督


ジョン・ヒルコート:まずマット・ボンデュラントによる原作の本からはじまって、それをニックへつないだんだ。ちょうどロバート・デュヴァルと映画『ザ・ロード』の撮影中で、絶対読むべきという本だと電話で連絡をもらったから、読んでみたらそれが素晴らしかった。僕はジャンルムービーが好きで、ギャング映画を撮りたいと思って、ネタを探していたところだった。でも、いいのが見つからないでいたところに、この本のことを知らされた。僻地でアル・カポネのようなギャング一族を形成した人たちの視線から描かれた物語だ。そこで、私の右腕であり、友人、そしてコラボレーターでもある師匠、ニックに本を渡したんだ。そしたら彼もこれに興味を示してくれた。






ニック・ケイヴ:原作は驚くほど素晴らしい。今回の映画が本への興味につながるといいな。この本はアメリカ文学の最高傑作だからね。これは素晴らしい話でありながら、実話でもあるんだ。




── アメリカ映画を撮ろうと探していたところだったんですか?


ジョン・ヒルコート:私はカナダ出身で、偉大な映画製作者たちがジャンルムービーを再開拓している素晴らしい時代だった70年代に育った。だから、いつかそれに自分が加わるのがちょっとした夢だった。




ニック・ケイヴ


ニック・ケイヴ: この本は、ギャングの始まりとなった存在である歩兵や働きバチのような立場の人たちを描いている点でオリジナリティがあった。彼らのような人こそが、ギャングのまさに起源なんだ。ギャングは、腐敗の波を起こして街へと活動の領域を伸ばし、グラマラスな世界で生きる、ピンストライプのスーツを着たギャングに成り上がっていく。ほとんどの映画製作者たちは、このプロセスの中で華やかな一面、つまりピンストライプのギャングたちを描いている。それに対してこの本は働きバチに焦点をあてたとても美しい本で、新鮮で興味深かった。






ジョン・ヒルコート:西部劇に描かれるような時代が終わり、その歴史的な立ち位置がアウトローで埋め尽くされていた時代。だから、これは西部劇の終わりで、ギャングたちの時代の始まりのようなものだね。



ジョン・ヒルコート監督とニック・ケイヴが語る『欲望のバージニア』

『欲望のバージニア』より (C)MMXI by BOOTLEG MOVIE LLC All Rights Reserved


── つまり、ロジャー・コーマン、ピーター・ボグダノヴィッチ、スコセッシが60年代後半から70年代にかけて手掛けたような種類の映画のことを言っています?



ジョン・ヒルコート:その通り、映画『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』みたいな……。



ニック・ケイヴ:彼らがこのジャンルを再開拓した、という観点で同じだね。



ジョン・ヒルコート:これらの映画で私が特に好きなのは、映画製作、登場人物、パフォーマンスに強い特色がある点だ。これが最近の特定のジャンル(ギャング映画)には欠けているような気がする。近年のギャング映画は登場人物に焦点をあてているというよりは、純粋にアクション色が強い。だから、豊かに描かれた登場人物と暴力の結果や扱いを取り上げるストーリーを描いた『欲望のバージニア』は特別だったんだ。充実した内容が詰め込まれている。




ジョン・ヒルコート監督とニック・ケイヴが語る『欲望のバージニア』

『欲望のバージニア』より (C)MMXI by BOOTLEG MOVIE LLC All Rights Reserved


編集とは、商業的な観点とアート的な観点の間で駆け引きをしていく過程




── 本作の音楽に対してはどのようにアプローチされましたか?



ニック・ケイヴ:撮影が終わってから、どんな音楽をつけたいか考え始めた。まずジョンは歌を使いたかった。そして私たちは、この映画の設定された時代に起きていたことと今起きていることが強くリンクしている点に気付いた。だから現代の歌を使うことで聴覚的な幻想を起こすことを考え出したんだ。現代の歌とはいえ、ブルーグラス/ヒルビリーバージョンに仕上げて、トーンを伸ばしたりしてね。禁酒法時代と今起きていることはリンクしている。つまり、全く馬鹿げた禁酒法のアイデアと似たことが今起きているんだ。それは最も恥ずべきアメリカの政策である麻薬撲滅キャンペーンさ。禁酒法と麻薬撲滅キャンペーンは二つの大きな失敗だ。そこで、僕たちは、この二つを(音楽を通して)つなげることができると感じたんだ。

アンフェタミン(中枢神経興奮剤)の使用を歌ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名曲、「ホワイトライト/ホワイトヒート」を昔ながらのブルーグラス歌手であるラルフ・スタンレーに歌ってもらった。こうすることで、時代を引き伸ばすことができたんだ。



── お2人にとって映画の編集プロセスとはどんなものでしょう?どのシーンを使って、どのシーンを省くかのタフな決断をしなければならないですよね?



ニック・ケイヴ:叫び合い、蹴り合い、喧嘩……(笑)。いや、映画製作ってそういうものなんだよ、商業的な観点とアート的な観点の間で駆け引きをしていく過程、かな。絶え間なく続く大喧嘩だよ。



ジョン・ヒルコート:ファイナルカットを渡されたけど、そもそもファイナルカットなんてものはないんだ。全てがあらゆる面からなる協調なんだ。



ニック・ケイヴ:ジョンの映画で見事なのは、すべてのフレームに商業的なものとアート的なものの間にある緊張感が存在すること。結果、それが協調になっているんだ。それはスカーフェイスやゴッドファーザーといった私たちのお気に入りの映画に通じる。基本的には商業映画なんだけど、同時に他のことも表現しているんだ。



ジョン・ヒルコート監督とニック・ケイヴが語る『欲望のバージニア』

『欲望のバージニア』より (C)MMXI by BOOTLEG MOVIE LLC All Rights Reserved

── それは完全に自由である音楽と対照的ですね?



ニック・ケイヴ:そうだね、プロセスが異なるね。編集はもっと協調要素が多くて、それが妙にやりがいがある。素晴らしい映像に集中し続けるよう努力するんだけど、それが時々すごくストレスになる。




ニックによる脚本は、特別な連結感がある




── 2人の仕事上の関係はどうですか?ニックは撮影現場に行ったりするんですか?


ニック・ケイヴ:いや。



ジョン・ヒルコート:彼は立ち入り禁止だ(笑)。



ニック・ケイヴ:私はハンサムすぎるからね(笑)。セットには立ちたくないんだ。私が興味あるのは働くこと、自分の役目を果たすことで、セットに行って他の人が彼らの仕事をするのを見ているなんてしたくないよ。私は事務所で書く。共同作業として2人で書いてるから、私が実際の執筆を行って、一日の終わりに彼へメールするんだ。毎日これを繰り返して、寝る前には「こんなことが起きるっていうのはどうだ?明日はこれをしよう……」と提案すると、ジョンが「いや、それはやめておこう」「それはいいアイデアだ……」なんて話し合う。



ジョン・ヒルコート:たいていがいいアイデアだよ(笑)。



ニック・ケイヴ:スクリプトを1人で執筆して、監督へ送るという流れじゃない。誰かが興味持たないかスクリプトを持ち歩くのでもない。そういった方法とは全く違うから、すごく早く書き進む。



ジョン・ヒルコート:私がこのやり方で気に入っているのは、これが肝心な過程となっていること。映画というのはとてもデリケートなバランスにより数多くの要素で成り立っている。脚本が複数の脚本家によって書かれるのはよくあることなんだけど、ニックの場合は彼が唯一の脚本家で、脚本はそのまま出演者へ渡り、リハーサルの中で発展して、出演者が再解釈する。そしてポストプロダクション時に再形成され、最後にニックが音楽を付けに戻ってくる。だから特別な連結感があって、それが私にとってはとても特別なんだ。ほとんどの映画はそれを求めるのが難しいからね。



── 『プロポジション -血の誓約-』とはそれとは全く違ったプロセスでしたか?



ニック・ケイヴ:『プロポジション -血の誓約-』ととても似た作業だったよ。『プロポジション ~血の誓約~』の素晴らしかった点は、我々が執筆中に何が起こるか予測できなかったこと。1番下の弟を助けるために3兄弟の1人がもう1人を追い詰めるというアイデアがあっただけだった。だから毎日ジョンに電話して、「彼が今行ってこれをするのはどうだ?」と相談し、「うん、いいアイデアだ……」と、それを書き上げる。「ねえ、そろそろ映画のエンディングに近づいてきた。どうやって終わらせようか?」といった感じさ。『欲望のバージニア』は原作があって、始めから我々がストーリーを知っていた、という点では全く異なるね。



ジョン・ヒルコート:それに真実に基づいたストーリーだ。



── ニック、あなたは『亡霊の檻』では重要な役を演じていましたが、カメラの前に戻りたいと思ったことはないですか?



ニック・ケイヴ:実は『欲望のバージニア』に出演してるよ。冒頭でギャングの死体が乗った車が登場するシカゴのシーンがあるんだが……その死体が僕さ。






── アメリカ西部とオーストラリアのアウトバック(内陸部)に共通点はあると思いますか?



ジョン・ヒルコート:大きな違いもあるし、共通点もある。どちらも先住民の文化があり、侵略者に踏みつけられた国なのさ。明らかに大きな違いは、大英帝国がオーストラリアを流刑地としたのに対し、アメリカ西部は違う形で発展した。でも、どちらもヨーロッパ人が新しい領地を征服した点は同じだ。



ニック・ケイヴ:私はブッシュレンジャー(オーストラリアの盗賊)として有名なネッド・ケリーが活動していた、俗にケリー地方と呼ばれる場所の出身なんだ。彼は私が育った町の隣町で処刑された。だから、ネッド・ケリーの伝説は私の家族やこの地域の人々の細胞の中に常に存在している。まさに"ケリー地方"だ。



ジョン・ヒルコート:ニックの父親がネッド・ケリーに関する本を書いているよ。



ニック・ケイヴ:オーストラリアの人たちの魂に根ざした何かがあるんじゃないかな…



ジョン・ヒルコート:変な風にオーストラリアではより有名なんだ。属していないという感覚がアメリカに比べるとオーストラリアのほうが強い。アメリカはどちらかというとるつぼなのに対してオーストラリアの傷口はまだ大きく開いたままなんだ。



デジタルで、田舎でたくさんの夜間屋外撮影を敢行したのは挑戦だったよ




── デジタル撮影されていますが、今回映画のルックはどのようにして決めたんですか?



ジョン・ヒルコート:気付いたか!実はとても気になっていたんだ。大きなデジタル改革の波が押し寄せてきて、全てを変えようとしているから、私も挑戦して勉強し始めようと決意したんだ。実質的、物流的な観点でのターニングポイントは我々の予算の都合さ。当初この映画はソニーピクチャーズ製作としてもっと大きなプロジェクトとして始まったんだけど、2008年の財政危機によりソニーが「この類の映画はもう作れない」と言ってきたんだ。だからインディペンデント映画の規模に縮小して、田舎でたくさんの夜間屋外撮影を敢行したのさ。それは私たちにとっても、挑戦だったよ。照明、機材、時間といった技術的、物流的観点でね。私の一番の懸念は電子っぽく感じたらどうしよう、ということだった。私にとって『ゾディアック』はデジタル作品の中で素晴らしい出来の作品の一つだし、『コラテラル』もロサンゼルスにぴったりはまっていた作品だった。でも、この映画はそれよりもずっと昔の時代までさかのぼるから、電子を感じさせたくなかったんだ。本作は世界でまだ4作品しか使用していないとても新しい技術を使っていて、今思えば当時既に知ってたら良かったのにと思うことがたくさんあるよ。だから私自身、まだ複雑な思いなんだ。デジタル撮影には良い点、悪い点がある。でも、もうフィルム用カメラはもう作られていない、製造終了だからね。



ジョン・ヒルコート監督とニック・ケイヴが語る『欲望のバージニア』

『欲望のバージニア』より (C)MMXI by BOOTLEG MOVIE LLC All Rights Reserved


── テレンス・マリック監督の映画が同じ名前で出てくることについて心配されましたか?(注:テレンス・マリック監督は当初、今作の原題と同じ『LAWLESS』というタイトルで新作を準備していた)



ジョン・ヒルコート:いや、彼が快く変えてくれたから。



ニック・ケイヴ:彼は我々にタイトルを譲ってくれた。率直に言うと、彼に選択肢はなかったんだけど……。



ジョン・ヒルコート:いや、実のところ、あったんだよ。彼がこのタイトルを所有してた。私たちは知り合いで、彼が私にジェシカ・チャステインの話をしてきたんだ。彼女のことをべた褒めしていた。今ならその意味がよくわかるよ。



── ニック、あなたが脚本を書いている時に決めていたキャストは誰かいましたか?


ニック・ケイヴ:オーストラリア人ということでガイ・ピアースには出演して欲しかった。ガイは2人とも以前一緒に仕事をしたことがあったし、彼のことがお互い大好きだからね。他のキャストはジョンに一任したよ。



ジョン・ヒルコート:彼はとても多才なんだ。



ニック・ケイヴ:『プロポジション -血の誓約-』よりも遥か前から彼は私のお気に入りの俳優の1人だった。『L.A.コンフィデンシャル』の中の彼は素晴らしかったよ。彼の映画はどれも心を奪われる。それに彼はあの顔の奥に何かを持っている。最初に彼に台本を送ったとき、レイクスのキャラクターは既に台本にあったんだけど、彼はそれがもっと印象的な悪役であれば興味がある、と返事をくれた。だからレイクスを描くとき、原作の中のキャラクター像から一層ガイが食いつくものへ何となく作り変えたんだ。



ジョン・ヒルコート:(食いつくだけじゃなく)頭も突っ込みたくなるようなね……。



── 今後さらなる2人のコラボレーションを予定されていますか?


ニック・ケイヴ:うん、2人でいろんなことを考えているよ。



── ニック、音楽に費やす時間は残ってますか?


ニック・ケイヴ:新しいレコードを製作中だよ。少し音楽のための余裕を作ったんだ。映画界というのは、自分の全てを使い尽くし始めるから厄介さ。スクリプトを書いて、手渡せばいいってもんじゃない。だから私は断固として譲らないことにしたんだ。今度はレコードを作る、それ以外はしない。健全な音楽業界での仕事は喜びと息抜きになるんだ。みんなが人間らしく振る舞えるからね(笑)。




(オフィシャル・インタビューより)









ジョン・ヒルコート プロフィール



1961年、オーストラリア生まれ。アメリカ、カナダ、イギリスで育ち、オーストラリアのスウィンバーン・フィルムスクールに入学。卒業後、ニック・ケイヴ、インエクセス、デペッシュ・モード、ロバート・プラント、ミューズなどのミュージックビデオの監督や編集を手掛け、注目される。1988年、脚本も手掛けた初の長編映画『亡霊の檻』で監督デビュー。アメリカとオーストラリアの刑務所を3年間取材して完成させた作品で、オーストラリア・フィルム・インスティチュート賞9部門にノミネートされるなど、高く評価される。2005年、19世紀末のオーストラリアを舞台にした『プロポジション -血の誓約-』を監督。ガイ・ピアース、レイ・ウィンストン、ダニー・ヒューストンらが出演し、オーストラリア・フィルム・インスティチュート賞4部門に輝き、ピープルチョイス賞で最優秀作品賞を含む4部門を受賞する。2009年、コーマック・マッカーシーのピューリッツァー賞受賞小説を映画化した『ザ・ロード』を監督。文明が崩壊した近未来のアメリカを旅する父子を描いたロードムービーで、ヴェネツィア映画祭金獅子賞にノミネートされる。映像とストーリーテリング、共に力を持つ監督として、今後がさらに期待される。



ニック・ケイヴ プロフィール



1957年、オーストラリア生まれ。作曲家、作家、脚本家、俳優と多岐にわたって活躍する多才なアーティストで、熱狂的なファンを持つロックスターでもある。メタリカから故ジョニー・キャッシュまで、様々なミュージシャンが多大な影響を受けたことを公言している。ロックバンド、ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズのフロントマンを務め、2013年に5年ぶり通算15枚目となるアルバム「プッシュ・ザ・スカイ・アウェイ」をリリースした。
ジョン・ヒルコート監督とは長年の友人で、『亡霊の檻』(88)では音楽と出演、『プロポジション ─血の誓約─』(05)では音楽と脚本を手掛けている。『ベルリン・天使の詩』(89)ではバンドのライブシーンを印象的に披露した。その他、ブラッド・ピット主演の『ジョニー・スエード』(91)、ヴィム・ヴェンダース監督の音楽ドキュメンタリー『ソウル・オブ・マン』(03)に出演し、ピット主演、アンドリュー・ドミニク監督の『ジェシー・ジェームズの暗殺』(07)の音楽を手掛ける。さらに、ギレルモ・デル・トロ監督の最新作『Pinocchio』で音楽を手掛ける予定。










『欲望のバージニア』

6月29日(土)丸の内TOEI、新宿バルト9他全国順次公開



1931年、バージニア州フランクリン。密造酒ビジネスが盛んなこの地で、ボンデュラント3兄弟は名を馳せていた。野心旺盛な三男ジャックは、家族経営から大規模な取引への転向を望み、上等なスーツを着て牧師の娘バーサを振り向かせようとしていた。一方次男フォレストは、シカゴから流れてきた過去のある女性マギーに心奪われ、家に迎え入れる。そんな時、新しい特別補佐官レイクスが着任、高額の賄賂を要求する。まわりが次々と従うなか、一切拒絶するフォレスト。だが、その日を境に、腐敗した権力からの想像を絶する脅迫が次々と突き付けられ、その魔の手は兄弟の友人や、大切な女にも及ぶ。
果たして、孤立無援の兄弟の闘いの行方は―。



(C)MMXI by BOOTLEG MOVIE LLC All Rights Reserved



監督:ジョン・ヒルコート

脚本/音楽:ニック・ケイヴ

出演:シャイア・ラブーフ、トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマン、
ミア・ワシコウスカ、ジェシカ・チャステイン、ガイ・ピアース

提供・配給:ギャガ

原作:マット・ボンデュラント著(集英社文庫)

原題:LAWLESS/2012年/アメリカ映画/116分/カラー/ドルビーデジタル/シネスコ/字幕翻訳:松浦美奈

配給:ギャガ

公式サイト:http://yokubou.gaga.ne.jp/



▼『欲望のバージニア』予告編


[youtube:WDfKQgagGCA]

「振付をダンサーの体にインストールする」SF小説をダンス化する大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』

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NADiff a/p/a/r/t『ヴィアント・ヴァカンス』より photo:GO


大橋可也&ダンサーズの新作で、日本SF界を代表する作家・飛浩隆による小説『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』(早川書房) をダンス作品化した『グラン・ヴァカンス』公演が7月5日より開催。それに先立ち、プレ・イベント『ヴィアント・ヴァカンス』がアートショップNADiff a/p/a/r/tにて行われた。

当日は、『グラン・ヴァカンス』公演の音楽を担当する音楽家・批評家の大谷能生氏による演奏をフィーチャーしたパフォーマンスが1Fの物販フロアで行われ、来場者と棚の間を縫うようにしてダンサーがパフォーマンスを披露。その後、大谷氏、大橋氏に加え、小説『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』の編集を担当した早川書房の塩澤快浩氏を司会に迎え、トークが行われた。SF小説のダンス作品化という意欲的な試みの一端を感じることのできるプレ・イベントとなった。

また7月5月から7日までの本公演の後、7月28日には、渋谷アップリンク・ファクトリーにて、ポスト・パフォーマンス・イベントも決定している。





日常に現れる非日常




塩澤快浩(以下、塩澤)今日は店舗でのパフォーマンスという設定で、ダンサーの方々を見ていいのか見ないふりをしたらいいのか、全体の動きの中でそこが面白かったです。



大橋可也(以下、大橋):日常に現れる非日常というのは、日々我々が感じていることだと思うんです。それを見ないふりをさせられる。でも今日はわざわざ見にこられているので、普段自分たちが見ないでいる、聞かないでいる存在に眼や耳が向けられる。そうした観客の有り様というものに僕もすごい興味があります。どうしても劇場は座って見るというロールを与えられてそこに徹しているのですが、今回は受け取ったボールに対してミットを構えたらいいのか、ということですよね。そうしたやりとりをまた見ることができるのも今回のパフォーマンスの意図だと思います。





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NADiff a/p/a/r/t『ヴィアント・ヴァカンス』より photo:GO


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NADiff a/p/a/r/t『ヴィアント・ヴァカンス』より photo:GO



塩澤:フロアの向こうのほうでなにかやっている、それが見えないことがすごく不穏な気持ちをかきたてられたり。



大橋:自分が動くことが選択肢として与えられていますけれど、逆に見ないことも意味がある。その瞬間、瞬間を感じていただけたらと思います。



塩澤:大橋さんはどこまで演出されているんですか?



大橋:振付という意味では、僕が基本的にぜんぶ決めています。ただ、環境によって動けないところなど、振付が配置されたコンテキストによって変化は起きるものだと思っています。



大谷能生(以下、大谷):『グラン・ヴァカンス』と関連づければ、AIのように、プログラミングをするように振付けされているので、アルゴリズム的に、かなり綿密に組み立てていらっしゃる感じがします。






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NADiff a/p/a/r/t『ヴィアント・ヴァカンス』より photo:GO


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NADiff a/p/a/r/t『ヴィアント・ヴァカンス』より photo:GO




AIの存在と、僕たちダンサーは近しい




塩澤:原作は、ネットワーク上のどこかにある仮想空間で、そのなかにいろんな世界やアトラクションがあって、現実世界の人がゲストとして訪れていろんな体験をすることができる。そこがあるときから人間の訪問が途絶えてしまって、そこから1000年もの間、人間の相手をするAIがその空間に存在しているという設定になっています。



大橋:今回の『グラン・ヴァカンス』は、これまでの振付と変わっているわけではなくて、テキストをベースに振付を作って、それをそれぞれのダンサーの体にインストールしていく。プログラミングされた状態で勝手に動いていくのを、全体でオーガナイズするプログラムがある、という構成になっています。





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NADiff a/p/a/r/t『ヴィアント・ヴァカンス』より、パフォーマンスの後行われたトークの様子 photo:GO




大谷:3、4年前から大橋さんの作品はそうした構成になっていますよね。



大橋:『グラン・ヴァカンス』のAIの存在と、僕たちダンサーは近しい関係にあるんじゃないかと思っているんです。だから僕も小説を読んだときに、体に入ってくるものがあったし、作品にしたいと思った理由でもあります。小説のなかでもシーンごとに違う時間軸が重なっていく構成になっていますが、そのひとつのシーンを拾い上げて、それを一字一句そのまま振付にしています。




大谷:超大作になりそうですね。音楽も僕を含め伊藤匠さん、舩橋陽さんと3人いてよかった(笑)。決め打ちみたいにテーマ曲を決めるというのは普通の舞台の音楽の付け方ですけれど、それと即興性というか、その場での判断を付け加えていく。3人とも即興演奏家なので、そのあたりを特にこの作品ではどれくらい配分していったらいいのか、音を作りながら試行錯誤して3人で考えています。




(2013年6月14日、NADiff a/p/a/r/tにて 取材・文:駒井憲嗣)












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大橋可也&ダンサーズ新作公演『グラン・ヴァカンス』 photo:GO



大橋可也&ダンサーズ新作公演『グラン・ヴァカンス』

-飛浩隆『グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ』(早川書房)より-

2013月7月5日(金)~7月7日(日)

シアタートラム





振付・構成・演出:大橋可也

音楽:大谷能生、伊藤匠、舩橋陽

ドラマトゥルク:長島確

クリティカルアドバイザー:佐々木敦



出演:皆木正純、古舘奈津子、とまるながこ、山田歩、唐鎌将仁、平川恵里彩、檀上真帆、後藤ゆう、山本晴歌、阿部遥、野澤健、後藤海春、三浦翔、中山貴雄、香取直登、玉井勝教



映像:石塚俊

舞台美術:大津英輔+鴉屋

衣装:ROCCA WORKS



照明:遠藤清敏(ライトシップ)

音響:牛川紀政

舞台監督:原口佳子(モリブデン)

振付助手:横山八枝子

演技指導協力:兵藤公美(青年団)

写真:GO

制作・デザイン:voids




2013月7月5日(金)19:00

2013月7月6日(土)14:00 / 19:00

2013月7月7日(日)14:00


※開場は開演の30分前

※上演時間は2時間30分を予定



[ポスト・パフォーマンス・トーク]

7月7日(日)14:00の公演終了後、ポスト・パフォーマンス・トークをおこないます。

出演:飛浩隆(『グラン・ヴァカンス』原作者)、佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)、大橋可也

開始予定時間:16:45

終了予定時間:17:30

※他の公演日のお客様もチケットの半券をお持ちになることでご入場いただけます。


http://dancehardcore.com/topics_les_grandes_vacances.html









ハードコアダンスファクトリー番外編

『グラン・ヴァカンス』ポスト・パフォーマンス・イベント

2013月7月28日(日)

渋谷アップリンク・ファクトリー



ハードコアダンスを提唱し、日本ダンス界の極北をひた走る大橋可也&ダンサーズが、ゼロ年代SFの傑作『グラン・ヴァカンス』に挑む新作公演のポスト・パフォーマンス・イベントを開催。『グラン・ヴァカンス』公演の記録映像+ライブ演奏+ダンスによる『グラン・ヴァカンス』リミックスパフォーマンスとトークでダンス版『グラン・ヴァカンス』の行く末を提示するスペシャルイベント。



出演:伊藤匠、舩橋陽、大橋可也&ダンサーズ

開演:18:00

料金:2,000円(+1ドリンク)

*『グラン・ヴァカンス』公演をご覧になった方は500円引き(要事前申し込み)

ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/event/2013/14128

「クラブNOONの摘発に対し、なにかしなきゃいけないという使命感に駆られたんです」

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映画『SAVE THE CLUB NOON』の宮本杜朗監督(右)と写真家の佐伯慎亮氏(左)



六本木のクラブ摘発や、Let's DANCE署名推進委員会による法改正に向けての活動など、「風営法」を巡る議論が高まっている現在。風営法が取り締まろうとしているのは、いったい何なのか?その問題点とはなにかを考えるイベントが、映画『SAVE THE CLUB NOON』の企画により、7月5日渋谷アップリンクで開催される。風営法問題に精通する齋藤貴弘弁護士、そしてAFRA氏、太華氏のミュージシャンをゲストに迎え、風営法について一緒に考える。クラブのみならず、すべての音楽好きのための"一夜漬け"勉強会といえる今回のイベント開催にあたり、映画『SAVE THE CLUB NOON』の宮本杜朗監督と、今作の企画者である写真家の佐伯慎亮氏にスカイプで話を聞いた。



映画『SAVE THE CLUB NOON』は、大阪の老舗クラブ「NOON」が2012年4月に風営法違反により摘発された事を受けて起こったイベント『SAVE THE NOON』のライブと出演ミュージシャンらへのインタビューを記録し、表現者の視点から風営法について語ったドキュメンタリー。渋谷アップリンクでの劇場公開が決定しており、現在、7月14日まで、作品内の楽曲に対する著作権使用料、出版権使用料の支払いを含む資金をクラウドファンディングで募集している。










分かりやすく伝えることに徹した




──今回は、ドキュメンタリー映画『SAVE THE CLUB NOON』制作のきっかけを教えてください。



佐伯:カメラマンという職業柄、雑誌でクラブ取材の仕事をレギュラーでやっていたのもあって、2010年頃から関西でクラブの摘発がたくさん起こっていることを、よく聞いていたんです。NOONが摘発されたときに、それまでどこかまだ他人事だったのが、初めて「大変だな」と身に迫ったきた。僕はどっちかというとライヴハウス側の人間で、最近はクラブにはそんなに行けてはなかったのですが、初めて行ったクラブがNOONの前身であるDAWNというのもあったし、僕もライブで出たことあるし、友人もよく出演していたので、定期的に行っていた場所だったんです。カジカジというファッション誌の若い子が、摘発後のNOONのオーナーの方にインタビューする企画をやりたいということで、そのカメラマンにたまたま呼ばれたんです。その現場でオーナーの金光さんのインタビューを聞いていて、風営法でダンスさせる営業が規制されてこういうことになってるということを知ったんです。そして、来月行うイベントを映像作品として撮ってくれる映像作家はいないだろうか、と金光さんが言われた。その時はカメラマンとして何か手伝いができたらいいなと思って、映像作家を探したんです。なかなか見つからなかったところ、いちばん近しい監督、宮本くんがわざわざ予定をずらしてくれて、実現に至りました。




映画『SAVE THE CLUB NOON』宮本杜朗監督と写真家の佐伯慎亮氏が語る

映画『SAVE THE CLUB NOON』より



──記録として残さなくてはいけないという気持ちがあった?



佐伯:そうですね、僕は以前『あがた森魚ややデラックス』であがたさんに4ヵ月間密着してカメラを回していたんです。それこそ死ぬような思いをして、怒られながらやらしてもらって、その経験があったので「例えばドキュメンタリー映画作品もできると思うねん」と金光さんが言ったときに、経験者としてまずドキッとした。なにかしなきゃいけないという使命感に駆られたんですよ。でも僕だけじゃどうしようもできないし、どうしようと思ったんです。そこで、『ややデラックス』のときもめちゃくちゃ相談していた宮本くんに話をしたんです。



映画『SAVE THE CLUB NOON』宮本杜朗監督と写真家の佐伯慎亮氏が語る

映画『SAVE THE CLUB NOON』より



── これまでの宮本さんの作品も音楽というのは欠かせない要素でしたが、今回は純粋な音楽映像作品として、とてもクオリティの高いと感じました。ライヴの現場、クラブの現場を体験したくなる、音楽の楽しさをあらためて噛み締めることができる内容でした。



宮本:そう言ってもらえると嬉しいです。クラブやライブハウスなど、音楽の現場に行かない人に行ってみたい気持ちになってもらえたらええな、とも思っていましたから。音楽の使い方としては、音楽のあるところに音楽があって、インタビューのところは声だけ、ほんま映っている音だけでいいと思っていたので、すごいストレートやと思います。いじくって提出しようというのがまったくなかったので、あるものをスッと出すことだけ気をつけていました。



映画『SAVE THE CLUB NOON』宮本杜朗監督と写真家の佐伯慎亮氏が語る

映画『SAVE THE CLUB NOON』より



──自分で物語を紡いでいくのとは違いますか?



宮本:映画の場合は脚本を書いてそういう状況をセッティングしてって、そこまでに時間もお金もかかります。でも『SAVE THE CLUB NOON』の場合はライブもインタビューさせてもらう出演者の方々も、会場のオンジェムに集まっているので、それをカメラで撮って出すだけというか。といっても膨大なインタビューになって、そこをどうチョイスするかでいかようにもできると思うんですけれど、できるだけありのままを作品にしようと思いました。



佐伯:インタビューで撮られた内容を、順序だててより分かりやすく整理するという作業でした。100パーセントドキュメンタリー映画って、不可能だと思うんですけど、それでも、分かりやすく伝えることに徹したことを宮本監督はやってくれました。



映画『SAVE THE CLUB NOON』宮本杜朗監督と写真家の佐伯慎亮氏が語る

映画『SAVE THE CLUB NOON』より



──ドキュメンタリーでも事前に構成を考えたうえで撮る方と、そうでない方がいらっしゃると思うのですが、今回に関しては?



宮本:インタビューで構成するというのはこの映画を撮ることになってすぐ決めました。そういう外枠的な構成はありましたけど、内容的な構成は全くありませんでした。落とし所も決めてませんでしたし。僕自身が別の作品『太秦ヤコペッティ』で忙しかったというのは関係なく、今作に関しては、僕の意見というのはいらなかった。だから、最終的にこういう落とし所に持って行こうとか、そういうことありきで撮ったんじゃないんです。ブルーハーブのボスさんの話に、前にどんな話があっても最後に持って来れる一節があって、それを聞いた時は「最後はこれや!」となりました。その一節はこの映画のハイライトの一つになっていると思います。



映画『SAVE THE CLUB NOON』宮本杜朗監督と写真家の佐伯慎亮氏が語る

映画『SAVE THE CLUB NOON』より




(取材・文:駒井憲嗣)









宮本杜朗 プロフィール



1981年生まれ。独学で映画を作り始め、05年に初長編『吉村佳雄WALKING、SLEEPING』が中之島映画祭グランプリ受賞、07年『フリフリ坊主』が第3回CO2企画制作総合プロデューサー賞を受賞し、OSKARIADA、ハンブルグ日本映画祭などで上映される。09年に『尻舟』を発表。高崎映画祭で上映され、劇場公開を果たす。13年春より、シマフィルムの京都連続第3弾作品『太秦ヤコペッティ』が劇場公開中。同作品は国外最大の日本映画祭Nippon Connectionでの上映も決定している。 オシリペンペンズ、DODDODO、似非浪漫、オニ、YDESTROYDE、トンチ、WATER FAIのPVも制作。




佐伯慎亮 プロフィール



1979年生まれ。写真家。2001年キヤノン写真新世紀優秀賞。被写体を特には限定せず、日常のあらゆる場面で生と死と笑いを収集する写真作家として活動。韓国やリトアニアなど、国内外での展覧会多数。大阪を拠点に雑誌、広告等で活躍している。2009年、初写真集「挨拶」(赤々舎)刊行。映画『あがた森魚ややデラックス』(2009年 トランスフォーマー)では撮影を担当した。その他、音楽活動なども行っている。2013年には2冊目の写真集を計画中。














映画『SAVE THE CLUB NOON』



インタビュー・ライブ出演者

(#はライブ映像のみ /編集により変更の可能性あり)
赤犬/ANI & ロボ宙(DONUTS DISCO DELUX)/ALTZ #/いとうせいこう
ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) /OORUTAICHI
沖野修也 & 沖野好洋(Kyoto JAZZ Massive)/オシリペンペンズ#/KA4U(MIDI_sai)/Calm
KIHIRA NAOKI(SOCIAL INFECTION)/久保田コージ#/THE CREAMS
サイトウ"JxJx"ジュン(YOUR SONG IS GOOD)/須永辰緒/太華&浦友和
CHIEKO BEAUTY/中納良恵(EGO-WRAPPIN')/中村一元(PUBLIC CAFE)/七尾旅人
ハナレグミ/PIKA☆(ex.あふりらんぽ)/HIDADDY(韻踏合組合)
BIKKE(TOKYO No.1 SOUL SET)/BLIZ AND SQUASH BRASS BAND#
山本アキヲ & 高山純(AUTORA)
金光正年(NOON代表) 山本陽平(NOONマネージャー)
and more!!



監督・編集:宮本杜朗

企画:佐伯慎亮 / 山本陽平

撮影:宮本杜朗 / 佐伯慎亮 / 東井剛生 / 高木風太 /
高木陽春 /倉科直弘 / 平賀敬人 / 松本平太 / 牧野裕也
録音・整音:松野泉

インタビュー:佐伯慎亮

スチール:名越啓介

ラッシュ編集:鈴木大志

ロゴデザイン:境隆太

WEB制作:有佐祐樹



http://savetheclubnoon.com/

http://motion-gallery.net/projects/savetheclubnoon












緊急開催!映画『SAVE THE CLUB NOON』presents「齋藤弁護士に聞く!風営法って何だろう?」(出演:齋藤貴弘、AFRA、太華)




2013年7月5日(金)

19:00開場/19:30開演料金¥1,000(1ドリンク付き)

会場:渋谷UPLINK FACTORY

トークゲスト:齋藤貴弘(弁護士)、AFRA、太華

聞き手:宮本杜朗(映画監督/『太秦ヤコペッティ』・『SAVE THE CLUB NOON』など)

佐伯慎亮(写真家/『SAVE THE CLUB NOON』企画)



ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/event/2013/13683

18歳女子大生たちは『タリウム少女の毒殺日記』をこう観た「17歳の時に人生が全部ネタに思えてきて」

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右より、三浦みなみさん、會川えりかさん、橋本まみさん、『タリウム少女の毒殺日記』土屋豊監督


第25回東京国際映画祭で『日本映画・ある視点部門』で作品賞を獲得した『タリウム少女の毒殺日記』が公開。『10年代の幸福論』をテーマとして、『タリウム少女の毒殺日記』の土屋豊監督2010年代における「幸福」とは何かを語る企画。ライターの朝井麻由美氏、そして社会学者の大澤真幸氏との対談とともに、今回は番外編として18歳女子大生3名に登場してもらった。タリウム少女と同世代の18歳女子のリアルな眼差しを通してタリウム少女はどのように映るのか、冷徹なまでの観察者に共感できるのか。そして彼女たちが秘める「幸福」とはどのようなものなのか。土屋監督が彼女たちの胸の内に迫った。



幸せですか?「不満はあるけど休憩が欲しい」

人生をネタだと思える程自分を客観視できる視線



三浦みなみ(以下、三浦):『タリウム少女の毒殺日記』を観て、タリウム少女は怪物のような存在ではなく、何かしらそういう部分は現代の私たちの中にも存在すると感じました。何もかも客観視する面は自分にもあります。タリウム少女の視点と同じ視点を自分も持っていることに気づかされ、怖くなりました。それは決してタリウム少女が怖いのではなく、そういう自分に気づかされハッとした、という感覚です。



會川えりか(以下、會川):主人公の顔が印象的でした。自分も無表情なので……。そんなところに共感しました。



橋本まみ(以下、橋本):実際のタリウム少女について調べてから観たので、この映画でも無機質に描かれているのかなと思いましたが、観察するときに人間味を感じて痛々しかったです。母親にタリウムを投与して痛めつけるときに「わたしならどう思うのかな」と、同世代の女の子の気持ちと自分を重ね合わせることができて楽しかったです。



土屋監督:実際のタリウム少女は2005年当時16歳だったのですが、皆さんは?






3人:小学5年生でした。



土屋監督:タリウム少女と同じ虚無感は持っていますか?彼女の視線のもとになるものは何だと思いますか?



三浦:虚無というより私も同じ視線で、自分を冷静に観察しているところがあって、みんながわぁっと盛り上がっていたら、そこに入るというよりその様子をぼうっと見ていたりするんです。そこにいつつ、自分はそこに入っているのではなくて、その人たちを観察している、そこからいろいろ考えることがあります。



會川えりか

會川えりかさん



土屋監督:今の世の中は構造的に客観的に自分を見ざるをえない状況になっている気がするんです。映画でもその点を描いています。例えば友達とご飯を食べているとき「そこにいる私」を客観的に見ていて、こういう風にふるまうべきと、俗にいう空気を読むではないですが、常に自分をもう一人自分を観察する自分がいて、ある種演じている。



三浦:私は文章書くのが好きで小説も書いているのですが、冷静な視点、その中に自分がいたりするので、いやではないです。社会的にもSNSが流行っていますが、多分あれももう一つの飾り付けられている自分を作っているような気がするんです。社会的にもその風潮があるような気がします。私自身はSNSは好きではなくてやっていないんですが。



橋本:わたしは気性が荒いので、だからこそ常に冷静で客観視というわけでなく、主観がピークになって「あ、やばいな」となったら、客観に切り替える手法を取っています。高校時代に人間関係で悩んで、大げさに言えば生きる術、生き延びるために自分を客観視して自分の人生自体を物語としてみるやり方をしていました。どんなに苦しいことやトラブルも一つの物語の中のトラブルとして捉えていました。客観視していたら「物語的には面白いよね」という見方ができたんです。そう思うことで辛いという気持ちを実際の自分から引き離してみることができました。





會川:17歳の時に人生が全部ネタに思えてきて……。



橋本::ネタにしてこれを誰かに話したら面白いだろうなって思うことがあります。現代に限らず本を読むと不幸な人が主人公だったりしますよね。自分も主人公だと思って、「これはしんどい小説なんだ」と。



會川:私もよく私小説を読んでいたんで。「ネタっぽいな」みたいな。



橋本:物語とすれば「これは山場だな」と。




土屋監督:自分でコントロールする方法論をもっているのですね。



橋本:このままじゃ、ピキッていきそうと思ったら、「ひこうひこう」と。わたしが客観視するようになったのは日記が最初でした。




三浦みなみ

三浦みなみさん



高校の教室と世界の構造は同じ




土屋監督:映画の中のタリウム少女は自分を含めて観察しながら、いじめられている自分を観察することでいじめそのものを相対化して、自分の物語のなかに入れてしまっています。それもネタですよね。いじめはどうしようもなく必要なものだから、そのシステムの中に私がいるだけであって、私がいなくなれば誰かが来るだけ、そのくらいまでに客観視していました。タリウム少女はスーパーに行ってものを買うのも、買うようにシステムとして仕向けられていると、世の中の仕組みすらも観察しています。アマゾンで私はここをクリックしたらこの広告が入るというようなネットの仕組みとか、さらに世の中を俯瞰してみて、結局世の中この程度のようなものだと自分でも決め込んで世の中を見ている。同様に人間、動物も分析すれば結局DNAの設計図でできているものであって、僕も皆さんもほとんど変わらず、99.9%は同じだから個性なんて大したものじゃないと人間すらも引いてみているわけです。物事を、あるいは世界を自分だけじゃなくて客観的にみてしまって、「世の中ってもう新しいことが起こらないんじゃないか」「つまんないなぁ、でも檻だから抜けられないなぁ」とタリウム少女は考えていたのです。そんな感覚をもつタリウム少女に共感を持てますか?





橋本:世界観って言うほどではないんですが、高校生の時は教室と世界全体の構図は一緒だなと思うことがあって、誰かが、虐げられる存在が必ずあってそのことによって集団の秩序が保たれているような感じが教室の中にも世界の中にもあるのではと思いました。戦争とかいじめが一緒のものであれば無くならないものだなと思って。いじめの標的になるのも、この人がこうだからという理由はなくて、必要なポジションに誰かが入れられると、人間は醜いなと思いました。



土屋監督:友達といたり学校にいたときに自分のポジションが気になりますか?



橋本:高1の時に嫌われている子がいて、その子がいなくなったらまた別の誰かが標的になっていたんだと思うと、今仲の良かった子も信用できないなと思って。自分でポジションを作らないようにしていました。





橋本:もともと進学クラスではないところから進学クラスに行って、
「キャラ」みたいなものがあるなと感じて。



會川:クラス内でいろんな「キャラ」があるんです。盛り上げ役とか地味キャラとか、その中に「~キャラだよね」と位置づけされると面倒くさいからグループを抜けようかなと。



橋本:特定のグループに所属しない様にしていました。最終的には「謎キャラだよね」とか言われて終わる。




橋本まみ

橋本まみさん






周りにある小さな幸せと『自己肯定』



土屋監督:自分を客観視することと同じように、世の中も一つのシステムのように考えて、世の中は変わらないんだ、という考えをもってタリウム少女は観察しています。「人間は最終的にはこの程度のプログラムなんだ。この程度のプログラムは自分自身で変更してもいい。だったら簡単に光れるじゃないか」と、出口みたいなものを見出すストーリーになっています。
皆さんも自分を観察するように社会を、システムを観察しそれに縛られているけれども
「それは変えられないから」、「いやこうすれば変えられるのでは」など考えますか?



三浦:社会全体のことで、正直あれが大変そうだな、まずいんじゃないかとは思うことはありますが、残念ながら社会を変えようと大きな意識は出てこないです。社会全体に対する希望といわれると正直言ってそんなにないかも知れませんが、自分の周りの小さな世界でちょっとした幸せとか、自分の日常の中で小さな嬉しいこと面白いことを見つけたり、そういう部分での希望はあります。なので、大きなところで言われると、今の社会のシステムもごちゃごちゃしていて正直分かりづらかったりすることもあるので、本当にちょっと自分の近くで幸せあったらそれで結構満足している自分がいるというか、そんな感覚です。



土屋監督:今、なにか不満はありますか?



三浦:これが不満とか不安というのはないのですが、普通の日常が過ぎて行って、ある程度楽しいことも毎日あって、誰かとちょっと騒いだりして、でもそんな普通の日常が過ぎてしまって、夜に家帰ってふと一人になった時に、結局なんだったんだろうなって思う瞬間があります。また明日もどうせ今日みたいな明日が来るんだろうなと思うと、特に大きな不安があるわけでは無いですが、軽い閉塞感のようなものは時々感じたりします。





橋本:不満なことは「休憩が欲しい」。



(2人うなずく)



橋本:中学3年間、高校受験、高校3年間、大学受験、大学4年間、就活と続けてきて、1回でいいから、成績がどうとか考えずに、じっくり考える時間が欲しい。このまま会社員になれなさそうという自分と、でもビビッて無難に会社員で生きようと思っている自分がいます。本当にやりたいことやっている先輩がサークルにいますが、その人は5年生で、でも自分で好きな事を見つけています。でも留年しないとそういうのが見つからないのかと思うと、どんどん時間が過ぎ過ぎてなにかレールに乗せられて、あたふた生きている感じがしています。





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『タリウム少女の毒殺日記』より




土屋監督:どうあったら自分が幸せを感じられるでしょうか?



三浦:レールに敷かれた人生というのは違う気がして、強がりかも知れませんが、安定をあまり求めてなくて、わがままかも知れませんが不安定でもいいからレールから思いっきり外れてでもある程度好きなように生きたい。マニュアルみたいなものではなくて。これまでもあまりレールに乗せられた感はありませんが、乗ってこなかった自分をそのまま認めてくれるというか、受け止めてくれる人もいて、それは幸せだったかなと思います。今も何もかも受け入れてくれる人がいて、それはすごく感謝しています。



會川:そんなに不幸せだと思ってないですし、幸せと言えば言えるかなという感じですけど。この瞬間楽しければいいやっていうところもあるんですが。



橋本:幸せを感じるときは、自分のしたことを認めてもらえた時。やっぱり自分の中から出てくるものじゃないでしょうか。いわゆるリア充彼氏がいる=幸せも。突き詰めていくと自分を認めて貰えるということもつながると思います。自分を認めてもらう=幸せという、必ずしも恋愛に限らず、自己肯定でしょうか。



會川:自己肯定ができている瞬間は幸せです。



橋本:こうだから幸せではなくて「時より」だよね。
時よりの幸せに支えられて生きていくんだよね。


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『タリウム少女の毒殺日記』より




土屋監督:タリウム少女は自己否定していませんね。




會川:でもいじめられてる状況を否定しないことで結局自分を否定してるんじゃないでしょうか。いじめられてる状態はそんな、特にいいことではないし。




橋本:でも最後は自己肯定はしてますよね。



土屋監督:最後は出できたんですよね。最後は自己肯定できたから自ら光ってみようと思って、それが楽しいことだと思って、自由だと思って、「光っていいんだ、人間は」と。タリウム少女は最後に、そこに降り立った世界からの出口みたいなものが見つかって、光るぞ、まだいけるぞと思ったので、ある種の肯定感があったのだと思います。それまでは自分を否定するより、否定も肯定もなくこういうものであると。以上でも以下でもないみたいな感じだったのだと思います。




人間としての窮屈感への共感




橋本:10年後、2020年代の幸せはどう変わっているか考えると、そのとき私は28歳……老いが怖いです。おじいちゃんや高齢の両親と暮らしをしていて、長生きって、老いってなんだろうと思って。女の子は特に30歳前だし、期限もありますし、老いを恐れていますね。体もきつそうだし、判断力も鈍って。おじいちゃんは健康オタクで、詐欺まがいの健康グッズを買い漁っていて。死を恐れているみたいで、いつも湿布を貼って、ここがおかしいなと病院に行きまくっているのを見たりとかすると、「あぁ……」ってなる。28歳ともなればもう30歳だし、ほぼ老いも近づいていると考えてしまいます。



土屋監督:老いるとこうなっちゃうんだろうな、やだなっていう恐怖感があると。その枯れていくポイントは30歳なのでしょうか。



橋本:人それぞれでしょうけど、生きるところまで生きてしまったら、死ぬに死ねなさそうだから。最後お葬式の写真が綺麗だったらいいなって。若い遺影があったらいいな。



橋本:40歳は無理です。想像もしたくない。




會川:1ヵ月前くらいから植物を育てるのが好きになってきたので、10年後は家をジャングルみたいにしたらいいなと思います。今までは植物を全部枯らす人だったんですけど、いいなって思えるようになってきたんです。基本的には働きたくないのですが、植物を見たら「この子たちの為なら働いてもいいかも!わたし幸せになれるかも!」と思えるようになりました。






三浦:行き当たりばったりで生きて行ければと考えます。先のことを心配してたらきりがなくて。心配して心配して心配して、が重なってしまったたら人生すぐ終わってしまいます。そういうのではなくて、ひとりとかふたりとかで無計画に適当に町に出て迷って日が暮れるみたいなことがよくあるのですが、心配するとかこれが幸せだと決めつけるのではなくて、好きなように生きていけたらいいのかなと思います。どうしようもない生活を送っている中で、夜に飲むお酒がもし美味しくて幸せだってその時思えるんだったら、それでいいんじゃないかなって思います。




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『タリウム少女の毒殺日記』より



土屋監督:タリウム少女の最後の選択はどう思いましたか?



三浦:タリウム少女なりに日常生活の打破というか、こういう形でジャンプしたんだなって思ってふっきれたのかなとそういう感じです。すっきりするようなラストでした。



橋本:わたしはタリウム少女に虚無感ではなく人間味を感じていて、光りたいというのは人間じゃなくなりたい、人間やめたいと言うことで、人間であることに窮屈さとか辛さを感じていたかと思うと、そこは自分たちと同じなのだろうなと思いました。



土屋監督:人間としての窮屈さ、ですね。



會川:よかったな、と思いました。生き生きしていたんで。あのスタンスは疲れちゃうだろうなと思って。次に行ったのかなって思いました。以前私もスタンスを変えてみるっていうことにはまっていて。



土屋監督:例えばどういう風に?



會川:嫌な人に対するスタンスを、こういう感じでいったり、ああいう感じでいったり。試行錯誤して、アプローチを変えてみるみたいな感じです。



會川、橋本:「無視するバージョン」「戦うバージョン」「おもねるバージョン」。こういう私で行こう、次はこれで行ってみようとか。



土屋監督:いろんなバージョンの人に対するスタンスを楽しんでみるってことでしょうか?



會川:どう転んでも嫌だからやってみようと。




土屋監督:耐えるために?



橋本:「第1章こういう私」「第2章こういう私」、みたいにしていました。私の場合は、テーマは部活にしたら部活に打ち込む、勉強にしたら勉強に打ち込む、恋愛にしたら恋愛に打ち込む、友達にしたら友達に打ち込む、みたいなのりでした。



土屋監督:日常を変えるためのタリウム少女なりの選択、変えるための選択をしたいですよね。



橋本:きっかけ、タイミングをうかがっているような感じです。今はジャンプしたい時期です。自分の気持ちだけではこうはいかないとは思うのですが、「外側の社会の状態がよくないから」とかでっかいことをいわれると、そうではないと思います。



橋本:周りの人だと思います。



會川:社会じゃなくて自分の方かなと思いますけど。



三浦:勝手なもので、自分が幸せで満足しているときはなんとなく社会もよく見えてくるのですが、自分がへこんいでるときは、社会のすべてが、「なんなんだよ」って、何もかも悪く見えてきてしまいます。気の持ちようが大きく関係しているのかなって思います。




(構成:駒井憲嗣)











映画『タリウム少女の毒殺日記』

渋谷アップリンクにて上映中



科学に異常な関心を示す≪タリウム少女≫は、蟻やハムスター、金魚など、様々な生物を観察・解剖し、その様子を動画日記としてYouTubeにアップすることが好きな高校生。彼女は動物だけでなく、アンチエイジングに明け暮れる母親までも実験対象とし、その母親に毒薬タリウムを少しずつ投与していく…。さらに彼女は、高校で壮絶なイジメにあう自分自身をも、一つの観察対象として冷徹なまなざしで観察していた。

「観察するぞ、観察するぞ…」

≪タリウム少女≫は、自らを取り囲む世界を飛び越えるために、新しい実験を始める。




監督・脚本・編集:土屋 豊(『新しい神様』、『PEEP "TV" SHOW』)

出演:倉持由香、渡辺真起子、古舘寛治、Takahashi

撮影:飯塚 諒

制作:太田信吾、岩淵弘樹

チーフ助監督: 江田剛士

エンディング曲・挿入歌:AA=

日本/2012年/カラー/HD/82分

配給:アップリンク/宣伝:Prima Stella/デザイン:TWELVE NINE




公式サイト:http://www.uplink.co.jp/thallium

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/GFPBUNNY

公式twitter:http://www.facebook.com/GFPBUNNY



▼『タリウム少女の毒殺日記』予告編


[youtube:o-976C5NGZQ]


この映画をアメリカ人が観ると、他国よりアメリカが偉いというアイデンティティがゆらぐんです

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『ひろしま 石内都・遺されたものたち』のリンダ・ホーグランド監督



日本のアーティストが60年安保当時戦争をどのように作品に描いたのか問い正したドキュメンタリー『ANPO』のリンダ・ホーグランドが、新作『ひろしま 石内都・遺されたものたち』を完成。2013年7月20日から8月16日まで岩波ホールでロードショー公開される。『ANPO』にも登場する写真家・石内都さんが2011年10月、カナダのバンクーバーにあるMOA(人類学博物館)に行った個展の開催までを記録したドキュメンタリーだ。制作の過程だけでなく、写真展に訪れた人々の声を集めることで、カナダという国と原爆の関係、ひいてはアメリカという国のアイデンティティについて浮き彫りにしている。第13回東京フィルメックスでの上映にあたり来日したリンダ・ホーグランド監督に話を聞いた。










「この映画を観るまで原爆投下の正当化を信じていた」と言われた




── 東京フィルメックスでの上映の反響はいかがですか?



上映の後、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での石内都さんの展示の際にも先行上映を行ったのですが、そこにも広島から観にきた方がいらっしゃいましたし、京都や大阪からも来てくれました。トークのQ&Aの際、真っ先に立って「私は被爆者の娘で、父親が酒乱で死ぬまでぜんぜんコミュニケーションとれなかったんだけれど、8月にこの映画のテレビ版で初めて観て、父親と向き合おうと思った。写真を集めて、原爆平和祈念館に寄贈したばかりです。映画を観ていてずっと父親から『ありがとう』と言ってもらってるような気がする」とおっしゃっていました。



それから、今作のカメラマンの山崎裕さんからも、広島の方が父親の遺品を寄贈しようか泣きながら話していた、という話を聞きました。被爆者のご子孫にとってはものすごく親密な体験のようです。



── それは思い出と、物しか持っていない遺族の方が、この映画を観て「物にこんなストーリーを伝える力があるんだ」と発見したからではないないでしょうか。石内さんはそれを写真に撮ったわけですから。



丸亀での上映で思いがけなかったのは、「あの息遣いは、亡くなった人が蘇った息遣いと解釈したんですけれど、それでいいですか」という質問でした。作った側としては、石内さんのスピリットなんです。でも私は作品に独り歩きしてほしいから、もちろんそういう風に聞こえたらば、それが正解なんですと、言ったんですけれど。欧米人の霊感と日本人の霊感は違うんだなと思いました。この映画は、日本でちょっとでも霊感に敏感な人には、異なるかたちで受け止められるかもしれないです。



── 映画『イヴ・サンローラン』もパートナーが遺品を売ってしまう話でした。大切な人が亡くなりすぐに競売にかけるという習慣にはすごく違和感を覚えました。日本人はすごく大切に思い出のものをとっておくから、その違いはあるかもしれません。



フィルメックスの上映の翌日、ベルリン国際映画祭のディレクターであるウルリッヒ・グレゴールご夫妻とお会いしたら、ご主人には「とても知的で洗練された映画」と言われて、奥さんには「私はずっと、終戦に向ける術として原爆投下の正当化を信じていた。でもあなたの映画を観て、私の心は大きく動いて、悲惨な映像で見えなかった災いが初めて見えたから、感謝します」と絶賛されたんです。



── 僕らからしたら最もリベラルなセクションと思っていたベルリン映画祭のフォーラム部門のディレクターの奥さんがそう思っていたなんて、ちょっと驚きました。



ベルリンはナチスが悪いことをしていたから、という複雑な思いがあるのかな、とも思いました。




この映画をアメリカ人が観ると、他国よりアメリカが偉いというアイデンティティがゆらぐんです

映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』より © NHK / Things Left Behind, LLC 2012




『ANPO』で原爆のトラウマから抜けていなければ、この映画は撮れなかった



── フィルメックスのチラシのディレクターズ・ノートで、戦後日本で暮らしていて、日本人に申し訳ないというリンダのトラウマをこの映画で解消した、ということが書いてあって、そこまで日本生まれのアメリカ人のリンダが、なぜ苦しまなきゃいけないのか。もう大丈夫だよ、と言ってあげたいくらいに思いました。



私はアメリカの宣教師の娘として日本の公立の学校に通ったために、子供の時に「ヒロシマ」に直面することになった。4年生の授業で、先生が黒板に白いチョークで「アメリカ」と「原子爆弾」と書いた時、私はクラスでただ一人のアメリカ人だった。40人の日本のクラスメートは、一斉に振り返り、私を見つめた。その瞬間は、映像というよりはむしろ心情として、記憶に強く焼きついている。その時の机の形はもう覚えていないが、罠にはめられた気持ちの輪郭は、今でも確かに辿ることができる。私の祖国は許されないことを行い、私は自分ひとりでその責任を負わなくてはならなかった。クラスメートの無言の不信から逃れ、二度と顔を合わすことがないように、机の下に穴を掘りたくてたまらなかった。本作はその穴からの出口の模索の結晶とも言える。(フィルメックスのチラシのディレクターズ・ノートより)




── リンダ監督にとって、原爆の話を聞いた小学4年生の出来事は、やはりすごいトラウマなんですか。



そうでした。でも、この映画で、もうそれは終わりましたよ。実は『ANPO』の広島の上映会で終わっていたんです。私の初監督作品を広島の人たちが他の誰よりも熱く歓迎してくれたときに、私の肩から重荷を下ろしてくれました。だからこの映画を広島に撮りに行ったときに、普通の街として普通にロケハンできたんです。たぶんトラウマから抜けていなかったら、これは撮れなかったかもしれない。抜けて冷静になって、じゃあ他の人にもどうやって広島と向き合えるかという手段として、石内さんの作品と私の映画が作れたんだと思います。



── 石内さんの展覧会をバンクーバーでやるというのは、北米、カナダの人に観てもらいたい、というプロジェクトですよね。この『ひろしま 石内都・遺されたものたち』は、既に放送されたNHKのテレビ・バージョン、さらに海外バージョンもあるというお話ですが、『ANPO』がトラウマから抜け出すために作った映画だとしたら、次にリンダとしては自分の作品をどこに向けて作っているのかな、と思いました。



基本は北米人へ向けてです。だから逆に日本人の方があれだけ感動していただくと、反応が違うんだな、と感じました。ましてや被爆者のご子孫がこの映画をどう受け取るか、申し訳ないけれど、そこまで考える余裕がなかったです。



── 上映後のトークで「カナダに感謝」とお話されていましたが、アメリカとカナダは当然違う国ですよね、そこは大きいですか。



根本的なアメリカ人のアイデンティティって、どんなリベラルな人でも、他の国民より偉いと思っているんです。英語でエンタイトルメント(entitlement)という言葉があるけれど、アメリカ人はなにやってもいい。だからオバマも、平気でドローン(無人の偵察・攻撃機)で3千人の人間を殺している。でも『ひろしま』を観るとそれが問題になるんです。やっぱり偉くなかったんだ、悪いことをしたんだ、と。ゆらぐんです。でもゆらぎたくない。



── でも、石内さんの写真はレイヤーをひとつふたつ重ねたところで見ているから、バンクーバーで受け入れられるということですか。



カナダはアメリカじゃないですから。根本的に違いますよ。映画に登場するジョン・オブライアン教授も、アメリカにはああいう冷静に、カナダも原爆に加担していた、ということを知的に話してくれる先生はなかなかいないんです。もちろんリベラルな先生はいるけれど、啓蒙的になってしまう。



── 啓蒙というのはアメリカのリベラリズムを啓蒙するということですか?



いえ、アメリカが悪かったとは言うんですけれど、その主張があんなに静かではないんです。ガンガンお説教するみたいな感じ。アメリカのなかでそういう人々は居場所がないんです。




この映画をアメリカ人が観ると、他国よりアメリカが偉いというアイデンティティがゆらぐんです

映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』より © NHK / Things Left Behind, LLC 2012




この少女たちが67年前に死んだんだよ、それは私が編集に込めたメッセージ



── この映画は、非常に世界をある種バランスのとれた理想の形としてリンダなりに表現しようとしていると感じました。何人くらいにインタビューしたのですか?



実は話を聞いたのは50人です。



── それに、事前に話を聞きたいとリンダ監督が選んだ人を、少し紛れ込ませているんですね



それも8人くらいです。



── きちんとリンダのメッセージになっていますよね。ドキュメンタリーだと、ワイズマンのようにダイレクト・シューティングだけ、とか。もちろんワイズマンはそこにひねくれた視点はあるけれど、リンダの場合は、今の世の中とは違うけれど、映画の世界はこうあったほうがいい、と思うものを撮ろうとしているんじゃないかと思ったんです。あんなバランスなんて、ほしいけれど、ないですよね。



でも台詞を渡したわけではないですから、全部ほんとうに語ってくれたコメントを撮りましたよ。ただ演出の手段として、いちばん何をしたかというと、会場に入ってインタビューする人を探すんです。すると、写真にぐっと入り込んで見ているか、ぐるっと見て出ていく人か、一発で分かる。セキュリティ・ガードの人も、仕事で会場にいるのに作品を食い入るように見ていたので、インタビューしてみたら、からっぽの靴の写真を指して「広島、長崎と聞くと、大量の殺りくを考えてしまう。何がそこで起きたか。みんな消滅して、靴しか残らなかったんだ」という答えが出てきた。



そういう人には、とにかく「いちばん好きな写真を選んでください、そしてなぜこの写真を選んだか教えてください」というところから入っていきました。そうすると、すごく具体的な「水玉模様が好き」という答えになるんです。「この写真展どう思いますか」という質問をしてしまうと「戦争は悪い」「平和はいい」という答えしか帰ってこない。



── そうやって観客にインタビューしていって、いいなと思うものを編集していったんですね。仕込んだインタビューというのはどうやって?



奥様が被爆者だったというデヴィッド・ラスキンさんは、写真展に来てもらい、家でもインタビューしました。でも、仕込んだ人は全部『ANPO』の関係で知り合った人です。『ANPO』をバンクーバーで観てくれていたり、「実はアンドレア・ガイガーさんというお父さんがマンハッタン計画に加担している人を知っているから紹介するよ」と言われたり。



── リンダ監督曰く「神の采配」かどうか、と思ったのは、韓国の人と200人の広島の少女でした。あの子たちにはインタビューしなかったんですか?



できなかった。会期中、石内さんとオブライアン先生が対談していて、その通訳をはじめなきゃいけない1分前に、彼女たちが広島から修学旅行でトーテムポールを観に、館内に来ていたというのが分かったの。だから校長先生に突如お願いして「記念写真を撮らせてください」とだけ頼んで、山崎さんがかろうじて撮ってくれた。その間、私は通訳の仕事をしなくてはいけなかったんです。



でも私は、インタビューしなくてよかったと思っている。ほんとうにシュールな瞬間だったので、映画のなかでもシュールに扱うことで、不思議に思われてもいいと思ったの。200人の若い女性たちが写真の前で若く生きていて、一生懸命記念写真のカメラに向けて様々な表情を作っている。「この子たちが67年前に死んだのよ」、それは私が編集に込めたメッセージです。



── 映っているのは死んだ人の抜け殻なんだけれど、広島からやってきた若い子が記念写真を撮っているところに、生き生きとしたエネルギーを感じました。あとやっぱり、絶妙に現れた韓国の人。それまで日本人として原爆の被害者として写真を見ていて、それが彼の言葉で、ふっと加害者として意識が変わる。



ほんとうにそうなんです。「この着物はすごくやわらくて、すごく綺麗で、日韓併合時代を思い出します」と彼は言いました。あれもリンダなりのメッセージです。



── 単純に原爆はかわいそう、ひどいということでなく、あの場面で日本の立ち位置が180度変わるのはすごいと思った。あれだけで全体の構造が、いわゆるテレビではなくなっている。観ている側の心に深く刺さってきて、情緒的な感情だけではなくなった。さらに年配の人でなく、若い人がそういうことを言っているのを観て、グッと刺さってきました。



それから、スペインの女の子の「内戦のあげく、スペインの旗をいまだに認めたこともない」という話も聞いたことがなかった。そこで、国民と旗の関係や、国民と国家の関係を彼女がポツンと言ってくれた。




この映画をアメリカ人が観ると、他国よりアメリカが偉いというアイデンティティがゆらぐんです

映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』より © NHK / Things Left Behind, LLC 2012




ラスト30分は石内さんの存在を消した



── それから、ある意味、石内さんの試みがすごく成功しているからなのか、この映画では、石内さんの存在が消えているんですよね。



消しました、特にラストの30分は。そこまでで彼女のやることは終わったんです。彼女が主役なのではなく、彼女の写真が主役なんです。それは最初から決めていました。そして石内さんにも「あまり撮らないで」と言われました。



── 前半には石内さんの母親への思いなどが描かれていますが、後半はまったくそういうことが消えて、美術館に来ている観客と写真、不思議なことに、それをさらに観ている映画のお客さんがいて、石内さんの写真と対面しているという、入れ子構造になっている。そこで気持ちが、写真の向こうの人に繋がっていくというところがすごいなと思いました。



最後、お客さんもいなくなってしまうでしょう。夜の美術館というのは最初から考えていたんです。最初のシーンで、キュレーターの人が、カラスのマスクを見せて「くちばしを縛っているのは夜になるとカタカタ音を立てるかもしれないから」と言うでしょう。
これはみなさんの解釈にお任せしますが、真夜中、あのマスクが広島の写真とどういう会話をするのか、遺された者同士の会話がきっとあるだろう、という作者の意図なんです。コメディでない「ナイト・ミュージアム」ですね。トーテムポールも、ネイティブの人たちのとんでもない歴史を見届けてきているわけでしょう。



── バンクーバーの美術館がトーテムポールの高さに合わせて建物の天井を高くしているというのも、ネイティブの人へのリスペクトを感じました。



そこもカナダは違うんです。アメリカではそうしたことはしません。



── なぜそんなにアメリカとカナダは違うんでしょうか?



意図的に、カナダはアメリカより人権の意識が進んでいると思います。だって国民の健康保険はあるし、ゲイは結婚できるし、先住民のことをファースト・ネイションズと呼んでいる。銃の数もアメリカの100分の1くらいでしょう。そうしたことを合わせていくと、ぜんぜん違う国です。





この映画をアメリカ人が観ると、他国よりアメリカが偉いというアイデンティティがゆらぐんです

映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』より © NHK / Things Left Behind, LLC 2012




アメリカを世界一の大国として守り続けている神様



── カナダにはアメリカの南部的なものがなぜないのでしょうか?



カナダにはアメリカではぜんぜん終わっていない奴隷制度がなかったし。だってユージーン・ジャレッキー(『ヤバい経済学』)の新しいドキュメンタリー『THE HOUSE I LIVE IN』はアメリカのドラッグ戦争の結果、新しい奴隷制度のようなものができていて、黒人の若い人の25パーセントは刑務所に入っている、という現状を描いています。ゲットーにはそれしか産業がないから、小さな量の売買で全員刑務所に入れられる。それがはじまったのが40年前で、ちょうど黒人解放運動のあげくドラッグ・ウォーをはじめた。



── ドラッグ・ウォーをしかけている白人の大きな力があるということですか。



だから、あれだけ大統領選挙ではオバマが負けそうになったんです。とにかく黒人の大統領を倒せ、という運動がすごく強かった。



── 一見オバマが勝っているけれど、アメリカは半分半分の国ですよね。リンダがトークで言っていたように、アメリカは戦争をし続けないとダメな国だ、というのはどういうことなんですか?



だって、1945年からずっと戦争を続けているじゃないですか。だから経済的にも精神的にも、世界一であることが根本的にアイデンティティだから。そのためにはガンガン攻めて戦争して占領して、と戦争が続かないと、アイデンティティがない。



── それはどこから生まれたアイデンティティなんですか?もともとアメリカはネイティブが住んでいた土地だけれど、ヨーロッパからやってきて、なんでそんなに俺たちはナンバーワンというアイデンティティをどこで持ち始めたんでしょうか?第二次世界大戦で勝利を収めて、そこから経済も発展したし。



経済的には完全に戦争産業に依存しています。



── 軍事産業が潤うために、政府をも動かしている。戦争をやり続けている、戦争中毒ですよね。



それと、原爆に関して謝罪していない大きな理由は、もう一回使いたいからでしょう。謝罪したら使えないから。



── オバマがノーベル平和賞をもらったのは、核をもう作らない、と訴えたからでしたよね。



オバマ大統領は、結果的に一人の人間なんです。あの軍事産業には勝てない。勝ちたいと思っているかどうかは分からないけれど。



── でもリンダ監督はチョイスとしてはオバマしかないわけでしょう。



そう、投票しましたよ。



── オバマでも軍事産業には勝てない、あるいはオバマを支持する経済界がどれだけあるのか、ということで、そこはドローンもオバマの命令で飛ばしているわけでしょう。



もちろん。あとオバマの命令で暗殺しているでしょう、ビン・ラディンだけじゃなく。それもオバマの個人的な暗殺リストだから。彼がOKすると殺す。アメリカ人だから日曜日に教会に行って祈っているけれど、オバマさんはキリスト教信者。第六の掟はなんでしたっけ?(「なんじ殺すなかれ」)



── オバマが当選したときの演説を読んでいて、日本の政治家と比較していいことを言ってるなと思うけれど、最後は「神に誓う」じゃない。あの神って誰なんだろうと思いました。アメリカ国民にはイスラム教徒もいれば、仏教徒もいるし、でもつねにGod Bless Americaでしょう。



それは、世界一の国にして守っている神様なんです。キリストですが、なによりもアメリカを世界一の大国として守り続けている神様。



── そういう時には、リンダは宣教師の娘だけれど、アメリカでは、神様というのはやっぱりイスラム教徒のことは頭にないのですか?



そうですね。



── キリスト教以外は認めない?



リベラルなことはいろいろ言っているけれど、巧みにできているイデオロギーなんですよ。「イデオロギーでないですよ」というイデオロギー。我々がベストで、我々がやることはぜんぶオーケーだけれど、あなたはやってはいけない。



── それは神様が見ているから、それともアメリカ人だからか、どちらなんですか。



そこらへんがぐちゃぐちゃなんですよね。卵が先なのか鶏が先なのか。



── 最後に、今後のアメリカ本土での上映についてですが、『ひろしま』『ANPO』を含めて大学では上映されているということですけれど、それはある程度インテリジェンスのある人たちだと分かっていて観せるわけですよね。PBSのようなところで一般に見せる、ということはまだ難しいのが実情なのでしょうか?



とりあえずそうですね。ただ、ニューヨークのラボで20人くらい観せたら、みんなに素晴らしいと言われました。『ひろしま』の後の新作のカメラマンのカースティン・ジョンソンが観終わってお辞儀をして「私が提供できるすべての映像を担うことができる監督はこの世に数人しかいない」と言われてしまったんです。つまり映像表現として、評価してくれた。またある人は、映画業界の人じゃない人ですが「僕は写真展の会場に連れられた気持ちになった。あの写真の一枚のなかで、反射が映ったときに、思わず自分の後ろを観てしまった。それくらい、この展覧会に吸い込まれてしまった」という感想があって、それは狙いでした。ですので、この映画を誰かに誘われて観てさえくれれば、観客は素直に受け止めてくれるから、大丈夫だと思うんです。



(インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)


この映画をアメリカ人が観ると、他国よりアメリカが偉いというアイデンティティがゆらぐんです

映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』より © NHK / Things Left Behind, LLC 2012











リンダ・ホーグランド プロフィール



アメリカ人宣教師の娘として京都に生まれ、山口、愛媛の小中学校に通う。エール大学を卒業後、ニューヨークをベースに活動。1995年以降、字幕翻訳者と して宮崎駿、黒澤明、深作欣二、大島渚、阪本順治らの作品を始めとする200本以上の日本映画の英語字幕を翻訳する。2007年、映画『TOKKO/特 攻』(監督:リサ・モリモト)をプロデュース。2010年には長編ドキュメンタリー映画『ANPO』で監督デビュー。同作品はトロント、バンクーバー、香港など多くの国際映画祭で上映された。本作が監督第2作である。










映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』

7月20日(土)~8月16日(金)

岩波ホールほか全国順次上映



監督:リンダ・ホーグランド

撮影:山崎裕

編集:ウィリアム・リーマン

音楽:武石聡、永井晶子

プロデューサー:橋本佳子、浜野高宏

統括プロデューサー:小谷亮太、リンダ・ホーグランド

製作:NHK、Things Left Behind Film、LLC2012

配給:NHKエンタープライズ

2012年/アメリカ・日本合作映画/80分



公式HP:http://www.thingsleftbehind.jp/




▼映画『ひろしま 石内都・遺されたものたち』予告編


[youtube:PdzpWWxJ1JA]

とがった主張をいれようと意識しているけど、間違えると炎上するから、バランスを意識してしまう

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『タリウム少女の毒殺日記』トークイベントに登壇した朝井麻由美さん(左)と土屋豊監督(右)



現在渋谷アップリンクでロードショー上映中、8月3日(土)よりシネマート心斎橋で公開となる『タリウム少女の毒殺日記』。公開を記念して、「10年代の幸福論」をテーマにトーク付きの上映イベントが渋谷アップリンク・ファクトリーで開催。ライターの朝井麻由美さんと今作の土屋豊監督が登壇した。『女子校ルール』(中経出版)の取材などで若い世代の心理を捉える朝井さんと、最先端の科学技術への取材をもとに今作で次の時代の幸せのありかたを描こうとした土屋監督との対話を採録する。




「観察する」「観察される」機会が多すぎる(朝井)



朝井麻由美(以下、朝井):『タリウム少女の毒殺日記』を観て思ったのが、この映画のなかでタリウム少女は怪物として扱われているけれど、私には全然怪物とは思わなくて、むしろ共感する部分が大きかったです。チラシに書かれていた大学生のレビューで「眼差しに宿る虚無感に共感しました」とありましたが、私も同じ気持ちを持ちました。

また特に、今の若い人と作中の少女の共通点は、スマホですべてを見るということ。客観的に映画を見ていると、何でもスマホで動画を撮る少女は異様に見えますが、これ、今の時代誰でもやっていることですよね。私も、友人とお祭りに行った時にブログ用の写真を撮るために「こうして」ってポーズを頼んだら、友達から「すべてをブログに書く前提で行動してるよね」って言われたり、常にTwitterで何をつぶやくかをつい考えていたりします。



土屋豊監督(以下、土屋):それは普段接している同じ世代の人たちも同じ感覚だと思いますか?朝井さんがライターだからそのように感じたのでしょうか?



朝井:もちろん職業柄そういうことが私は特に多いですけれど、TwitterやSNSやブログってみんな日常的にやっていることですから、ライターだからというわけではないと思います。




あらかじめプログラムされた色で日々デジタルカメラに収められていく、あらかじめプログラムされたDNAを持つ生物たち、私たち。全てを改変・複製・削除可能な"モノ"として観察する彼女の、眼差しに宿る虚無感に共感しました。

─會川えりか(早稲田大学文学部生)




タリウム少女は決して私たちと遠い存在ではない。ましてや怪物などではない。少なからず私たち世代の若者の中に、影をひそめている。

この映画において、タリウム少女自身が怖い訳ではない。タリウム少女のあの熱のこもらない目を通して、タリウム少女と同じ視点で世界を観察してしまいそうになる自分に気付いてしまったとき、思わず身震いせずにはいられないのだ。

─三浦みなみ(早稲田大学文化構想学部生)



土屋:女子大生のコメントにもあるように、犯罪者としてのタリウム少女と自分も同じ目線でモノを見ているということに気づいて、怖いと思うお客さんが多いんです。スマホで見る感覚にも近いのかもしれないけど、コメントを寄せてくれた彼女はずっと生き辛さを感じていて、高校くらいのとき、生き延びるためにはどうすれば良いか考えた結果、自分をネタにしちゃえば良いんだと。苦しい私は今、第1章にいて、第2章になるとこういう変化があるはず、と突き放して考えればなんとか生きられると言っていたんですよ。とにかくネタ化する。それは今の朝井さんの、何かをすればブログに書く事ができるという風に世界を見ていく感覚に繋がっているみたいですね。



朝井:そうですね。他者だけでなく、自分すらも客観視するんですよね。『女子校ルール』のとき現役女子高生の取材をしたんですけど、驚くくらい顔の使い分けしているんですよ。当たり前のようにTwitterのアカウントを2~3個持っていて、このアカウントは鍵かけておく友達用、趣味は趣味で別のアカウントをとっていて、オープンにしているアカウントはフォロー数とフォロワー数が何百といる。そんなに当たり前のようにペルソナを使い分けているんだというのが印象的でした。
タリウム少女の言葉を借りれば、「観察する」「観される」機会が多すぎる。私も、これはリツイートされるかなと思ってツイートしたりしていて。考え無しにすべてを曝け出すと、いろんなところから突っ込まれるんじゃないかとか、まず考えてしまう。女子の世界で言うと、ちょっとおしゃれなカフェにいっただけでスイーツ(笑)っぽいって突っ込まれるなど、そういう水面下のディスり合いってけっこうあって。常に自己プロデュースしなくちゃいけない感覚。先ほどおっしゃっていた女子大生の生きづらさというのも、そういうところにあるのかなって思います。






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『タリウム少女の毒殺日記』より


土屋:でも、常に自己プロデュースすることができる視点を持たなくてはならないってこと自体が、僕からすると苦しいんじゃないかなって。



朝井:はい、苦しいですね(笑)。



土屋:そうした実情があるなかで、矛盾というか、なぜそんなに何個もペルソナを使い分けなくてはいけないんですか?




朝井:やっぱり今はSNSとかいっぱいあって、突っ込みが入ったり、内面を見られるんじゃないか、という機会が昔より圧倒的に多いですよね。コミュニケーションが対面だけじゃないから、タリウム少女のように傍観者ぶる。「私は分かってますよ」というエクスキューズをして、他人から突っ込まれても、実は分かっていたと言えるようにしておくというか。タリウム少女の「常に傍観者・観察者でいる」という姿勢、この描写を通して、痛いところつかれたと思いました。




土屋:年齢は違いますが、現在の同じ環境に生きている僕のなかにもそういう面はあるので、その複数の自分という点は作品づくりの中で意識しました。昔なら自分探しをして、それをこじらせたときには手首切りたいとか考えるんでしょうけれど、今はキャラクターが多重化している。デフォルトで自分は分散している。それは当たり前のことだから、それをポジティブに考えて進行させてみたらどうかって、この作品では考えたんです。



朝井:タリウム少女が最後、いままでの実験をやめて、違う方向の実験をはじめたのはそういうことですか?



土屋:そうですね。もっと自分を突き放して考えて、お母さんに毒を盛るのを止めて、自分を実験台にして、自分の体をメディアとして使い、光るという表現をすることで、自分を固定化せず改変可能と考えることで、バラけている自分がデフォルトであることを当たり前のこととして、プラスに考えることができるっていうイメージだった。



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『タリウム少女の毒殺日記』より







私はシステムの一部である、と考えることで楽になれる(土屋)




朝井:タリウム少女って既存のものから逃げたがっている、という印象があったんですけど、多重化するキャラクターでさえも既存のものになっていってしまう、ということなんでしょうか?



土屋:キャラクターも固定化するとシステムになってしまうじゃないですか。そうしたループをどう超えていくか、というイメージですね。



土屋:映画の中のタリウム少女はいじめられている苦しさから逃げるためというよりも、そのほうが楽だから傍観者になっています。実際のタリウム少女は、たとえばいじめなどに対して、いじめられている自分を傍観する視点で「狼はトナカイの群れを強くする」とブログで表現していました。狼はトナカイを食べてくれるから、トナカイは逃げ方を身につけたり、強さを身につけている。狼がいないとトナカイは弱くなる。だから、そういう意味で、いじめっこは必要で、私はそこにあるシステムの一部であると考える。そうすればそこで何も考えずにいることができ、楽でいられる、とタリウム少女は考えたんじゃないかと思ったんです。



朝井:辛いことあったから、「これは自分の役割なんだ」と思うパターンもあれば、何か事が起こっても平然としていられるように最初から俯瞰しているパターンもありますよね。





土屋:朝井さんは全体としてはタリウム少女に共感できたほう、ですよね?



朝井:そうですね。「観察者」であろうとする意識のほかには、感情論を交えないところも。映画では、無感情のタリウム少女、感情的な母親、と対になっていましたよね。私は感情論がすごく苦手なので、「食べる魚と見る魚は違うでしょ! 神様がそう決めたの」という言い方をする母親に対するタリウム少女の疑問はもっともだと思いましたし、そこを頭ごなしヒステリックに、「口答えするな」という母親の押さえつけも嫌でした。あ、もちろん、食べる魚と見る魚が違うことは分かっていますが、「なぜ違うのか?」という疑問を持つことは否定されちゃいけなよな、と。




土屋:あのお母さんの言う「違う」というのは、単に感情論です。そこで論理的に説明できないことに対して、タリウム少女は「もっと論理でいえるはず」と反発するんですけれど、その感覚についてどう思います?



朝井:普通の人が成長の過程で持ち続けてきた常識が欠けているから、タリウム少女はあのような「実験」をできる、というのを前提にしても、そういう気持ちになることはすごく理解できます。ただ、映画の中には、少女の実験という、“世の中的には些細なこと”から、クローン技術などの“世の中を巻き込んだ壮大なこと”まで描かれていますよね。どちらも、「倫理的にどうなのか?」という問題を孕んだことですが、クローンのような話が大きなことになってくると、じゃあそういう「実験」って全面的に正しいことかと言われると、そう簡単に答えが出せないジレンマがあります。






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『タリウム少女の毒殺日記』より


土屋:僕もiPS細胞などの話を聞くなかで、彼らの行なっている最先端の医療や科学技術について、このままいってどうなる?っていう意識も確かにあります。でも、これはやっちゃいけないんだ、ということを一度忘れて、じゃあ、なんでいけないって思うのか、尊厳的にだめとか生理的にだめ、というのは違うだろうと。実際なぜだめなのか、根本をきちんと考えたいという願望があったんですね。その気持ちをタリウム少女に代弁してもらったんです。その疑問を、より観客の皆さんに受け止めてもらうために、お母さんたちは登場するんです。



朝井:なんでいけないのか?という疑問の答えは、いま監督の中にありますか?



土屋:広くいえば、311の原発の事故があって、科学技術は暴走するもので、やっぱり自然がいちばん、エコだよねっていう風潮を感じるけれど、人間が科学技術で進化してきた歴史を僕はある種肯定的に捉えています。それを感情論でストップするのは違うと思っていて。実際に、病気のためにそうした科学技術の進歩を待っている人もいますよね。映画にもあるように、移植をするために豚の中で人間の臓器を作る技術を待っている患者もいる。



朝井:お話を聞いていて、漫画の『HUNTER×HUNTER』(集英社)を思い出しました。キメラアントという大きな蟻が人間を食べるようになり、主人公たちはキメラアントと戦う、という話が出てくるんですけど、結局キメラアントは繁栄・生存のために人間を食べているわけで、やっていることは人間と同じなんです。




土屋:人間もプログラムでできているなら、そのプログラムを改変してもいいという考え方もあるんじゃないか。そこに希望を見いだし、光るのが夢、という方法論も有りなんじゃないかと思っています。



成功しても叩かれるかも、だから複数アカウントを持つ(朝井)



土屋:少し話が戻りますが、今回トークのテーマがが「10年代の幸福論」ということで、SNSでいくつも顔を持っている若い子は、幸せなんでしょうか?




朝井:望んでやっているのか、仕方なくやっているのかによっても違うと思いますけど、いずれにせよ、そのほうが生きやすいから、と自分で自分を納得させないと、辛いですよね。




土屋:朝井さんが幸せだと感じるのはどんなときですか?



朝井:広いですね(笑)。……難しいですが、いっぱい寝ていられたらそれで幸せっていうレベルです。私、生命エネルギーが低いほうなので、なんかこう、起業とか、なんちゃら交流会みたいな、「自分たち成功してますし、これからもグイグイ上昇しますからー!」というオーラ全開な人が多い集まりに出ると、本当に疲れちゃうんです。





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映画『タリウム少女の毒殺日記』より




土屋:そのあたりが、今っぽいですよね。そんな頑張っても……みたいなエクスキューズがあるのってなんでなんでしょうか?



朝井:成功したら叩かれるんじゃないか、いや、成功“しすぎたら”叩かれるんじゃないか、と思うところは正直あります。
そういえば以前、3年くらい前ですが、「読者モデルになりたい子が増えている」という雑誌の特集の取材をしたんですよ。読モのトップって、女の子たちの間のスターで、そしてそこそこで結婚して引退(またはファッションブランドの立ち上げ等)、という流れなんです。一般人だけど、そこそこの成功を体験。素人だけど有名といった、生活をおびやかされない範囲での成功が欲しい、という風潮なんじゃないかって思います。どうせ頑張っても無駄、というとろこまでは悲観していないけれど、今ってネットで検索すれば、得意なことを持っている人は世の中にたくさんいることが分かる。自分の特技はコレだ、と思っても、それを上回る人がごまんといることが可視化されてしまう。だから、そこまで妄信できないんですよね、自分の力を。
でも、逆に言えば、だれもが「なんちゃって」をできやすい環境でもあるんですけど。ニコニコ動画などの表現の場があることで、なんちゃってアイドル。なんちゃってアーティストなどせまいコミュニティだけど、そのなかでアイドル的にあつかわれる土壌はある。



土屋:全部が全部じゃないけれど、インディペンデント映画の世界もそうで、映画ごっこがしたい、完成度の高いごっこができたら、それでいいっていう人もいて。たとえば、アップリンクで3週間自分の作品を上映して、3週間友達とかが大勢きてくれて満席になったらもう幸せみたいな。けれど、アップリンクで3週埋まってもたいしたことないですよ。そこで充足せずに、カンヌで賞を取った是枝さんは確かにすごいけど、俺のほうがもっと凄いとか、そういうふうに世界の映画祭まで考えて邁進するのが映画監督を目指すなら当たり前なんじゃないかって思うんですよ。



朝井:これを『タリウム少女~』に引き寄せて考えると、タリウム少女の感情のなさは、AKB48のセンターを彷彿とさせますよね。前田敦子さんにしても、新世代として推されている島崎遥香さんにしても、どっちも感情のない人形みたいで。前田さんにインタビューしたことがある人の話では、「前田敦子は空気人形みたいな印象だった」と。なんで自分がセンターなのか分からない、なんで自分がアイドルをやってるのか分からない、と淡々と語っていたそうです。低体温の子の方が、若い世代の共感を呼ぶんでしょうか。あと、つい最近、「CanCam」8月号の表紙に読者モデルの子が抜擢されていました。プロのモデルではなく読者モデルがカバーガールになるのは27年ぶりの快挙だと話題になっていたのですが、「福岡の普通の女子大生」というのを強調していたんです。あくまでも自分は普通の人だよ、と自分を下げておかなきゃいけないのかな、と印象的でした。



土屋:でも、そういう方法論もそのうち終わるのではないですかね。それこそ、そんな環境では、すごいユニークな人が出にくくなってしまいますよね。



朝井:そうですね……。何かを発信するときは、とがった主張を入れたほうがいいですが、出し方を間違えると炎上するから、バランス、さじ加減を意識するっていうのはありますよね。



土屋:あえて炎上させてっていうパターンもあるけど、うまくいかないときもありますし、いまは、一億総マーケティング社会という感じですね。



朝井:炎上をあえてさせている人は、割り切っているとは思います。マーケティングするってのは自己保身ですよね。傷ついてもいいっていうなら、やりたいようにやればいい。けれど、そういう人は少ない。



土屋:それってすごく退屈。そんな世の中つまらないですよ。多様性も何もなくて、同じようなものが出回る。傷ついてもいいから何かしたいって人が出てきて欲しいですね。



朝井:ジャンルは多様化したけれど、目標設定が低い、ということかなと思います。



土屋:みんな、心配しながら生きている気がして。例えば今、遺伝子診断はわりと安くできるようになっていて、「あなたは60代で腎臓がんになる可能性が何パーセント」とか診断できる。中国では、子供がどのくらい頭よくなるか、遺伝子診断できるといわれていて、そういう技術が普及したりしたら、どうなるんだろう?





朝井:「何でもかんでも知る」って幸せなことのか?って思います。もし、遺伝子診断がネットで検索できるようになる時代になったら、絶望しませんか? あなた30代でがんになる確率70%ですよ、なんていうのが検索で分かるようになった日には……。




土屋:でも、いずれでもそうなりますよ。



朝井:それは……知りたくない。見なきゃ良かった情報が見えてしまう時代になると、ますます自己保身になっていきますよ。

自分ががんになる確率が検索できたら、知りたくなくても、ついしちゃいますよね、きっと。こう、夜中にネットサーフィンをしていときなんかについ魔が差して。そして、それを他の人も検索できるシステムになるなら、もうすぐこの人は死ぬから雇わない、とか出てくる。ほかにも、結婚する予定の人を検索して40歳で大病を患いそうだから結婚しないとか、なりうる。それって正しいことなんでしょうか?




土屋:でも結婚するときに、将来性を考えてその人の勤務先を調べたりってしますよね。それと同じでは?



朝井:でも、会社調べるのとがんではちょっと違うと思います、あっ、でもこれ、「食べる魚と見る魚の違い」の話と同じか。




自分の足でたっていない怖さ、改造することについては、私は保守的です(朝井)



朝井:バーチャルリアリティと五感を絡めた最新の研究をSPA!で特集したんです。取材した中に、映像を観ながら旅行を体感できる研究があって。それが商品化したら、家でミラノの五感を体感できる。研究者は無邪気に「いい研究でしょう」と言うんですけれど、それが実現したら、楽しい、と同時に、リアルが侵される怖さを一般の人は持つんじゃないかなと。バーチャルとリアルが融合したら、自分の足で立っていない、自分がどこかにいってしまう怖さがある。




土屋:逆に僕は、もっとそういう技術は進んでほしいですね。経験を再現できるっていうことを経験したことがないから、ミラノを体験できるなら、ぼくは体験したい。それが僕にとっては退屈ではないということなんです。自分の足で立っていないとそれは現実的じゃないって思う理由はないはずなので。生理的に怖いのは分かります。それによって誰かをだましたりするように悪用されるのはいやだけど、自分でコントロールできるならやってみたいですね。固定観念をゼロにして、それのどこが悪いのか考えたいです。



朝井:もちろん、自分をコントロールできるなら私もやってみたいですが、それができなくなりそうっていう怖さがありません? コントロールで言えば、映画のラストでタリウム少女は自分を改造し始めます。これは、「自分で自分をコントロールする」という世界から一歩進んだ、言わば「コントロール外」へ行こうとしているんですよね。私は前半のタリウム少女には共感しましたけれど、後半は共感しませんでした。自分を改造することについては、私は保守的です。



土屋:自分は観察者であり、自分自身すら観察対象にする。そして次は、自分を実験対象にして自分自身をアクションさせる。『タリウム少女の毒殺日記』では、その変化を描きたかった。ラストでは、GPSを追い越せるはずないとわかっているけど、あえて越えられるかもしれないとチャレンジしてみる、そんな馬鹿みたいな希望を最後に入れたかったんです。


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映画『タリウム少女の毒殺日記」より



──(会場からの質問)この作品は世代論で語れると思います。世代別でどういう感想の違いがあるか知りたいです。



土屋:若い人は、タリウム少女への共感が多いです。若い20代の男性は「タリウム少女は人類の亜種である」そして「僕は亜種としての彼女とつきあいたい」と言ってました。逆に「ラストの彼女は亜種ではなくなるので、付き合いたくない」と。40代だと、いまの世の中のことを切って貼ってモザイク状にしただけで、それ以上のことはない、というインテリ風の感想もありました。あと、僕がお世話になった監督さんは、小学生の男の子に馬乗りになって唾を吐きかけるシーンでは、小学生の役の親御さんはちゃんと承諾したのかって心配していましたね(笑)。



朝井:あのシーンは、何か目覚めちゃわないのかと下世話にも思いました(笑)。で、承諾は……?(笑)



土屋:承諾いただいてます(笑)。



──(会場からの質問)自分はいない、ですとかアイデンティティがないという意識になってしまうのは、ネット上で検索するとなんでも出てきてしまうということが理由だと思うのですが、これは日本的な状況なのでしょうか、英語圏ですとまた違う状況であったりすのるのでしょうか?



朝井:先ほど土屋監督が発言していたように、今は一億総マーケティングの時代。でもこれって、かなり日本的ですよね。SNSの投稿内容を気にしたり、フォロワー数を気にしたり、というのは海外ではあまり見られない傾向、と聞いたことがあります。



土屋:まさに今日の議題ですよね。



──(会場からの質問)最近、自分のなかで価値観を変えられた、という出来事はありますか?




朝井:価値観……そうですね、一つは、『女子校ルール』の取材をしたときに、女子校のイメージが全然違うものだったって分かったことですね。世の中のイメージ=いじめありそうってなっていますよね。でも実際そこまでじゃなくて、いじめはあることはあるけれど、基本、本当に仲がいい。

それからもう一つは、今回の『タリウム少女の毒殺日記』を観たとき。これは、自分を客観的に見ることができ、スマホに振り回された生活が端から見たらこんなおかしいことだったんだって思いました。



──(会場からの質問)ニュースなどで報道されている国民の幸福度というのは、その人の人間関係や地域といったものをトータルで測る指標ですが、その一方で幸福ってすごく主観的なものだと思うんです。幸福って数値化して観察できるものなのか、と思うのですが?



土屋:幸せになるための条件の指標というのは出せるんじゃないでしょうか。結局実際的になにが幸せかっていえば、お金と健康ですかね。お金なくても幸せってのは絶対嘘ですね。



朝井:私も月収2万の時代もありました。そういうときって、お金のことしか考えられなかったです。



── (司会)では最後に、今日の対談を通してあらためて発見したことがあれば、お願いします。



土屋:締め付け、というよりも自主規制がどんどん激しくなっていて、この作品を外務省の人が映画を観ずに海外に紹介したいと思ったときに、映画を観た後「母親殺しの映画はちょっと、日本の代表としては……」と言われた。保険をかけている人生は嫌だな、それで安心するのを幸せとは思えない。そのせいでいろんなことがつまらなくなっていると思います。そういう世の中は嫌ですね。



朝井:私はこの映画を観て自分自身の矛盾を発見することができました。本来、土屋監督の言うところの、保険をかけていてつまらないような“役所的規制”は嫌いなのに、自分で自分に規制をかけていたんですね。




(2013年6月29日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて 構成:駒井憲嗣)









朝井麻由美 プロフィール



1986年東京生まれ、東京育ち。東京都立西高等学校、国際基督教大学教養学部教育学科卒業。SPA!、DIME、サイゾーなどで執筆。体当たり取材を得意とし、トレンドからサブカルチャー/女子カルチャー、グルメや雑貨まで幅広いジャンルを手がける。近著[構成担当]に『女子校ルール』(中経出版)。

https://twitter.com/moyomoyomoyo













【宮台真司さん登壇トークイベント開催!】

2013年7月27日(土)18:40の回、上映後トーク

トークゲスト:宮台真司さん(社会学者)、土屋豊監督

会場:渋谷アップリンク

ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/reservation?date=624458



映画『タリウム少女の毒殺日記』


渋谷アップリンクにて上映中

8月3日(土)よりシネマート心斎橋にて公開



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/thallium

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/GFPBUNNY

公式Twitter:https://twitter.com/GFPBUNNY



▼『タリウム少女の毒殺日記』予告編


[youtube:o-976C5NGZQ]

タリウム少女はsur(超えて)vive(生きる)ために徹底的に否定する

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『タリウム少女の毒殺日記』トークイベントに登壇した大澤真幸さん(左)と土屋豊監督(右)



渋谷アップリンクで上映中、8月3日(土)からシネマート心斎橋でも公開がスタートする映画『タリウム少女の毒殺日記』。公開にあたり社会学者の大澤真幸さんと今作の土屋豊監督によるトークイベントが渋谷アップリンク・ファクトリーで行われた。実在の事件を元に土屋監督が創造したタリウム少女と、オウム真理教や酒鬼薔薇事件との関連、現代社会でのコミュニケーションの在り方まで話題は及んだ。




身を離しながらも絡まりたいという二重性



大澤真幸(以下、大澤):2011年にタリウム少女がいたらどうなるか、というこの映画の元になった事件のことは知ってはいましたが、深く考えることはありませんでした。『パッション』(メル・ギブソン監督)というキリストの磔刑の直前のことを描いた映画がありましたが、それを観たにヨハネ・パウロ2世が「まさしく『あれ』はこのようだったに違いない」と言ったと言いますが、まさにそれに近い感覚です。メッセージを捉えるとしたら、「本当にこれだろう」と言う事です。映画のスタンスとしては、「いったいこれはなんだろうか」と問う立場で土屋監督はいましたけれども、「私はあなたのことを、どこかわかってしまうんだ」と共感しているのが伝わってくる映画だと思いました。


一つの出来事を、一つの時代の現象として捉えたいという気持ちがありますが、時代の中に置くと、いろいろな出来事との共通点だけ見てしまいつまらなくなってしまいます。むしろその出来事のシンギュラリティ(特異点)を十分に徹底的に掘り下げると、逆に時代との繋がりが見えてくるのです。


少女のやむにやまれる気持ちに内在しようと徹底した結果として、他の出来事との通底性が見られると考えさせられました。



土屋豊(以下、土屋):タリウム少女の存在自体は、半分は僕の投影で、自分の気持ちを反映させています。今の世の中のシステムや、プログラムとして捉えられている人間に興味があって、タリウム少女に代弁してもらおう、という欲求がありました。



大澤:一番興味があって琴線に触れたのは、生きる感覚、身体の感覚の両義性です。少女は母親やモノを徹底的に観察し、出来事から身を離して、ただ観察者になることで痛みや苦痛の感覚から距離を置いています。しかし、私が興味を持ったのはそれとは逆のベクトル、痛みや苦痛へインボルブ(内包)されるベクトルが強烈に同時に作用している、ということです。その二つのゲクトルの緊張感がすごいと思いました。本当に自分が安全なところにいたかったら見なければいい、実験もやらなければいいのに、どうしてもやらずにはすまない、見ずにすますことはできない。身を引きたいのにそこに絡まっていく、その二重性です。



土屋:彼女がこの世の中と折り合いをつけていくための方法論、それが観察して、身を引いて目の前のことから距離を置く。直接コミュニケーションをとったりせず、他者から触れられないものに自分がなることで社会と関わっていく、世界で存在できるぎりぎりの立場です。立っている位置を変えないと息苦しい、生きていけない感覚。ぎりぎりの場所にとどまるには、こういうやり方があったのではないかと思うのです。



大澤:徹底的に外からの観察者になるには、本来ではあれば身を引くこと、世界に関わらないことのはずです。ですが、劇中グーグル・アースで俯瞰する視線で徹底的に俯瞰するように、身を引くことが世界と関わる仕方だと表現されていて、面白いなと思いました。



土屋:前回の朝井麻由美さんとのトークでもありましたが、スマホやSNSが物心がついた頃から身の回りにある人たちは、辛いことがあったら、先ず自分をネタにしてしまうのです。ネタ化、キャラ化して今の私の物語の第1章はつらい少女、そこから物語は変遷しますよと、小説を書くように日常生活をやり過ごして世の中に参加していく。そのやり方は一般的だとも言っていました。



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映画『タリウム少女の毒殺日記」より



大澤:タリウム少女事件は2005年でした。少しその前史のようなものを振り返ってみたいのですが、まず、95年にオウム真理教事件がありました。彼らのやった無差別テロ等は、われわれの観点からは犯罪ですが、彼ら自身にとっては宗教的な実践、つまり「聖なる実践」です。その後、97年に酒鬼薔薇事件があります。酒鬼薔薇聖斗と名乗った当時14歳の少年は、殺人のことを「聖なる実験」と呼んでいました。それがタリウム少女で単なる「実験」となるんです。ここに一本の線があると感じます。「宗教的実践」と「科学的実験」の間に「聖なる実験」がある。酒鬼薔薇は「生きているということはどういう事なのか」という謎のはまってしまっていて、その謎を解くために「殺してみる」ということになっている。彼は、自分の日記の中で「人間はどのくらい壊れやすいのか」というフィジカルな、無生物的な表現を使う不思議な感受性を持っていました。生命とは何か、単に動いているのではなく生きているとは何かを確認するために、壊してみるという感覚でやっているのです。タリウム少女に繋がる、その手前の感覚をもっていた。


またこの映画を観て思い出したのですが、酒鬼薔薇聖斗は自分の神様「バモイドオキ神」を持っていました。それは「バイオもどき」のアナグラムです。生命みたいな神様、生命の神秘に繋がる神様に対する儀式としての実験、それが殺人事件になってしまうのです。バモイドオキ神は顔と手しかありません。見る神様、つまり観察の神様なのです。彼は男の子の首を切ってそれを学校の校門の上に置きました。睨みつける、外から観察する神様を作っていたんです。時代の繋がりを考えさせられましたね。



土屋:97年当時、どこまでインターネットが進歩していたか詳しくは覚えていませんが、少なくともTwitterはないし、Youtubeもないし2ちゃんねるもありませんでした。当時、彼の「人間の壊れやすさ」という表現にをみんなは「どういうことだ?」と思ったでしょうが、今のSNSが発達した中で「壊れやすさ」は普通の言葉に聞こえます。
当時は壊れやすさという表現を読み解こうとすることで、逆に生命の尊さを照らし出すというような傾向もありましたが、現代の、この言葉に対する違和感がない感覚は、やはり問題でしょうか?



大澤:マイナーな現象として起きたことが、気が付いてみると割とメジャーなことになっているという事はありますね。当時は今ほどインターネットが普及していませんし、彼は手書きの日記を書いていましたが、もし当時ブログがあればタリウム少女と同様にブログを書いていたのではないでしょうか。


タリウム少女は、徹底的に世界から、他者から、そして自分自身から身を引き離すことで辛さを乗り越えていく。身を引き離すことと同時に、引き離せば引き離すほど本当には離れられない、むしろどこかで巻き込まれたい、そこに足を残しておきたいという二重性が重要だと思っています。


さきほどの酒鬼薔薇も「壊れやすいかどうかを試してみたい」と言っています。それは人間や生物を、機械を扱うような言い方ですが、それがほんとうは生きているのではないか、その自明性がなくなりかけているので、何とか確証を欲しかったかのです。生きていることは何かと。彼が生物や人間をモノとしてみていたと言っただけでは、まだ解釈が浅くて、ほんとうは、彼としては、「それ」に生命らしきものがあるのではないか、と思っているのですが、絶対的な確証が得られない。確信するには、「壊れやすさ」を調べるしかないと思っている。つまり彼は生きているはずだ、生命があるかも知れないという方にむしろ賭けているのです。


現代社会の問題と関係つけていうと、フェイス・トゥ・フェイスの関係において、最も深くコミュニケーションの現場に関与していることになりますね。それに対して、たとえば、Twitterの場合はヴァーチャルな空間でコミュニケートしているだけですから、現場との距離が出てくる。もしやりとりしているのが、アバターなら、自分自身ではなく自分の代わりにやっていると解釈することができるので、コミュニケーションそのものの場所からますます身を引き離していることになる。しかし、もし本当にコミュニケーションから離れたいなら、コミュニケーションそのものをしなければいいはずです。どうしてTwitterやfacebookをやるのか。一方で、コミュニケーションそのものから、あるいは他者との関係から距離をとりたいという感覚がありながら、他方では、そこから離れきれない、むしろ強い執着・愛着がある。こういう二重性がソーシャルメディアにはあります。


逆に、まさしく自分の身体の上で何かをひき起きしながら、そこから同時に自分の身から引き離そうとする人がいます。例えばリストカットがそうです。自分で自分の身体を切るのですが、それをまるで他人事のように見る行為です。タリウム少女はその逆で、明らかに他人の身体の上での出来事なのです。母親の身体に起きていること、鳥の首で起きていること、カエルで起きていること。リストカットの少女とは逆に、タリウム少女は、他人の身体の上に何かを引き起こす。しかし、その他者の身体から目がはなせなくなってしまっている。その他者の身体という現場からは、ほんとうには離れられない。そうすると、結局、リストカットもタリウム少女も、同じような両義性を持っているのです。



土屋:僕が描いたタリウム少女は、生きているけど、むしろモノであって欲しい、そういうようなアプローチだと思います。カエルもモノであって欲しい、その方がどれだけ楽か。だから透明なカエルが光るカエルとなればすごいバージョンアップを遂げていると。そういう風に捉えることの方が彼女は生きやすいのです。


彼女が最後「ギャー」と叫んで疾走するという、監督の自分としては、安易で恥ずかしいシーンがありますが、「ギャー」と叫びながら彼女は単にDRD4遺伝子が活性化していて、薬を飲めば現象は沈静化すると考えている。人間はその程度のものだと考えることが、彼女を楽にさせています。そして人間の身体はシステマチックなプログラムであることを自覚することで、逆に人間はすごいなと思えるのではないかと思います。プログラムだと思うことによって、さらに新しい人間を発見していくことができる。「人間には尊厳がある、自由がある」と抽象的に言われるよりも、具体的なプログラムとしての人間を知れば知るほど新しい人間を発見して「自分がモノであればいいのに」という方向に彼女は向かっていくのです。



大澤:ぼくが作った言葉に「アイロニカルな没入」という言葉があります。タリウム少女を念頭において作った言葉ではないのですが、この自分の造語を思い出しました。たとえば「あえてそうしている」とのです、というような言い方を伴うはまり方が、アイロニカルな没入です。この語を造ったのは、オウム事件の時です。オウムの人たちはヴァーチャルな世界に生きているように見えるのですが、もちろん実際には現実との区別はわかっていて、その上で、あえてオウム的なヴァーチャルな世界、ハルマゲドンが迫っている世界をあえて引き受けている状態なのです。当時信者や元信者の方にお話を伺うと「尊師がこんなこと言っちゃって。しょうがないから付き合わなくっちゃ」みたいなことを平気で言う人がたくさんいました。


ここで重要なのは「アイロニー」と「没入」の両面があるということ。距離を取っているけれど、結局それにはまってしまうのです。タリウム少女のケースは、統合失調症にアイロニカルに没入している。彼女は一方で統合失調症になっているのですが、医者や研究者のように説明したりするというアイロニカルな没入の、究極のケースです。精神科に来る人で耳学問的にいろいろなことを知っている人がいて、医者に「どうやら私は新型鬱だと思います」とか自己解説するのですね。二重性のあるアイロニーとして突き放すと、病気から少し解放される気分になるのです。ただそれで、本当に解放されるわけでもない。没入は没入ですから。



タリウム少女にとって、数式、科学こそが唯一の信じられる基準



大澤:今作で土屋監督は、科学者にインタビューしていますよね。科学者は一番のオブザーバーとして観察する、対象から距離を取るという典型的な、学問の研究者としてそれが課せられているわけですが、その科学のスタンス的なところと実存とが、メビウスの帯のように関連している。まったく反対側にいるつもりなのに、辿って行くうちに相手のところに到着してしまうというメビウスの帯のような、不思議さを感じました。



土屋:なぜ科学者は10万年後のことを心配するのかということを考えさせる出会いが最近ありました。バクテリアでアート作品を作っている方がいるのですが、バクテリアには死という現象がないので永遠に生き続ける。そういう作品を創るとアートが永遠に生命として生き続けるのですが、彼曰く、何万年も生き続けるアートを創る自分はなんなんだろうと自分の立ち位置や行為自体が自分でも良く分からないと考えてしまうそうです。



大澤::タリウム少女も殺人のようなことを犯そうとしました。オウムや酒鬼薔薇は実際人を殺してしまう。彼らも、実は私たちも「殺しても殺しても死にきれないもの」があるかも知れないと何かが思っていて、それにある種の恐ろしさを感じるとともに、それに魅惑されてもいます。映画のタリウム少女は生命を否定しながら、それを否定しきれないでいる。



土屋:生命とモノの間、身体とプログラムの間を考えてきた結果だと思います。




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映画『タリウム少女の毒殺日記」より




大澤:「それ」が生きているということは、「それ」に何かしら魂のようなものを感じることだと思うのです。普通、魂は内面にあるよね、と言うしかない、比喩でしか表現できないものです。それがタリウム少女には通用しない。



土屋:全く通用しないですね、彼女の言葉を代弁すると、魂という言葉が一番嫌いなんです。魂はどこにあるのでしょう。どんな物質でできているのでしょうか。



大澤:酒鬼薔薇もそうでしたね。彼は殺して首を切って猟奇的に凌辱したのですが、おそらく、彼は「魂があるなら顔の中だろう」と考えたわけです。魂に関して、観念的・比喩的に説明するだけではだめで、それを即物的(ザッハリッヒ)に確認できないとダメだったのです。タリウム少女の場合はもっと端的です。



土屋:魂があるという考えを捨て切りたいから、あえて「やはり無い」と自分に言い聞かせている。数式で表せないものがあるというのが許せない。数式、科学こそが唯一の信じられる基準なんだと思いたいんだと思います。



大澤:普通の考え方は「数式はこうだけど私の考えはこうです」というように、逆なんですけれどね。



恋人がいる「リア充」とは自傷行為のようなもの



大澤:「生き残る」と訳される「survive」という英語の単語は、「sur」は超えて、「vive」は生きてるという意味。生を超えていく生ということです。普通の生命を全部否認してしまう、それでもなお残ればそれこそ真の生命だろうとういう考え方がすでに「survive」という語には入っています。タリウム少女は、この語の含意を文字通り実現しようとした、それの徹底したバージョン。単に生きているということだけでは許されず、徹底的に否定してみるわけです。カエルを解剖して、母親にタリウムを投与して、それでも残余はあるのか。実存的な問いがかけられていると思います。



土屋:surviveして生を超え、生き残った残余が生命だとすると、現代は生の超え方、方法論やアプローチが変わってきている、そして沢山あるのかなと思います。



大澤:殺してみてそれどうなるのか、私たちが抽象論で語るのは許されなくて、彼らはストレートに殺人をやっている。繰り返しているうちに激しいものを求めてしまうように、極限まで突き詰めていくとこういうことになってしまう例だと思います。

覗き見るという行為は快感ですよね。普通他人から覗いていることがばれないように安全な場所で覗いている。しかし覗いている対象に見返されるのではないかという思いが生じます。映画も同じ体験だと思います。絶対にあり得ない、映画のほうから見返されてしまう可能性を一瞬感じるのです。それが映画に惹きつけられる理由の一つだと思います。そして映画を観ることで私たちもタリウム少女的な体験をしているのです。


タリウム少女は突き放して実験をして「苦しんでいるのはお前だけだ」という態度をとりながらも、自分もその対象に巻き込まれる可能性を否認しきれないわけですね。だからこそ執着するのです。




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映画『タリウム少女の毒殺日記」より



土屋:覗き見るという行為はリアリティを希求する私たちの必然的な欲望なんでしょうか。



大澤:現代人は2つの感覚があると思います。ソーシャルメディア、バーチャルな世界を使いながら現実とコミュニケーションする、リアルなものと距離を取る。その一方で、その同じ熱意をもってある種のリアルなものを希求する。例えば「リア充」と言う言葉には、恋人がいる人への揶揄と同時に、羨望や嫉妬が込められているでしょう。恋人がいるということは幸せで、人生の中でこれ以上の快楽はありませんが、同時に、これほど人を傷付け合う関係もなくて、言ってみれば自傷行為みたいなものです。そういう、傷つけ合う関係はいやだなと思えば、他者からできるだけ距離を置いて他者をオブラートに包んで、電話による関係でさえお危険だからとメールにしたりする。それでもリア充に憧れるのです。リアルなものから身を引きつつ、リアルの核の部分が欲しいというこの二重性、現代社会の中で両方の重みが増している、そんな感じがしますよね。



不幸抜きの幸福論



大澤:「何とか抜きの、何とか」が世の中には増えてきました。ノンアルコールビールは「アルコールの無い、アルコール」ですよね。「セイフティセックス」「デカフェコーヒー」……現実には、必ず危険や害をもたらすリアルな核が含まれている。現代人は、それを外したいと思うわけです。そうしてできあがるのが、その核だけを抜いた「X抜きのX」です。たとえば、「お酒は飲みたいけど、飲んで急性アルコール中毒になったらいやだな、ノンアルコールビールにしよう」というのは、お酒自体のお酒性の否定になります。タリウム少女は究極のバージョン、「生命抜きの生命」だと思います。



土屋:ノンアルコールビールを飲むということは虚構を飲むことであって、現実に触れていない。タリウム少女は生命を虚構化しているということですよね。ノンアルコールビールやセイフティセックスは安心を得ているのだから虚構でいい、それが幸せな社会なんだという考え方はどうなんでしょうか。



大澤:この問題を一般化すると、「不幸抜きの幸福論」だと思います。苦しいこともあれば楽しいことがあるわけで、「楽しいことだけにしたい方、苦しいところを取ってしまえば、純粋に楽しいよね」となります。ところがそういう風にできていないのが、現実の複雑なところですよね。はっきり言うと、苦しいことと楽しいことはほぼ一緒なんですよね。先程の恋愛はその典型です。人生の中で一番幸せだと思う瞬間は、大抵の人は好きな人がいてその人と愛し合っていると思える瞬間ですが、一番傷つける人間関係だと思います。恋愛関係以上に人を傷つけるものはなくて、他の関係では失敗しても、例えばビジネスで失敗してもいろいろ理由を付けて、自分を守ることができますが、恋愛関係は全否定なんです。全肯定と全否定が同時に来るわけです。何とかして辛い部分を抜き出して純粋に幸せな部分だけを残したいと思うんですけど、辛さと楽しさ、不幸と幸福は一番究極のところでは重なってしまうのです。苦難や不幸の部分を避けて幸福な部分だけ享受しようとすると、楽しさも「ほどほど」というところで止まります。



土屋:SNS世代では「こういうキャラでこういう発言をすると叩かれるからこうしないように」と保険を掛けたりします。傷つかないようにするから、あまり楽しめないという発言を聞きます。「不幸抜きの幸福論」は実際に多いようですね。




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映画『タリウム少女の毒殺日記」より




大澤:実際はもっとロマンチックでリアルに生きている実感のするような幸福が欲しいとは思うのですが、それは危険水域に入るようなものです。いわゆる「虎穴に入らずんば虎子を得ず」みたいなものです。そこで、多くの人は「虎子はいらないから虎穴に入らないでおこう」と思うわけです。タリウム少女の場合は虎子を取ることを最後まであきらめず、しかも「徹底的に虎穴に入らずにできないか」と思うわけですね。彼女は、不可能を狙っている。



土屋:ものすごくアクロバティックな事をやろうとしてるわけですね。



大澤:ある意味正直だと思うんです。私たちは両方の欲求を持っているわけで、普通は妥協して「ものすごく楽しくはないが、少し楽しい」で我慢して、その代り危険のあることはやめましょうとなりますが、タリウム少女の場合は我慢せずに徹底してみたらどうなる、という感じがします。



タリウム少女は生命の存在を確認したいと考えていた



──(会場からの質問)不登校、引きこもりの方の相談室を立ち上げています。社会現象としてタリウム少女のような人が多いと思います。私たちの世代ではなかったと思いますが、現代社会でSNSなどが原因としてあるのでしょうか、それとも時代が変わってきたことが原因でしょうか?



土屋:映画の中からの回答になりますが、タリウム少女は世の中のシステム、例えば、消費するということでもそれは何か仕向けられたシステムで成り立っていると思っています。マーケティング・システムからすれば数値で「私」が捉えられているという事を実感しているのではないかと思ったのです。この時代に生きる人は多かれ少なかれ、そういう感覚をもっているのではないかと思います。世の中のシステム自体が、人間を数値としてみている。そのくせ、タリウム少女のような視点で人間や物事を捉えるといきなり否定される。それはごまかしじゃないか、という風なひねくれた感じが彼女にはあるのかなと思います。



大澤:引きこもりは今日の話と結びついていて、彼らは人間嫌いでコミュニケーションしたくないと思われがちですが、むしろ逆で、ものすごく人恋しいんです。どんなに引きこもってもインターネットやスマホがある。関係から身を引いているのに繋がりを持ちたいと思っているんです。人と繋がりたいと思って引きこもっているのであれば、そこに解決の糸口は見つかるかなと思います。引きこもりにもいろんなタイプがいますが、社会から引きこもっているだけでなく、家族から引きこもっているんですよね。家族といないと最低限の生活ができないので。タリウム少女は母親を実験の対象としていますよね。家族や親はもっとも親密で、温かみを味わうべき関係ですが、その母親も実験用動物と同じように扱ってカエルも母親も大差なく扱われている。


オウムの事件があった時、考えたことを話しておきます。オウムの特徴は、家族的な関係性の徹底的な否定です。もともと、家族と教団が格闘するのはよくあることです。宗教に強い忠誠心を持つと家族との関係を断つわけです。しかし1970年代から、80年代の初頭までの宗教は、家族から離れたとしても宗教的関係自体が疑似家族になる??というか真の家族を宗教を媒介にして形成しようとします。千石イエスの事件では、若い女性が千石イエスを慕って集まってくる。家族は娘を取られたと争ったのですが、その彼がオウム事件で一度だけテレビに出たことがあって、オウムの信者を怒るのです。17歳のある信者が「麻原尊師の為なら親でも殺すことができます」と常日頃から言っていたということに関して、千石イエスは怒っている。「親を殺すのはとんでもない」と。千石イエスは親から子供を奪ったように言われるけれど、そうではなくて真実の親子関係を作らなくてはならないと思っているのです。現にサークルの中では彼は父の比喩で呼ばれていた。現実の親子関係にゆがみがあるから本当の親子関係をつくって元に戻してあげると言うのが千石イエスの狙いなんです。それに対して、オウム真理教はいったん親子関係を清算してしまう。新しい関係に踏み込んでいくと言うベクトルがあります。引きこもってしまう人たちは、親子関係から離脱しようと、親子関係以上の本物の関係を求めているように感じることがあります。そんなものは得られないけれども、欲している。彼らとしたは苦しいだろうなと思います。しかし、関係を求めているのですから、そこに希望はあるのではないかと思います。






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映画『タリウム少女の毒殺日記』より





──(会場からの質問)自分は「タリウム少女性」に勇気と希望を与えてもらって救われた感じです。タリウム少女は極端な例ですが、そういう存在というのは世の中の仕組みがどんどん複雑になって虚構性が増しているからこそ出てくる存在なのかなと思いました。ほかの時代では、同じゲノムでも存在してないと思います。時代性と言うもの切り離しては存在しないでしょうし、生き方として徹底して観察者として立場をとっていましたが、素朴に生命と言うものを信じているんですよね。それを確実にそうだと言い切りたいがために、世の中の虚構を破たんさせてやりたいという使命感を感じました。



土屋:さすが、ほとんどタリウム少女。これ以上付け足すことはないですね。



大澤:ヨーロッパの中世の神学者にとって最も重要な主題は「神の存在証明」です。これこそが、近代の哲学の原型になったと言っても過言ではありません。中世ですから、神が存在していることは、ある意味で自明です。しかし、存在証明をする。神が存在のすることを確実に証明しようと試みるわけですね。タリウム少女は生命の存在を実験的に確認したいと考えていたのでしょうね。神がいることは自明なのだけれども、存在証明することで絶対確実だと言いたい神学者と一緒です。



──(会場からの質問)「物語なんてないよ、プログラムしかないよ」とありますがこの言葉の意味を教えてください。映画では監督が作ったものが物語でありプログラムだと思いますが、物語はプログラムから逸脱するもの、そういう力が働いていると考えらえているのかなと思いました。



土屋:映画の中での使われ方で言うと、「これから始まっていく物語、なにが起きるか分からない物語はなくて、すべてプログラムで決められていることです」という意味です。あなたは、悲しいとか悔しいとか楽しい、嬉しいなど、エモーショナルな感情を感じているだろうけれど、その感情そのものも科学物質の増減による効果でしかないとタリウム少女は思いたい、そう思うことですっきりする。「物語はない、プログラムしかない」というのはそんな意味があります。



大澤:物の因果関係は時系列で展開しますが、物語にはならないんですよね。物語になりきらないのは、今の世界は一つの特徴ですよね。人生や社会を物語として描くことは難しい時代と言う事でしょうか。



土屋:だからこそ物語が求められるというのはあると思いますね。映画でも企画を出すときは世界観を提示しても誰ものってきてくれない。誰が出て、どういうストーリーかが問題になるんです。でないと誰もお金を出さない。映画自体もエモーショナルな物語性、観て泣ける、笑える方が受け入れやすいんです。



大澤:オウムは最後の物語というか、オウム真理教には物語があったのでしょうね。それ以降物語がどんどん枯渇し始めて、このタリウム少女はほとんど物語がない、となったのです。




(2013年7月4日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて 構成:駒井憲嗣)









大澤真幸 プロフィール



1958年長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
近著に『〈世界史〉の哲学』古代篇・中世篇(講談社)、『生権力の思想』 (筑摩書房)、『夢よりも深い覚醒へ』(岩波書店)。

http://www.sayusha.com/MasachiOsawaOfficial/














映画『タリウム少女の毒殺日記』


渋谷アップリンクにて上映中

8月3日(土)よりシネマート心斎橋にて公開



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/thallium

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/GFPBUNNY

公式Twitter:https://twitter.com/GFPBUNNY



▼『タリウム少女の毒殺日記』予告編


[youtube:o-976C5NGZQ]

ただの原っぱを野外上映会場に変えたやみくもな情熱が、次の世代に受け継がれる

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「星空の映画祭」会場の様子。



"日本で一番星空に近い"野外映画祭「星空の映画祭2013」が8月4日(日)から25日(日)まで開催される。映画祭実行委員長の武川寛幸(むかわ・ひろゆき)が語る映画祭誕生から突然の休止そして復活までの真相。












野外で映画を観ることに、子どもながらに『それヤバイじゃん!』って





東京から特急あずさに乗り約2時間、そこからバスで1時間ほど走ると辿り着く長野県諏訪郡原村。人口7,000人あまり。セロリ栽培を主としたのどかな農村のまち。そんな八ケ岳の麓に位置する原村の山奥、「八ヶ岳自然文化園」内にある会場で夏の間だけ開催される野外映画祭がある。天から降り注ぐような美しい星空の下で上映されることから「星空の映画祭」と名付けられた。今年で28回目を数える歴史ある映画祭だが、2006年から4年の休止期間を経て2010年に復活を遂げている。この復活劇を仕掛けた映画祭実行委員長である武川寛幸は、「爆音映画祭」など数々の企画上映で映画ファンを常に驚喜させ注目を集める吉祥寺の映画館「バウスシアター」の編成担当として日々勤務しながら、長野、東京間を何度も往復し映画祭復活に奔走した。




1994年夏、隣村である岡谷市出身の武川は、初めて「星空の映画祭」を体験する。映画祭はすでに10回目を数え、原村はもとより、近隣の人々にとって、縁日や盆踊り同様に夏の風物詩のひとつとして親しまれていた。




野外でフィルム上映4,000人を動員、星空の映画祭 開催

映画祭実行委員の武川さん


「初めて行ったのは14歳のときで『ジュラシック・パーク』を観に行きましたね。怪獣とか恐竜が好きですでに映画館で3回も観ていたんですけど、野外で『ジュラシック・パーク』をやるらしいという情報を親父がどこかから聞いてきて、子どもながらに野外で観るということにピンとくるものがあって、『それヤバイじゃん!』って。その年は、確か家族全員で行きました。とにかくすごかったというのを憶えています。会場に行くまでもちょっとした探検というか冒険というか。山奥なので夏なのにめちゃくちゃ涼しくて真っ暗で、こんな場所あるんだとびっくりしました」





その後も武川は、時に家族と、時に仲間と、時にちょっと気になる女の子を誘っては、「星空の映画祭」に通った。だが、その後、大学進学を機に上京した武川は、次第に田舎から遠のき、「星空の映画祭」に足を向ける事もなくなった。そのうち存在そのものも記憶の彼方から消えようとしていた。





縁あって、学生時代に始めたバウスシアターでのアルバイトは卒業後も続け、正社員の道へと進む。日々の生活の中で一層仕事が占める割合が増え、武川は映画館業務に没頭していく。





「バウスに入りたての頃はそれこそメジャー作品が満席満席だったんですが、タルコフスキー、ゴダールなんかの特集上映はお客さんが3人くらいでした、そういった状況が、郊外のシネコンがでてきて徐々に逆転していったんです。だんだんメジャー作品の集客が減っていくのと反比例するように特集上映の集客が増えていきました」





「星空の映画祭」休止の情報が武川の耳に届いたのは、そんな、単館系映画館の転換期を迎えていた矢先のことだった。地方の映画館の経営状態を同業者として多少なりとも情報が入ってきていた中だったこともあり、武川は妙に腑に落ちた。「しょうがないよな」と。しかしその後、武川の意図せぬところから思わぬ誘いがやってくる。それが忘れかけていた「故郷」と「映画」というアイデンティティだった。





「バウスでアルバイトしていた秋山さんという原村出身の女性がいて、彼女は2009年に仕事を辞めて原村に戻ったんですが、東京の映画館で働いたノウハウをなんとか田舎で活かせないかって考えていたみたいで、同郷である僕のところに『休止になっている星空の映画祭を復活させたいんだけど』と、相談があったんです」




俺がやりたいと思っている場所を一度でいいから見てくれ



こうして、秋山の相談を武川が受けるカタチで「星空の映画祭」復活の幕は開ける。




まずは手探りで始めるのだが、ほどなく素朴な疑問が。「そもそも映画祭の主催者は何者なのか」。リサーチして浮かび上がった人物に二人は驚きを隠せなかった。県や市町村の組合でも団体でもなければ大資本の企業でもない、それが(映画祭会場の)八ヶ岳自然文化園から数十メートル離れたペンションを経営している柳平というたったひとりの男だったからである。そして、同年の冬に、武川はその男性が経営しているペンションをさっそく訪ねることとなる。





「ペンションに行ったんですが不在だったんですよね。でも、鍵が開いていたので、置き手紙をしていったんです。僕がいまどういう仕事をしているかとか、一回会ってお話がしたい、なぜ中止になったのか、復活する可能性があるんだったらお手伝いくらいはできるので協力させてほしい。といった内容の手紙とバウスで企画した特集上映のチラシを持ってきていたのでそれを一式置いて。そうしたら2日後くらいに、手紙を読んでうれしかったという連絡があって『一度ゆっくり会いましょう』という話になって、その何日後かに再びペンションを訪ねました。いろいろな話をする中でわかったことは 柳平さんという方はいろんな仕掛人なんですよ。魚の獲り方や川下りの仕方を子どもたちに教える塾を開いたり、氷上結婚式とか山頂結婚式を企画したり。ペンションのオーナーさんなんだけど、こんな事したらおもしろいんじゃないかということを商売じゃなくて趣味でやっているような、少し変わった方で」






そんな型にはまらない柳平の話は、次第に映画祭誕生秘話へと進んでいく。





「『風の谷のナウシカ』を見たときにものすごく感動して、これは野外で見られるべき映画であると感じたらしいんです。でもどうしたらいいかわからない。わからないからとにかく一番近くにある映画館、茅野新星劇場に電話をした。思い立った日の夜中23時くらいらしいんですけど」





ほとばしる情熱を抑えることが出来ない男の行動は、決断すればとにかく速い。





「『原村の柳平っていう者なんだけど、実は八ヶ岳の高原で野外上映を考えてるんだけど、できますか?』って。いやそんな事、突然こんな夜中に言われても、って話になるじゃないですか。それで『じゃあとにかく明日行くから話を聞いてほしい』ってアポだけとって、翌日、新星劇場の館長をされている柏原さんに会いに行ったそうなんです。とにかく情熱をぶつけて、柏原さんも体よく最初は断ったんだけど、どうしてもやりたいと柳平さんは一切引かなくて。それで1回現場を見てくれって話になったらしいんですよ。『俺がやりたいと思っている場所を一度でいいから見てくれ』って、半ば無理矢理連れられて。柏原さんもそのとき初めてその場所を訪れたんです。当時は八ヶ岳自然文化園はまだなかったので、何もないただの原っぱだったんですけど。だけどそこを見て柏原さんも気に入っちゃって、そこから二人で『なんとかするか!』って話になったそうです」



野外でフィルム上映4,000人を動員、星空の映画祭 開催

新星劇場の館長・柏原さん


とにかくギターをかき鳴らし、荒ぶる気持ちを掴んだマイクに吐き出したロックンロールな初期衝動が数々の名曲を生み出したように、柳平が起こしたエモーショナルなアクションは、瞬く間に周囲を巻き込み、ゼロからの映画祭づくりをカタチづけていった。





「柏原さんは元々移動映画館の請負もやっていたんです。だから映写機は屋外にも持ってこられる。だけどスクリーンもないし、電気も通ってない。そこからは、二人でとにかく近所にお願いして回って。協力してもらいながら工業用の防水シートをつぎはぎして手づくりのスクリーンをつくって、電気を引いて映写小屋も近所の人たちの力を借りながらつくりあげて、ただの原っぱを野外劇場へと変えていったんです」





大きな支援があるわけではない。準備金もない、お金もかけられない。男ひとりの情熱から発生したムーブメントは、行政や大企業の資本に頼らない超インディーズ方式で「星空の映画祭」を生み出した。そんな無謀とも思えるスタイルで、開催すること自体が奇跡に近い離れ業だというのに、それを20年以上続けてきたというのだから気が遠くなる。だから表向きは20数回を数え、定着しているかのようにみえた映画祭も舞台裏は壮絶だった。そんな中で聞いた映画祭の休止の真相。






自分の車を売って準備金にしようとした





「『俺ももう年だし、柏原さんも年だし、資金もなくなってきたんだ』と、柳平さんは中止を決断したそうです。最後の年は自分の車を売って準備金にしようとしたんだけど柏原さんに止められて。『もうそこまでしなくていいよ。もうそろそろ潮時なんじゃないの。よくいままで頑張ったよ』って」






映画祭誕生から休止までの一部始終を話し終え、柳平は映画祭復活へ向けての最後の切り札を武川たちに差し出す。結果、この一言が武川の心を動かし、アイドリングストップしていた映画祭のエンジンはついに再始動を始める。






「俺がもう一度やるってことはない。ただ君たちみたいな若い連中がやるっていうなら、俺が新星劇場の柏原さんを口説いてやる」





そして数日後、武川は茅野新星劇場に行く。もちろん館長であり映写技師でもあり、映画祭のキーマンとなる柏原を口説きに。しかしそこでみた光景は客のいない劇場と回っていない映写機だった。





「『客が来ないから回してない』って話で、それまで地方がどうのって情報としては知っていたんだけど、あまりの落差を目の当たりにして、映画祭の話はとても言えなかったですね。これはやっぱり無理かなと思った。とにかく田舎で何かをやろうと思っても、普通に映画館でやっても来ないんだから、山奥でやっても来ないだろうなと思いましたね。とは言え、柏原さんと話をする中で、70代のおじいちゃんなんですけど、支配人で映写もしつつ、ブッキングもするというのを一人でされているので、わりと僕と立場が似ていたというか。自分自身もバウスで映写もやればブッキングも何でもやってきたので、技術的な話だったり、機材の話だったりで盛り上がって。野外の上映で『スピーカーとかどうしてたんですか?』って話にもなって、聞いてみたら木にスピーカーをくくりつけて吊るしてたって。それでひとしきり盛り上がった後、柏原さんから『前みたいな規模ではできないにしても形を変えればなんとかできるかもね』って不思議と最後にはなったんですよね。やるってなったら柏原さんに映写をしてもらわないとできないので、そういうことをおっしゃったってことは、『やってもいい』ってことなんだと捉えて、そこから具体的な上映プランを練り始めました」



幼い頃に感じたダイナミズム、映画を観る楽しみにまた帰る




「とにかく目玉がないと誰も来てくれないと思っていて、当時大ヒットしていた『アバター』しかないと思っていました。かつて自分が『ジュラシック・パーク』で感じた冒険とロマンを感じさせる映画だったので、『あそこで見るアバターはヤバイ!』とかつての僕のように思う子どもがぜったいいるはずだと思いましたね」





ヘッドライナー的プログラム『アバター』が決まり、武川はがぜん乗ってくる。そして、映画業界で培った勘を頼りに、さらに武川は「星空の映画祭」に新たな風を吹き込んでいく。





「いままでの『星空の映画祭』は、ある程度知名度のある作品が多かったんですよね。でも僕は『アバター』もやるけど、単館系のフランス映画なんかもやりたいと思っていたんです。映画館の実情も知っていたので悩んでたんですけど、でも、『いろんな人の話を聞いて足並みを揃えようとするんじゃなくて、ゴツゴツしててもいいから面白いと思うものをやった方が絶対にいいよ』という柳平さんの言葉を聞いて吹っ切れて。そこから『夏時間の庭』の上映を思いついて。映画の中に出てくる南フランスの田舎の風景が原村の風景と似てたんですよね。だからいいムードが出せるんじゃないかと思って。周囲は大反対で不安だったけど、ちょっとやり方を変えてみたらまた違うものになるかもしれないという根拠のない自信は少しありました」





そうして、終止符を打ったかにみえた「星空の映画祭」は2010年8月、若者たちの手によって受け継がれ、さらに新しい色を加え、華麗なる復活を遂げた。復活後第1回の会期は2週間、動員は1,400人を記録し大盛況。





「幼い頃に感じたダイナミズムというか映画を観る楽しみというか。その後、映画業界で働いて、映画界の現状も知っていく中で、またそこに帰ってきたというか。ちょっとドキドキしてたんですよね。しょぼかったらどうしようって。でもそしたらやっぱりすごくて。圧倒的だった。これだけのものを20数年続けてたってことがどれだけすごいかってことも身に染みてわかりました」





野外でフィルム上映4,000人を動員、星空の映画祭 開催

中央にいる木槌を持った女性が発起人の秋山さん。秋山さんを囲む男性、左側が新星劇場の柏原さん。右側が柳平さん。



翌年、翌々年も全作品35mmで上映するオールドスクールスタイルは変えず、映写は現在も柏原が担当している。柳平は一切をまかせて、表舞台を降り、それでも影からどっしりとした存在感で見守りつつ映画祭を支えている。そして、企画やイベント面でのバージョンアップを繰り返し、2012年には復活後としては過去最高の4,000人を動員した。





「去年上映した『ラスト・ワルツ』も、フィルムコンサートみたいなものにしたらすごくいいんじゃないかという狙いがあって仲間に話をしたんですけど、『30年も前の映画で、ボブ・ディランならまだしもザ・バンドなんて誰も知らないよ』って反対されたりしたんですけど、でもそれもなぜか確信があって。原村で実際にお店を回って、チラシ配ったりしている中で、現地の人とコミュニケーションをとっていて感じたんです。『この店ジョニ・ミッチェルがかかってるな』とか、この喫茶店、古いレコードとか映画のポスターが飾ってあるなとか。いままで自分は田舎にはカルチャーなんてぜんぜんないと思っていたんですけど、それは自分が気付いていないだけで、面白い人も面白い店もいっぱいあったんです。映画祭で田舎と東京を往復する中でそういうことをなんとなく掴んできて。だから例えば、『ラスト・ワルツ』を上映したとして、大勢は来ないかもしれないけど、あそこの喫茶店のマスターとあそこのカレー屋のおねぇちゃんは絶対来るはずって自信があって(笑)。そしたらたくさんお客さんが来てくれて。うまくいえないですけど、家族で楽しむ以外のものの需要もあるんだなって、過去3回やってきて少しずつ掴んでいきましたね」




バウスシアター仕込みのクロスオーバーなラインナップ術で映画祭に新たな楽しみ方を提示してくれた武川が今年の一押しに選んだのは『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』。



「世界最古と言われている洞窟に描かれた壁画をめぐるドキュメンタリー映画なんですけど、それが、映画祭を復活して運営していくっていうストーリーとリンクしている感じがするんです。壁画自体が映画芸術の原点じゃないかっていう話もあったり、太古に思いを馳せるというか。映画の原点を探るような映画で、そういう映画を野外の自然に囲まれた中で夜中に見るっていうのもなんだか儀式的な感じで。きっと素晴らしい上映になると思います」





野外でフィルム上映4,000人を動員、星空の映画祭 開催

映画『世界最古の洞窟壁画忘れられた夢の記憶』より (C)MMX CREATIVE DIFFERENCES PRODUCTIONS, INC.


1本の映画に魅せられた男がはじめた映画祭は、かくして次の世代に受け継がれた。



もしかしたらこの繋がりが生まれていくことを夢見て、柳平は映画祭を続けてきたのかもしれない。ある日、「映画館に漫画喫茶のような仕切りを設けてほしい」という来館客からの要望を聞いたとき、武川はとても悲しい気持ちになったという。家でひとりしっぽりと見る映画ももちろんいい。むせび泣きながら酒を片手に見る映画もたまらないものがある。でも、わざわざ出かけて、ひとりでも誰かとでも、映画館へ出向く。周りの目を意識して、目の前に映し出される映画の前にただ佇む。その心に湧いては消えない興奮のことを、きっと誰もが知っている。その日そこでしか味わえない経験は、映画をいかようにも映していく。そして、映画の光に共鳴するように、空も風も森も木も姿を変えて、観客を煽る。「星空の映画祭」には、そのドキドキとワクワクが詰まっている。男たちはそのことを肌で感じて知っていた。だから、届け続けている。世代を越えて。





豊かな自然に囲まれた原村の空の下、映写機から放たれた映像光線はスクリーンを突き抜け、八ヶ岳上空の満点の星空の中にきらめく「映画星」という名の星を映し出しているようにも思える。そんな「映画星」を見つけた者たちが受け継いだ「星空の映画祭」。今年の夏も八ヶ岳の上空では満点の星空の中にひときわ輝く「映画星」を見つけることができるだろう。






(取材・文・構成 石井雅之/ヤマザキムツミ)











野外でフィルム上映4,000人を動員、星空の映画祭 開催


星空の映画祭2013

2013年8月4日(日)~8月25日(日)



◆上映作品


『おおかみこどもの雨と雪』

『レ・ミゼラブル』

『ライジング・ドラゴン』

『ミッドナイト・イン・パリ』

『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』

『ソウル・パワー』

『Playback』

『道─白磁の人─』




上映時間:連日19:15開場/20:00スタート ※雨天決行

入場料金:おとな1,000円 こども500円(中学生まで)

アクセス:会場:長野県・原村 八ヶ岳自然文化園野外ステージ(〒391-0115 長野県諏訪郡原村17217-1613、TEL:0266-74-2681)駐車場あり

公式サイト:http://www.hoshizoraeiga.com


「日本はアメリカの衛星国家としてカモにされている、なぜ立ち上がろうとしない?」

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オリバー・ストーン監督



現在来日中のオリバー・ストーン監督が、2013年8月6日に原水爆禁止世界大会の広島会場でスピーチを行った。オリバー・ストーン監督は、歴史学者のピーター・カズニック氏とともにドキュメンタリー・シリーズ「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」を制作。1930年代から第二次大戦、広島と長崎の原爆投下、そしてブッシュ、オバマ大統領までのアメリカ史を描いたこの作品は、NHKのBS世界のドキュメンタリーにて2013年4月から6月にかけて放映され、この8月再放映されている。





私は安倍氏の言葉を信じていない




今日ここにこられてうれしい。初めて広島に来たが、この2、3日、特に皆さんも出席されたと思うが今朝の平和記念公園での式典を見て強く心動かされた。よくできた式典だった。日本人の良心を証明するような式だった。このすばらしい記念式典は「日本人」の性質をよく表していたと思う。



しかし、今日そこには多くの「偽善」もあった。「平和」そして「核廃絶」のような言葉が安倍首相のような人の口から出た。でも私は安倍氏の言葉を信じていない。そして、この場にいる、歴史をよく知る人々は、安倍氏を信じないという私の言葉に同意してくれると思う。私は今67歳だが、歴史学者のピーター・カズニックと共にこの70年に渡るアメリカ帝国のストーリーを書き直した。



第二次大戦で敗戦した2つの主要国家はドイツと日本だった。両者を並べて比べてみよう。ドイツは国家がしてしまった事を反省し、検証し、罪悪感を感じ、謝罪し、そしてより重要な事に、その後のヨーロッパで平和のための道徳的なリーダーシップをとった。



そのドイツは、60年代から70年代を通してヨーロッパで本当に大きな道徳的な力となった。平和のためのロビー活動を行ない、常に反核であり、アメリカが望むようなレベルに自国の軍事力を引き上げることを拒否し続けてきた。2003年、アメリカがイラク戦争を始めようというとき、ドイツのシュローダー首相は、フランス、ロシアとともにアメリカのブッシュ大統領に“No”を突きつけた。



一方、第二次大戦以来私が見た日本は、偉大な文化、映画文化、そして音楽、食文化の日本だった。しかし、私が日本について見る事の出来なかったものがひとつある。それは、ただのひとりの政治家も、ひとりの首相も、高邁な道徳や平和のために立ち上がった人がいなかったことだ。いや、ひとりいた。それは最近オバマ大統領の沖縄政策に反対してオバマに辞めさせられた人だ。



みなさんに聞きたいのは、どうして、ともにひどい経験をしたドイツが今でも平和維持に大きな力を発揮しているのに、日本は、アメリカの衛星国家としてカモにされているのかということだ。あなた方には強い経済もあり、良質な労働力もある。なのに、なぜ立ち上がろうとしない?



私が1968年に兵士としてベトナムを離れたとき、これで世界は変わると思った。新しい時代が始まると思った。これで米国のアジアに対する執着は終わりになると思った。しかし、アフガニスタン、イラクでの壊滅的な戦い、それにクウェートを加えた中東での冒険のあと、米国はオバマの陰部とともにアジアに戻ってきた。北朝鮮は関係ない。北朝鮮はただのナンセンスなカモフラージュだ。本当の目的は中国だ。第二次大戦後にソ連を封じ込めたように、中国に対する封じ込めこそが目的なのだ。



第二次大戦後、米国はソ連を巨大なモンスターにしたてあげた。中国はいまその途上にある。つまり米国の「唯一の超大国」の立場を脅かすもうひとつの超大国にしたてあげられようとしている。今は大変危険な状況だ。



オバマはヘビのような人間だ。ソフトに語りかけはする。しかし無慈悲な人間だ。台湾に120億ドルもの武器を売り、日本にステルス戦闘機を売る。日本は世界第4位の軍事大国になっている。それを「自衛隊」と呼ぶのはかまわないが世界4位の軍事大国であることに変わりはない。



日本より軍事費が多いのは米国、英国、中国だけだ。日本をそういうふうにした共犯者はアメリカに他ならない。日本は米国の武器の最大の得意客なだけでなく、アメリカの行なったクウェートやイラクでの戦争の戦費の支払いをしてくれた。



今年、戦争がアジアに戻ってきた




よく聞いてほしい、アメリカは、こんなことを言いたくはないが、いじめっ子なのだ。日本が今直面している恐ろしい龍は中国ではなく、アメリカだ。4日前、私は韓国の済州島にいた。韓国は上海から400kmのその場所に最大の海軍基地を作っている。韓国は済州島の世界自然遺産の珊瑚礁を破壊して巨大な海軍基地を作っている。そこは、中国に対しては沖縄よりも前線に位置する。その意味では沖縄よりも危険な場所だ。その軍港には世界最大であらゆる核兵器を搭載する空母ジョージ・ワシントンが停泊できる。そこから出て行って中国のシーレーンを制圧しようというのだ。



韓国と日本が牙を磨き、フィリピンも米軍にスービック湾の基地を戻し、南のシンガポールと新しく同盟を結んだオーストラリアにも海兵隊が駐留する。それに台湾と、もと敵国のベトナムまでもが加わって、中国に対抗する。それにミャンマー、タイ、カンボジア、さらにインドもこれに加わろうとしている。これは大変危険なことだ。NATOが防衛同盟としてスタートしながら、攻撃のための同盟に変化したようなことと全く同じ事がここで起ろうとしている。



今年、戦争がアジアに戻ってきた。オバマと安倍は相思相愛だ。安倍はオバマが何を欲しがっているか知っている。なかでも尖閣諸島について、私にはコメントしようがない。あんなものを巡って戦う気が知れないが、それなのに戦う価値があるように言われている。



問題は、日本のナショナリズムの精神が、安倍やその一派の第二次大戦に関する考え方、特に中国での南京虐殺や韓国の従軍慰安婦問題などから発する馬鹿げた言説とともに復活しつつあることだ。



いま皆さんは核兵器廃絶が大切だとお思いだろう。しかし、このポーカーゲーム(危険な賭け事)はアメリカ主導で軍が展開して急速に進んでいる。アメリカは世界の73%の武器を製造しては売りさばいている。ロシアと中国を除いて世界のほとんどの爆弾を作っている。無人攻撃機、サイバー兵器、宇宙戦争用の武器も含まれる。



核兵器などは、アメリカが戦争に使う兵器のごく一部でしかない。米国は世界の歴史上最強最大の軍事国家なのだ。どう思いますか、みなさん。これに対して怒りを感じてほしい。私が怒っているのと同じように、皆さんにも怒ってほしいのです。



われわれは、この本と映画に5年の歳月をかけて、みんなに、とくに若い世代に、この危険と、米国の傲慢について分かってもらおうとしてきた。米国は「唯一の超大国」であろうとするためにますます暴君ぶりをエスカレートさせ、世界中にアメをなめさせ、無実の人を刑務所に入れ、消し、ファイルを秘匿し、盗聴し、永遠の監視国家たろうとしている。ご存知かどうか知らないがジョージ・オーウェルが(『1984』で)このことをうまく言いあらわした。



これが今世界に起っている事だ。日本は、悪事に加担している。もう一度言おう。ベトナム戦争の後、みなさんは戦争の危なさを知って、これがアジアで最後の大きな戦争になると思ったはずだ。でも、もう一度戦争がある。



ここでみなさんには、ドイツがヨーロッパでしたように、立ち上がって反対の声を上げてほしい。日本はかつて戦争に負け、広島、長崎その他でひどい目にあった。その悲しみを糧にして強くなり、繰り返し戦争を起こして日本と世界に痛みを与えてきたバカ者どもと戦ってほしいのです。



どうもありがとうございました。






(2013年8月6日 原水爆禁止世界大会 広島会場でのスピーチより 翻訳:萩原一彦 https://twitter.com/reservologic 萩原氏によるツイートより転載)








NHK BS世界のドキュメンタリー

シリーズ「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」



webdice_第5回

©Library of Congress




第5回 アイゼンハワーと核兵器

2013年8月12日(月)深夜[火曜午前0:00~0:50]


冷戦構造が確定し、核開発競争が繰り広げられるアイゼンハワー大統領の1950年代。国内では軍事産業の隆盛により繁栄と平和を謳歌する一方、対外的には夥しい数の核兵器を配備し、“力の外交”によるアメリカン・エンパイア-を確立していったと締めくくる。




webdice_NHK第6回

©John F. Kennedy Presidential Library and Museum





第6回 J.F.ケネディ ~全面核戦争の瀬戸際~

2013年8月13日(火)深夜[水曜午前0:00~0:50]


冷戦と反共主義で弱体化した民主党のホープだったケネディは、キューバ危機で全面核戦争を回避。核軍縮と米ソの平和的共存を訴えた。しかしソ連に対して弱腰だと軍部や保守派の怒りを買い、その死後、後継者たちは再び核の大量保有に進んでいく。




webdice_NHK第7回

©Richard Nixon Presidential Library and Museum


第7回 ベトナム戦争 運命の暗転

2013年8月14日(水)深夜[木曜午前0:00~0:50]


泥沼化するベトナム戦争中の核兵器使用の検討など、力で押し切ろうとした政府高官たちの行動を描く。そして、大義なき戦争を“組織的に美化”し、教訓を得ようとしなかった政治家たちの姿勢や、今もなお続くアメリカ社会の分断を厳しく指摘する。







第8回 レーガンとゴルバチョフ

2013年8月19日(月)深夜[火曜午前0:00~0:50]


ソビエトのブレジネフ書記長死後の混乱を経て、ゴルバチョフが登場し、レーガン大統領との間で一連の米ソ首脳会談を行っていく。中でも1986年のレイキャビク会談と、核兵器削減交渉において「大きな歴史の分岐点だった」とする。




第9回 “唯一の超大国”アメリカ

2013年8月20日(火)深夜[水曜午前0:00~0:50]


冷戦終結の時代を描く。湾岸戦争も天安門事件も起きた激変の時代、“唯一の超大国”となったアメリカは、世界との関係を再構築できるチャンスではなかったのか、とストーン監督は見る。しかし、実際は従来の外交姿勢を崩すことはなかった。




第10回 テロの時代 ブッシュからオバマへ

2013年8月21日(水)深夜[木曜午前0:00~0:50]


経済的繁栄を謳歌していたアメリカは、2001年9月11日の同時多発テロ事件を契機に光景が一変する。テロとの戦い、アフガン、イラクへの軍事介入。「アメリカ帝国」と呼ばれ、膨大な軍事費を支出するアメリカの未来を考える。












NHK「BS1スペシャル オリバー・ストーンと語る(仮)」

2013年8月25日(日)0:00~1:49[24日深夜]




第二次世界大戦から現代に至るアメリカ史をドキュメンタリー・シリーズ(全10作)として完結させたオリバー・ストーン監督。ストーン監督は今、原爆投下の必然性に大きな疑問を投げかけている。「50万、100万人という米兵犠牲者を出さないため、アメリカは日本に原爆を使用したと言ってきた。しかし、事実を調べると全く違い、神話だった」。

そして8月に、広島と長崎に足を運び、シリーズで伝えたかった事を日本の人々と話したいと考えている。監督とともに脚本を担当したアメリカン大学歴史学科のピーター・カズニック准教授は、毎年夏に学生たちと被爆地を訪問し、平和研究を行っているが、それに同行する形となった。

原爆投下の真相は?米ソ冷戦は誰が導いたのか?なぜベトナム戦争が泥沼化したのか?アメリカはなぜ、核兵器削減ができないのか?経済的格差はなぜ起きているのか?アメリカは世界の国と“人間的”に付き合ってきたのか?日本はアメリカとどう向き合うのか? 様々浮かぶ問いについて、ストーン監督、カズニック氏をスタジオに招いて、専門家や視聴者とともに語り合っていく。


















『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1

二つの世界大戦と原爆投下』

著:オリバー・ストーン&ピーター・カズニック




訳:大田直子、鍛原多惠子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世

ISBN:978-4152093677

価格:2,100円

ページ:403ページ

発行:早川書房









『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 2

ケネディと世界存亡の危機』

著:オリバー・ストーン&ピーター・カズニック




訳:熊谷玲美、小坂恵理、関根光宏、田沢恭子、桃井緑美子

ISBN:978-4152093721

価格:2,100円

ページ:434ページ

発行:早川書房








『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 3

帝国の緩やかな黄昏』

著:オリバー・ストーン&ピーター・カズニック






訳:金子浩、柴田裕之、夏目大

ISBN:978-4152093790

価格:2,310円

ページ:496ページ

発行:早川書房







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「ゴダールは俳優の表情を盗む〈優しい盗賊〉」ナタリー・バイ、巨匠監督を語る

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出演作『わたしはロランス』が9月7日から日本公開となるナタリー・バイ(撮影:荒牧耕司)


9月7日(土)から公開となる映画『わたしはロランス』に出演する女優ナタリー・バイがフランス映画祭2013の団長として来日、特別プログラムとして開催された「ナタリー・バイ特集」にてティーチ・インを行った。

ナタリー・バイはアンスティチュ・フランセ東京でのフランソワ・トリュフォー監督の1978年作『緑色の部屋』、そして渋谷ユーロスペースのジャン=リュック・ゴダール監督の『ゴダールの探偵』(1985年)上映後にそれぞれ登壇し、巨匠監督とのエピソードを披露した。



「自分のバリアを打ち破ってもっと多様な人間を演じたい」



ナタリー・バイはパリのフランス国立高等演劇学校を出たばかりの頃、『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973年)に出演。トリュフォー監督との出会いを次のように回想した。



「私は当時、ロバート・ワイズの『ふたり』(1973年)にワンシーン出ただけでした。学校にいるときに雇ってくれたエージェントから、トリュフォーがスクリプト・ガールの役を探していることを聞き、初めて彼に会いました。監督はいろいろ質問した後『私が考えていた人物像とは違う』と言いました。彼は長い間スクリプターで助監督のシュザンヌ・シフマンと仕事していて、そのイメージが強かったからでしょう。それでも『明日読み合わせをするから来てください』と言われました。読み合わせでは、トリュフォーが相手役のセリフを読んでくれましたが私は自分が下手なのを痛感しました。そして彼は秘書から眼鏡を借りて私にかけさせました。その姿はとてもひどかったのですが彼は『オーケー、僕のジョエルにぴったりだ』と言い、この役が決まったのです。学校にいるときは自分が演劇向きだと思っていたのですが、トリュフォー監督の、しかも映画作りがテーマの映画に出演できたことで、すっかり映画に恋をしてしまいました」。




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『映画に愛をこめて アメリカの夜』より





今回上映された『緑色の部屋』については「トリュフォーがこだわってきた考え方がよく現れている感動的な映画で、大好きです」と紹介。暗い映画ではあるものの、撮影現場は笑いが耐えなかったという。



「この映画はトリュフォーが出演もしているので、シュザンヌが全体を管理して現場で喝を入れる重要な立場だったんです。私とトリュフォーは突然笑いが止まらなくなってしまうことがあったので、あるシーンでは私が映っているショットのときはトリュフォーは現場の外に出て、セリフはシュザンヌが言って、反対の場合も逆にして、というふうに撮りました。でも普通、一つのカットの撮影が終わると監督が近寄ってきて俳優にアドバイスをするものですが、この映画の場合はシュザンヌが『カット!』と言うので、トリュフォーはシュザンヌや撮影監督のネストール・アルメンドロスと話しこんでしまい、寂しさを感じました」。




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『緑色の部屋』より




ネストール・アルメンドロスによる、ロウソクの炎のシーンだけで撮ったという礼拝堂のシーンについても「偉大なアーティストというのは、とても簡単そうにすごいことを成し遂げてしまうものです。アルメンドロスとも何度か仕事をするチャンスに恵まれましたが、いとも簡単にロウソクを設置して、光の具合とフレームワークの両方を調整していました」と賛辞を惜しまなかった。




また、この後に参加したジャン=リュック・ゴダール監督『勝手に逃げろ/人生』(1979年)以降、自立した女性像を演じることが多くなったのでは、という質問に対しては「それは自分の意思でもありました。俳優とは監督の想像の世界に依存する部分が多いもので、演劇学校でも悲劇向き、喜劇向きとクラス分けされました。私も最初は一緒にいて安心できるような、観客が自分を投影できる女性というレッテルが貼られていました。しかし、自分のバリアを打ち破ってもっと多様な人間を演じたいと『勝手に逃げろ/人生』に出演した結果、危ない女性や心が落ち着かない女性、アルコール中毒の母親などいろんな役をもらえるようになったのです」と、女優としての意識の変化についても述べた。




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2013年6月23日、アンスティチュ・フランセ東京でのティーチ・インの模様





「『ゴダールの探偵』は、出演した私にも分からなかった(笑)」




そしてユーロスペースの観客とともに公開当時以来観直したという『ゴダールの探偵』については、「複雑で変わった映画ですよね。皆さん、観て分からなかったと思っても大丈夫です、出演した私にも分からなかったですから」と場内の笑いを誘った。「ゴダールには複数のゴダールが存在します。政治的なゴダールもいるし、社会を批判するゴダールもいる。私が感じるゴダールは、非常に感情豊かで、女性の顔が好きで、素晴らしい表情をカメラに収めるフレームワークのセンスは比類ないものがあります。今作でも、アラン・キュニーが少女を抱えて階段を上がっていくシーンは今日30年ぶり観直しても、あらためて強烈に覚えていることを確認しました」。




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『ゴダールの探偵』より


ゴダールと仕事をする秘訣について彼女は「心や体をいつも彼の言葉を聞ける状態にしておくことです」と解説。「ゴダール監督には先入観を除いて臨まなければなりません。色々な角度から質問をされます。いつ何を聞かれても答えられるよう準備万端にしておいていました。私のほうからはあまり質問はしません。しかし彼のカメラは信頼しています。彼は優しい盗賊です。俳優は演技を与えて、それを監督が映画にしますが、ゴダール監督の作品には、演技した覚えがない映像が収まっている。そうした俳優の意識していない演技を捉えている技を持っているのです。俳優たちはなにかを与えようとするのですが、それをはぐらかされて、風船がしぼむように意気消沈して、なんでもいい、という状態になったところを監督は待っている。そうすると彼の世界観に入っていくことができるんじゃないでしょうか」。





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2013年6月23日、渋谷ユーロスペースでのティーチ・インより



「この『ゴダールの探偵』撮影の時、ちょうど主演のジョニー・アリディと私は一緒に住んでいて、ミステリアスなカップルと世間で言われていたこともあり、彼はメイクなしの私たちを自然の光のみで撮ったり、こっそりこのカップルを覗いているように、内側から捉えようという意図もがあったのだと思います。

映像だけでなく、彼のオリジナルの音楽・音響は重要な要素で、私をふくめ俳優にはたいがい優しかったですが、技術者に対してはかなりきつい扱いをしていました。現場で何をやっているのか理解できないところもありましたが、それでも、彼の映画にとっては大したことはないのです(笑)」とヌーヴェル・ヴァーグの第一人者との制作を振り返った。




「作品を選ぶ基準は、第一にシナリオ、第二に監督、最後に仕事の中身」




トリュフォーやゴダールといった大物監督以外にも、彼女が賛辞を惜しまない24歳のグザヴィエ・ドラン監督の『わたしはロランス』など、若手の作品にも積極的に出演をするナタリー・バイ。監督と作品を選ぶ基準については「第一にシナリオ、第二に監督、最後に仕事の中身です」と形容した。



「『こんな映画を観たい』と映画の観客と同じ感覚で選んでいます。シナリオはかなりたくさん送られてきます。その中で、ほんとうに気に入るものは1、2本程度。5ページや12ページで眠たくなってしまうようではだめで、シナリオの質を吟味し、最良のものを選びます。次に、直接監督とお話します。初めての長編・短編となる若い監督でしたら、前作を観て、その監督の中身を知って決めるようにしています。監督と会って話した様子や、どんな映画を作りたいのか聞いて、人となりを見ます。私が脚本を読んで思ったことと、相手が考えているものとをそこで照らし合わせるのです。監督の名声が確立しているかどうかということは関係がありません。ゴダールと仕事をしたときは既に彼の名は知られていましたが、トリュフォーやモーリス・ピアラは今のように信仰の対象となるまで至っていないときに一緒に仕事をはじめましたから。そして配役を確認して、最終的な決断を下します」。




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映画『わたしはロランス』より



最後に彼女は「長いキャリアのなかで大切なのは欲望を持ち続けること。そして、嫌いな映画ばかり出ていると続けたくなくなってしまうので、作品を間違わないこと。私にとって、なにかを所有するのではなく、自由であることは最大の贅沢なことです。ノーと言えることもまた恵まれていることだと思いますし、危険と思われる作品でもそこに賭けてみようと思えること、作品に情熱をかけているのであればその為にイエスと言うことも必要です。この『ゴダールの探偵』のような難解な作品にばかり出ているわけではないんですよ(笑)」と、多様な作品に挑むうえでの姿勢を明かした。



(2013年6月23日、アンスティチュ・フランセ東京、渋谷ユーロスペースにて 取材・構成:駒井憲嗣)









ナタリー・バイ プロフィール



1948年7月6日生まれ、フランスのマネヴィル出身。代表作にはフランソワ・トリュフォー監督の1973年『映画に愛をこめて アメリカの夜』 1978年『緑色の部屋』、ジャン=リュック・ゴダール監督の1979年『勝手に逃げろ/人生』、1985年『ゴダールの探偵』など。近年の出演作に、クロード・シャブロル監督の2003年『悪の華』、ギョーム・カネ監督の2006年『唇を閉ざせ』、グザヴィエ・ドラン監督の2012年『わたしはロランス』などがある。 受賞歴は1980年『勝手に逃げろ/人生』でセザール賞の助演女優賞、 1982年『愛しきは、女/ラ・バランス』ではセザール賞の主演女優賞、1999年『ポルノグラフィックな関係』でヴェネチア国際映画祭女優賞を獲得。娘は、フィリップ・ガレル監督の2008年『愛の残像』などの出演で知られる ローラ・スメット。










【関連記事】

映画『わたしはロランス』に、やまだないと他クリエイターから絶賛コメント到着

http://www.webdice.jp/dice/detail/3944/










■AndAとのコラボアイテム発売、POP UP STOREオープン!



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映画『わたしはロランス』と、ファッション・デザイン・アート・音楽などのジャンルをクロスし、グローバルな視点で刺激ある新しいスタイルやカルチャーを発信するコンセプトショップAndAとのコラボアイテムが発売、新宿フラッグス店では『わたしはロランス』のPOPUP STOREがオープン!

今回販売されるアイテムは4種で『わたしはロランス』のファッショナブルでエモーショナルな部分がフィーチャーされたアイテムとなっている。8/23(金)よりAndA全店で発売開始となる。



*公式 HPキャンペーンページはこちら

http://www.uplink.co.jp/laurence/campaign.php



●Tシャツ(価格:¥5,250/サイズ:XS,S/色:白、青、グレー)

●パーカー(価格:¥8,400/サイズ:1サイズ/色:白、紺、グレー)

●ブレスレット(価格:各¥1,680/全7色)

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■『わたしはロランス』公開記念キャンペーン第2弾!

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◆第2弾 アンケート

あの曲を聴くとわたしは◯◯◯を思い出す...

87~99年当時の思い出の曲とエピソード教えてください



『わたしはロランス』のロランスとフレッドが出会ったのは1987年。映画はミレニアム目前の1999年、ロランスが過去を語るところから始まる。この映画では、時代を感じさせる仕掛けとして、キュアー、デュラン・デュラン、デペッシュ・モードを始めとした当時の音楽がカラフルに選曲されている。

(劇中の音楽リストはこちら
http://www.uplink.co.jp/laurence/music.php



◆プレゼント

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*当選者に100タイトル以上のリストを送付、発売販売ともアップリンクで洋画のタイトルのリストから選べます。



◆応募方法

Twitter or facebookで応募できます。

◎Twitterでの応募方法

手順【1】『わたしはロランス』のTwitterアカウント(https://twitter.com/Laurence_JP)を“フォロー”!

手順【2】ハッシュタグ「#ロランスB」をつけて<第2弾 アンケート:あの曲を聴くとわたしは◯◯◯を思い出す...>の回答と曲のYOUTUBEアドレスをツイート!



◎facebookでの応募方法

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◆応募期間

2013年8月25日午前10時まで

詳しくはこちら

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キャンペーン特設ページ

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映画『わたしはロランス』

2013年9月7日、新宿シネマカリテほか全国順次公開



モントリオール在住の小説家で、国語教師のロランスは、美しく情熱的な女性フレッドと恋をしていた。30歳の誕生日、ロランスはフレッドにある秘密を打ち明ける。「僕は女になりたい。この体は間違えて生まれてきてしまったんだ」。それを聞いたフレッドはロランスを激しく非難する。2人がこれまでに築いてきたもの、フレッドが愛したものが否定されたように思えたのだ。しかし、ロランスを失うことを恐れたフレッドは、ロランスの最大の理解者、支持者として、一緒に生きていくことを決意する。




監督:グザヴィエ・ドラン

出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ

2012年/168分/カナダ=フランス/1.33:1/カラー/原題:Laurence Anyways

配給・宣伝:アップリンク



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/laurence/

公式twitter:https://twitter.com/Laurence_JP

公式facebook:https://www.facebook.com/laurenceanywaysJP





▼『わたしはロランス』予告編


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「美輪さんはマイナーなところから出発し、今はメインストリームで多くの人に愛されている」

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映画『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』より ©KIREI



ジャンルを超えたビジョンのもと、新しいアーティスト像を作り上げた美輪明宏さん。自身初となるドキュメンタリー映画『美輪明宏ドキュメンタリー~黒蜥蜴を探して~』がいよいよ8月31日(土)より東京都写真美術館ホール、渋谷アップリンクで公開、以後全国順次ロードショー公開される。




監督のパスカル=アレックス・ヴァンサンは、今作を撮ることになったきっかけについて、次のように語る。

「90年代、私はフランスの日本映画配給会社で働いていた。会社には東宝、大映、松竹、日活がフランス向けに売り出そうとしている約200タイトルのカタログがあった。ある時、その会社が深作監督の『黒蜥蜴』の劇場公開を手がけることになる。私は作品がとても気に入ったが、なぜ主演女優の名が“アキヒロ”なのだろうと不思議に思った。日本人の友達に聞いてみると、美輪さんは男性として生まれたらしい。松竹のように大きなスタジオが、女装した男性を大きな役に起用したことに、私はとても驚いた。ハリウッドやフランスのスタジオではあり得ない。そこで、美輪さんについて調べてみることにした」。




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映画『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』のパスカル=アレックス・ヴァンサン監督


監督は、2008年後半に美輪さんの事務所に手紙を送り、ドキュメンタリーを撮りたいという意思を伝えた。

「それから、私の初めての長編映画で劇映画の“DONNE-MOI LA MAIN”(英題“Give Me Your Hand”)のDVDを送った。2010年に、アメリカを含む12ヵ国で上映された作品である。美輪さんは『いいですよ。でも、まずはあなたにお目にかかりたい』という返事をくれた。私は東京に飛び、銀座で美輪さんやスタッフと初めて会った。じっくり話をすると、美輪さんは自分のキャリアについて私がよく知っていることを分かってくれた。美輪さんを尊敬していること、その大ファンであることも。そして、『いいですよ、映画を撮りましょう』と言ってくれた」。



パスカル監督は、2009年11月に撮影のためプロデューサー、通訳、撮影監督を連れて再び来日。

「美輪さんは自宅で撮影させてくれた。撮影の間、美輪さんは大変協力的で、あらゆる質問に答えてくれた。その素晴らしいキャリアのすべてを、フランスの観客に知ってもらいたかったので、撮影は何と1週間近くにも及んだ。何よりも、美輪さんはとても暖かく、面白い人だった。素晴らしいユーモアの持ち主なのだ。また、フランスとフランス文化への深い造詣を持っていた」。




監督は帰国後、10時間に及ぶインタビューを、1年を費やしテレビ用の52分のバージョン、そして今回日本で劇場公開される63分のバージョンに編集。作品は2011年1月11日にフランスのテレビ局で放送された。

「作品はとても好評で、フランスでの反響は非常に大きなものだった。雑誌に素晴らしい評が載った。フランスの観客の大多数にとって、それは美輪さんとの初めての出会いだったのだ。フランスにおける朝日新聞ともいえる「ル・モンド」など、硬派な一般紙にも記事が出た。元はフランスのテレビ用だったこの作品は、映画祭での上映がされた。ゲイ&レズビアンの映画祭ではなく、一般の大きな映画祭での上映だった。やはり反響は大きく、ヨーロッパの各地で上映作品に選ばれた。そしてさらに、アメリカの複数の映画祭でも上映された。美輪さんの仕事を世界中に紹介することに、私の映画が貢献できてうれしい」。



監督は日本公開にあたり美輪さんを大好きな理由をあらためて「マイナーなところから出発して、今はメインストリームで多くの人に愛されているところ」と語り、「78歳という年齢にもかかわらず、とても若々しい。情熱があるから若いのだ」と賛辞を寄せている。




美輪さんはシンガーソングライター、舞台演出、俳優、脚本、衣装デザイン、さらには執筆・講演といったマルチな活動について、「ひとりの人間には、ご両親、そのまたご両親といたどっていけば、何百、何千という人間の性格と才能が宿っている。それだけ多くの人間の才能が受け継がれているのですから、可能性は無限大なんです。私がマルチに活躍できるのも特別なことではないのです」と語る。




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映画『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』より ©KIREI


映画公開にあたり様々なメディアのインタビュー受け、それに答えた美輪さんは、「日本でも明治までは、お小姓文化や若衆茶屋という文化があって、市民権を得ていました。それが日本が軍国主義に走るようになってから、国策に反するということで男色は国賊扱いになったんです。その時代に、アインシュタイン、チャップリン、エジソンら天才が憧れた多様な日本文化は大きく破壊されたのです。私は何とかそれを取り戻したくて、終戦後にお小姓文化を現代風にアレンジしてこういう男でも女でもない姿を演出するようになったんです」と、自身の表現の根底にある社会への問題提起を明らかにした。



ドキュメンタリーのなかでも美輪さんは、デビュー当時の反響について「私が1952年にシャンソン喫茶で、男でも女でもないという今のビジュアル系の格好で歌い始めて、銀座で有名になったのがきっかけで、それまで隠れていたゲイの人たちもそうしたファッションをしだしたんです。だから日本人は、デヴィッド・ボウイやボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)が出てきたとき、誰も驚かなかったんです。そのずっと前に私がいたから」と語っている。




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映画『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』より ©KIREI

また2012年のNHK紅白歌合戦で歌われ大きな反響を呼んだ「ヨイトマケの唄」についても映画では触れられており、美輪さんは「九州の炭鉱の町で、とても不景気でどん底の生活をしているのに、お金を握りしめて聞きに来てくれる人を見て、この人たちを励ましたいと、作詞作曲をしてビジュアル系の衣装も宝石も毛皮もメーキャップも辞めて、素顔で歌うようになったんです」と、楽曲が生まれたきっかけについて解説している。








長崎出身の美輪さんは、この8月テレビで自らの被爆体験を語った。「被爆体験というのは、どんなに言葉を尽くしても、やっぱり体験した人でないとわからないから、自分自身無力感にとらわれそうな気持だったのですけど、今の自民党政権下で憲法9条を改正しようという動きがある中で、いてもたってもいられなくなったんです。いままでテレビでは話さなかったのですが『なんとしても伝えないと!』という想いです」と胸の内を明かした。



映画公開以外にも、9月からは美輪さん自身が舞台美術、照明、衣装に至るまでの全てを手掛け、ライフワークと言える「ロマンティック音楽会」をパルコ劇場にて開催。今年の音楽会では現在の社会・政治情勢に対して警鐘を鳴らす意味を込めて、第一部で『悪魔』や『祖国と女達』といった反戦歌を披露する。さらに10月からは野田秀樹演出、宮沢りえ主演による舞台『MIWA』が上演される。



美輪さんは「いま、世の中がとてもきな臭くなってきています。いまこそ私は日本人、特に若い皆さんには目覚めて欲しい。この映画や音楽会がそうした目覚めのきっかけになれば本当にうれしく思います」とメッセージを寄せている。











映画『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』

8月31日(土)より東京都写真美術館ホール渋谷アップリンクにて公開




主演:美輪明宏

出演:横尾忠則、深作欣二、北野武、宮崎駿ほか

監督:パスカル=アレックス・ヴァンサン

撮影監督:アレクシ・カヴィルシン

編集:セドリック・デフェルト

原題:Miwa : a la recherche du Lezard Noir(Miwa, A Japanese Icon)

2010年/フランス/日本語・フランス語/63分

提供:パルコ

配給:アップリンク

宣伝:アップリンク・Playtime・佐々木瑠郁

(c)KIREI



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/miwa/

公式facebook:https://www.facebook.com/MiwaIcon.movie



▼『美輪明宏ドキュメンタリー ~黒蜥蜴を探して~』予告編


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「ケルアックの現代性とは、すべてを自ら探求しようとする欲望にあると思う」

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ブラジル出身で、これまで『モーターサイクル・ダイアリーズ』などを手がけたウォルター・サレス監督がアメリカのビートニク・ムーヴメントの第一人者ジャック・ケルアックの小説を映画化した『オン・ザ・ロード』が公開される。映画化権獲得から約30年、製作総指揮のフランシス・フォード・コッポラとサレス監督がタッグを組んでから8年の歳月が費やされ完成したという本作。制作前のリサーチ、脚本、撮影、配役そしてケルアックの世界観と、それぞれの角度からどのようにこの名作を解釈したのか、サレス監督が率直に語っている。






私にとってこの小説はあまりにも象徴的すぎた



── 「路上/オン・ザ・ロード」を初めて読んだときの感想を覚えていますか。



私はこの小説をブラジルで読んだが、当時は軍事政権下のつらい時代だった。報道も、出版社も、音楽や映画も検閲の影響を受けていた。当時ブラジルで出版されなかったから、英語で読むしかなかった。私はすぐに登場人物たちの自由さや、ジャズを吹き込まれたような語り口、セックスやドラッグが世界への理解を広げる道具と考えられているような描写に魅了された。それは、まさに私たちの暮らしぶりとは正反対のものだった。だから私はケルアックの洞察力に深く感心したし、私の世代の他の多くの人々も同じだった。やがてこの小説は1984年にブラジルで出版され、まるでそれが前兆であったかのように、国も民主主義へ回帰しようとしていた。私にとってこの小説はあまりにも象徴的すぎて、映画として脚色しようという考えなど当初は思い浮かばなかった。




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映画『オン・ザ・ロード』より (C)Gregory Smith




── 制作中のドキュメンタリー『Searching for on The Road』の中で、撮影前にあらゆる研究を行ったことについて語っていますね。なぜ、そうすることが重要だったのですか。



2004年にアメリカン・ゾエトロープ社と話し合いを始めた頃、私は時期尚早だと感じていた。脚色には多くの可能性が錯綜していたから、私は提案を行い、先にドキュメンタリーを撮影して、ケルアックとその集団の他の人たちの足跡をたどり、小説に描かれた冒険旅行をもっとよく理解しようと努めることにした。また、私はその世代が直面していた問題、つまり1940年代終盤や1950年代初頭の政治情勢について、より深い洞察をしようと考えていたんだ。



── あなたと共同脚本のホセ・リベーラは、「路上/オン・ザ・ロード」のどのバージョンを脚本に採用したのですか。



ケルアックが少年期と青年期の多くを過ごしたマサチューセッツ州ローウェルで、私たちはジャックの義理の兄ジョン・サンパスに会った。彼はとても寛大で、オリジナルの原稿のコピーを見せてくれた。私はすぐにそのバージョンの切迫性や即時性に心を打たれた。最初の一文がすでに異なる語り口を示していた。1957年に出版されたバージョンの冒頭は「ディーンに出会ったのは僕が妻と別れてからそれほど後ではなかった」だが、原稿の冒頭は「ニールに出会ったのは父が死んでからそれほど後ではなかった」だった。

原稿の主人公は喪失を味わったばかりで、そこから前に進まなければいけなかった。父親の探究がその原稿の重要なテーマであり、それは1957年に出版されたバージョンよりも強いものだった。私はこのテーマに常に関心を持っていて、それが脚色を進める原動力のひとつになったんだ。私とホセは5年間、共に仕事をしてさまざまな異なるバージョンについて話し合い、原作を可能な限り尊重しようと努めた。時に原作から離れたが、それはより忠実になるためにあえて裏切ってみたのだ。脚色により観客はオリジナル版の小説へと回帰したい気持ちになるはずだ。そして「路上/オン・ザ・ロード」の各自のバージョンを作り上げるんだ。



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映画『オン・ザ・ロード』より (C)Gregory Smith





── あなたの映画では、他の多くのロードムービーがそうであるように、ふたりの人物が一緒に旅をすることが多いですね。どのようにサルとディーンのコンビを設定したのですか。



ケルアックはふたりの関係についての解釈を明確に示している。ディーンは扇動者で熱くなりやすい“西部の風”だ。ディーンはニューヨークに上京する前に、ケルアックとアレンが参加していたニューヨークのインテリ・グループが持っていたあらゆる信念を覆してしまう。ニール・キャサディ/ディーンはとても興味をそそる人物であるため、ケルアックの数作品だけでなく、ジョン・クレロン・ホームズの「ゴー」や、ギンズバーグのいくつかの詩の中心的人物でもある。サルは感受性の強い観察者で、ディーンが持ち込む自由についていくらか言葉で表現し、私たちにそれを共有させてくれる。ドキュメンタリーの制作中、ニールは自分勝手に友人をうまく利用している、という批判を耳にした。しかし究極的には、誰が誰を利用しているのかについて考えさせられるかもしれない。実際に、この興味深い疑問は映画に描かれている。




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映画『オン・ザ・ロード』より (C)Gregory Smith



アメリカ合衆国は西部への旅に基づいて定義されてきた




── エリック・ゴーティエとはどのようにして撮影方法を計画したのですか。



自然地理は小説で中心になっているが、人物たちの内面の地理とでも呼ぶほどのものではない。アン・チャーターズは「路上/オン・ザ・ロード」について記したエッセーの中で、この小説は道の終わりについての物語とも解釈できると言っている。アメリカ合衆国はこのような西部への旅に基づいて定義されてきた。ウエスタンが北米映画ジャンルの典型だとしても、それは偶然ではない。西部征服の終焉はアメリカン・ドリームの終焉が始まる合図であり、「路上/オン・ザ・ロード」の人物たちもこのふたつのことを自身の中に抱えている。私たちは彼らの心の中の葛藤と合わせて、彼らにとって未知だったものを明らかにしたいという欲望を映画にすることに特に興味を持っていた。当初からエリック・ゴーティエは鋭い観察眼により、そのパラドックスを理解していた。彼はカメラを片手に、人物たちや彼らの動揺を見つめ続けた。エリックが指摘したように、本作を白黒で撮影したなら、単純に期待に応えるだけのもので、ロバート・フランクの「アメリカンズ」(*1958年発表の写真集)の引用にしかなっていなかっただろう。



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映画『オン・ザ・ロード』より (C)Gregory Smith




── この映画の音楽について語ってください。



作曲家のグスターボ・サンタオラヤは『モーターサイクル・ダイアリーズ』で最高の仕事をしてくれて、テーマ曲を作曲し、撮影期間中ずっと私たちに刺激を与えてくれた。今回の『オン・ザ・ロード』はMK2の若きプロデューサー、ナタナエル・カルミッツとシャルル・ジリベールのおかげで迅速なスタートが切れたが、あまりにも速かったため、スリム・ゲイラードの曲以外に事前にサウンドトラックを準備する時間がなかった。そこでグスターボは私たちが撮影と編集を行っているとき、映像を見る前に作曲した。このプロセスにより映像と音楽の間にギャップが生まれたが、私はより面白いと思った。音楽が止まることで映像が強調される。グスターボのような才能ある人物と共作するのだから、とことん活用した方がいい! グスターボはチャーリー・ヘイデンやブライアン・ブレイドといった優れたミュージシャンと音楽に取り組み、ロサンゼルスでのレコーディング・セッションはまさに至福の時だった。




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映画『オン・ザ・ロード』より (C)Gregory Smith





── キャスティングはどのように行ったのですか。



出演者は2004~2005年から始めて何年もかけて選んだ。キルステン・ダンストが最初に話した女優で、カミール役を考えていた。彼女の演技は驚くほど正確で、不必要に強調されたものが何もないといつも思っていたよ。

クリステン・スチュワートについては物事が予期せぬやり方で動いた。グスターボ・サンタオラヤとアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは『イントゥ・ザ・ワイルド』の最初のカットを見た直後、私に「メリールウ役はもう探さなくていい。ショーン・ペンの新しい映画に出ている彼女はすばらしい」と言った。私はペンのその映画を観て心から気に入り、『トワイライト~初恋~』の熱狂が始まる直前にクリステンと会ったんだ。彼女は原作を非常によく知っていて、メリールウのことも理解していた。クリステンは不確定だった年月の間も、ずっとこの映画に尽くし続けてくれたんだ。

ギャレット・ヘドランドはテストにやってきた。彼にはミネソタからカリフォルニアまで、ヌードバーなどに立ち寄りながらバスに乗る場面で、自分が書いたテキストを読ませた。そして半分に差しかかるまでに、彼こそディーンだと思った。ギャレットも何年も待ってくれた。他の映画のオファーを受けるたびに、真っ先に電話をくれたよ。

そして『コントロール』を観たとき、私はイアン・カーティス役のサム・ライリーの演技にとても感心した。あれは実に見事だった。彼はニューヨークへギャレットとの読み合わせに来たが、彼の俳優としての正確さと同時に、人間性と知性に深く感動させられた。それらは作家を演じるのに必要な資質だった。

撮影が近づくと、ヴィゴ・モーテンセンがオールド・ブル・リー役で加わり、エイミー・アダムスも加わった。ふたりとも天才的な俳優で、いつの間にか登場人物に変身し、驚くべき内面を与えることができる。ヴィゴはニューオーリンズに来たとき、バロウズが当時使っていたタイプライターと同じ銃を持ってきてくれたうえに、1949年にバロウズが読んでいたものについて綿密な調査をしてきた。それはマヤ歴の暗号とセリーヌの著作だった。映画の中にセリーヌについての即興があるのはヴィゴの提案によるものだ。彼は映画の共同作家のひとりなんだ。




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映画『オン・ザ・ロード』より (C)Gregory Smith




── ケルアックの現代性はどこにあると思いますか。



すべてを自ら探求しようとする欲望にあると思う。画面上ではすべての瞬間をとことんまで、しかも身代わりを使うことなく感じ、臭いをかぎ、味わい、生きている。ドキュメンタリーの撮影中、私たちは詩人のローレンス・ファーリンゲッティとサンフランシスコ周辺をドライブしていた。彼はバークレーへ向かうベイブリッジの渋滞を見て、忘れられない言葉を言った。「見てごらん、もうこれ以上遠い場所はない」。「路上/オン・ザ・ロード」が書かれたとき、世界はまだ完全に形成されていなかった。ボルヘスはかつて文学における最大の喜びは、まだ名前のないものを名付けることだと言っていた。現在、私たちはすべてがすでに為され、探求されたような印象を持っている。中国人監督のジャ・ジャンクーは映画『世界』の中で、この空間と時間の内部崩壊を美しく描いている。その結末は、前触れのように若いヒーローとヒロインの自殺で終わっている。「路上/オン・ザ・ロード」はこの動けない状態に対する解毒剤のようだ。これこそ私がこの小説で一番惹かれるものだ。



(『オン・ザ・ロード』オフィシャル・インタビューより転載)









ウォルター・サレス プロフィール


1956年、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。1980年代後半にTVドキュメンタリーの分野で映像業界におけるキャリアを踏み出し、初めて手がけた劇映画はブラジル、アメリカ合作のサイコ・スリラー『殺しのアーティスト』(91)。数多くの賞に輝いたダニエラ・トマスとの共同監督作品『Terra Estrangeira』(96)に続き、老女と少年の旅を描いたロードムービー『セントラル・ステーション』(98)でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞し、世界的な名声を獲得した。さらにダニエラ・トマスと再び共同監督を務めた『リオ・ミレニアム』(99・未)、ロドリゴ・サントロ主演の神話的なドラマ『ビハインド・ザ・サン』(01)を発表。そして革命家チェ・ゲバラが若き日に経験した南米大陸縦断の旅を詩情豊かに映画化した『モーターサイクル・ダイアリーズ』(03)で絶賛され、中田秀夫監督のJホラー『仄暗い水の底から』のリメイク『ダーク・ウォーター』(04)でハリウッドに進出した。その後はプロデューサーとしてブラジルの若手監督たちを支援するとともに、『パリ、ジュテーム』(06)、『それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~』(07)、『Stories on Human Rights』(08)といったオムニバス映画に監督として参加。またダニエラ・トマスとの共同で『Linha de Passe』(08)の監督も務めている。













映画『オン・ザ・ロード』

8月30日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ他全国順次ロードショー




人生のすべては路上にあるー

若き作家サル・パラダイスの人生は、ひとりの男の出現によって一変した。自分や作家仲間たちのような“退屈な知識人”とは真逆の存在で、社会の常識やルールに全く囚われないディーン・モリアーティ。ディーンの刹那的なまでに型破りな生き方とその美しき幼妻メリールウに心奪われたサルは、彼らと共に広大なアメリカ大陸へと飛び立っていく。さまざまな人々との出会いと別れを経験しながら、このうえなく刺激的な“路上の日々”は続いていくー。




監督:ウォルター・サレス

サム・ライリー、ギャレット・ヘドランド、クリステン・スチュワート、エイミー・アダムス、トム・スターリッジ、キルスティン・ダンスト、ヴィゴ・モーテンセン

製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ

音楽:グスターボ・サンタオラヤ

2012年/フランス・ブラジル/英語/カラー/シネマスコープ/139分

字幕翻訳:松浦美奈

原題:ON THE ROAD/R-15

配給:ブロードメディア・スタジオ




公式サイト:http://www.ontheroad-movie.jp

公式Facebook:https://www.facebook.com/ontheroad.movie2013

公式Twitter:https://twitter.com/OnTheRoad_mov


▼映画『オン・ザ・ロード』予告編


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「監督と同じことを考えているかどうかを確認するために、質問を怖がらずにすることがとても大切」

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9月7日より公開『わたしはロランス』に出演するナタリー・バイ(撮影:荒牧耕司)



これまでの作品3作すべてがカンヌ国際映画祭出品を果たし、2014年フランスで公開予定の最新作『Tom à la ferme』がベネチア国際映画祭に出品されるなど話題を集めるグザヴィエ・ドラン監督。9月7日(土)より日本公開となるドラン監督『わたしはロランス』は、80年代のモントリオールを舞台に、女になりたいという葛藤を抱えた主人公ロランスと恋人フレッドとの愛の行方を描いている。この作品でロランスの母役を務めるナタリー・バイがドラン監督の作品の魅力について、そして自身の演技への取り組みについてインタビューに答えた。




年齢や経験に関係なくドラン監督は天才です




── 最初に、この作品にすることになったいちばんの決め手は?



まずドラン監督によるシナリオでした。とてもよく書かれていたので、読んだ段階でこの女性像が理解できましたし、感じることができました。そして、ドラン監督の前の2作『マイ・マザー』(原題:I Killed My Mother)』『胸騒ぎの恋人』(原題:Heartbeats)を観ていてとても好きだったので、監督に会って、ちょっと単純かなと思われるような質問もいろいろ投げかけました。監督と同じことを考えているかどうかを確認するために、質問を怖がらずにすることがとても大切なのです。そして、あらためて彼と一緒にやりたいと思いました。18歳のときに『マイ・マザー』を作って、20歳のときに『胸騒ぎの恋人』を作って、今回の『わたしはロランス』の撮影中に23歳を迎えた、とても若い監督ですが、年齢や経験に関係なく彼は天才です。





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映画『わたしはロランス』より



── あなたが演じるジュリエンヌの登場シーンは決して多くはないものの、シーンごとに息子のロランスとの関係に変化が起き、母親として息子に接する態度も変化していっています。その演技の変化については、ドラン監督と具体的にどのような話し合いをしたのでしょうか?



母親というのは、自分の子どもがうまくいっているかどうか心の奥底で感じるものだと思うのです。ジュリエンヌは、息子との関係がうまくいっていないこと、そして、息子もなにかは分からないけれど問題を抱えている、と感じている。そして、息子がようやく「僕は実は女になりたい。自分自身になりたい」と言って、実際にそのための行動を起こしていくことで、母親としてすごく楽になり、自分らしくなって、息子との関係も良くなっていくのです。








── シナリオのなかに既に書かれていた演技と、現場で考えた演技との割合はどのくらいでしたか?



この映画については、とにかく脚本が良かったので、シナリオ通りに演技をしました。監督とたくさん話をすることで、彼が望む通りの役の理解をするように、そして自分で感じることが演技できるようになりました。ですので、質問はたくさんしましたが、私が変えた部分というのはありませんでした。



── ドラン監督は多彩な才能がありますが、監督と一緒に仕事をして彼の天才ぶりが分かったことがあれば教えてください。



ドラン監督はほんとうに特別です。若いのに既に3作手がけていて、シナリオもちゃんと書けて、衣装も自分で手がけて、私に80年代の服をバービー人形のように着せ替えてくれました。ヘアもやりますし、俳優への指導も上手です。1、2作目は俳優として出演もしています。映像と音楽の編集も編集者を使わず、自分でやってしまう。ウォン・カーウァイの影響を受けた監督、とよく言われますが、確かにウォン・カーウァイの作品は観ていたようですが、様々な映画祭に行った席でいろんな監督の名前が出てきても、巨匠たちの作品を観ていないくらい若いんです。監督のなかには、技術者としての経験を活かす方もいますが、私は、ゴダール、トリュフォー、シャブロルのような、飛んで行くような感覚を持った方と仕事がしたい。彼もその一人です。次回作に呼ばれたらすぐにオッケーを出します。



ひとつの役に閉じ込められるのが嫌なのです




── これまで数多くの作品に出演されてきましたが、今までで印象深い作品、そして特にに日本の観客に観てほしい作品は?



私は初期のキャリアとして、フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールやモーリス・ピアラといった大家の作品に参加しましたが、14歳からロシアバレエの学校に通っていたので、最初の仕事は実はダンサーでした。あるとき、友人と芝居の学校に行って授業を見たときに「演技こそが私自身になれるものだ」と分かって、フランス国立高等演劇学校に通い始めました。そして幸いなことにトリュフォーの『映画に愛をこめて アメリカの夜』に出ることになり、映画の世界で活動するようになりました。



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映画『わたしはロランス』より




そうした巨匠たちの作品だけでなく、『エステサロン/ヴィーナス・ビューティ』のようにすんなり観ていただける作品もありますし、私が好きな作品としてはフレデリック・フォンテーヌ監督の『ポルノグラフィックな関係』。モーリス・ガルシアの『2週間ごと』やクロード・シャブロルの『悪の華』も面白いですよ。グザヴィエ・ボーヴォワの『若き警官』は4つ目のセザール賞を取ることになったので思い出深いです。それからコメディも好きで、レア・ファゼール監督の『一緒に暮らすなんて無理』では、常軌を逸した家族の母親を演じました。ベルトラン・ブリエ監督『真夜中のミラージュ』では、アラン・ドロンと共演しましたが彼の演技は素晴らしかった。原題は『Notre Histoire』(私たちの物語)なんですけれど、日本語のタイトルのほうが詩的ですね。


私は閉所恐怖症なんです(笑)。ひとつの役に閉じ込められるのが嫌なのです。日本の俳優さんでも、この人は悲しいドラマ向き、とかコメディだったらこの人、悪役はこの人、と決まっていると思いますが、いろんな映画に出たいと思っています。










── 観客として『わたしはロランス』を何回ご覧になりましたか?観客の視点からロランスとフレッドの関係をどのように感じましたか?



撮影チームのための上映のときと、カンヌ国際映画祭の上映のときに観ました。『わたしはロランス』は、素晴らしい愛の物語ですが、それはかなわないこともある。男女が一緒に住んでいて、男性が突然「自分は実は女になりたい」と言った場合、女性の側はけっしてシンプルには捉えられないと思うのです。彼女も彼を愛し続けていくけれど、他の人や家族の目といったいろいろな問題があって、一緒には住めない辛さがある。ですが、お互いに体は別れていても、このふたりは、心はずっと愛し合うと思います。私もこの映画を観て初めて分かったのですが、女になりたいと思う人のなかでも、ロランスのように性は変わっても性の嗜好は変わらない人もいる。女になってもずっと同じ女の人を愛し続けていく人もいるのです。






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(撮影:荒牧耕司)




「壊れたら直す」家族のほうがいい




── 80年代から90年代を舞台にしていますが、監督は自分が子供だったこの時代をなぜ描こうとしたのでしょうか。



私が考えるに、肩がいかつい服などファッションをはじめとした80年代の美的な感覚をドラン監督は好きだということ、そして80年代だと女になりたいと悩む主人公という設定がより深刻になるということ。そうしたセクシャルマイノリティに対して、2000年代よりもさらに厳しい目で見られたということがあると思います。現在のフランスでは、昔に比べると、今の考え方はわりとオープンにはなってはいますが、私の表現で言えばまだ“シャイ”な状態です。タブー視されていないものの、多くの人々には不都合な状態が続いています。私にはセクシャルマイノリティの友人が多くいます。彼らの中には家族の中で病気扱いされることを恐れて、そのことを隠したまま生きている人たちもいました。だんだんと明らかになって、ロランスのように本当のことを語れる状況になったら良いと思います。






── 家族のあり方というものをすごく考えさせられる映画でした。日本ですと結婚すると死ぬまでパートナーと一緒にいることが多いですが、フランスは日本より家族のあり方がより自由で多様だと思います。ナタリーさんが考える理想の家族というのはどんなものでしょうか?



私はむしろ日本のあり方がひとつの基準ではないかと思います。こんなメールを受け取りました。美しい言葉が書いてあったので、それをご紹介しましょう。老人のカップルの写真があって、そこに写るふたりに「65年もどうして一緒にいられるんですか」と聞くと、おばあさんがこのように言いました「今は壊れたら代りを探す時代ですが、私たちの時代は、壊れたら直す時代だったのです」。私も、壊れたら直す方が、結束した家族が可能であれば、そのほうがいいと思います。




(取材:駒井憲嗣)










ナタリー・バイ プロフィール



1948年7月6日生まれ、フランスのマネヴィル出身。代表作にはフランソワ・トリュフォー監督の1973年『映画に愛をこめて アメリカの夜』 1978年『緑色の部屋』、ジャン=リュック・ゴダール監督の1979年『勝手に逃げろ/人生』、1985年『ゴダールの探偵』など。近年の出演作に、クロード・シャブロル監督の2003年『悪の華』、ギョーム・カネ監督の2006年『唇を閉ざせ』、グザヴィエ・ドラン監督の2012年『わたしはロランス』などがある。 受賞歴は1980年『勝手に逃げろ/人生』でセザール賞の助演女優賞、 1982年『愛しきは、女/ラ・バランス』ではセザール賞の主演女優賞、1999年『ポルノグラフィックな関係』でヴェネチア国際映画祭女優賞を獲得。娘は、フィリップ・ガレル監督の2008年『愛の残像』などの出演で知られる ローラ・スメット。










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■『わたしはロランス』公開記念キャンペーン第3弾!

こんなものを恋人にプレゼントしたい、してほしい!




『わたしはロランス』で、女になると告白したロランスに対して恋人のフレッドは、戸惑いながらも受けとめる努力をしようとし、複雑な気持ち抱きながらボブヘアーのウィッグをプレゼントします。

アンケート第3弾は、「こんなものを恋人にプレゼントしたい、してほしい!」です。応募者の皆さんとビジュアルをシェアしたいのでプレゼントの画像を添えて投稿してください。



◆プレゼント

【1等賞】UPLINKのカフェレストラン"タベラ"お二人で1万円相当のディナー 1名様

【2等賞】UPLINKのカフェレストラン"タベラ"にて、ご飲食の際にワインフルボトル1本 5名様

*当選者の方には、メールでご連絡を差し上げ、新宿シネマカリテでタベラでのご利用券をお渡しいたします。




◆応募方法

Twitter or facebookで応募できます。

◎Twitterでの応募方法

手順【1】『わたしはロランス』のTwitterアカウント(https://twitter.com/Laurence_JP)を“フォロー”!

手順【2】ハッシュタグ「#ロランスC」をつけて<第3弾:こんなものを恋人にプレゼントしたい、してほしい!>の回答と写真をツイート!



◎facebookでの応募方法

手順【1】『わたしはロランス』のfacebookアカウント
https://www.facebook.com/laurenceanywaysJP)を“いいね”してフォローする!

手順【2】キャンペーンページ(http://www.uplink.co.jp/laurence/qanda.php)を“シェア”して、コメントにハッシュタグ「#ロランスC」をつけて<第3弾:こんなものを恋人にプレゼントしたい、してほしい!>の回答と写真を入力!



◆応募期間

2013年9月4日(水)午前10時まで

詳しくはこちらキャンペーン特設ページへ

http://www.uplink.co.jp/laurence/qanda.php













■AndAとのコラボアイテム発売、POP UP STOREオープン!



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映画『わたしはロランス』と、ファッション・デザイン・アート・音楽などのジャンルをクロスし、グローバルな視点で刺激ある新しいスタイルやカルチャーを発信するコンセプトショップAndAとのコラボアイテムが発売、新宿フラッグス店では『わたしはロランス』のPOPUP STOREがオープン!

今回販売されるアイテムは4種で『わたしはロランス』のファッショナブルでエモーショナルな部分がフィーチャーされたアイテムとなっている。



*公式 HPキャンペーンページはこちら

http://www.uplink.co.jp/laurence/campaign.php



●Tシャツ(価格:¥5,250/サイズ:XS,S/色:白、青、グレー)

●パーカー(価格:¥8,400/サイズ:1サイズ/色:白、紺、グレー)

●ブレスレット(価格:各¥1,680/全7色)

●トートバッグ(価格:¥3,990)












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映画『わたしはロランス』

2013年9月7日(土)、新宿シネマカリテほか全国順次公開



モントリオール在住の小説家で、国語教師のロランスは、美しく情熱的な女性フレッドと恋をしていた。30歳の誕生日、ロランスはフレッドにある秘密を打ち明ける。「僕は女になりたい。この体は間違えて生まれてきてしまったんだ」。それを聞いたフレッドはロランスを激しく非難する。2人がこれまでに築いてきたもの、フレッドが愛したものが否定されたように思えたのだ。しかし、ロランスを失うことを恐れたフレッドは、ロランスの最大の理解者、支持者として、一緒に生きていくことを決意する。




監督:グザヴィエ・ドラン

出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ

2012年/168分/カナダ=フランス/1.33:1/カラー/原題:Laurence Anyways

配給・宣伝:アップリンク



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/laurence/

公式twitter:https://twitter.com/Laurence_JP

公式facebook:https://www.facebook.com/laurenceanywaysJP





▼『わたしはロランス』予告編


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「誰かが薬に対して良くない反応をしたことで刑事事件となるのは、実際に起きていることだ」

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映画『サイド・エフェクト』のスティーヴン・ソダーバーグ監督


スティーヴン・ソダーバーグ監督が「これが最後の劇映画」と、今後はテレビ製作などの分野に専念することを公言した『サイド・エフェクト』が9月6日(金)より公開。製薬会社や薬剤の蔓延という社会的なテーマをはらんだこの心理サスペンスについて、製作のきっかけや俳優たちとのコンビネーションについて語った。




薬理学と法律がどんなふうに相互作用し始めたのかリサーチした




──面白い題材です。抗うつ剤、製薬会社、非常に興味をそそるテーマだと思いました。あなたのまとめ方が素晴らしかった。製薬会社を攻撃して社会論評を繰り広げるわけではなく、とても楽しめるサスペンススリラーを創り出しています。まず、この薬という題材をテーマとして使用することをいつ思い付かれたのですか?



スコット・バーンズがこの脚本を数年前に書いていた。スコットと僕は別の2作品で一緒に仕事をしたことがあったんだ。『インフォーマント!』(09)と『コンテイジョン』(11)だ。僕はこの脚本のことを知っていたし、映画化の計画についても、ずっと彼に尋ねていた。最初彼は自分でこの脚本を扱うつもりだったが、僕は彼を説得し手に入れることに成功した。社会問題を利用するこのコンセプトが、この場合、まさに現代のアメリカ文化の最前線に位置する中心的なアイデアだと思ったからだ。薬の問題や僕たちが経験する可能性のあるどんな問題も、もし僕たちの脳内化学成分が少し調整されれば、解決できる。サスペンスの中に置く口実としてそれを取り上げて使ったスコットのアイデアはじつに賢い。薬理学と法律がどんなふうに相互作用し始めたのか、この映画でリサーチし、その歴史を学ぶのは面白かった。アメリカで起こっているように君の文化で起こっているかどうかはわからない。君の国では抗うつ剤に関わる人は多いの?



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映画『サイド・エフェクト』より (c) 2012 Happy Pill Productions.




──多いです。事実、2007年には『Does your soul have a cold?』(『マイク・ミルズのうつの話』というタイトルで10月日本公開)というドキュメンタリーもありました。ドキュメンタリー性が強く、エンターテイメント性はありませんでしたが、素晴らしかったです。キャスティングについて、以前にも仕事をしたジュードとキャサリンを、この2つのキャラクターにぴったりだと思われたのですか?



以前にも仕事をした俳優は多い。ジュードの場合、『コンテイジョン』で彼と素晴らしい経験ができたことで、この役の候補になった。キャサリンとチャニングとは、これが3度目の作品になる。だからルーニーが初めて組んだ女優だったが、全く初めてとは思えなかった。僕は友人のデヴィッド・フィンチャーのオフィスの編集室を借りていた。だから『ソーシャル・ネットワーク』(10)と『ドラゴン・タトゥーの女』(11)で彼女とデヴィッドの経験を間近で見ていたんだ。それにデヴィッドを通して彼女と親しくなったこともあって、全くの他人という気がしなかったし、デヴィッドと彼女の仕事ぶりにも感銘を受けた。僕たちは非常に心地良く、リズムにもすぐに乗れたんだ。




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映画『サイド・エフェクト』より (c) 2012 Happy Pill Productions.


あまりリハーサルをするのは好きじゃない





──オリジナルタイトルは「ビター・ピル(苦い薬)」でしたね?



じつはオリジナルタイトルが「サイド・エフェクト」だったんだ。それから「ビター・ピル」に移って、「サイド・エフェクト」に戻った。





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映画『サイド・エフェクト』より (c) 2012 Happy Pill Productions.




──映画を作り終えて、物語はどのくらい変わりましたか?脚本と違ったか、それとも正確でしたか?



最大の変化は最初の34分間だ。最初の3分の1が正しく機能するように、その部分に編集時間の大半をかけ、書き直し、少し撮り直した。彼女がトラブルに巻き込まれてからは、脚本に忠実だ。





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映画『サイド・エフェクト』より (c) 2012 Happy Pill Productions.

──セットでのジュードとルーニーの相性はいかがでしたか?リハーサルはあったのでしょうか?



多くはない。僕はあまり好きじゃないんだ。人々が動いたり座ったりする、シーンの肉体的な行動は知りたい。それにスタッフがどこで何をするのか確認しておきたい。でもできるなら、僕はカメラを回すまで演技をとっておきたいんだ。だからあまりリハーサルをするのは好きじゃない。僕たちの準備が整うまで、演技の最終版は見せてほしくない。ジュードとルーニーは多くの意味で似通っている。準備万端だし、まさにプロだ。準備に関して何も問題ない。監督が望む物を提供したいと思う俳優だ。二人との仕事は非常にやりやすかった。無駄な会話で時間を費やすことのない、非常に賢い人たちだよ。




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映画『サイド・エフェクト』より (c) 2012 Happy Pill Productions.



──インサイダー取引で大金を失うプロットは、とてもタイムリーな話題です。それは最初から脚本にあったのですか?



もちろんだよ。製品の株価を操作することで、その製品に付随する犯罪が起こる。誰かが薬に対して良くない反応をする。それが公となり、刑事事件となる。実際に起こっていることだ。そして製薬会社の株価が下落する。スコットのアイデアをとても面白いと思った。それを誰かが金儲けに利用する。株が下がれば賭けができるし、賭けて実際に株が下がれば、相手は君が支払った元値を払わねばならない。とても興味深いよ。


(『サイド・エフェクト』オフィシャル・インタビューより転載)


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映画『サイド・エフェクト』より (c) 2012 Happy Pill Productions.












スティーヴン・ソダーバーグ プロフィール


1963年、ジョージア州アトランタ生まれ。中学時代に自主映画を作り始め、ハリウッドで編集者として働いたのち、地元に戻って脚本執筆やドキュメンタリー製作に取り組む。初の長編映画『セックスと嘘とビデオテープ』(89)はカンヌ国際映画祭に出品され、史上最年少の26歳の若さで最高賞パルムドールを獲得。同作品はサンダンス映画祭観客賞にも輝いた。2000年には『トラフィック』『エリン・ブロコビッチ』の2作品が共にアカデミー作品賞、監督賞にノミネートされる快挙を達成し、『トラフィック』で監督賞を受賞した。また『アウト・オブ・サイト』(98)、『イギリスから来た男』(99)といったユニークな犯罪映画で評価を高め、ジョージ・クルーニーやブラッド・ピットらのオールスターキャストを揃えた『オーシャンズ11』(01)は、その後2本の続編を生み出すスマッシュ・ヒットとなった。2008年には革命家チェ・ゲバラの人生を映画化した2部作『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳別れの手紙』を発表するなど、型にはまらない創作活動を展開。『コンテイジョン』(11)、『エージェント・マロリー』(11)、『マジック・マイク』(12)といった近作も好評を博している。『サイド・エフェクト』以降の新作として、TVムービーでありながらカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された「Behind the Candelabra」(13)、クライヴ・オーウェン主演のTVミニ・シリーズ「The Knick」(14)などが控えている。












映画『サイド・エフェクト』

9月6日(金)より、TOHOシネマズみゆき座他全国ロードショー



精神科医のバンクスはなかなか症状のよくならない患者エミリーに新薬を投与し始める。みるみる症状が回復するが、副作用として夢遊病に悩まされるようになる。ある日遂に、無意識状態のまま、エミリーが殺人を犯してしまう。果たして、裁かれるのは主治医バンクスか、患者エミリーか。バンクは一夜にして社会的地位を失い、家族も離れていってしまう。しかし、これはほんの始まりに過ぎなかった。新薬を薦めたジョイ、新薬を飲みたがる患者、被害者の母、それぞれの思惑が拮抗する中、バンクスは自らの名誉のため真相を究明していく。謎が謎を呼び、その先には想像し得ないさらなる陰謀が渦巻いていた……。



監督:スティーヴン・ソダーバーグ

脚本:スコット・Z・バーンズ

音楽:トーマス・ニューマン

出演:ジュード・ロウ、ルーニー・マーラ、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、チャニング・テイタム

2013年/アメリカ/106分/DCP/カラー

配給:プレシディオ

協力:松竹



公式サイト:http://www.side-effects.jp

公式Twitter:https://twitter.com/sideeffectjp



▼映画『サイド・エフェクト』予告編


[youtube:6x8IWk867PM]

愛は全てを変えることができる?雨宮まみさん、犬山紙子さん、首藤和香子さんが語る映画『わたしはロランス』

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左より首藤和香子さん、犬山紙子さん、雨宮まみさん



特徴的な色使いや構成力を発揮するビジュアル表現や音楽の使い方の秀逸さ、現在24歳の自らと同世代の若者を主人公に愛や家族について語るストーリーテリングの力などで評価を受ける映画作家・グザヴィエ・ドラン。各国の映画祭で絶賛された『わたしはロランス』が9月7日(土)より新宿シネマカリテで公開されるにあたり、今作に共鳴するライターの雨宮まみさん、イラストエッセイストの犬山紙子さん、ファッションエディター&ライターの首藤和香子さんという3人のクリエイターがこの映画の魅力について語り合った。













『わたしはロランス』のココがすごい!(1)



この映画は「恋愛そのもの」

妥協しない人の愛は実らない!?






恋愛の辛さを納得させられる物語





犬山:私はここまで徹底的にお互い好きなのに細かく長く、やっぱりダメだったというのをリアルに見せられるのが、辛く、でも非常に納得しました。お互い「愛してる」と言い合っていても、結局好きだけじゃだめなんだ、っていう気持ちが、自分の過去の恋愛とフラッシュバックして……これを観た後「あの映画のどこが印象的だったかな」と思い出したら、ふたりが幸せなところしか出てこないんです。自分も、長くドロドロと苦しい付き合い方をしたあと、いいところしか思い出せないのと一緒で、最初のまだお互いの感性が一致するところで喜べるシーンばかりが思い出されて、たぶんふたりもそうなんだろうなって。何回もダメになっては、やっぱり好きで、でもだめで、という繰り返し。



首藤:「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」これに尽きますよね。なぜふたりがこんなに惹かれ合ってるのかが、言葉とか条件で説明されているわけじゃないんですよね。最初のふたりのトークのノリで、すごく感性があうんだろうなというのは分かるけれど、それだけじゃ10年続かないし、「自分の子供よりも愛している」と言わせてしまうのは、きっと魂レベルで繋がっているから。言葉で説明できないところの恋愛感情。恋愛していると、自分の妄想や理想を投影して、思い通りの行動をしてくれないと傷ついたり、裏切られたと勝手に思ったりするじゃない?そういうところじゃなく、言葉で説明できないところの恋愛感情、説明不可能な感じで惹かれ合ってるのが切ないよね。こうだから好きだというのであれば、そこをなおす、といって歩み寄ったりできるけれど。だから余計重い。



犬山:あまりにも「恋愛そのもの」を見た、という感じでした。カップルがみんなこうなるというわけではないし、人それぞれですが「恋愛」の肝がドーンと描かれている。フレッドがカフェでキレて罵倒しちゃうシーンはすごく気持ちが分かりました。恋愛のなかで喧嘩をすると、自分が愛されていないことへの不安を覚える。だからロランスが「女になる」って言ったときも、フレッドはとまどうけれど、「彼が女に?」より、「私のことを愛していたのは嘘だったの」という気持ちが先に出るのはすごいリアルだと思った。




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映画『わたしはロランス』より





雨宮:でも、残酷な作品ではないですよね。



首藤:むしろ希望がありました。ラストシーンで、枯れ葉が気持よく飛ぶなか、憑きものが落ちたようにふたりが晴れ晴れとした顔で歩いていく。うまくいかなかった恋愛として描いていなかったのが好感度でした。






もし彼から「女として生きていく」と言われたら



犬山:自分がフレッドだったらロランスと付き合えるかな?



雨宮:「女として生きていく」と言われたら、手伝おうとするのはすごく分かる。相手の意志を尊重したいし、女装については自分の方が詳しいから、と思って力になろうとするけれど、だんだん自分のなかで矛盾が出てきて、「私は本当は女になってほしいわけじゃない!」と分裂するんだろうなって。



首藤:私だったら、自分の旦那さんが女になりたいといったら無理かな。お友達にはなるかもしれないけれど、男女としての関係は解消します。



雨宮:彼が恋愛の対象としてなにを選ぶかにもよりますよね。「女と付き合うのは違うと思ってた」と言われれば、それはもうしょうがないと思うけど、ロランスはそうじゃないから、お互いに悩むわけで。



首藤:「女になりたい」と言われたことよりも、嘘をつかれていたんだというのが、いやなんですよ。



犬山:しかも悪意のある嘘じゃないから、どうにもやり場のない……。



首藤:言わせてあげられなかった自分もダメというか。愛し合ってて、しかも「良い関係を築いている」と思っていた人が、私に言えなかった事実があったということが、自分を傷つけてしまう。「私がそれを言わせてあげられなかった……イケてない……」っていうね。



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映画『わたしはロランス』より



雨宮:フレッドは、告白されて腑に落ちる感じがあったのかもしれないですね。今まで感じていた些細なすれ違いみたいなものの理由はこれだったのか、と。でも、考えれば考えるほど、自分は恋愛の相手に男を求めているという事実から逃れられない。ロランスが女になりたいのと同じくらい、フレッドも女でいたいし、男と恋愛をしたいと思ってる。自分が求めているものと、相手が求めているもののどこに折り合いをつけるか。

でも、お互いに性別の問題を置いておけば「この人を愛している」ということは絶対の事実なんですよね。




犬山:ロランスのような場合、「女側がまずそれを認めてあげなきゃいけない」というそんな気持ちになるんですよね。「え、嫌だ」とかも絶対言えないし、自分が我慢をしていかなきゃいけない、けど折り合いがつかないという……。たとえば「私こういうときは男の恰好してほしいんだよね」とか「ここだったらむしろ女装して自分を解放して!」とか、お互い気持ちを詰めて、折り合いをつけようともできる。でも、ジェンダーの問題となると、そういうのですら相手を傷つける可能性だってあるし、相手の気持ちを中々察することが出来ない分意見が言いにくかったりする。で、ロランスはフレッドのそんな葛藤を自分なりに感じていて、「フレッドも言い出せないだろうし……」と思って、男の格好して、「僕のほうも譲歩するよ」という歩み寄りをする。



首藤:でもそれも悪あがきなんだよね。この映画は、ほんとうに「わたしはロランス」というタイトルの通り、自分以外のものになれないよ、というのを最初から言ってしまっている。歩み寄りとか、あなたが望むような格好をしたりとか、無理だから!っていう。自分は自分だから、というのをちゃんと描いている。



雨宮:それはフレッドもそうで、もともと普通だから普通に、常識的に生きたいからロランスを受け入れられないわけじゃない。フレッドは女として女の生をまっとうしたいと思っていて、歩み寄ろうとしてもできなかったんですよね。







「普通の恋愛」への憧れ







犬山:結局ふたりがこの後、付き合っていくことはムリなのかなあ。



首藤:すごく妥協のできる人もいるじゃない。例えば「旦那にときめきを求めていないし、結婚できたら私はそれ以外全部我慢できる」と妥協できる人もいると思うんです。でも、ふたりのような生き方しかできない人はダメだよね。



犬山:だからタイトルは「わたしはフレッド」でもいいんですよ。



首藤:「わたしは紙子」とか(笑)。みんなが当事者だということですよね。





雨宮:それから「恋愛さえなければ幸せに暮らしていける」という話でもありますよね。ファイブ・ローゼス(ローズ一家)みたいに、同居人としてだけならうまくいくし、恋愛感情抜きなら、ロランスとフレッドも仲良くやっていけると思う。世の中に「愛が全てを変えてくれる信仰」ってありますよね。恋愛がうまくいかなかった人に対して「それは愛が足りなかったからだ!」「それは本当の愛じゃない!」とか言ってくる人がいますけど、私はそれがすごく嫌なんです。「本当の愛だったの?」と聞かれて、自信をもって「本当の愛だった」と言える人って少ないと思う。そんなことを訊かれて、自分の非を思い浮かべない人なんていない。「愛があれば何でも乗り越えられる」なんて、そんなのは嘘だし、でもだからこそ難しい局面に立ち向かってでも愛そうとする姿勢が尊い。





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犬山さん(左)、雨宮さん(右)



首藤:自分のやりたいことをちゃんと分かっている人って、当たり前にいるようでなかなか少なくて、そういう人たちのほうが恋愛苦労してたりする気がする。犬山さんの著書「負け美女」じゃないけど、彼氏いなかったり別れちゃったり、恋愛の茨の道を歩んでいる。



犬山:自分に対して妥協しない人ですからね……。相手のことを全て受け入れるのが愛っていうのは違いますよね。愛も愛でいろんな形があるし。自分を愛した結果うまく行かないということも多々ありますしね。



首藤:自分に譲れないものがそんなにない夫婦のほうが、結婚生活がうまくいってたりね。いろんなところに自意識がある人は大変だと思う。仕事と結婚を両立するのが。



宣伝部:結婚する人(生活)と恋愛する人(トキメキ)は別に考えなくてはならない、と人に言われたことがあります。



首藤:恋愛と結婚別説!



雨宮:その人の結婚は……?



宣伝部:たぶんものすごく好きな人と結婚して、それで日々期待しては裏切られ、みたいなことの繰り返しだったみたいなんです。生活の中で少しずつ少しずつ「好き」が死んでいく。



首藤:でも彼女は期待通りに動いてくれる人だったら、そもそも恋愛できたのかな?



雨宮:たぶんできてなかったと思うよ~~~!



首藤:それはそれで絶対「ツマンネー男」とか思っちゃうんだよ!



犬山:ぜったい正しい結婚なんてないって以前、小島慶子さんがおっしゃってました。正解なんてないし、みんな間違ってるだろうし、みんな正しい。でもフレッドも「いわゆる普通の幸せ」にけっこう固執していましたよね。



首藤:そこはすごい分かる。大恋愛をしてボロボロになった人がその次の彼氏が王子様に見えちゃって「助けてくれてありがとう」みたいな感じで、結婚するってよくあるパターン。たいがい破綻しちゃうんだけどね。



雨宮:フレッドの選択にリアリティがありますよね。ロランスへの愛を貫き通すのではなくて、どこかでみんなに祝福されて普通の恋愛をしたい、なんで私だけこんなに苦労しなきゃいけなんだろう、普通の人と結婚する道もあるのに、と思ったときそっちを選んでしまうというのは分かる気がします。社会的に受け入れられる結婚をしたいという欲求は私にもあります。フレッドはそれを選ぶことができるけど、ロランスはできない。でもその結婚でフレッドが満たされるかというと……だめなんですよね。




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映画『わたしはロランス』より






首藤:フレッドの旦那さんが怒らないんだよね。奥さんがあんなことしても「分かったからもう帰って話そう」みたいに。あそこを修羅場に描かない。



犬山:あの旦那キモかった、妹の前でキスしてくるの。あんなことするから余計嫌われるんだよ~(笑)。気持ちは分かるけど、やり方間違ってるよ。



首藤:愛されている自信がないから不安なのよ。奥さんが離れていこうとしていることを感じていたんじゃないですか。



雨宮:すごくいい人なのは分かっているけど、どうしても心が動かないときの気持ち悪さ、居心地の悪さがにじみ出ている。



首藤:ときめかない人と結婚しちゃぜったいだめ!



犬山:「どうしても心が動かないときの気持ち悪さ」分かる(笑)。キスがドブの味!しかし、結婚する相手、どういう人がいいのかも人それぞれなんですよね。ときめく人と結婚したほうがいい人もいるし、そうじゃないほうが幸せな人もいる。





自由に生きることを選んでも逃れられない欲望




首藤:恋愛よりまず「自分がどういうものを幸せと思っているのか」「どういうものを求めているのか」ですよね。彼氏がほしいと言う前に「自分がどういう暮らしだったら気持いいか」その延長線上に恋愛がある。それを分かっていないと、誰と付き合っても難しい。



雨宮:「何がほしいか」と言われたときに、「ときめき!」「安定!」って、何かをはっきり答えられる人ってそんなにいないですよね。ときめきは欲しいけど毎日波瀾万丈なのはイヤだし、安定は欲しいけど何とも思わない男と暮らすのもイヤ。でもそこで「男」と答えたフレッドってすごく成熟していて、ロランスとの関係って、その質問に答えられる人同士の恋愛なんですよね。その上で、愛ゆえに、自分の欲しいものと違うものを受け入れようとする。



犬山:私も自分が何を求めているのか全然分かってない時は超迷走しました……。フラフラしてるから誰かが「結局お金持ってる人が一番」って言ったら「やっぱ金か」って思ったり、誰かが「ときめきがない結婚生活は辛い」って言ったら「やっぱ愛か」って思ったり。で、とことん見つめなおして「愛!」って自分の中で答えを出しただけに、好きっていうだけでは幸せになれない、というのが個人的にしんどかったんですよ。もちろんふたりの物語として考えたときには、成長をしているし、これからふたりはそれぞれ幸せになるんだろうと思うけれど、「こんなに愛し合っているのに」というもどかしさというか。



雨宮:理屈じゃないところで惹かれ合っているから、女になったロランスをどうしても理屈じゃないところで受け入れられないのがほんとうに辛い。彼自身はなにも変わっていないんだと思おうとしているんだけれど、その理屈で自分の感覚を説得できない。





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映画『わたしはロランス』より





首藤:お互いが、理屈じゃないところで惹かれあっている相手だと思えているのがまだ救われていますよね。だからこそお互いが一緒にいられないことが分かってしまうという。



雨宮:「自由」と「普通」の物語ですよね。そのふたつの言葉がすごい出てくる。世間にとっての普通と常に比較されるということと、自由に生きたい、という意志の戦い。フレッドは自由に生きたい人なんですよね。でもどうしても自分の欲望からは逃れられない、というのが象徴的でした。そこからは自由になれないんだなって。自分の欲望には捕われざるを得ないんだと。



首藤:このふたりは大人ですね。ブレないものを持ってるから、答えが出ちゃう。



雨宮:外的な要因に振り回されてダメになったのではなくて、思う通りにやってダメだったから。でも、私はこの作品がそんなに重いとか辛いという感じはなくて。ロランスは最初女になることにすごく迷うけれど、その後は純粋に愛の悩みだけになっていく。世界の偏見と戦うことよりも、フレッドとの関係の方が大きな問題になっていく。逆に言えば、愛さえあればいいんですよね。後半は作家になることで社会と折り合いをつけることができて、インタビュアーに対しても強気に振る舞いますよね。インタビュアーの偏見を指摘し、途中で和解していくのもすごく良い。ロランスはそういう会話ができるほどこなれている。



首藤:強くなっているんだね。




雨宮:不器用な辛い人、じゃなくて、どんどん何かを獲得しようと動いていくから、そんなに辛くない。もともと知恵のある人だというのもあって、その能力が女になっても変わらず彼女を輝かせてる。それよりはフレッドとロランスはどう決着をつけるのか、ということがすごく大変。やり切って決着がついたんだなと思うと、そこまで辛くないような気がしてるんですけど……。愛についての結論、なにか出したほうがいいのかな?



首藤・犬山:そんなの絶対出ないよ!(笑)



雨宮:「愛が全てを変えてくれたらいいのに」って言ってるってことは、変えられないっていうことなんだよね……。













『わたしはロランス』のココがすごい!(2)




美しいビジュアル表現と

自己主張としてのファッション






80年代の空気をシックに切り取る





首藤:オープニングの目線がカメラに来ているところ、それからモントリオールの街のロケーションの都会でも田舎でもない独特の感じなど、まず映像にやられました。馴染みの俳優さんが出ているわけでもないし、私好みのイケメンが出ているわけでもないので(笑)、169分大丈夫かなと思っていたんですけれど。ガス・ヴァン・サントが好きだったんですけれど、彼がポートランドの街で撮るような、ちょっと枯れた都会の雰囲気がきれいに出ていて。あまり最近そういう映画がなくて、「私若いころこういう感覚で映画を観てた」というのを思い出しました。



犬山:ティナ(首藤)さんの騒ぎ方がいつもと違う感じだった。イケメンって言ってない!って(笑)。






雨宮:予告編でも使われている服が降ってくるシーンがすごく印象的で。色使いとかアルモドバルみたいな感じかなと思っていたんですけれど、本編はもっと繊細な色使いで、写真的というか、ワンシーンごとにすごく絵になるカットがありました。ドラン監督はナン・ゴールディンの影響を受けているそうですが、空虚な綺麗さではなくて、生活感がある美しい映像を実現させていましたね。



首藤:巨匠の画作りですよね。撮ってるとき22歳でしょ。アンファン・テリブル!あまり年齢でジャッジするのはフェアじゃないけど、それにしても、89年生まれだったら、80年代の空気感を見てないでしょ。それを憧れや空想で、トゥーマッチにならないギリギリのところで撮っている。



犬山:ファッションがザ・80年代という感じではなくて、今の感じを混ぜている。パーティーのシーンもどことなくエイティーズの匂いがするけど、今っぽい。80年代を知らない世代が80年代の雰囲気を表現したらこうなるんだろうな。



雨宮:フレッドがパーティーで着るスパンコールのドレスもかわいい。フレッドって外見がトゥーマッチな感じだけど、それに合っていてよかったな。



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映画『わたしはロランス』より


生き様がファッションに出る





首藤:ふたりが逃避行するときに着ているパープルのコート、鮮やかだったね。いわゆる80年代リバイバルの蛍光色とかキッチュな感じは、ポップ・カルチャーとしてはアリなんだけれど、もうちょっとシックな人たちだっていた、というモヤモヤがあった。でもドラン監督は切り口が大人っぽい。




雨宮:ロランスはすごく美意識が高い人ですよね。ロランスが学校で女デビューするときのスーツも素敵。




首藤:ちょっと不格好なんだけどね。ロランスのお母さんもシックだし、出てくる女の人のファッションがみんなすてき。はすっぱなフレッドの妹が「寒い」と言いながらペラペラのライダース着て煙草吸っているのとか、生き様ってファッションに出るな、って。人生はそんなに簡単にはいかないけど、洋服や髪型で最低限、意思を示すことってできるじゃない。トレンドの服を着ているわけではないけれど、ファッション好きな人はこの映画、ハマると思う。インテリアのセンスもよかった。



犬山:あのショップのなかだと普通に見えるけど、ロランスの部屋に置くとかわいくて、センスある人ってそうなんだよなって。ふたりの関係を明るくするためにランプを買うみたいな、ああいう発想は私にはないな。



雨宮:「光あれ」とぼそっと呟くところも、フレッドが一緒にいたら笑ってくれるところなのに、いないから仕方なくひとりごとをつぶやいているように見える。こういうときに理解して返してくれる相手が彼女だったんだと感じるシーンでした。





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映画『わたしはロランス』より










『わたしはロランス』のココがすごい!(3)



ジェンダーというモチーフを普遍的に描く






自分らしく生きたいという戦い



雨宮:ロランスは、自分が女になることについては悩みに悩んだ末の結論だから、告白したあとの自分についてはそれほど迷いがないんですよね。ただ、フレッドがロランスに「男」を求めているという一点のみで悩んでいる。一方、フレッドの葛藤は、自分がどうすべきか、彼を愛する人間としてどうするのが正しいのか、「正しさ」が分かっているのに、体がついていかないという葛藤。何度も受け入れようとするんだけれど、それがどうしてもできない。でも、心の片割れとしてロランスを求めている。性転換というモチーフを描くことで、私たちは相手のいったい何を愛しているのか、ということを浮き彫りにしていく面もありますね。「性別が変わったら愛せない」でも、「性別が変わってもあなたはあなただから好き」でもない、その間にあるものの話。




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雨宮さん(左)、首藤さん(右)




首藤:ロランスの恋愛対象は女性ですが、わたしたちは女装していたら男と恋愛するんだろうと決めつけてしまう。けれどスカートをはいていても女の人と付きあう人も普通にいる。周りにもそういう友達が多いから分かった気になっていたけれど、まだ自分もセクシャル・マイノリティの人たちをステレオタイプに見てしまうところがあるんだ、と思いました。



犬山:ロランスは自分が女として生きる覚悟もあったと思うけれど、フレッドと一緒で、もし自分がこのまま男だったら、普通の幸せが得られただろうか、と思っている。



雨宮:本当は女性として生きたいロランスが、男の姿で授業をしながら、爪にクリップを着けるシーンは、ロランスの苛立ち、女性の姿でいたいというストレスが、すごく美しい形で表現されていましたね。



首藤:ロランスは「自分が自分らしく生きたい、というだけで戦わなければいけないんだよ」と教えてくれてますよね。男とか女とか関係なく、なにかをしたいと思ったときに、いろんなものが邪魔をしてくるけど、ひとつひとつ自分の意思で戦っていかなければだめだ、というのを22歳の監督に言われているけど、ほんとうにその通り。











『わたしはロランス』のココがすごい!(4)




「普通」とは?「親子」とは?ドラン監督の主張








教養は孤独から救ってくれる



雨宮:何かを諦めてリタイアしているカップルや、無責任な言葉を投げてくるカフェのおばさんなど、自分の常識を疑わず生きてきた人のことは、心のどこかが麻痺しているように冷たく描かれていましたね。柔軟に変わっていく可能性がある人は表情が生き生きしている。そこをはっきりと分けて描いているところに監督の主張を感じました。残酷なくらい、魅力的な人間とそうでない人間をはっきりと分けて描いている。「普通」という名のもとに、鈍感で無神経で、愛について真剣でない人はこんな顔になるんだ、と言わんばかり。
私は、ロランスが文学を拠り所にしているところが好きですね。教師を辞めるときも「この人を見よ」と黒板に書いて誇らしく立ち去る。誰も支えてくれないときも、文学が彼を支えてくれている。教養は決して彼を裏切らない。





犬山:私たちもそうですよね。暗黒の中学・高校時代は文学が助けてくれました。そして、今の仕事も、知らない誰かにいろんな事言われたり、誤解を生んだり、影響を与えたり、色んな特殊な面がある。正直、知らない人に「死ね」だなんて言われずに済むならそれにこしたことないけど、私にはこういう生き方しか今はできないんですよ……。だから、ロランスがお母さんと生き生き話したり、インタビューで上手くしゃべってるのを見ると嬉しくなる。



雨宮:文学は、仲間がいない人を救いますよね。



首藤:世界共通なんですね。ドラン監督も若い頃から自分がゲイだという自意識があったから、いろんな思いをしてきたはず。音楽もザ・キュアーとかいろんなバンドの曲を使っていて、こうしたカルチャーに助けられてきたんだろうな、ということを感じました。映像とのマッチングが良かったですね。


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映画『わたしはロランス』より



雨宮:ドラン監督はデビュー作『マイ・マザー』では母と子をテーマにしているそうですが、今作でのロランスと母親との関係の描き方も良かった。母は夫との関係がいちばん大事な人なんですが、ロランスに「お母さんは昔から、母親じゃなくて女だった」と言われたときに、「あなただって息子じゃなかったじゃない。娘だと思ってたけど」と返すシーンは、お互いに一般的な理想の親子ではなかったけど、対等な人間としてお互いを受け入れていこうという表現ですよね。





首藤: 私も結婚して子供もいるから、母親を完璧な女性として描いていないところにグッときました。フレッドの「自分の子供よりも愛している」という言葉も、「それ絶対言っちゃダメ~!」ってセリフじゃない?それを言っちゃったり、ロランスの母親も女でいたいから子供と父親との間に入ることができない。でも世間では母親って、子供を生んだ瞬間に「あなたお母さんなんだから」とか「子供のために」って期待されがちなんだけれど、そんなのちゃんとできる人なんていないよっていうことを暗に言ってくれている。擬似家族みたいなファイブ・ローゼス(ローズ一家)も象徴的ですよね。例えばまみさんの言う「こじらせ女子」が、東京に出てきて話せる人がいないときに、ここに行けば自分と同じような人が集まっている、とか自分が好きなバンドのライヴに行くと、そこの会場の雰囲気に救われることってあるじゃないですか。血の繋がりとか愛し合っている恋人同士じゃなくても居場所って作れるんだよ、というアンサーがあって。



犬山:ファイブ・ローゼス(ローズ一家)の描き方が、やたらと多幸感があって、みんなケラッケラッ笑っていたじゃないですか。「私たち幸せよ」ってちょっとわざとらしい。



首藤:だから劇場を住まいにしているんじゃない?シアトリカルに演じている。母親でもないのに「私の息子よ」ってそのロールを演じている。



犬山:みんなの逃げ場だし、美しい場所だけどそこに孤独があるのかな。あそこはちょっと切なくなりました。



(構成:駒井憲嗣)











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雨宮まみ


ライター。性や恋愛、自意識などをテーマに数多くの媒体で執筆中。主な著書に『女子をこじらせて』、『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)など。

https://twitter.com/mamiamamiya








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犬山紙子


イラストエッセイスト。美人なのになぜか恋愛が上手くいかない女性たちのエピソードを綴ったイラストエッセイ『負け美女』(マガジンハウス)で作家デビュー、女性観察の名手として注目を浴びる。

https://twitter.com/inuningen








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首藤和香子


ファッションエディター&ライター。ファッション専門のフリーライターとして学生時
代から活動を開始。出版社勤務、フリーランスを経て編集プロダクション「TANAKAKIKAKU」を設立、代表取締役を務める。

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映画『わたしはロランス』

2013年9月7日(土)、新宿シネマカリテほか全国順次公開



モントリオール在住の小説家で、国語教師のロランスは、美しく情熱的な女性フレッドと恋をしていた。30歳の誕生日、ロランスはフレッドにある秘密を打ち明ける。「僕は女になりたい。この体は間違えて生まれてきてしまったんだ」。それを聞いたフレッドはロランスを激しく非難する。2人がこれまでに築いてきたもの、フレッドが愛したものが否定されたように思えたのだ。しかし、ロランスを失うことを恐れたフレッドは、ロランスの最大の理解者、支持者として、一緒に生きていくことを決意する。




監督:グザヴィエ・ドラン

出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ

2012年/168分/カナダ=フランス/1.33:1/カラー/原題:Laurence Anyways

配給・宣伝:アップリンク



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/laurence/

公式twitter:https://twitter.com/Laurence_JP

公式facebook:https://www.facebook.com/laurenceanywaysJP





▼『わたしはロランス』予告編


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ロマンチックで、恐ろしいほどリアルな「愛」の描き方。『わたしはロランス』グザヴィエ・ドラン監督

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『わたしはロランス』のグザヴィエ・ドラン監督 ©Alexandre de Brabant


9月7日まで開かれている第70回ベネチア国際映画祭に最新作『Tom à la ferme』を出品、それ以外にもこれまでに発表した3作全てをカンヌ国際映画祭に送り込んだ、世界の映画祭の常連・グザヴィエ・ドラン監督。9月7日(土)より新宿シネマカリテで公開される『わたしはロランス』は、メルヴィル・プポー演じる「女になりたい」とパートナーに打ち明けた男性教師ロランスと、彼の恋人フレッドとの10年におよぶラブストーリーだ。フレッドを演じたスザンヌ・クレマンがカンヌ映画祭ある視点部門主演女優賞を受賞するなど世界的評価を獲得した今作は、監督・脚本・美術・衣装・編集・音楽をひとりでこなし、アンファン・テリブルの形容を欲しいままにするドラン監督の才気がみなぎっている。





僕の“全”作品は、自伝的で個人的だ




── 『わたしはロランス』は、モントリオールに住む男性教師が30歳になって、恋人に「自分は間違った体に生まれてきてしまった」と、女性になりたいことを告白するところからスタートします。この設定はどのようにして生まれたのでしょうか?


               

監督1作目の『マイ・マザー』の撮影のときのことだった。田舎のロケ地で最初の2日の撮影を終えて、モントリオールに戻っている途中、技術スタッフの何人かと車で移動しているとき、とりとめもない話をしているなかで、ひとりの女性スタッフが、ある過去の恋愛体験について打ち明け始めたんだ。彼女によると、ある晩、恋人が「オレは女になりたい」と宣言したんだそうだ。想像するに、その瞬間、彼女が受けた衝撃は、カップルや個人によって多少の違いはあるにしても、誰にとってもものすごくショックなことに違いない。僕らに打ち明ける彼女の声、動揺、誠実さに接しながら、僕は想像した。もし、友だち、親、あるいは伴侶から突然、面と向かって、晴天の霹靂をカミングアウトされ、これまで一緒に過ごした時間の全てをご破算にしないにしても、クエスチョン・マークをつけられることになったらどんな気分になるだろう、と。



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映画『わたしはロランス』より



── そのスタッフの話を聞いた後、どれくらいからシナリオを書き始めたのですか?




その晩、自宅に戻ってすぐに30ページを書きなぐった。その時はもう『Laurence Anyways』(原題)というタイトルも、ラストもわかっていた。大筋はあっというまに描けたが、シナリオ自体は、『マイ・マザー』と『胸騒ぎの恋人』という2本の映画の撮影のあいだに時間をかけて書いた。時には夜中に、とにかく時間のあるときに書き進めていったんだ。




── 1989年生まれのあなたが、子ども時代の80年代から90年代を舞台にしたのはなぜですか?




ジェンダーにまつわるストーリーを語るのに、20世紀最後の10年には理想的な背景としての特徴が全て含まれているように思えたんだ。ごく自然なことだだったよ。当時、ゲイ・コミュニティーに対する偏見も薄れ始め、エイズにまつわる排他的先入観もようやくおさまり始めていた。鉄のシャッターが上がったんだ。衝撃を経て社会は自由を纏い、何もかもが許される時代となった。



ロランス・アリアがこの再生の高揚感に乗じてサバイバルを思いついたのは理にかなったことだけれど、当時、トランスセクシュアリティはおそらく、最後のタブーだったように思う。だからロランスは、崩れる寸前でなかなか崩れない壁にぶつかってしまう。



今でもまだトランスセクシュアルの教師は、子供たちが反体制側によろめくのを恐れる両親らの不安と憤懣をかきたてるだろう。そう、どんなに進歩的な人でさえ、町でトランスセクシュアルを見破れば、内心、得意げな気分になり、LGBコミュニティーも第三の性には冷たい。





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映画『わたしはロランス』より




僕から見れば、トランスセクシュアリティは、“差異”を表す究極の表現であり、1990年代とは、12年の時の流れのなかで、社会は本当の意味でどれほど変わったのかを考察するために僕に与えられた最後の絶好の機会を提示していたんだ。この作品は、この論議を提案しつつ、まだその表層をかすめているにすぎないよ。




── 俳優として出演もしている『マイ・マザー』『胸騒ぎの恋人』、そしてこの『わたしはロランス』は自伝的作品ですか?



イエスであってノーだ。ノーというのはまず僕はトランスセクシュアルではないし、問題はすでに解決済み。イエスというのは、これまでの僕の“全”作品は、自伝的で個人的だからだ。第一、これからだってそうなる以外ないんじゃないかと思う。どうやら僕は自作の中で、自分の気持ちを明かさずにはいられない性質なんだ。それに、100%虚構だなんていう映画が実際に存在するとは思えないね。




── 監督、脚本だけでなく、衣装のコンセプト、編集も担当されていますね。あなたの映画監督としてのアプローチは、ますますこうした何でも自分でやるという自足自給的な多重兼務になっていくのでしょうか。




僕の作品との関わり方は確かに多重兼務だ。でもそれってネガティブなこと?ここが自分の限界だって思うところでストップしようとはしてるよ。映画は第七芸術(注:映画を「空間芸術」[建築、絵画、彫刻]と、「時間の芸術」[音楽、詩、舞踊]を統合した芸術とする考え)なんだ……そこではファッションは軽視され、このグループの大いなる不在者だけどね。要するに、僕は各パートに関心を持つべきだと思っている。それでようやく全てが理解できる。今はまずは2つ3つマスターできるよう少しずつ学んでいるし、それ以外のパートもすすんで自分のアプローチにとりこもうとしている。僕が直接タッチしなくてもね。とにかく、僕は最も金のかかる芸術を選んだ。だから構想自体は1人で考えても、制作は集団作業というのは当然だ。







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映画『わたしはロランス』より





── でも、そうした考えはやや内向きな傾向では、という意見に対してはどのように答えますか。また、監督に専念しよう、ということは思いませんか?



ベルギーでの『胸騒ぎの恋人』の上映会の後、客席の女性に言われたんだけど、僕があまりに”何もかも”を担当することは、作品をダメにすることにつながるし、他の人達の才能を活用できないばかりか、他の人から仕事を奪っていると言うんだ。彼女は、この手の個人主義に心底憤慨していたね。そこで僕は答えたよ「だったら他の人達も自分の映画を作ればいいんじゃない。それに僕の映画においては、自分に興味のあるパートがあって、かつその分野で才能を発揮する自信があり、少なくとも僕ならではの何かを提供できるのなら、それらのパート全てを担当するのは僕の勝手だ」とね。




衣装と編集はそれぞれ性質の異なるパートだけど、どちらも自分で担当したいと思う、両方とも熱中するほど興味があるからだ。画家が絵を描くとき、他人の手を借りないよね。彼のそばには配色専門家も、テクスチャーのエキスパートも、技術コンサルタントも、絵筆の管理人も、パレットナイフを拭くスタッフもいない。映画は、たしかに制作過程で他のアーティストの介入を必要とする。とはいっても、イデオロギー的には、出来上がった作品は一個人の、ただひとりのクリエイターの映画であり続けるんだ。




音楽は登場人物の人生に寄り添う存在




── これまでの作品でも音楽のこだわりを感じられましたが、『わたしはロランス』ではヴィサージの「Fade To Grey」やデペッシュ・モードの「Enjoy The Silence」といったエレクトロ・ポップや、ザ・キュアーの「The Funeral Party」といったニューウェイヴなど、80年代から90年代にかけての楽曲が印象的に使われています。あなたの映画にとって音楽の役割とはどのようなものですか。



本作のような大河小説的作品では、音楽が単なるオプションということはありえないし、ましてや脇役でないのは確かだよ。

美術、衣装、セリフ、ヘアスタイル、小道具などなど、俳優に直接関係してくるものはすべて偶発的で、正直なところ、演技次第で急変する。僕からみて俳優に説得力があれば、全ては明確になる。ウソがあれば、全て雲散霧消してしまう。でも音楽に限れば、音楽はフィジカルなものではないし、撮影中に浮上することもなければ、誰にも服従しない。どんなプレッシャーにも状況にも動じないんだ。僕の考えでは、音楽は、自分のパーソナルな音楽の趣味をシェアしたがるアーティストの気まぐれであってはならない。ストーリーに10年以上の時の経過がある場合には時代や場所を示す目印として歌が必要な時もある。でも、そういった役割だけでなく、歌は僕が創造した登場人物の人生に寄り添う存在なんだ。僕の個人的な好みとは関係ない。音楽は、登場人物たちに自分が何者かを思い出させ、彼らが愛した人々を喚起させる。音楽は、忘れられた人々を忘却から呼び戻し、悲しみを和らげ、罪のない嘘、打ち捨てられた野望の数々を思い起こさせるんだ。




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映画『わたしはロランス』より



── あなたの音楽の使い方は非常に感情に訴えかけるものがあります。




彼らの人生が進化する中で、音楽は中身を変えて常に存在する恒常変数だ。それは僕らにとっても同じことだよ。

音楽は、それぞれの条件や状況の中で、初対面の他人の顔でやってくることもあれば、何となく自分たちによく似た雰囲気をまとって現れることもある。音楽には、僕ら個人の感情に働きかける力がある。音楽の使命としてメッセージを僕らに理解させるためだ。音楽は、監督や俳優、カメラマンもそのインパクトを自由に操ることのできない唯一の要素なんだ。音楽はシナリオの段階から、映画館まで常についてまわる。映画館ではそれぞれの観客が音楽にまつわる個人的な想い出を、映画のために無意識に活用する。会ったこともない人物が作った映画が突然、まるで友人のようにいろんなことを観客に語りかける。これほど満ち足りたことはないよ。秘密のことがら、子供時代のこと、断念した夢、その歌を耳にしていた瞬間のこと。「あの時、町を歩いていた」「僕の自己主張の時代だった」「信号が赤に変わる前に慌てて走っていた」「母親のお葬式の日だった」「秋に始まり秋に終わった短い恋に涙していた」……歌はそんなことを思い出させてくれるんだ。

音楽は映画の魂と言われる。その理由は明らかだ。音楽は観客との究極の対話なのだから。




クリムトそして『タイタニック』を参考にした




── 音楽の使い方以外にも、スローモーションやクローズアップの使い方や、シンメトリーな構図、赤や緑が特徴的な色彩感覚など、あなたが様々なアートから影響を受けていることを感じられます。実際にはどんなリサーチを行ないましたか?




準備のために、MoMAのブティックや、ニューヨーク、モントリオールの書店で、絵画や写真の雑誌、アートブック、写真集を何十冊も買った。衣装のリサーチのためには、AmazonやEbayで、関連資料を注文し、ファッション誌を取り寄せた。影響を受けた写真家の名前をあげるとしたらまずはナン・ゴールディン、あと名前は思い出せない人たちが山ほど。構図に関してはマティス、タマラ・ド・レンピッカ、シャガール、ピカソ、モネ、ボッシュ、スーラ、モンドリアン。本作の色彩コード、ブラウン時代・黄金時代・モーヴ時代といったストーリーの時代ごとの色の統一性に関してはクリムトを参考にした。



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映画『わたしはロランス』より





── 他の映画作品からの影響は?




実は『欲望という名の電車』のマーロン・ブランドに、一瞬だけど非常に厳密な形でオマージュを捧げている。そしてクローズアップの多用、これはどちらかというとジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』的な使い方、つまり、ほとんど奥行きのない画面、カメラ目線、監視されている感覚、極端なクローズアップといったところに影響されている。ストーリー展開のリズム、野心という点でめざしたのはジェームズ・キャメロンの『タイタニック』。



いずれにしても……脚本執筆中に僕が読むもの、目にするもの、聞くもの全てから触発されるのはよくあること。たとえ自分の趣味や好みじゃなくてもね。それってごく当たり前のことだよね。普通なら、美しいもの、感動的なもの、出来のよいものに触れれば、自然に映像や言葉が湧き出てくるはず。それについて僕はコンプレックスを全く感じてない。というのも、僕がインスピレーションを受けるものは、僕を感動させるものであって、僕に影響を及ぼすものじゃないってことがわかってるからね。



── ポール・シュレーダー監督はあなたの『胸騒ぎの恋人』を「シーンごとに手法を変え、変化し続ける、新しい映画のスタイル」と評しています。




まず何かに感動する。その何かに影響を受けて、僕らは僕らなりの表現をめざす。その過程で、僕ら作り手の世界観、ものの見方、言語、世代性、価値観、精神的な傷、個人的な幻想などのフィルターがかけられる。そして形を変えて表現され、結果として生じるものは大抵の場合、正反対のもので、最初の発想源を思い起こせないのが常だ。想像力による伝言ゲームだね。



いずれにしても、映画においては全てはすでにやりつくされている。シネアストとしてはいくつか野望はあるけれども、自分がスタイルや学説を発明したなんて言う思い上がりで時間を無駄にするつもりは一切ないよ。1930年以来、全てはやりつくされたんだ。そんな主張をして何になる?僕はもう決めたんだ、僕の仕事は、物語を語ること、うまく語ること、そして、その物語に値する、ふさわしい演出をすること。それ以外は、発明しようが真似しようが、偶然の産物だし、それ自体、アイデアをみつけることほど簡単なものはないってことを証明しているよね。




(オフィシャル・インタビューより)










グザヴィエ・ドラン プロフィール



1989年、カナダ、モントリオール生まれ。6才で子役としてデビューの後、2008年、自身の自伝的な短編小説を映画化した処女作『マイ・マザー』の制作に乗り出す。母との関係に葛藤する少年の姿を描いた本作は、2009年カンヌ映画祭「監督週間」部門への出品を皮切りに、数々の賞を受賞。フランス映画界のアカデミー、セザール賞外国映画部門にもノミネートされるなど、高く評価された。同年秋の監督第2作『胸騒ぎの恋人』では、監督、脚本のみならず、プロデューサー、出演、編集、その他、衣装部門とアートディレクションの監修も務めるなど、多才ぶりを発揮。2010年カンヌ映画祭「ある視点」部門に出品された。2012年、23歳にして本作『わたしはロランス』が再びカンヌの「ある視点」部門で上映されるなど、その気鋭ぶりが話題を集める。最新作は劇作家ミシェル・マルクブザール原作の『Tom à la ferme』。












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■AndAとのコラボアイテム発売、POP UP STOREオープン!



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映画『わたしはロランス』と、ファッション・デザイン・アート・音楽などのジャンルをクロスし、グローバルな視点で刺激ある新しいスタイルやカルチャーを発信するコンセプトショップAndAとのコラボアイテムが発売、新宿フラッグス店では『わたしはロランス』のPOPUP STOREがオープン!

今回販売されるアイテムは4種で『わたしはロランス』のファッショナブルでエモーショナルな部分がフィーチャーされたアイテムとなっている。



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●ブレスレット(価格:各¥1,680/全7色)

●トートバッグ(価格:¥3,990)












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映画『わたしはロランス』

2013年9月7日(土)、新宿シネマカリテほか全国順次公開



モントリオール在住の小説家で、国語教師のロランスは、美しく情熱的な女性フレッドと恋をしていた。30歳の誕生日、ロランスはフレッドにある秘密を打ち明ける。「僕は女になりたい。この体は間違えて生まれてきてしまったんだ」。それを聞いたフレッドはロランスを激しく非難する。2人がこれまでに築いてきたもの、フレッドが愛したものが否定されたように思えたのだ。しかし、ロランスを失うことを恐れたフレッドは、ロランスの最大の理解者、支持者として、一緒に生きていくことを決意する。




監督:グザヴィエ・ドラン

出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ

2012年/168分/カナダ=フランス/1.33:1/カラー/原題:Laurence Anyways

配給・宣伝:アップリンク



公式サイト:http://www.uplink.co.jp/laurence/

公式twitter:https://twitter.com/Laurence_JP

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▼『わたしはロランス』予告編


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ペドロ・コスタ監督、世界が抱えている問題を解決する手立てを考えるために今革命を語る

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映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』のペドロ・コスタ監督



アキ・カウリスマキ、ビクトル・エリセ、ペドロ・コスタ、マノエル・ド・オリヴェイラという巨匠監督たちが「ポルトガル国家発祥の地、ギマランイスでどんな物語を語るか」というテーマで制作された『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』が9月14日(土)よりロードショー公開される。今作は昨年の12月、第13回東京フィルメックスで特別招待作品として上映、ペドロ・コスタ監督も来日した。コスタ監督は『コロッサル・ユース』など彼の作品に登場するキャラクター、ヴェントゥーラを迎え、1974年のカーネーション革命のクーデターに参加したのち精神病院に収容された男が、兵士そしてその亡霊と病院のエレベーターのなかで語り合う、というシュールな会話劇を構築している。古い都市がテーマでありながら、いわゆる「観光地映画」とははるか離れた地点に着地した今作について話を聞いた。




ゴダール監督も参加予定だった



── どのような経緯でこのプロジェクトが実現したのですか?




プロデューサーから「ギマランイス地区という古い都市で撮って欲しい」とオファーがありました。最初に声をかけられたとき、ゴダールも加わった5人の予定だったのです。しかし、ゴダールは「3Dで撮りたい」という意見で、2Dと3Dは共存できないため、4人で制作することになりました。私はお金も欲しかったし、仕事も欲しかった(笑)。でも私は結局、ギマランイスをテーマに「いかにギマランイスで撮らないか」ということにこだわりました。



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映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』第2話 ペドロ・コスタ監督・脚本
『スウィート・エクソシスト』より



── 『スウィート・エクソシスト』は冒頭に「1974年4月25日早朝」と説明が出てきます。カーネーション革命(1974年にポルトガルで起こった軍事クーデター。独裁体制をほぼ無血に終わらせ、カーネーションが革命のシンボルとなった)の当日になっていますが、あなたがいまこの現代で〈革命〉を題材にすることにとても興味があります。この設定は、依頼があって考えたものだったのでしょうか?



常々、あの時期について映画化したいと思っていました。特にヴェントゥーラとともに。彼と私は5歳しか歳が離れておらず、あのカーネーション革命をともに経験しているのです。しかし、非常に違う感じ方をしました。私は、通りで赤い旗を手に持ち熱狂していましたが、その一方でベントゥーラは仕事の契約を打ち切られるんじゃないか、そして移民でしたからアフリカに送還されるのではないかと恐れていました。異なる状況に置かれて、革命を体験したのです。



ですから、この企画はすごく面白いと思いました。この歴史的瞬間をふたたび考えること、自分の過去に再訪し、ベントゥーラの過去にも再訪し、政治やホラー、感情、歴史、といったことをミックスできるのではないかと思ったのです。そして世界が抱えている問題を解決する手立てを考えたかった。



今までの映画では、物語は家や通りといった場所で語られてきましたが、この作品には家も土地も、セットもありませんでした。この作品に登場するエレベーターは、まるで小さな舞台のような空間を担っている。とても小さな、がらんどうのスタジオのなかのような感じです。予算もなく、衣装部もなければ、セットもない。ですから、ベントゥーラはパジャマを着ているのです(笑)。非常に苦労した現場でした。我々に残っているのは、記憶だけなのです。







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映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』第2話 ペドロ・コスタ監督・脚本
『スウィート・エクソシスト』より



ベントゥーラが持つユーモアを生かす




── ベントゥーラが登場しているという共通点はあるものの、これまでのリアルを突き詰めた作品よりもより幻想的な印象があります。これは監督にとってはチャレンジでしたか?それとも自然なことでしたか?



自分では分析できませんが、映像におけるホラー的な恐怖の様相というのは以前から好きで、40年代から50年代にドイツの監督たちがハリウッドで作った、心理的で奇妙な作品の数々が好きでした。ですから今回はそうした雰囲気でなにか作れないかと思ったのです。



登場する兵士の彫像は、そうした第二次世界大戦が舞台の映画や、あるいは日本映画に出てくる幽霊のような系譜にある存在だと思います。死にたえた小さな島のような、今までの戦の全てで失われた兵士たちを象徴するキャラクターなのです。確かにホラー・ファンタジーを作りたかった、ということはあります。お金もなかったし、衣装もセットもなかったですけどね(笑)。




── 銅像とヴェントゥーラのやりとり、それからヴェントゥーラと聞こえてくる声とのやりとりにはちょっとしたユーモアも感じます。



ただ鬱屈したムードだけの映画には感じてほしくないんです。実は、ユーモアはベントゥーラによるものです。私がオーガナイズして、撮影も手がけています。でも、書かれていた台詞は、もともと彼が私に語ってくれた自分の古い物語でもあったのです。ですから、笑える描写になっているのは、彼にユーモアがあるからです。彼は物事についてとても強いユーモアのセンスを持っています。でも、よく考えてみたら、エレベーター内に幽霊と閉じ込められるなんて、変な状況じゃないですか。『パラノーマル・アクティビティ』だって言ってみればコメディですよね、私はああいう作品を観ると笑ってしまうんです。



── 最後に、英語のタイトル『スウィート・エクソシスト』は1974年リリースされたカーティス・メイフィールドのアルバムから?



もちろんです。実はボルトガル語では『若い命の嘆き』というより詩的なタイトルがついているのですが、この映画を作って、カーティスのアルバム・タイトルだけなく、歌詞を思いだしたのです。CDを持っているなら、もういちど歌詞を読んでみてください。カーティスは詩人として素晴らしいですよ。ちょっとシュールでコミカルで、サミュエル・ベケットに近いものがあります。



(2012年・第13回東京フィルメックス会場にて 取材:駒井憲嗣)











ペドロ・コスタ プロフィール


1959年、ポルトガル・リスボン生まれ。1987年に短編『Cartas a Julia』(87/短編/未)で監督デビューを果たす。1989年には『血』(1989年/未/上映会上映)で長編劇映画を初監督する。『骨』(1997年/未/上映会上映)、『ヴァンダの部屋』(00)では、リスボン郊外のスラム街に住むひとりの女性とその家族を撮影し、『ヴァンダの部屋』はロカルノ国際映画祭青年批評家賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭の山形市長賞などを受賞。2006年、『コロッサル・ユース』(2006年)ではカンヌ国際映画祭のコンペティションに選出された。昨年、本作の日本初上映となった第13回東京フィルメックスに来場し、観客と熱の入った質疑応答を行った。













映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』

9月14日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国ロードショー




ギマランイス歴史地区は“ポルトガル発祥の地”とされ、2001年に世界遺産に登録された。
「この街はどんな物語をかたるべきか?」という問いかけに応えたのは、世界に名だたる4人の巨匠たち。それぞれがそれぞれの個性を遺憾なく発揮し、ひと癖もふた癖もある作品で観客を唸らせる。そして、何よりも知的な発見と無上の映画体験をもたらすに違いない。



バーで働く孤独な男の姿を描く、アキ・カウリスマキ監督らしいペーソス溢れる喜劇『バーテンダー』。現代映画の最先端を行くペドロ・コスタ監督による、アフリカ移民と亡霊との異形な会話劇『スウィート・エクソシスト』。ビクトル・エリセ監督が贈る、欧州第2の繊維工場跡地で過去の声に耳を澄ます感動的な『割れたガラス』。そして、現役最高齢となる104歳のマノエル・ド・オリヴェイラ監督の観る者をあっと驚かす痛快な掌編『征服者、征服さる』。




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映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』第1話 アキ・カウリスマキ監督・脚本
『バーテンダー』より


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映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』第3話 ビクトル・エリセ監督・脚本
『割れたガラス』より


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映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』第4話 マノエル・ド・オリヴェイラ監督・脚本
『征服者、征服さる』より



監督・脚本:

アキ・カウリスマキ『ル・アーヴルの靴みがき』『街のあかり』

ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』『ヴァンダの部屋』

ビクトル・エリセ『エル・スール』『ミツバチのささやき』

マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』『夜顔』

2012年/ポルトガル/96分/ポルトガル語、英語/アメリカン・ビスタ

原題:Centro Historico

配給:ロングライド



公式サイト:http://www.guimaraes-movie.jp/

公式Twitter:https://twitter.com/guimaraes_movie

公式Facebook:https://www.facebook.com/pages/映画ポルトガルここに誕生すギマランイス歴史地区/160448920807196




▼映画『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』予告編


[youtube:Xwtpj_FWMiY]

吸血鬼という運命を背負って生きてきた少女の葛藤をリアリズムに根差し描く

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『ビザンチウム』のニール・ジョーダン監督



1994年にトム・クルーズ、ブラッド・ピットを迎えた『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』で現代に生きる吸血鬼の葛藤を描き、その後の多くの〈ヴァンパイアもの〉に影響を与えたニール・ジョーダン監督がふたたびこの題材に取り組んだ映画『ビザンチウム』が9月20日(金)より公開される。ひなびたイギリスの港町を舞台に、永遠の命を生き続ける少女エレノアと彼女を支える女性クララを主人公に、ふたりが生きた時代と彼女たちを取り巻く人間関係をスタイリッシュなビジュアルで描写しながら、ふたりの絆そして運命がどのように翻弄されるのかに迫っている。20年ぶりにヴァンパイア映画に挑んだジョーダン監督に聞いた。



伝統的なヴァンパイアとは異なる少女



── この作品はあなたが監督した『狼の血族』『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のプロデューサーであるスティーヴン・ウーリーが脚本家モイラ・バフィーニの舞台劇『A Vampire Stor』を読んで映画化を決め、あなたに監督を依頼したそうですね。あなたとスティーヴン・ウーリーによる3部作の完結編とも言える内容ですが、送られてきた脚本を読んで、どのように感じましたか?




スティーヴンが脚本を送ってきてくれたとき、僕は信じられなかった。本当にすばらしい、複雑で繊細な脚本だったからだ。それに奇妙なことに、僕が他の映画で取り組んできた多くの問題点がここに書かれていた。物語の中の物語、物語についての物語、そして絶え間なくシフトする語り手。舞台は陰気なリゾートタウンだ。ただ今回の舞台はアイルランドではなくイギリスだった。そしてヴァンパイア伝説の新たな幕が開く。僕は心を躍らせたよ。



2世紀にまたがる物語だというところが気に入った。それに年齢が非常に近い母と娘がいる。ふたりは姉妹のように見える。その関係が僕をこの映画に引きつけた理由だった。この映画のヴァンパイアは、固い絆で結ばれたふたりの女性だ。彼女たちは十字架を背負って生きてきた。彼女たちをリアルに描くことで、ヴァンパイアに再び命をもたらせるすばらしいチャンスだと思った。それはリアリズムに根差し、実際にありえることだと感じさせてくれる物語だったからだ。



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映画『ビザンチウム』より (C) Parallel Films (Byzantium) Limited / Number 9 Films (Byzantium) Limited 2012, All Rights Reserved



── ヴァンパイアを主題にした映画では、不老不死や吸血能力、弱点や身体能力など、その設定が重要なポイントだと思います。これまでも様々なアーティスティックな手法でヴァンパイアを描いてきましたが、今作におけるヴァンパイアが生きるシチュエーションとはどのようなものですか?



この映画の女性ヴァンパイアたちは日光の中も出歩けるし、鋭い牙を持っていない。当初モイラ・バフィーニは、彼女たちに長くて薄いナイフで人間を殺させていたが、僕は彼女たちがかぎ爪のように親指の爪を伸ばしているというアイデアを取り入れた。彼女たちはお腹が空くと、その爪を使って犠牲者の喉をかき切る。彼女たちは伝統的なヴァンパイアとは異なるクリーチャーなんだ。




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映画『ビザンチウム』より (C) Parallel Films (Byzantium) Limited / Number 9 Films (Byzantium) Limited 2012, All Rights Reserved




想像上のクリーチャーと世界を

リアルな状況の中で描く




── 舞台となる街は、海辺の寂れた保養地で、浜辺の桟橋や遊歩道、遊園地など印象的な風景がいたるところに現れてきます。ふたりが住むこの街についてはどんなムードを求めていましたか?



この映画には取り憑かれたような感じが漂う、衰退した港町の雰囲気がほしかった。イギリス南東部のマーゲート、ホーブ、ブライトンといったいくつかの町を見に行ったが、ヘイスティングズには何かに取り憑かれたような雰囲気があった。今でも海岸では漁業が行われているが、たくさんの閉鎖された宿泊施設がある。そこでこの映画のインテリアに使用したすばらしいホテルを見つけたんだ。そこには、もはや存在していない過去に取り憑かれたような感覚が漂っていた。




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映画『ビザンチウム』より (C) Parallel Films (Byzantium) Limited / Number 9 Films (Byzantium) Limited 2012, All Rights Reserved


── 現代での「ビザンチウム」というネオンサインが輝くゲストハウスや、19世紀に遡っての娼婦の館の猥雑な感じなど、200年という時間軸のなかでリアリティと耽美な印象を織り交ぜた映像世界が特徴的です。




『ビザンチウム』での衣装と美術の物理的な美しさは、現代文学というよりもまるでおとぎ話のようだ。撮影監督は、『ひかりのまち』(マイケル・ウィンターボトム監督)や『SHAME-シェイム-』のショーン・ボビットに依頼した。彼の撮影はシネマヴェリテ形式のドキュメンタリー調ではないが、手持ちカメラで光と動きを捉える撮影方法を用いている。非常に豊かで練り上げられた映像は、強くて明確なんだ。撮影は大いに楽しんだよ。僕は空想の産物が好きだ。想像上のクリーチャーとその世界。そういったすべてのものが目に見えないところでうごめくリアルな状況の中で物事を設定し、撮影を行うのが好きなんだ。この映画はそれを実践する大きなチャンスを与えてくれたんだ。




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映画『ビザンチウム』より (C) Parallel Films (Byzantium) Limited / Number 9 Films (Byzantium) Limited 2012, All Rights Reserved



── エレノア役には、『つぐない』『ラブリーボーン』『ハンナ』などに出演するシアーシャ・ローナンが選ばれています。またクララ役を、『アリス・クリードの失踪』『007/慰めの報酬』『アンコール!!』のジェマ・アータートンが務めています。可憐なイメージのエレノアと、妖艶なクララという対比が生きていますが、このふたりの女性の描き方については?



クララはものすごくセクシーで緊迫感があり、暴力的でありながら守る者でもある。一方、エレノアはずっと知的で、罪の意識に苛まれている。彼女たちはある意味、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のルイ(ブラッド・ピット)とレスタト(トム・クルーズ)に少し似ているんだ。




(公式インタビューより転載)














ニール・ジョーダン プロフィール


1950年、アイルランド生まれ。アイルランド国立大学ダブリン校で学び、脚本家として映画界でのキャリアをスタートさせる。『殺人天使』(82・未)で監督デビューを果たし、「赤頭巾ちゃん」の物語にホラー・テイストの新解釈を加えた『狼の血族』(84)、中年男とコールガールの切ない関係を見つめた『モナリザ』(86)で多くのファンを獲得。ストーリー上の衝撃的な“ひねり”が大反響を呼んだサスペンス映画『クライング・ゲーム』(92)は、その年の賞レースを沸かせ、アカデミー賞では6部門の候補になり脚本賞を受賞した。続いてアン・ライスの小説「夜明けのヴァンパイア」を映画化した『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(94)は世界中でヒットを記録。その後もヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作『マイケル・コリンズ』(96)、グレアム・グリーン原作の痛切な恋愛映画『ことの終わり』(99)、女の子の心を持つ青年の人生を紡ぎ上げた『プルートで朝食を』(05)などで賛辞を獲得している。最近では、2011~2012年のTVシリーズ「ボルジア家 愛と欲望の教皇一族」で監督、製作総指揮、企画を兼任した。













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映画『ビザンチウム』より (C) Parallel Films (Byzantium) Limited / Number 9 Films (Byzantium) Limited 2012, All Rights Reserved



映画『ビザンチウム』

2013年9月20日(金)、TOHOシネマズ 六本木ヒルズ他全国ロードショー



海辺の寂れた保養地にたたずむゲストハウス“ビザンチウム”にふらりと身を寄せた16歳の少女エレノアは、神秘的なまでに謎めいた美しさと孤独の影をまとっていた。8つ年上のクララに連れられ、見知らぬ街から街へと移り住んできた彼女は、決して他言できない秘密を抱えながら永遠の時を生き続けている。そう、エレノアは不老不死の血を吸う魔物、ヴァンパイアなのだ。その呪われた運命を受け入れたはずの彼女が、難病に冒されて余命幾ばくもない若者フランクと恋に落ちた。それはたったひとりの肉親であるクララと交わした血の掟に背く行為。やがてエレノアとクララの固い絆が揺らめくなか、遠い過去からの追跡者の魔手がふたりに迫っていた……。



出演:シアーシャ・ローナン、ジェマ・アータートン、サム・ライリー、ジョニー・リー・ミラー、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ

監督:ニール・ジョーダン

脚本:モイラ・バフィーニ

配給:ブロードメディア・スタジオ

(C) Parallel Films (Byzantium) Limited / Number 9 Films (Byzantium) Limited 2012, All Rights Reserved



公式サイト:http://www.byzantium.jp/

公式Twitter:https://twitter.com/byzantium_movie

公式Facebook:https://www.facebook.com/pages/映画ビザンチウム/153041251554205



▼映画『ビザンチウム』予告編


[youtube:DS3oQ1koUCw]

うつ病当事者の知られなかった日常を淡々と描いた貴重な記録『マイク・ミルズのうつの話』

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『マイク・ミルズのうつの話』のマイク・ミルズ監督 ©Sebastian Mayer


『サムサッカー』『人生はビギナーズ』のマイク・ミルズ監督が「うつ」をテーマに日本で撮影したドキュメンタリー『マイク・ミルズのうつの話』が10月19日(土)より渋谷アップリンクで公開。うつとともに生きる普通の人々の日常とともに“心の風邪”といううつ病啓発のキャッチコピーに着目したミルズ監督の視点について、そして、うつのために使われる薬の危険性について、杏林大学保健学部教授で精神科医の田島治氏が解説する。


なお今作公開にあたり、マイク・ミルズ監督がスカイプ出演する先行上映イベントが10月5日(土)原宿VACANTで開催される。作品プロデューサーである保田卓夫氏も登壇し、制作の経緯やエピソードなどを聞くことのできる貴重な機会となる。





現代日本のうつ病患者の縮図を映し出すドキュメンタリー

田島治 杏林大学保健学部教授(精神科医)



誰もがかかり、しかも治るはずの「心の風邪」といううつ病啓発のキャッチコピーとは裏腹に、新規抗うつ薬であるSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)やSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)が広く使われるようになった今、10年、20年と回復せず、普通の生活が送れない人が増えている。専門家はなかなか治らないのは、うつ病には様々なタイプがあり、もともと良くなったり悪くなったりを繰り返し、生涯付き合っていく必要がある病気だと主張する。うつは心の風邪ではなく、時には命にもかかわる心の肺炎なのだという。それに対して、科学的根拠のないうつ病の診断をして、元々効果のない抗うつ薬を長期に飲ませていることが原因だ、精神科医や精神医学が悪いという非難の声も高まっている。



現在、日本ではおおよそ100万人がうつ病・躁うつ病と診断され治療を受けている。うつに悩む人が世の中に溢れるようになったのは、マイク・ミルズが主張するように、抗うつ薬を販売する欧米の製薬企業の陰謀なのだろうか。2002年から2005年まで、4つのバージョンで流された、日本初のうつ病の疾患啓発の30秒のTVコマーシャルが大成功し、若者の受診の敷居を下げて、抗うつ薬に対する抵抗感をなくし、うつ病を世の中に知らしめることに至ったのは事実である。なかでも「うつは1ヶ月」、「悩んだらお医者さんへ」は、映画のなかでも、登場する人たちから好意的に語られている。




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映画『マイク・ミルズのうつの話』より


彼らは製薬企業の巧みなマーケティングの犠牲者なのだろうか。この映画でマイク・ミルズが主張するように、うつ病患者の急増について欧米の製薬企業陰謀説を唱える専門家もいるが、多くの主流の精神科医はこうした意見に拒否反応を示す。90年代まで年間150億円程度であった抗うつ薬の売り上げは、現在では1000億円を越えている。なかでもパキシルの売り上げは600億円前後にもなった。単なる人生上の落ち込みが、うつ病という病気にされ、薬の消費者にされてしまったのだろうか。これは日本特有の問題、日本だけの出来事なのだろうか。



欧米でも国を挙げてのうつ病啓発の大々的なキャンペーンは行われ、「うつ病は精神医学における風邪」というような比喩は使われていた。パテントが切れる前のSSRIの年間売り上げは2兆円以上にも達していた。こうした巨大な市場が、科学の衣をまとったグローバルなマーケティング戦略のもとに行われ、それが日本で大きな成功を収めたことは否定できない。



一見うつ病には見えない人たち、すなわち好きな活動のときは元気になる、仕事を休むことに抵抗がない、自責感に乏しく他責的である人たちは、どこまでが病気なのか、生き方の問題なのかわからないということで、現代型、未熟型、逃避型のうつ病などと呼ばれ、その特徴からディスチミア(慢性的な気分の不調のこと)親和型うつ病などと総称される。マスメディアでは新型うつ病と呼ばれ、元々の本人の性格的弱さが問題と指摘されるが、果たしてそうであろうか。



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映画『マイク・ミルズのうつの話』より



それは一面の真実であり、生きにくい現代社会で落ち込んで仕事や生活に支障を来たした人たちが、うつ病という共通のレッテルで、医療の枠組みに取り込まれるようになったのであろう。さらに、いつでも、どこでも専門医を受診して薬がもらえる日本の医療制度と、真面目に通院して服薬する国民性が、この映画に登場する人たちのように、薬を欠かさず飲むのに治らない患者を増やした可能性はある。



しかしそこで用いられる抗うつ薬や、睡眠薬、抗不安薬、抗精神病薬、気分安定薬などの、脳に作用して精神機能や行動に顕著な影響を及ぼす向精神薬が、それを処方する医師の想像以上に、服用する人の気分や行動に強く影響している。病気の症状と思っているものが、実は長期に服用している薬のせいかも知れないのである。しかしいったん服用すると、少しでも減らそう、止めようとすると、特有の強い薬の切れた症状が出るため、そう簡単には止められないことが大きな問題である。またそのリスクを、薬を出す医師の側も十分に認識していない。



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映画『マイク・ミルズのうつの話』より




映画に登場する人たちは、よく喋り、食べ、新聞も読み、外出もし、多少の仕事もして、一見うつ病にはみえない人たちばかりであるが、日本の四季とともに描かれる彼らの日常や、当惑する母親の姿をみると、その苦悩と、困難が次第に実感される。一見元気にみえるタケトシが11年も治療を受け、しかも2年間もの入院生活を体験している。多少のバイトもするミカは長期に服用するパキシルの副作用で喜怒哀楽などの感情が鈍くなっていると訴えているが、それに対処すべき医師は無頓着である。



新しいタイプのセロトニンの働きを強力に高める抗うつ薬が気軽に使われ、誰もが身近にうつ病に悩む人をみるような時代になったが、当事者の生活実態はほとんど知られておらず、その日常を淡々と描いたこの映画は貴重な記録といえよう。



彼らが悩むのは虚無感、希望のなさ、落ち込みであり、寝込み、時には自殺未遂もする。自己断薬の試みによる薬の離脱症状の体験も描かれている。脳がかゆいような感じ、激しいめまい感、吐き気、ふらつきなどであり、なかなか薬と縁が切れない現実が描かれている。薬を飲むようになり異常に肥ったケース、几帳面に生活リズムを記録する患者、これはまさに、現代の日本のうつ病患者の縮図といってよい。薬や医者と縁が切れ、ごく普通の生活が送れるようになることが、今ほど望まれている時代はない。自らに対する愛を見失っている人たちに、今こそ回復の希望が必要なのではないだろうか。



(映画『マイク・ミルズのうつの話』劇場パンフレットより)











マイク・ミルズ監督スカイプ出演!

『マイク・ミルズのうつの話』先行上映イベント

2013年10月5日(土)原宿VACANT


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マイク・ミルズ監督 ©Sebastian Mayer






開場15:30/開演16:00

料金:前売/当日1,500円

<トークゲスト>

マイク・ミルズ(『マイク・ミルズのうつの話』監督)*スカイプ出演

保田卓夫(『マイク・ミルズのうつの話』プロデューサー)

http://event.hutu.jp/post/60167588505



【ご予約方法】

件名を「マイク・ミルズのうつの話」とし、本文に「お名前/人数/ご連絡先」を記入したメールをbooking@n0idea.comまでご送信ください。

*万が一、2,3日経っても返信がない場合は、03-6459-2962(VACANT)までお電話ください。











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映画『マイク・ミルズのうつの話』

2013年10月19日(土)より、渋谷アップリンク他全国順次公開




監督:マイク・ミルズ

撮影:ジェイムズ・フローナ、D.J.ハーダー

編集:アンドリュー・ディックラー制作:カラム・グリーン、マイク・ミルズ、保田卓夫

出演:タケトシ、ミカ、ケン、カヨコ ダイスケ

配給:アップリンク

宣伝:Playtime、アップリンク

原題:Does Your Soul Have A Cold?

84分/アメリカ/2007年/英語字幕付

公式サイト:http://uplink.co.jp/kokokaze/

公式Twitter:https://twitter.com/uplink_els

公式Facebook:https://www.facebook.com/kokokaze.movie



▼映画『マイク・ミルズのうつの話』予告編

[youtube:R7T4BYQ0Ct0]

変わるのは物であって人じゃない─ゴンドリー監督が『ムード・インディゴ』に託したもの

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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』のミシェル・ゴンドリー監督



『エターナル・サンシャイン』などで知られるミシェル・ゴンドリー監督がボリス・ヴィアンの小説を映画化した『ムード・インディゴ うたかたの日々』が10月5日(土)より公開。『真夜中のピアニスト』のロマン・デュリス、そして『アメリ』のオドレイ・トトゥを主演に迎え、ぬくもりを感じられるファンタジックなビジュアルのセンスで恋愛小説の古典を解釈している。ゴンドリー監督に、彼が共感した原作のイマジネイティブな世界について、そして制作の経緯について聞いた。




本は確固として存在する、という設定




──原作を最初に読んだのは、いつですか。




10代の頃だね。兄が最初に読んで、僕たち弟に薦めたんだ。間違いなく兄は「墓に唾をかけろ」とか、ボリス・ヴィアンがヴァーノン・サリバン名義で書いた、もっとエロティックな小説から読み始めたはずだね。わが家では、ヴィアンの歌を聴くことはなかった。メッセージ色の強いフランスの歌に対して、ある種の抵抗感があったからね。デューク・エリントンは、父が大ファンだったから聴いていたよ。それから、セルジュ・ゲンスブールもね。当時は思いもしなかったけれど、ヴィアンはある意味、彼ら二人をつなぐ存在だったんだと思う。最初に読んだ時には気付かなかった。現実の記憶と、あとから再構築した記憶には違いがあるからね。
読み終わって、スケート・リンクの惨劇が映像になって頭に残った。最愛の人が失われてしまうという、恋愛小説の伝統を受け継いでいるという印象も強かったね。それらのイメージが、僕が監督になる遥か前に思いついた、色彩が徐々にあせてゆき、白黒へと移ろっていくという映画のヴィジョンと重なるようになった。その後、原作を2、3回読み返して、映画化しようと考えた。




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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved



──映画化の許可は、すぐにおりましたか。



プロデューサーのリュック・ボッシが交渉してくれた。とても幸運なことに、ヴィアンの遺産を管理しているニコル・ベルトルトは、他の著名な作家の遺族たちと違って、現代的な感覚の持ち主だった。

リュックが書いた脚本の第1稿は、原作に忠実だったから気に入ったよ。二人で一緒に手直しをしたんだけれど、大きなアトリエでこの物語の本が作られているという彼のアイデアは残した。それは、この本からは逃れられないということを示している。本は確固として存在し、破壊することは出来ないんだ。さらにアトリエは、物語は既に書かれていることを暗示している。原作を読んだとき、主人公たちの運命の結末は既に誰かの手で書かれていて、避けられないものだと感じた。言わば、宿命論的な物語だ。僕は運命を信じないが、この物語はそれを信じているんだ。





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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved


用途を変えることで、物に命を吹き込む



──ヴィジュアルは、どのように創り出しましたか。



初めて原作を読んだときから、ずっと抱いているイメージを、そのまま表現したいと思った。人間同士の出会いでも、第一印象が重要だというのと同じだね。第一印象を土台にして、残りを接ぎ木にして創り上げていったけれど、完全な宇宙を描くのは不可能だった。

美術のステファン・ローゼンボームと一緒に考えたニコラの料理が、よい取っ掛かりになったよ。登場人物たちは、肉をたくさん食べる。僕自身は12歳の頃から菜食主義なので、これにはあまり魅力を感じなかったけれどね。参考にしたジュール・グッフェの本に、修正を加えた写真のように見える、とても美しいイラストがあった。僕はステファンに、家禽の写真を撮るように言った。それを繊維やウールなど他の素材に変換して、全て再撮影したんだ。ジャン=クリストフ・アヴェルティの作品を彷彿とさせる、コマ撮りの短編アニメーションが完成した。それを本編の中に使ったんだけれど、実によく作品のトーンを決定してくれた。





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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved




──イマジネーション豊かな物体で溢れていますね。



原作で、コランがこう言っている。「変わるのは物であって、人じゃない」。それは僕自身がずっと考えていたことで、僕がどうしてこの本に惹かれたかをすっきり説明してくれる。たとえば、僕は人は年をとらないと思っている。人が年をとるのではなく、彼らの写真が若くなっていくと考えているんだ。用途を変えることで、物に命を吹き込むことに、すごく興奮する。








──視覚的なアイデアのいくつかは、ヴィアンの文章をなぞっていますね。



たとえば、ヴィアンが描いた椅子は、誰かが座ろうとすると自分で丸くなって縮んでしまう。同じような物を求めて、最初に思いついたのがゴムの椅子だ。次に考えたのが、動物の形をしていてクシャッとなる子供のオモチャ。底の部分を押し上げると、張りがゆるんで動物がクニャリと倒れる。しかし原作のいくつかは、当てはまる物が現代にはなかった。シックのパルトルへの心酔も、薬物依存のように描写することにした。そうでないと、どうしてシックがアリーズを捨てるのか理解できないからね。




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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved



同じ場所の過去と現在の差違にこだわっている




──映画はパリが舞台ですが、時代設定はいつですか。



いつの時代でもないんだ。原作が出版された1946年でもなく、2013年でもない。1970年代を想起させるのは、ステファン・ローゼンボームと僕が同い年で、自分たちの若い頃を思い起こさせる物を選んだからだ。視覚的に選んだ物の多くは僕の子供時代と関連があり、たとえばコランのアパルトマンがそうだ。子供の頃に祖母と毎週パリへ出かけ、プランタン百貨店に行った。建物の連なるあの連絡通路を歩くのは、本当に魔法のようだった。レ・アール地区には建設現場があり、僕は建設中の街で育った。それこそが、僕の若き日のパリだ。そのイメージと、ヴィアンがアメリカ文化のファンだったという事実を結びつけた。

原作はロマンティックで、10代の少し病的な空想を反映している。それは疑いもなく僕自身の感性や記憶、そして幻想としっくり来るものだ。僕はよく、両親の家でまた暮らすようになるという夢を見るが、その夢の中で家は縮んでいる。あるいは、ガレージが建てられたり、木が成長したり、周りの街並みが変わったのかもしれない。コランのアパルトマンが朽ちて縮むのは、そこから来ている。 僕は、同じ場所の過去と現在の差違にこだわっている。時の経過を証明する、壁紙の重なっている層が見たいんだ。




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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved



──特殊効果が多いですが、撮影は複雑でしたか。



グリーン・スクリーンでの撮影は、より複雑になる。しかし幸いなことに、コランのアパルトマンのシーンを時間順に撮影できたし、また埋葬シーンから始めることが出来た。撮影をヤマ場で締めくくるのは、とてもストレスが多いからね。

それより大きな問題は、ボリス・ヴィアンがみんなのものだということ。誰もが自分なりの解釈を持っていて、撮影スタッフも同じだ。自分固有のタッチを持ち込みたがるのは結構なことだが、時には過剰になってしまう。観客への責任を計算に入れていないからだ。アニエス・ヴァルダが僕に言ったことを思い出す。「いい映画を撮ってくれるように願うわ。だってみんな、あの本が大好きだもの」。





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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved



俳優の才能はただ単純な物事をいかにうまく信じさせてくれるかにある




──ロマン・デュリスは、どういう経緯でコラン役に?



原作では、コランはあまりしっかりと描写されていない。読者が自分自身を物語に投影できるので、そこが気に入っている。ロマン・デュリスがいいと思ったのは、男っぽい側面とある種の脆さを併せ持っているからだ。そのうち崩れるんじゃないかと思わせてくれる。原作ではコランはもっとこの世のものではない感じだけれど、それでは時代遅れになってしまう。またちょっとドレスアップ気味で、ほぼメトロセクシャルで、そういう点は削らなければならなかった。

撮影初日の埋葬シーンから、ロマンの演技には強い印象を受けた。ねじ曲がったライフルで睡蓮を撃つんだけれど、簡単じゃない。時に俳優の才能というのは、偉大な脚本をいかに鮮やかに解釈するか、いかにすごい感情表現をこなすかではなく、ただ単純な物事をいかにうまく信じさせてくれるかで測られたりする。本作では、彼が愛する人を殺したのは水に浮く花々なんだと、観客に信じさせなければならなかった。

映画の後半では、コランは自分の仕事とクロエの病気のせいで疲れきっていて、しかもみんなが彼に怒鳴っている。それは僕が感情移入できる部分だったので、原作より激しくした。かつて僕は、重病を患う妻と一緒に暮らしていた。幸い妻は回復したので、幸運にも健康だからこそ感じる恥ずかしさを知っている。ロマンは僕の体験を利用して、コランという人物を、逃げや臆病も含めて、特に誉れ高くもない場所へと連れて行った。





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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved




──オドレイ・トトゥはクロエ役としてはとても躍動的ですね。



僕は、オドレイを非常に気に入っている。他の作品の生命力に溢れた演技も好きだが、本作で病身でありながら躍動感を出せるところがいい。彼女は、クロエには欠かせない、あるエネルギーを持っている。クロエはみんなを元気づけるための強さを見つけなければならず、そうするとみんなもお返しに彼女を元気づけてくれる。オドレイが映ると、誰だってスターの登場だとわかる。彼女の顔には清らかさがあり、ローレン・バコールのような黄金時代の女優たちを彷彿とさせる。また彼女には、ある感性が備わっていて、たとえばチャップリン映画の女性たちのような無声映画のスターを思い起こさせる。実際、後半は無声映画の雰囲気が幾分かあって、セットは俳優たちの顔に取って代わるんだ。映像はとても強烈でパワフルなものになるはずだったので、僕たちは観客が感情移入できる力強い俳優たちを必要とした。





──シック役のガッド・エルマレには何を求めましたか。



彼は内面の感情で演技をしないのに、その感情は確実にそこにある。各々の俳優がそれぞれのテクニックを使うが、ガッドに関しては紛れもなくコメディアンだという経歴があり、ロマンやオドレイとは異なる個性を持っている。より外見的で、まさにバスター・キートンの放心した様相で、彼の醸し出す表情が素晴らしいシック像を作り上げた。それは己の耽溺に極端に走るシックのキャラには申し分なかった。強い麻薬を使う人たちは、その目つきが時に決して薬を離すまいとする貝の殻みたいになる。あたかも『エターナル・サンシャイン』のジム・キャリーのように完全に常軌を逸してしまうんだ。



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映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』より cBrio Films - Studiocanal - France 2 Cinema All rights reserved



──ニコラ役のオマール・シーはどうでしたか。



誰だってオマールと仕事がしたい。彼はとってもイカした男で、シーンを締めくくるさりげない目つきや表情さえ、間合いが完璧なんだ。たとえば彼が解雇されるときや、アリーズが死んだと分かったときだ。彼はニコラのスノッブな部分や、いささかいらつかせる舞台俳優のような洗練された身のこなしも取っ払った。そして驚くほど感動的な人間味を役柄に与え、この物語の守護天使にまで高めた。



──あなたの友人であるエティエンヌ・シャリーが音楽を書いたのですね。



セヴールの美術学校で一緒だった頃に、エティエンヌが自分でギターを弾いて、録音したテープを聞かせてくれたときから、その曲のオーケストラ・バージョンが頭にあった。彼は学生寮に住んでいたので、僕らは“学生寮の音楽”と呼んでいて、のちにそれが“ウイウイ”というグループになった。ユニークな音楽を生み出す彼のやり方が好きだ。

他にアメリカのソングライター、ミア・ドイ・トッドの歌も流れる。そしてデューク・エリントンの役で、ココナッツ抜きの元キッド・クレオールことオーガスト・ダーネルも登場する。もちろん、「クロエ」や「A列車で行こう」も流れるよ。



(『ムード・インディゴ うたかたの日々』オフィシャル・インタビューより転載)










映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』

10月5日(土)より新宿バルト9、シネマライズほかロードショー



舞台は、パリ。働かなくても暮らしていける財産で自由に生きていたコランは、無垢な魂を持つクロエと恋におちる。友人たちに祝福されて盛大な結婚式を挙げた二人は、愛と刺激に満ちた幸せな日々を送っていた。ところがある日、クロエは肺の中に睡蓮が芽吹くという不思議な病に冒されてしまう。不安を隠せないコランだったが、たくさんの花で埋め尽くせば、クロエは生き続けられると知り、高額な治療費のために働き始める。しかし、クロエは日に日に衰弱し、コランだけでなく友人たちの人生も狂い始める。もはや愛しか残されていないコランに、クロエを救うことは出来るのか──?





監督・脚本:ミシェル・ゴンドリー

原作:ボリス・ヴィアン 「うたかたの日々」

脚本:リュック・ボッシ

出演:ロマン・デュリス、オドレイ・トトゥ、オマール・シー、ガッド・エルマレ

原題:l'ecume des jours

2013年/フランス

配給:ファントム・フィルム



公式サイト:http://www.moodindigo-movie.com/

公式Twitter:https://twitter.com/MoodIndIgoMovie

公式Facebook:https://www.facebook.com/moodindigo.movie



▼『ムード・インディゴ うたかたの日々』予告編



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