Quantcast
Channel: webDICE 連載『DICE TALK』
Viewing all 193 articles
Browse latest View live

TAIYO33OSAKA代表PIKA☆が目指す「みんなめっちゃ笑えるおもろい未来」

$
0
0

2011年3月11日の東日本大震災を契機に立ち上げられ、エネルギーについての関心と知識を深めていこうと大阪を拠点に全国各地で行われているムーヴメントTAIYO33OSAKA。2013年3月3日に大阪・万博記念公園開催される本祭を前に、渋谷アップリンク・ファクトリーでも連動イベント太陽33シアターが2月21日(木)開催される。代表のPIKA☆にメール・インタビューを行った。




知ってるのと、やる。というのは全然違う



──2011年3月11日の東日本大震災をきっかけにスタートしたTAIYO33OSAKAですが、本祭まであと1か月弱となりました。あらためて活動全体を通してどんな手応えを感じていますか。




本祭りまであと1か月弱という事は、震災からもうすぐ2年、TAIYO33OSAKAののろしを上げて1年半になると言う事なんですが、震災がおきる前までほんとに私は、音楽活動をしてる者でしかなかった、この活動によって、今までの私はそこだけに世界があると信じて、ほんとに何も知らずに、むしろ知ろうともせずに社会でに無関心に生きてきたことに気づきました、ふと周りを見ると世界は沢山あってまた、その繋がりの中に私の世界はあったという発見がとても大きい。まだ3月3日がきていないから、なんとも言いがたいところはあるのですが、そこの部分の自分自身の大きな変化、そしてこの1年半の活動で出会った音楽シーン以外での様々な人達との出会い、またそこからの繋がりを実感することは一つのものごとの捉え方や見方を思慮する上ですごい糧となっています。きっと私の音楽感にも染み入っていると思います。



震災後すぐのTAIYO33OSAKA立ち上げ当初に、大切なのは繋がりと思いやり、心、コミニケーションだよ!って自分で言ってたことを沢山の自分とぜんぜん違う感覚の人と祭つくりを通して活動することで、実際に自分はできるのかとか身をもって体験して、それってほんとにどう大切なのかとか、本当に少しづつですがやっとわかってきました。



webdice_PIKA

TAIYO33OSAKA代表のPIKA☆



知ってるのと、やる。というのは全然違う。違った。やってみて、わからないからこそ、対話し、ぞれぞれの世界のキッカケにしていけるものを実はみんな求めているんだなという必要性は凄く感じます。ただキッカケがないだけなんじゃないかな? また、TAIYO33OSAKAは震災後の人の有耶無耶なままで、おいてかれそうになった心のバリケードのようなものをつくりたかったのかもしれない。普段みえないものを見えるようにすること、ずっと「わからない」と言われたものが今形になろうとしている感はリアルに感じます。



ぜんぜん知らん人達があつまって何か新しいものが生まれる



──続けてくるなかでどんなことに直面しましたか?



嬉しかったこと。それは、ぜんぜん知らん人達があつまってどんどん仲良くなってまた何か新しいものが生まれたりしてる瞬間です。言葉にしたらめっちゃシンプルなんですけど。33で祭つくる際に、形式的に実行委員になってもらうんだけど、その「何ができるかわからない」んだけど、この社会や震災後の日本に「何かしたくて、自分自身が考えたくて、実感したくて来ました。」っていう人が訪ねに大阪まで足を運んでくれるていう事実に、毎回感動してます。



何かが始まる感じと、ただ単純に同じ人おった~~~!!!っていう喜び。自分の微々たる発信がちゃんと届いて反応されて何かが動いた喜びはなんとも嬉しいです。ほんと『来る』って、アクション『行動』そのものだと思うから。想いを越えた証だと思うんです。もちろん、次はそれをいかに『残す』かという課題はありますが、 先日、33を通じて福島で出会った人と、大阪の友人が結婚しました。それを聞いたときはほんと涙でた。どんどん新しい世界が増えていってる。そして、それこそが未来そのものだと思う。



なかなか作業に追われて発信できてなくてもどかしいですが、祭つくるこの1年半の過程の中に数えきれない未来の種がたくさん生まれています。震災後、この社会や自分の中の矛盾やもやもやを楽に言い合え、また逆にそれから何かを創る。何か新しいものを自由につくっていいよ!という場所、対話できる場所があることで、みんな楽になってくれてる感じがあります。否定し合わなければ、その会話から確実に新しい概念生まれ、今の社会の中では何かを守る為に必要だったコダワリも必要ではなくなってどんどん手放して軽くなっていける。33に関わってくれてるみんなが楽しそうなんみるんが一番嬉しいです。





webdice_33旗オリジナル

TAIYO33OSAKAの旗




──ではキツいなと思ったことは?



そうですね~~~、めちゃめちゃある!(笑)

うーん、33はほんとある意味、会社みたいな事を有志のみで、完全に見返りのない状態、奉仕、おもてなしに近い状態でいかにできるか、ってことをやってますね。会社みたいなことっていうのは、33は「ポジティブなエネルギーを発信しよう!」「エネルギーはアナタ自身だよ!」てことを発信、社会に声をあげたくてやってるわけですが、ある意味ポイントになってくるのは、それを、「どう人に伝えるか」ってとこで、それにはただ物、祭をつくるだけじゃなくて、色々勉強したり、工夫して、自分のキャパシティーに向き合わなあかんかったり、受け取る相手の事考えていくから、自分のエゴをどんどん打ち消していかなければ進めない部分もあって、それけっこうしんどかったりもするんですけど、ほんでメンタルと体力のこともありますから、お金もメンバーに払えないし、その上で活動を継続できるガソリンは自分の心・情熱でしかなくって、とにかくまずそれを維持することが重要になってくる。



そうなってくると、一人一人自分の生活があるなかで、ほんともうそれには楽しくないと続かないし、いかに自分自身でその楽しさを見いだしていけるかにもかかってくる。あとは、自己責任・自己管理になってくるんですよね。ちゃと自分をもっていないといけない。ある程度自分の許容ラインを知ってないといけない、つぶれちゃうから。けっこう過酷です。そういう、実行委員を組織し続ける大変さという面白さをもちながら、外への発信も考えてくことを両立させるのは難しいですね。ほんとは穏やかに小さい規模からやったほうがいいんだけど、なんせ2013年3月3日に万博記念公園でやるんや~!!!と、ドッカーーンと大きくひろげてしまったから。ほんとみんな自分の事がある中でよく集まって一緒にものをつくってくれてて凄いことだなぁと思います。




webdice_DOPAOS!

2012年6月東心斎橋CONPASSで開催された『どPAOS!』より





シアターというみんなで語り合える場所をつくりたかった




──活動のなかで、エジプトレコーズとUPLINKと2拠点で開催されてきたTAIYO33シアターについては、祭り全体のなかでどのような位置づけでしたか?



祭をつくる上でもっともっと知識や情報がほしかった。TVも全てが本当じゃないことは震災後わかったので、では、現地にいって実際その作者の体験をありのままにとらえている映画やドキュメントを見て、勉強したかった、というのと、シアターというまたみんなで語り合える場所をつくりたかった。とはいっても、私自身も、どんな作品でも作者の思想や偏りはあると思うので、ひとつのことを鵜呑みにするのではなくて、それを見てまた考えるキッカケになるように、TVだろうが、映画だろうが、どれたけ信頼している人の話だろうが、きちんと答えは自分で決めれるように。また、いろいろな世界を発信してる人を知る媒体になれればという想いもありました。




──今回2月21日(木)に渋谷UPLINKで開催されるTAIYO33シアターについてを教えてください。



ずっと、33シアターでは『ホピの予言』を流してきたのですが、その映画をまた最後に上映したいと思います。もちろんこの映画に対して意見は様々だとおもう。だけど、もちろん核のことを取り扱った内容にもふれているけれど、純粋に反原発というメッセージじゃなくて、日本の中だけでは知る事のできない事実として、新たな価値観やキッカケになったらと思うんです。その他、トークとして、サミット形式で、実際にきてくれたお客さんと対話していこうと思っています。スペシャルゲストもあるかも!?





webdice_hopi_img035

映画『ホピの予言』より




自分がどう感じるのか。それを一番強く信じてほしい




──TAIYO33OSAKAの動きを知るにつれ、自分たちがいかに身の回りのエネルギーについて無知であったか、そしてその自然に対する知識を身に付けることが、これからの世界で生きていくうえでどれだけ大切か、かを知ることができるようになった気がします。しかもそれをカルチャーを通して楽しく身につけていくことができる。そして様々な繋がりを育んでいくことができることが、このTAIYO33OSAKAとTAIYO33シアターだと思います。





私は人類みなこの世界をつくってるアーティストだと思っているんですけど、向き不向きはおいといて、歌(音楽)も絵(芸術)も、じつはみんなのものだし。私自身はそれが生きることだと思っているのですが、今は生活の中でそうしなくても生きれてしまう。そして、今のこの世の中はすごく立場がカテゴライズされてる。自分の場所が明確であるのってやっぱり安心にはなるから。でも、わたしは今ほんとに『統合』の時代に入ったんじゃないかと思うんです。政治も芸術も科学も宗教も哲学もじつは、ぜんぶにぜんぶが必要で融合されていくんじゃないかな。人の心はほんとに混沌としていて、カオスだと思うんです。ほんとにどんなに近くても同じな人は誰一人いないように。







TAIYO33OSAKAは、「答え」じゃないんです。擦り込みでも、誘導するわけでもない。芸術と同じように何もジャッジしない。ただの集合体というか……。もちろん、キュレ-ションが私であったり、まだまだ偏った見方を発信してしまっているのは未熟で申し訳ないのですが、私は33が発信する情報に触れたとき、自分がどう思うのか。違うと思うのか、そうだ!と思うのか、どちらでも良いと思う。自分がどう感じるのか。それを一番強く信じてほしい、そこをしっかり感じてほしい。新たな発見に驚いてほしい。と思っています。これは私の感覚ですが、むしろ自分と逆の意見の人の話をここぞばかりに吸収しまくってほしい。






omote1

TAIYO33OSAKAのポスター





──最後に、3月3日への意気込みをあらためてお願いします。



これを読んでくれた人、この想いに興味をもってくれている人、これから出会う人全ての人に感謝を込めて。今はまだエネルギーを奪い合っている世の中だけど、エネルギーの使い方や、概念、視点を変えれば、もっと気づけることがあるはず。どんどん世界が新しく生まれ、変わっていく。まだまだ私達、人類は進化の途中で、間違ってわかっていく。私は~~~ごめんなさい!間違えまくってます!



でも、絶対それをより良いものに変えていきたい情熱も消せません。この社会に自分に世界に感じている矛盾や悔しさ、時に怒りがどこから来ているのか、その時、ん?と思う疑問を問いつづけていくことをやめない。だからもう過ちを責めることに今を使わないで、今は全ては未来にあると思っています。もちろん、めっちゃみんな笑えるおもろい未来!



あらためて、津波や地震、変われるキッカケをくれた全て、これから立ち向かうどんな困難にも感謝できるように、毎日を喜びで生き抜きたい。そんな愛があふれた、多くの人の大きな始まりの日になるように、最後まで未来の種をまきながら、限りなく大きく深く大勢の人と共に『太陽大感謝祭』を創っていきたい。右も左も大人も子供もホームレスのおっちゃんも社長さんも過去も未来も今み~んなで一緒に太鼓を響かせて、今まで見た事のないありえない祭を興し、いっぱい驚いていっぱい感動して、より素晴らしい未来を「太陽の塔」と一緒に手をつないでワクワクと祈りたいです。そんなお祭りを一緒につくってください!!!みなさんの一人一人のご協力、どうかよろしくおねがいします!!!☆エネルギーはここにある!アンタが太陽ー?!!!








(取材・文:駒井憲嗣)





昨年渋谷アップリンクで開催された太陽33シアターの様子










PIKA☆(ピカ☆) プロフィール


1983年12月7日大阪阿倍野生まれ。2002年、ロックバンド「あふりらんぽ」を結成。ドラム、ヴォーカルを担当。2005年にソニーキューンレコードからでメジャーデビュー。2007年、あふりらんぽ活動休止をきっかけにソロ活動を始める。2008年、ギター弾き語りソロ「ムーン♀ママ」ミニアルバム『幸せの可視」』を自主レーベルからリリース。2010年、あふりらんぽ解散、本格的にソロ活動開始。2011年、震災直後にピグミー族の写真展「BAKA2004-2011」を開催。8月15日には、大友良英、和合亮一、遠藤ミチロウが主催するフェスティバルFUKUAHIMA!にムーン♀ママとして坂本弘道氏と出演。被災地支援プロジェクト「まんまる」の活動に参加し、福島の保育園の訪れドラムを演奏する。最近では、自身のドラムメソッドを「太愛鼓」(たあいこ) と提唱し、関西を拠点にPIKA☆太愛鼓ドラム教室をひらき指導を始める。その他「光宙☆魔呼斗」「satori」などのユニット、セッション、国内外演奏活動に精を出す。音楽、写真、絵画、役者活動、パフォーマンス等、幅広い視野で唯一無二な人間力的表現活動を目指す。


PIKALOGGG☆!!! http://pikaloggg.blogspot.jp/

twitter https://twitter.com/pika_azuma












太陽33シアター『ホピの予言』

2013年2月21日(木)

渋谷アップリンク・ファクトリー





僕らが使っている電気の大元を辿ると、本当にいろいろな問題が山積しています。ホピ族に代表されるアメリカ原住民の人たちの被爆労働については、感想が言葉になりません。この映画を観て、自分たちが享受している便利の、その源泉のひとつを知ることができました。そして、考えなければならない、行動しなければならないと、決意を新たにしました。この映画を僕に紹介してくれたPIKAに感謝します。皆さんも是非。(後藤正文)




上映作品:『ホピの予言』

監督:宮田 雪

製作:木雅子、宮田 雪、飯岡順一

プロデューサー:田畑祐已

音楽:伊藤 詳

ナレーター:佐藤 慶

(1986年/カラー/75分)

同時上映

『浄化の時代を迎えて―ホピの伝統に生きるマーチン・ゲスリスウマ氏に聞く―』

(2004年/25分)





18:30開場/19:00開演

予約1,800円/当日2,300円

トークゲスト:後藤正文

ご予約はこちら

http://www.uplink.co.jp/event/2013/7621











太陽大感謝祭

2013年3月3日(日)

大阪万国記念公園内 東の広場



10:00~17:00

参加費:無料 ※ただし万博公園へは入園料(大人250円、小中学生70円)が必要

http://www.taiyo33osaka.net/





「自分から出かけていって人と出会うこと」高橋久美子が語る〈止まない熱〉

$
0
0

『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』を上梓する高橋久美子




チャットモンチーのドラマーを経て、現在、作家・作詞家として活動する高橋久美子が初の書き下ろしエッセイ集『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』を2013年2月21日に出版。刊行直前となる2月20日には、〈歴史〉と〈詩〉という、彼女の文章で欠かすことのできないモチーフをテーマに取り上げるイベント『高橋久美子が行く! 第一回「小江戸 川越 歴史詩作の旅」』を渋谷アップリンク・ファクトリーで開催する。詩やエッセイにとどまらず、脚本、小説と活動の幅を広げ続けている彼女に、創作への思いを聞いた。




歌詞はブラウス、詩は丸裸



── 今回の『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』はすべて書き下ろしということですが、構想はいつぐらいから?



チャットモンチーを脱退したのが2011年の10月なのですが、その後の3ヵ月は何もせず寝て過ごしていたんです。そこで、それまで味わったことのないような気分で、現在の自分を書いたり、高橋上半期みたいな感じで(笑)生きてきた30年間を振り返ったりする絶好のチャンスだと、2012年の1月から始めて、約1年かけて書き上げました。



最初は政治とか社会的なことも書こうかと思っていたんです。けれど、自分の書いている詩はいつも、ミニマムな世界のことばかりだけれど、後になって読むと、すべて社会の縮図のような気もしていて。エッセイもその延長のように、自分の日常や過去の思い出を書くだけでも伝わることはあるんじゃないか、そこにチャレンジしたいと、あまり気取らず、読みやすくて柔らかいものを多めにしました。



── 基本的に高橋さんのご自宅から発信されていますよね。その半径数十メートルが世界を象徴している、という意識は、小さい頃からあったのですか?



詩を書きはじめた中学生のときからいつも、大事なものって、すぐ傍にあるんじゃないかと思っていました。詩を書くことで、自分を確かめることができていたし、家族の存在もここに社会全体の真実があるということの象徴だったきがします。



── 冒頭から、「詩を書かずにはいられない」と突き動かされる感情が、そして、歌詞と詩は明らかに違うということが書かれていますよね。



詩は「書かんかったらやりきれないぜ」というところから始まっているので、まったく飾り気がなくて。でも歌詞は、やはり責任を伴っているんです。チャットモンチーというバンドに出会ってなければ私は歌詞はここまで書いていなかった。私ではない人が歌うということ、それにオーディエンスが最初は少なかったけれど、だんだん多くなればなるほど「みんなが絶望してしまいそうなことを言いたくないな」と思うようになっていました。少なからず私の歌詞の役目は、希望に向かうものを書こうという使命とともにあったんです。



歌詞というのは、体全体のトータルバランスで言うとブラウス。ズボンがあって靴があって帽子があって、お似合いとなりますよね。曲もパフォーマンスもあるなかで全部のバランスを通して、良いとなります。でも詩の場合は丸裸、何も着ていない私だけ、という感じがします。



── 内面に向かって書いていた詩が、震災を機に外に向かうようになってきたということも触れられています。



目の前に哀しい状況を見る機会が多くなったから、歌詞に近い気持ちが生まれてきた、ということだと思うんです。



自分の熱が入っていることを書く



── 『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』は詩と音楽と旅と歴史と家族、というのが軸となるテーマになっています。読者層というのはイメージしていましたか。



読者層は特にありません。30前の葛藤の時期に書いたので、その時期の方には是非読んでほしいです。最初は感情のままに書いたので、ちょっと息苦しかった。感情は、書いていくうちにも変わってくもの。音楽の章を書き始めていたころはいろんなものが渦巻いていて、ぜんぜん客観視できなくて、ぐちゃぐちゃしていた。だから何ヵ月か経って読み返してみてより客観視して書き直したりもしました。一晩寝て翌日冷静に書き直す、というのはリリックでもポエムでもやっていることですが、エッセイということになるともっと研ぎ澄ませていかないといけないな、と。作家として。書いていってようやく葛藤を整理することができたような気がします。



── 歌詞でもなく、詩でもない、エッセイとしてこれだけの文章量をテンポよくまとめていく作業は新鮮だったのではないですか。



そうですね、どこでオチをつけたらいいのかは難しかった。台所の一場面や、大学の部室の一コマをずっと書き続ける、というのは得意なんですけれど、過去のことを説明していくのが苦手で、小学生の感想文みたいに長くなってしまって(笑)。そこから削っていくことをしました。客観視というのは大事ですね。



── 自ら物事に対してアクションを起こした時の高橋さんの感情がとてもヴィヴィッドに伝わってくる筆致だなと。仕事として書いていない感じ、子供のときからのプライベートな高橋久美子を「見ちゃった」という感じがして、ドキッとする部分がありました。



そういう自分の熱が入っている、体温があることのほうが書きやすい。巷でこういうことが話題になっています、ということではなく、自分が見て体験したことしか書けないんです。このエッセイ集なんてまさにそうですよね。




webdice_P2038615

『高橋久美子が行く! 』第一回のテーマとなる川越を訪ねて





音楽で言えば初期衝動的なもの



── 一冊の本としてまとまってみて、このようなエッセイ集を「書かざるをえなかった」高橋さん自身について気づいたことはありますか。



常に今しか生きられない人なんだなと思いました。書き終えて、出版社に持っていったときに、「もっと後でもいいんじゃない」と言われたんです。でも、今じゃなかったら一生出さない、と言いました。ちょうど今は小説も書いていますし、新しい展覧会のために詩を書いているし。次のモードです。その時の感情にいつも自分が支配されているなと。



── 読む側も高橋さんの気持ちにダイブして参加しているというか、一緒に体験している感覚があります。



荒削りでもいいから、そのときの感じを、音楽で言えば初期衝動的なものを残したものが似合う、と思って書きました。添削してく中でも、綺麗にしすぎずに荒々しさ、自分ならではの表現をあえて残した部分もあります。



── こうした熱のあるエッセイを書けたことで、作家としてのステップという意味で、別の言葉にチャレンジしたい、ということはありますか。



ちょうどいま小説も書いているんですが、まだまだ小説は頑張らないとって思います。
この本を読んでくれた人は、ジェットコースターに乗っているような感覚を味わってもらったと思うんですけれど、2、3日にじわじわと染み入ってきて、もう一度読んでみる、という小説、表現力で読ませる小説を目指しています。







── 書きあぐねているときの様子が包み隠さず描かれている章がありますが、いま高橋さんがいちばん理想とする、文章を書く場とは?



家のこたつですね。そして、書けないようになったら、近所のカフェがあって、おばちゃんがひとりでやっているんですが、そこだったら若い人がだれも来ないんです。



── 旅をしたり、移動する、というのはスランプのときに効果的なんでしょうか。



自分が「進んでいる」というのがいいんでしょうね。電車に乗ってどこかに進んでいる、というのが肝なんじゃないかと思っていて、そのことでまた違う空間の力がもらえるんです。そうすると、何かが取れたように書けたりするから、面白いなと思います。





webdice_蔵造りの町並み1

蔵造りの町並み





私が見て、体験した街を伝えるイベント



── 発売の前日となる2月20日には、アップリンクで初の歴史独演会が開催されます。



誘われて出るイベントでは、いつもしゃべり足りない!ともやもやすることが多かったので、私なりの歴史イベントをやったらいいんじゃないかと、自分で企画することにしました。歴史だけではなくて、その場所に行ってできた言葉を一緒に発表しながら行います。



各地の歴史を訪ねていて思うのは、旅というのは街の人と出会うことだなと思って。今回のテーマである川越にも何度も行っていますけれど、結局思い出に残るのは、そこのお店のおばさんと話をしたことだったりするんです。当日配布するように川越の地図を作っているんですが、その地図には私の出会った川越だけを入れています。そんな風に、ただ歴史のことを説明するのではなくて、私が見たその街、体験した街を伝えるイベントにしたいです。紹介したいことも他にもたくさんあるし、これからも熱が冷めなければ(笑)、続けていきたいと思っています。





── いろいろな場所に旅行に行かれて、川越のように歴史を残そうと意識的な街と、そうではない街という違いはあるのですか。



田舎でも、田舎であることをちゃんと外にプロモーションできている地域がある一方で、そうではない、田舎の外観を残念な感じにしている大型商業施設がたくさん建ち並ぶ町もある。私が生まれた愛媛県四国中央市もまさにそういう形で都市化していて、その影で商店街がつぶれてしまっている。そうすると車に乗れない老人が買い物に行けなくなるという悪循環が起こるので、どうしたらいいのか、ということを街の人や市長さんと話したりもします。雇用は増えるから町の人は喜んでも、私たちのように都会から戻ってきた人が、昔、畑だったところがそうなっているのを見ると哀しいですよね。でも、ショッピングモールも行ったら行ったで楽しいし、町の人が何を望んでいるかはちゃんと細かく話を聞かないとわからない。住んでいない私が一概に言うべきではないなとも思いますけどね。難しいです。






── 高橋さんの活動を通して歴史の楽しさが伝わったり、自分でもなにかやってみようという人が増えたらいいですね。



川越の芋まんじゅうが美味しい!だけでもいいんです。みんなが楽しんでくれることをやっていくのが私だなと、作家という縛りにこだわるつもりはないんです。




webdice_成田山別院


成田山別院




── 今の若い世代で、高橋さんのように「やらずにいられない」ものをまだ見つけることができない人に、なにかアドバイスはありますか?



私たちの頃はもっと海外に行きたい、いろんなところを見たいという願望があったけれど、最近の若い子と話しているとあまりそういうこともなくて。ネットでなんでも分かってしまうから、なにもかも整いすぎているから、と思うんです。けれど、江戸時代だって、平和な時代が続いてぐうたらした男がたくさんいたから、かかあ天下な気風が生まれたりした。文化と歴史を生み出すのは、その時代の若者だから。夢がない、というのは必ずしも悪いと思わない。



でも、やっぱり、いろんな人と話すことは必要だと思います。私も実際、バンドを辞めた後に、書けなくて一週間くらい部屋に篭っている時があって、自分だけ地獄にいるような気がしたけれど、外に出て自転車屋のお兄さんと話をするだけで、気分が変わったり、新しい視点が見えてきたりすることがあった。やっぱり人の力ってすごいんだなって。なんのためにご近所さんがいて、なんのために人間ってたくさんいるのか、出会うためだな、って思ったんです。だから。当たり前のことだけれど、年上の人でも同級生でも、いろんなところに行って出会ったり、映画を観に行くのでもいいし、自分から出かけていって刺激を作るようにしたほうがいいんじゃないかな。



(インタビュー・文:駒井憲嗣)









高橋久美子 プロフィール


1982年、愛媛県生まれ。ロックバンド、チャットモンチーの元ドラマー・作詞家。2月21日に初の書きおろしエッセイ集『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』を毎日新聞社より発売。主な著書に詩画集「太陽は宇宙を飛び出した」(FOIL)、写真詩集「家と砂漠」主な作詞曲に、ももいろクローバーZ「空のカーテン」東京カランコロン「泣き虫ファイター」などがある。3月には「高橋久美子の西国巡りサイン会ツアー」で全国をまわる。

HP:http://takahashikumiko.com

Twitter:https://twitter.com/kumikon_drum










webdice_kumikogayuku20130220ver


高橋久美子が行く! 第一回「小江戸 川越 歴史詩作の旅」

2013年2月20日(水)

渋谷アップリンク・ファクトリー




開場18:30 開演19:00

※本公演の予約は終了いたしました。

http://www.uplink.co.jp/event/2013/6290






















『思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、』

著:高橋久美子



2013年2月21日発売

ISBN:978-4620321776

価格:1,260円

版型:四六判

ページ:192ページ

出版社:毎日新聞社





「海なのか空なのかわからない。暗闇の中、どこまでも広がる宇宙は、私の姿を隠すどころか、ポッカリとまるで一つの星であるかのように示し、孤独にさせる。楽しくて楽しくて、だけど拭い去れない孤独感。月光が、しぶきを上げながらケラケラ笑い泳ぐみんなの顔と声を浮かび上がらせた。私はそれを見るのが好きだった。」 ──「大学生 部室」より




★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。

Amazonにリンクされています。






「ドローイングの世界を舞台にすることで生まれる歪みが面白い」

$
0
0

シアターカンパニーLADY LILYが2月23日(土)、24日(日)の2日間、渋谷アップリンク・ファクトリーで新作公演『CANDINE(キャンディーヌ)』を行う。またファクトリーに併設するギャラリーでは、ドローイング・エキシビジョンを開催中。本公演で使用される衣装も展示されている。



LADY LILY1_edited-1

渋谷アップリンク・ギャラリーで開催中のLADY LILY Drowing Exhibitionより


この『CANDINE(キャンディーヌ)』は、H.P.France WALLで2012年秋冬に展開されたアパレル・コレクションCANDINEシリーズをもとにしたオリジナル・ストーリーとなっている。アートディレクターの深谷莉沙そして舞台美術デザイナーの古川美祥を中心に、〈セルフシアター〉という名目を掲げ、ひとりの少女がいずれの場所の空間に立っても劇場に変えていくことをコンセプトに活動を続けてきたLADY LILY。今回のアップリンクでの公演について深谷は「小さい頃から映画館というのが好きな場所で、映画を観るワクワクを意識したときに、オリジナルのムービーを投影するのはもちろんなのですが、キャストを映画で観るようなかたちで観るようなかたちで演出できたらということから、構成を考えていきました」と、ここでしかできない演目であることを語る。



webdice_IMG_3024

『CANDINE(キャンディーヌ)』リハーサルの様子


webdice_IMG_3034

『CANDINE(キャンディーヌ)』リハーサルの様子



『CANDINE(キャンディーヌ)』のドレスから舞台を創造する、という手法については「LADY LILYの舞台の見せ方として、紙芝居や絵本のような、情景をスライドショーのように見せていくメソッドを多く取り入れているので、今回はこのドレスを1時間の舞台でどう見せていくか、という試みなんです。またギャラリーでは、公演を覗き見できるようなドローイングを展示しています。主人公となる少女・キャンディーヌのクローゼットのように、トルソーに洋服や靴などを展示して、本当に舞台で使うものを見せてしまおう、という趣向です」(深谷)と解説する。


webdice_P1390421

渋谷アップリンク・ギャラリーで開催中のLADY LILY Drowing Exhibitionより




LADY LILY2

渋谷アップリンク・ギャラリーで開催中のLADY LILY Drowing Exhibitionより


そして今回の公演にリンクしたエキシビジョンについて、これまでもドローイングはLADY LILYの活動のなかで重要な要素だったが、展示という形式での発表は、今回はじめてとのこと。「ドローイングを3Dにおこす時に、必ずどこか湾曲してズレが生じてくるのですが、ドローイングとして完成した世界を舞台で実際の人間が演じることによる歪みが、私たちもやっていて面白いところです」(深谷)。LADY LILYのオリジナリティを公演そして展示の両方で味わうことのできる内容となっている。



(文:駒井憲嗣)
















LADYLILY(レディ・リリー) プロフィール


アートディレクター 深谷莉沙、舞台美術デザイナー 古川美祥の2人を中心に結成したシアターカンパニー。ダンスパフォーマーでもある深谷が「自らの身体一つでどんな空間も劇場に変える」ことを目標に「セルフシアター」というテーマを掲げて、武蔵野美術大学在籍時に活動をスタートする。現在は古川が加わったことでセノグラフィ、ファッション、ドローイング、映像作品など一つ一つの作品を自らの手でつくるという意味での「セルフシアター」に発展・拡大。各作品とも幼少期に感じる「世界に対する新鮮な喜びや驚き、戸惑い」や「少女として生きるための痛み」をコンセプトに演出・構成している。

公式HP:http://ladylily.net/

公式twitter:https://twitter.com/LADYLILYinfo












webdice_candine_fl_omote_web_2-437x600


LADY LILY『CANDINE(キャンディーヌ)』

2013年2月23日(土)、24日(日)

渋谷アップリンク・ファクトリー




23日(土)19:30開演/24日(日)17:00開演、20:00開演(全3回公演 開場20分前より)

料金:予約・前売券 2,800円/当日券3,000円 全席自由(各回座席50名限定)

ご予約は下記より

http://www.uplink.co.jp/event/2013/6618






LADY LILY Drowing Exhibition

2013年2月25日(月)まで開催



渋谷アップリンク・ギャラリー




12:00~22:00

入場無料

http://www.uplink.co.jp/gallery/2013/6812









▼舞台『GIRL from the SEA 海からきた少女』(2012年)

[youtube:7hPLQtri3_s]
▼映像作品『ANNABEL LILY』(2011年)

[youtube:1FtN5c6JCcI]




レスリー・キー「私は死ぬまで、自分の作品を通して、世界中の人々に愛と希望と勇気を与え続けます!」

$
0
0

インタビューに答えるレスリー・キー氏




2013年2月4日、東京・港区六本木のギャラリーhiromiyoshii roppongiで開催されていた写真展で男性器が多数写った写真集を販売したとして、写真家のレスリー・キー氏とギャラリーのオーナー兼ディレクターの吉井仁実氏、そしてギャラリーの女性スタッフの3人がわいせつ図画頒布容疑で警視庁に逮捕された。hiromiyoshii roppongiでは、2月2日からレスリー氏の写真展「FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」が開催されていた。2月6日、3人は処分保留で釈放された。




しかし2月21日、今度はこの写真集『SUPER MIKI』『SUPER GOH』を印刷・製本した印刷会社・八紘美術の児玉紘一社長と、次男で同社営業部長の児玉武志氏が、わいせつ図画頒布幇助の容疑で警視庁保安課に逮捕された。その後両氏は2月22日、釈放されている。



この事件に関して、「芸術かわいせつか」という論議を含め、世界中のメディアでは様々な報道がされているが、webDICEでは経緯をふまえたうえでの事実と、ふたりがどのような表現に挑んだのかを読者に知ってもらいたいと、レスリー氏に取材を依頼、インタビューを行った。レスリー氏は、これまでのキャリア、そして今回の事件について2時間にわたり率直に語ってくれた。




自分の作品が日本で「わいせつ」と言われるのは、

いまだにショック



── 今日は逮捕に至る経緯を聞かせて下さい。



日本の有名な本屋、例えば代官山蔦屋書店とTSUTAYA TOKYO ROPPONGI、渋谷パルコのLOGOS、渋谷のTOWER RECORDS、青山のワタリウム美術館の下のON SUNDAYSなどでも、世界有名な写真家が撮ったフルヌードが写ってる無修正の写真集をたくさん売ってる。たとえばリチャード・アヴェドンやテリー・リチャードソンなど、海外のファッション・マガジンも女性も男性も関係なく無修正で日本の本屋で堂々売っているし。なぜ私が撮ったメンズヌードのアート写真集を販売するのは逮捕されたのか、自分の作品が日本で「わいせつ」と言われるのは、いまだにショック。



もちろん浅井さんのメイプルソープの写真集の件、知っていますよ。警察署で「ロバート・メイプルソープの件では無罪だったのに、こういう事になって、なぜ私だけなんですか、本屋でも無修正写真集売ってますよ」と言ったんです。警察署の中で誰も信じてくれなかった、聞いてくれなかった、私はすごく悲しくて悔しくて悔しくてしょうがない。ダブル・スタンダードを感じた。


webDICE_SUPERMIKI

今回の写真展で販売された写真集『SUPER MIKI』の表紙


webDICE_SUPERGOH

今回の写真展で販売された写真集『SUPER GOH』の表紙





── ギャラリーhiromiyoshii roppongiで最初にSUPERシリーズの展覧会を行ったのは?



2011年11月25日です。SUPERシリーズは私のライフワークです。写真展のタイトルは「FOREVER YOUNG」、テーマはすべてメンズヌードです。アート・ギャラリーで初めての写真展を開催したので、時間をかけて8冊のSUPERシリーズを同時発売しました。総合格闘家・秋山成勲の『SUPER AKIYAMA』、DA PUMPのメンバーで俳優の山根和馬の『SUPER KAZUMA』、AV俳優・真崎航の『SUPER PORNSTAR』、そしてモデルの『SUPER AKI KOMATSU』『SUPER TAKU』『SUPER TATSUYA』と『SUPER RYO』『SUPER UMENO』。






311の震災にあってから2年間でだいたい30タイトルくらい毎月続けてきました。最初のSUPERシリーズはレディー・ガガの『SUPER LADY GAGA』。ほかのコラボアーティストはアーティスト・浜崎あゆみ、モデルの冨永愛、デザイナー・山本耀司、女優・松田美由紀など。ほかのSUPERコラボはファッション中心で、例えばユニクロの『SUPER MAMA』、アルマーニエクスチェンジの『SUPER A/X HOPE』、西武渋谷の『SUPER POWER PEOPLE』など。実は私のSUPERシリーズの一番大きなインスピレーションは、アンディ・ウォーホールの『インタビュー・マガジン』です。




webdice_DannyTeddyPress (2)


DANNY & TEDDY PRESS 今までに出版した写真集とSUPERシリーズ

── 表紙が似ていますね。



サイズもこだわっていて、『インタビュー・マガジン』はもう少しグロッシーだけれど、そのかわり、マット質感のアート紙を使っています。私の好きなフォトグラファーは、リチャード・アヴェドン、アーヴィン・ペン、ブルース・ウェーバー、ピーター・リンドバーグ、デイヴィッド・ベイリー、テリー・リチャードソンとたくさんいます。男をかっこよく撮るフォトグラファー、女をかっこよく撮るフォトグラファー、子供をかっこよく撮るフォトグラファー、そしてドキュメンタリーをかっこよく撮るフォトグラファー、いつも写真からたくさんの力をもらいました。



── モノクロのカメラマンが多いですね。



そうですね。モノクロって色が見えないかわりに想像力を高くすることができるでしょう。ただしフォトグラファーになって15年だけれど、東京の仕事でモノクロの仕事ってほんとうに少ない。だから自分の作品だけしかなかなか表現できないんです。でも、コマーシャルのときでもなるべくADやクライアントに必死にモノクロにしたい!と言う。よく現場では「またレスリーがモノクロにしたい、と言ってる」と言われてますよ(笑)。



── カメラはフィルムですか、デジタルですか?



フォトグラファーになった1998年から2001年までの4年間は、全部フィルムでした。35mmも、ミディアム・フォーマットも使っていました。2001年のゴールデンウィークあたりに初めてニューヨークに行きました。それは、日本のある有名なファッション・ブランドの仕事で、私をキャスティングして、向こうのスタッフと一緒に世界で一番人気なスーパーモデル・CARMEN KASSを撮影したのですが、そこでニューヨークの有名なエージェント、ジェッド・ルート(JED ROOT)が私の写真とエネルギーとキャラクターに興味を持ってくれて、「あなたは絶対ニューヨークに来たほうがいい」と言われました。東京の周りの先輩たちですら簡単にブックを見てくれない、それぐらいのエージェント。そこで、私もわけが分からない状態でニューヨークに行ってしまいました。



ニューヨークで4年半くらい住みました。その間は向こうの雑誌、広告、アーティストをいっぱい撮影して、なによりも、行ける本屋をすべて行って、今まで学生時代お金がなくて買えなかった、神保町で見つからなかった写真集を、全部そろえました。リチャード・アヴェドン、アーヴィン・ペン、ブルース・ウェーバー、ピーター・リンドバーグ・デイヴィッド・ベリー、グレッグ ゴーマン、ハーブ・リッツなどの全ての写真集を4年半かけて揃えました。それが私のニューヨークのいちばん幸せなエピソードかな。毎日撮影して、時間があったら本屋に行ったり、そこのいろんなギャラリーやキュレーターやフォトグラファーと会ったり、本を交換したりした日々でした。それでも毎月東京に帰ってきて撮影して、とても忙しかった。すごいラッキーでしたね。





私は93年に東京に来たんですけれど、そのとき23歳でほんとうにお金がなかった。シンガポールで生まれたときはお父さんがいなくて、シングルマザーで育てられて、お母さんは13歳のときに癌で亡くなって、私も中学を卒業せずに、すぐにシンガポールの日系工場で働きました。6年半働いて、お金を貯めて、妹に学費を払ったり、好きなレコードを買ったりしました。アカイとか日立のカセットテープを作る日系工場だったので、13歳から19歳までは日本の音楽しか聴いていませんでした。箱とかテープを作るスクリューとかをやっていました。その工場で出会った日本の人が、日本の音楽を薦めてくれたんです。



84年、5年でアイドルといったら中森明菜、松田聖子とかキョンキョンとかチェカーズがとても人気があって、当時のフジテレビの『夜のヒットスタジオ』とかNHKの『紅白歌合戦』がシンガポールのテレビ局でも放送されていたんですよ。字幕入りで日本語で歌ったりしゃべったりしているのを見ていたので、私は日本語を学ばなかったんだけれど、日本人が95パーセント以上の工場で6年半働いていたから、自然に「ありがとう」「こんにちは」とか日本語を覚えて、日本の文化や音楽に影響されました。私はユーミンがすごく好きになりました。いつか日本に来て、ユーミンのコンサートを観たい、ユーミンに会いたい、というのが夢だった。それで、10年間お金を貯めて、東京に来ました。23歳に日本に来て、新宿の日本語学校に一年半通って、アルバイトは新大久保と池袋と中野と新宿あたりで皿洗いとか掃除、中華料理、パチンコ、キャバクラの掃除とかいっぱいしました。そして、お金を貯めて東京ビジュアルアーツ写真専門学校になんとか入りました。



カメラのおかげで人と会話できるようになった少年時代





── なぜ写真の専門学校に行こうと思ったのですか?



お母さんが亡くなる4ヵ月前、13歳の誕生日にお母さんに「妹を撮りたい」とお願いして、ミノルタのカメラX-700を買ってもらったんです。子供の頃の自分の写真がなかったので、学校に行ったときにコンプレックスだった。小学校で友達やクラスメイトが集まって、夏休みのお父さんとお母さんとの写真を出しているのに、私はぜったい出せなかった。お父さんもいなかったし、お母さんもずっと働いていたし、おばあちゃんと暮らしたり、貧乏だからお金ももらっていなかった。だから、まだ5歳の妹に、私みたいに大人になって自分の写真がない人間になってほしくないと思った。妹は、違うお父さんでした。うちのお母さんは水商売をしていたので、シングルマザーで私と妹を一生懸命育てた。フィリピンやタイやインドネシアは、特にそれが多いんです。



おばあちゃんによると、私のお父さんは日本人かも、といつも言っていて、だから私は日本人に縁があるなと思いました。でも、証拠がないので、私の名前はレスリー・キーとシンガポールの家族の名字でずっと続けているけれど、たぶん本当のお父さんは一生見つからないと思います。



私は13歳から、母にもらったミノルタの35mmm一眼レフカメラで、コダックのフィルムを使ってサービスサイズで焼いていました。妹が私の初めてのモデルで、自分の自慢の作品です。工場で働いていてもいつもカメラを持っているから、たまに人を撮ったりしていて、周りの友達のなかでは、「写真を撮ってる少年」と思われていました。写真は私に勇気をいっぱいつけてくれました。だって、昔はもっとコンプレックスがあって、話もできなかった。カメラのおかげで、人と会話できるようになったんです。



シンガポールは台湾や韓国と同じ徴兵制ですから、軍隊も2年間、19歳から21歳まで行きました。その後、2年間は貧乏旅行をしました。シンガポールからバスに乗って、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、インド、ネパール、チベット、モンゴルと、全部ひとりで旅しました。本当に少しのお金で、とにかくバスばっかりで、どうしてもバスに乗れない場合は安いチケットの飛行機に乗って次の国に行って、旅の写真をたくさん撮りました。



webdice_P1390607


常に持ち歩いているというSUPERシリーズを広げ、Youtubeを見ながら取材は行われた。



── デジタルと違って、フィルムを買って現像するのもお金がかかりますよね。



工場で働いたお金を必死に貯めました。とても貧しい子供時代だったので、旅をして他の国の子供たちに会って、話して、元気を伝えられたらいいな、写真を撮ってあげたいと思いました。






── 自分のお金でカメラを買ったのはいつですか?



96年、東京ビジュアルアーツ写真専門学校に入る時に買いました。ミディアム・フォーマットのマミヤ645。その時はまだブローニーで、マミヤ645は長かったですね。98年にフォトグラファーになってから、子供の頃からずっと目が良くなくて、フォーカスにちょっと時間がかかってしまうので、周りの人の薦めで、オートフォーカスができるペンタックス645を買いました。



── プロフェッショナルのカメラマンになるために、誰かのお弟子さんに入ったのですか?



卒業してから、スタジオも10件行以上面接行ったし、有名なフォトグラファーにいっぱい面接に行きました。伊島薫さん、富永よしえさん、m.s.parkさん、Brunoさん、とにかくノンストップで面接に行ったんだけれど、東南アジアの学生だからビザを作ってくれないし、面接は全部落ちてしまった。でも私は本当に日本が好きだから、私にとって唯一無二の夢の国だし。どうしても日本に住みたいと、必死でいろんな人に協力してもらって、東京のモデル事務所のモデルさんを借りて、数百回以上のテスト・シューティングをしてポートフォリオをいっぱい作って、必死にブックを見せたりしました。だから、特には誰がきっかけではないです、出会った日本にいる人達全てのおかげです。




でもひとつ間違いなく大きかったのは、モデルの山口小夜子さんがナウ.ファッションというモデル事務所、日本では40年間以上続けているモデル・エージェンシーがマネージメントしていて、私はナウ.ファッションのモデルさんもテスト・シューティングしていたんです。ナウ.ファッションの社長の岩崎さんが私が撮ったモデルのコンポジットを使っていて、小夜子さんが事務所で、私が撮った写真を良かったと言ったらしいんです。それで小夜子さんから初めて仕事をもらったのが『家庭画報』でした。「この新人フォトグラファーに頼んでみよう」という感じ(笑)。山口さんが亡くなる前、98年のことでした。




小夜子さんが日本の雑誌で撮るきっかけをくれましたが、同時に、いろんなモデル事務所に行きました。アルバイトをして昼に1時間でも30分でも時間があったらアポイントをとって、こんな感じでブックを見せて。だから、昔も今も変わっていないですよ。必ず事務所に行く時は「私こういうものを作ってますよ」って持って歩くタイプだから。それで「モデルさんひとりでもいいから貸してくれませんか」、洋服屋さんに「貸し出してくれませんか」とお願いして回りました。当時中野の古いアパートに住んでいて、電話もないから、いつもポケットベルや公衆電話で電話したりしていました。親戚もいないし、友達も少なかったし、あのときはまだ日本語が下手だし読めませんでしたから、大変でした。




人生を変えたユーミンのために写真展を開催




── 工場でユーミンの曲を聴いていたレスリーが、ユーミンを最初に撮ったのはいつでしたか?



2001年の5月にやっと撮影することができました。98年に『家庭画報』の仕事をいただいて、すぐ東京のすべてのファッション誌が私に声をかけてくれました。「なぜあんなにラッキーだったのか」と聞かれるのですが、私もよく分からないですけれど、私が80’sが好きで、アヴェドンとかウェーバーあたりに影響されて、彼らのようなエネルギッシュな動きを学生時代に必死に撮っていたので、当時あった『high fashion』や『流行通信』のように90年代の写真はクールビューティーが多かったので、私のポートフォリオがとても新鮮だったのかな。まだ日本では『VOGUE JAPAN』も『ハーパース・バザー』もなかったですが、すぐ『SPUR』『MEN'S NON-NO』『SPRING』『FIGARO』とか、あの時一番売れてる雑誌からの仕事が増えてきて、一年半後に海外の『VOGUE TAIWAN』と契約して、今も15年間『VOGUE TAIWAN』で毎月撮っています。



いい人と出会えた事がラッキーだと思います。ふたりの女優さんとひとりの編集者にとても感謝をしています。藤原紀香さんと木村佳乃さん、そして当時『VOCE』の副編集長だった関(龍彦)さんです。98年にデビューして、仕事がバンバン来るようになって、2000年にFEMMEというエージェントに入りました。世界文化社が私に1年間、『MISS』の表紙を紀香さんとコラボで毎月撮っていました。当時紀香さんはちょうど松任谷正隆さんと今田耕司さんと日本テレビの『FUN』という音楽番組の司会をやっていました。私は、毎回撮影の時にユーミンの音楽をかけていたので、紀香さんも「レスリーという東南アジアのフォトグラファーで、名前が外人だけど見た目はアジア人でユーミンが大好き」だと分かったのだと思います。同じ時期『FRaU』で、木村佳乃さんと連載のようなかたちでよく会っていて、同じシチュエーションで撮っていました。そこでもいつもユーミンをかけていて、佳乃さんはちょうどイギリスに住んでいて東京に帰ってきて女優活動がはじまったばかりのときで、音楽活動をしていたときのプロデューサーが松任谷正隆さんだったので、佳乃さんがユーミンと仲良くなり、彼女もユーミンに私の事を伝えてくれたんです。



今は『FRaU』の編集長の関さんは、20年以上前『Delight Slight Light KISS』(1988年)『LOVE WARS』(1989年)あたりのアルバムのときは『ViVi』の担当でした。ユーミンは毎年年末アルバムを出して普段は雑誌に出ないけれど、『ViVi』の6ページ、8ページには登場していて、関さんはユーミン担当としてずっといい関係があった。ただし、関さんも『VOCE』をやることになって10年くらい会ってなかった。でも私と毎月関さんと『VOCE』の表紙をやっているから、どれだけ私がユーミンが好きかよく分かっていたので、ある日、2001年にユーミンがニューアルバム『acacia』を発売して、香港でもライヴをやるから、これはいいタイミング!と優しい関さんから「あなたのためにページを作るからレスリーとユーミンの夢のコラボ撮影をしよう」ということで、2001年の5月13日に初めてユーミンとフォトセッションをすることができました。そのときが30歳です。



── 日本に来てからユーミンのコンサートは何度も行っていたのですか?



もちろん!93年から毎年。いつも一番いい席で観たいから、当時は良くお金貯めて、会場の前で見た目が怖いダフ屋と交渉して、5万円から10万円も払っていましたよ。



── 本人と会ったときは?



夢みたい。会ったときに、ユーミンがすごく暖かくて「あなたと昔会ったような気がする」と接してくれて、撮影もすごくよかったし、あれから12年間ずっとユーミンとたくさんのファッション誌、ジャケ写、ツアーパンフレット、そして何よりもいろんな国で撮影できた。それが私のストーリーです。



── ドリーム・カムズ・トゥルーですね。



この前、37日間、ユーミンの40周年をお祝いするために、表参道ヒルズで写真展をやったんです(「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」2012年12月1日~2013年1月6日 表参道ヒルズで開催)これは私が12年間ずっと撮り貯めた作品で、私の人生最大な夢!人生で一番尊敬してるユーミンと松任谷正隆さんに感謝の気持ちを表したいです。実は写真集印刷、写真展会場費、イベント製作費、写真展宣伝費など合わせて6,000万以上の借金をして作った写真展で、なんと5万人以上来場しましたよ。感謝の気持ちを込めて、この豪華なユーミン40周年記念写真展は、日本全国のみんなに見てもらいたいので、もちろん入場無料にしましたよ。私にとってお金の金額はどうでもいい、一番大事なのは「心」です、だからこれは「幸せな借金」です。このチャンスを作ってくれたユーミンと松任谷さんと全てユーミンのスタッフにすごく感謝。






── 今も借金を抱えているのですか。



そうです。でももともとなにもないから。そんな私がここまでこれたユーミンへの感謝のために、草間彌生さんとか、鳩山幸さんとか、吉永小百合さんと桃井かおりさん、小田和正さんなど100人くらいのアーティストにお願いして、特別に手書きのメッセージを書いてもらいました。表参道ヒルズで今まで最大規模の写真展として、映像も流して、写真も400点展示して、写真集とレコード・アート・ボックスも作りましたし、映像も作りました。撮影のためにロンドンやアイルランドやいろんな国に一緒に全部行きました。日本のためにユーミンに一日も長く生きてほしいし、私のファンは若い人が多いけれど、今の若い人はAKB48とかK-POPとかアイドルしか聴かないから、ユーミンの素晴らしさをもっと若い世代に伝えたいと思いました。会場で13回もトークショーをしましたよ。写真展の初日レセプションパーティーの会場で600人の関係者、アーティスト、編集長に集まってもらって、ユーミンがゲストで、40周年のセレブレーションをしました。



ユーミンは私の人生を変えました。1972年から40年間、ほぼ毎年アルバム・コンセプトをきちんと松任谷正隆さんと一緒に考えて、必ず1枚最高なオリジナル・アルバムを作る。シンガー・ソングライターとしてオリジナルの曲、歌詞、ツアー、ステージ、全部こだわって続けている。こんなアーティストは世界でユーミンしかいない、間違いないでしょう!こういうライフワークにすごく尊敬します。フォトグラファーと一緒です。毎月、雑誌をやったり、何年かに1回は写真展をやったり本を出したり、そういうアーティストは憧れです。





興味があるのはヒューマン、アート、レボリューション、

そして次のジェネレーション




── ずっとコマーシャルなものを撮っているなかで、吉井さんのギャラリーで展示したアート作品も撮りためていたのですか。



2004年ニューヨークにいた頃からからずっと撮りためていて、いつかどこかのタイミングでアート・ギャラリーでやりたいなと思っていました。吉井さんと会ったのは2011年の震災の後です。同じ表参道ヒルズで、2011年の5月、震災の2ヵ月後に世界の有名な美しい人、シンディ・クロフォードやレディー・ガガやオノ・ヨーコとか幅広い女性のポートフォリオを200枚作り集めて許可をもらって、チャリティーの写真展「TIFFANY supports LOVE & HOPE by Leslie Kee」をやりました。自分で交渉して、世界のラグジュアリーブランド・ティファニー(TIFFANY)に5,000万円出してもらいました。やっぱり伝えること、必ず会いたい人に自分で手紙を書いて「会いたい」とシンプルな言葉で、それがいちばんリアルだと思います。なるべく自分の気持ちをみんなに伝えていく、写真で人生は変えられるよ、ということを伝えるために、大きな写真展を開きました。



毎回、何万人集まった、という記録を作るのが大事なのです。ティファニーはオリジナルのアーティストに出てほしいから、私が浜崎あゆみさんにお願いして、友情出演で全身ティファニーを付けてもらって、その写真集の、表紙の写真を撮りました。そして表参道ヒルズで大きいなチャリティー写真展をやって、写真集5,000部を売り切って、売上を日本赤十字社に1,500万円寄付しました。日本のティファニーのフランス人社長と一緒に目録を作って日本赤十字社の会長に直接渡しました。翌年2012年の3月、私はその作品「TIFFANY supports LOVE & HOPE by Leslie Kee」で、APA経済産業大臣賞を受賞しました。



── この企画はどうやって生まれたのですか?



3月11日、私はその日も撮影があって、ちょうど自分が尊敬しているアート・ディレクターの井上嗣也さんの事務所で打合せしていました。その途中地震が起こりました。撮影が終わってから夜の12時30分に渋谷の青山学院の家に帰って、マンションの7階に上がってドアを開けたら、本棚とハードディスクがぜんぶ倒れていました。自分の作品がそのようになってすごく悲しくて、ニュースを見たらとても大変な状況になっていました。私はアシスタントと友人4人で車を借りて、仙台と岩手県に行って、延々写真と映像を撮りました。東京に戻って、そこで撮った写真をすぐティファニーの社長に見せて「チャリティーをやりたい」ということを知らせたんです。だからティファニーの社長がOKをくれたのは、3月の20、21、22日に岩手県と女川で撮った震災後の写真があったからです。




webdice_leslee_311


岩手県と女川などで3日間かけて撮った震災1週間後の写真(2011年3月20日-22日)


── 写真展としては震災の写真ではなくビューティーがテーマになったのですね。



震災の写真を見せるわけではなくて、私は、もっと前向きに進めなくてはいけないと思いました。現地で撮ったドキュメンタリー写真は、会場の最後のところに飾りました。写真展のメッセージは、女性の美しさ。女性は子供を作って、美しさ、愛と希望は彼女たちの表情から生まれるもの。震災直後で、ファッション業界も音楽業界もテレビ業界も映画業界もみんな止まっている。でも私は違う、止まっちゃだめ。発信する人だから、福島とか岩手県の人たちがみんな苦しんでいても、私たちは元気でやっていかないといけないから。それをみんなにさせるために、女優さんもマスコミも浜崎さんも呼んで、逆にめっちゃ豪華で超派手な写真展をやりました。暗くいては何も変わらないから。



たぶんこの写真展に(吉井)仁実さんが来ていて、初めて会ったんだと思います。私の写真と活動を分かってくれました。その前に何回も写真展や本を出しているけれど、みんなファッション・フォトグラファーとか芸能人カメラマンとしか思われない。私はアートももちろん好きだけれど、もっと深いところで、何か社会貢献をしたい、この好きな国・日本をもっと幅広い気持ちに、大きくしたかった。自分が好きな70'sから80'sには、坂田栄一郎がアメリカから帰ってきたり、繰上和美さんがバリバリやっていたり、篠山紀信さんや荒木経惟さんや横須賀功光先生や稲越功一さん、もっと昔であれば木村伊兵衛さんとか秋山庄太郎さんとか、ジャパニーズ・パワーがいっぱいあったのに、自分が東京に来てフォトグラファーになった98年はミレニアムの2年前だから、エネルギーは死んでいました。コマーシャルのためにしか生きていなかった。




私はお金は本当に興味ない。興味があるのは、ヒューマン、アート、レボリューション、そして次のジェネレーション。でもなぜか周りにいる大勢のクリエイターはあまりそういう事を考えていない。これまで会った大きな企業で勤めてるアート・ディレクターやデザイナーなどはほとんど、とりあえずクライアントを喜ばせるために自分の魂を消して、本当の気持ちを殺す。一部の素晴らしいクリエイターは私みたいにやっているけれど、昔はもっと多かった。今の割合を見ると、フォトグラファーも昔より多いし、クリエイターも倍以上いる。その代りに根性のあるクリエイターが少ない。だから、バランスが悪い。もし私が70年代、80年代の東京にいたならば、ただ仕事していて平和に過ごしていていいという奴もいたし、アートに希望を持っているクリエイターもいたかもしれない。でもきっとそのときのバランスのほうがちょうど良かった。なぜならば、フォトグラファーも映画監督も少なかったから。今の時代はみんなクライアントのこととか合わすことだけが精一杯、仕事を失わないために、広告作りは冒険しない、新しい提案もしない、とにかく一番安全なやり方で進める。その考え方のせいで、クリエイティビティは低くなる、新しい挑戦も受けなくなる。心配ばかり、平和ボケの時代になってしまう気がする。



今回の私のメンズヌードのアート写真展は、一番いい例になったと思います。今まで、日本では女性ヌードの写真展と写真集は山ほど出されたけれど、男性ヌードというテーマは、日本のメディアはまだ受け入れることに慣れていない。だからすぐ「わいせつ」を思ったのでしょう。本当に日本のメディアがアートに対して知識が低すぎる事で、びっくりしました!島根県のダビデ像に「下着をはかせろ」という苦情がきたことが海外で話題になっている件も、本当にショック!2013年の今、まさか日本はこんな事で問題になるというのはとても残念。



でも、アーティストは挑戦しないと新しいものは生まれない。私はその時代に写真家の先生たちと会いたかったなと思った。大好きな先生たちの弟子になれない事で悔しかった。でも悔しいままではしょうがないから、私は今の時代で、先生たちが作ってきたものを大事にして、今の時代の若者に伝えたいと思っています。だから私はたくさんの写真展をやったり、本を出版したりすることが、今できることかなと思いました。



── 吉井さんはそこで、ファッション・フォトだけどもなにかあるな、と思ったのでしょうね。



私がやってきたのは、アート、エンターテインメント、ファッション、イベント、コマーシャル。でも吉井仁実さんがやるのは、完全にアート。あれから私は毎月写真展をやって、仁実さんもよく来てくれることによって、徐々に私の写真に興味を持ってくれて、夏の終わりくらいに私に「hiromiyoshiiギャラリーで、レスリーをキュレーションするから、ぜひやらない?」ということになりました。



私がメンズヌードを撮っていることは、周りはみんな知っていることでした。私は必ず自分の写真集のなかで2、3点くらいメンズヌードを入れるんです。2006年の11月11日に自分で借金してスマトラの津波のために640ページの写真集『SUPER STARS』を作りました。日本、中国、韓国、東南アジアの300人のアーティストを2年間かけて撮りおろししました。『SUPER STARS』というタイトルですが、私はみんなに当たり前のことはさせたくないので、ユーミンから中田英寿、坂本龍一、中国女優のチャン・ツィイーからオリンピックの金メダリスト選手達まで、いろんな人がいるなかでわざと「この人誰?」という人を入れようと、6人は自分で出会ったストリートのダンサー、自分で出会った若手の舞台俳優さんやモデルに交渉して脱いでもらって、裸の写真を入れました。それが私から見たSUPER STARSという存在。尊敬してるアヴェドンもそうじゃないですか。私もそういうコンセプトとアイデアを使いました。




webdice_Super-Stars-New

『SUPER STARS』300人の日本とアジア著名アーティストと、スマトラ津波のチャリティー写真展、表参道ヒルズ(2006年11月11日-19日)





あの時から「レスリーは大胆に裸のまま撮って載せる写真集を作ってる」と知られるようになりました。まさか2011年に仁実さんと会えると思っていなかったので、みんなに少しずつ分かってもらいたい、5年とか10年かかるかもしれないけれど、時間をかけてやりたい、と思っていました。でもキュレーターからのオファーがあって、ちょうど自分も2011年で40歳だし、やっとタイミングが来たな、と思いました。そこで、『FOREVER YOUNG』という初めてのメンズヌードの写真展を2011年11月25日から、1月終わるまで2ヵ月やりました。SUPER NUDEシリーズを8冊出して、反響が良くて、いろんな人が来てくれました。海外の人もたくさん見にきた。でも、まさか今回の事件で、私の傑作のSUPER NUDEシリーズはほぼ1万冊以上、ぜんぶ押収されてしまいました。とてもショック!





── ネットのなかでは、モデルがOKしていない写真をレスリーが展示したりした、と出ていましたけれど、それはどうなのですか?






それは何百人も撮っているので、モデルさんの中には、2、3人は少し不安に感じた人や「私はあの写真展を見ていやだと思った」とtwitterで書かれたりしたかもしれないけれど、伝えたい事は分かってくれたはずです。アートに知識があまりないモデルは、ちょっと理解するのに時間かかる。でも撮った被写体のモデルさんはほとんど理解してくれますよ。「SUPER TOKYO」は1000人のヌードも撮ったし。私は先を読んでいるから、業界の中で「進みすぎてついていけない」、と皆良く言われるけれど。アーティストとしてそれは関係ありません。私は進めるものを進めたい、それがとても大事な気持ち。例えばこのSUPERシリーズのコンセプトはすべて50ページで、タイトルにSUPERと出ていたら、コラボ相手は山本耀司、浜崎あゆみ、レディー・ガガ、ユニクロ、アフリカの民族や動物、何でもOK。私は一番興味があるのは“THIS IS”、シンプルに強く語るのが好きなんです。そしてたまたま今度のは“THIS IS NUDE SERIES!”。全てのテーマは同じ、無差別ということなんです。



webdice_supelesliekee

『SUPER LADY GAGA』の表紙


── このレディー・ガガの写真集は?



ガガが来日したときに撮影した大好きな作品。毎回、写真が勝負なんです。何を言っても、写真がいちばん伝えられるんです。例えばこういうインタビューで聞かれたときにもちろん説明しますが、ほんとうは説明もなんにもいりません。Just look at it and you will and understand. 見たら分かるじゃないですか。分からない人は、いつか分かって、ということなんですよ。私は死ぬまで撮り続けるという運命があるから。なぜ撮り続けることができるかというと、恩返し。お母さんに私がこの生命をくれて、カメラと出会ってdestinyがあって、カメラとともにこの世の中でほんとうに信じている愛情、平和、夢、希望、勇気をどんどん与えていこうと思ったんです。






日本にないものを撮りたいとこのメンズヌードを撮った






── 吉井さんのギャラリーでなぜメンズヌードをやろうと思ったのですか?



日本というこの国は、女性のヌードがほとんどなので、日本にない珍しいテーマを撮りたいと思った。答えはそれだけです。私はファッションが好き。でもポートレートはもっと好き。女も男の裸に対する美しさはよく分かる。生きるというテーマをずっと表現してる。でもそれだけじゃなくて、今の日本にないものはなにかと凄く考えて、observationしました。写真家・荒木経惟も大好きだし、篠山紀信の活動も大好きだし、三島由紀夫に影響されているところもあります。ひょっとしたら、このメンズヌードというテーマで、時代が、考え方が変わるんじゃないかと思いました。



この15年間はフォトグラファーになって、周りに一緒にしている女性たちは強いと思いました。エディター、クリエイター、スタイリスト、モデル、デザイナー、女優、そしてアシスタントも女のほうが強い。男のほうが弱くなってきた。だから写真を通して、「強い男性像」を作って、日本中みんなに見てもらおうと思いました。強い男を表現するためには裸で表現する。今までみんなはコンプレックスがあるかもしれないし、恥ずかしいと思うかもしれないことを、リアルで撮って見せたかったのです。



── 2年前もフルヌードの写真だったのですか?



もちろん。2011年は8冊も出版したよ!8冊全てモデルさんと誇りを持って、時間をかけてモデルと一緒に一生懸命撮った作品です。ライティングも写真編集もとてもかっこいい。海外でもとても評価が高い。今回より前回のほうが作品ももっと多かったし。だって2006年に出版した「SUPER STARS」というスマトラ島沖地震のチャリティー写真集と写真展のときも、300人のアーティストの中で数人の男性と女性は、隠したものも隠してないものもありました。杉本彩さんは裸で撮らせてくれた。私はずっとテーマを変えずに撮ってる。



── なぜそのとき警察は何も言わず、写真集も売っていたんでしょう?



だから、私もまったくよく分かりません。業界の友人達、アーティスト達も今回の事件がとても不思議だと思った。だって本当のわいせつなポルノ写真と映像を製作をしている人は日本中の裏でたくさんいるのに、なぜ彼らは捕まらないの?私はもちろんわいせつな写真を撮っていないし、だから悲しいです。メディアにめちゃくちゃな事書かれている、私の事を知らない人は本当に誤解されそう。



── 今回の展覧会は、最初にパーティーがあったんですね。



2月の2日、いつもどおりFACEBOOKとtwitterで告知しました。FACEBOOKは1万人、twitterは4万人フォロワーがいて、計5万人ぐらいには分かりやすく、どこで写真展をやるので、みんな招待状なしで来てください、いくらでもウェルカムするしサインします、と知らせました。だからいつも何百人、何千人来ます。



── オープニング・パーティーが問題なく終わってから、どうなったのですか?



日曜日も撮影していて、月曜日も朝6時から撮影をやっていて、その現場に、1時4分、刑事が逮捕状を持って来て、手錠をかけられて、浅草の警察署に連れていかれました。びっくりしました。「あなたは2月2日にわいせつな写真集を出して写真展を行なって、5冊の『SUPER MIKI』と2冊の『SUPER GOH』を○○さんが買った」という証明を見せられました。いつもモデルの名前をタイトルにつけるんです。MIKIは舞台俳優さん、GOHはトラック・ドライバーです。






── 浅草署でどんなことを聞かれたのですか。



2時から夜の11時まで小さな部屋でずっと質問をされました。いまと同じようなこと「なぜ写真展をやるのですか」「なぜメンズヌードをやるのですか」「なぜhiromiyoshiiギャラリーでやったのですか」「これはわいせつだと知っていますか」。私はアートだと思っているから、同じ答えを繰り返し答えていました。答えたことの90パーセント以上はFACEBOOKとtwitterで書いています。




次の日は、すごく優しい弁護士が来ました。とてもいい弁護士でした。すごく悲しい気持ちだった私を落ち着かせてくれた。



── なにかアドバイスはありましたか?



アドバイスよりも、「自分の事を信じてください」と言われました。「あなたのアートを信じればいいから」と。そういう意味で、私はいまだに変わらず、芸術として撮っていますから、わいせつという意味がよく分からないです。



── 2日目はまた取り調べがあったのですか。



午後からいっぱい調べられて、同じことを聞かれました。「どこで印刷したか」「誰があなたと吉井さんを紹介したのか」「この本を印刷するのにどうやってお金を集めたのか」そして、当然私の活動についても聞かれました。でも、ネット上の記事やYoutubeを何十本も見れば、どれくらいの写真展をやって、スポンサーもないし、借金をしてやっているということは、分かりますから。



── 刑事さんもFACEBOOKを見たうえで質問しているのでしょうか。



たぶん見てないと思います。「せっかく一生懸命書いてるから、見て欲しい」と言いました。



── 検察にはいつ行ったのですか?



霞ヶ関の検察には水曜日の朝行きました。みんな順番で、呼ばれたら説明してくれました。「あなたの写真は、日本では印刷したらダメって知っていますか」と聞かれて、私は「知りません、アート・ギャラリーですから」と答えました。1時間くらいしゃべって、最終的には私の写真が日本の法律ではわいせつに当たること知らなかったという認識不足を認めてもらいました。だってほんとうに知らなかったんです。アート・ギャラリーでやるという条件で、写真展をやるから、問題ないと思いましたし、1回目やったときも問題なかったのですから。私にとって人生一番悲しい2日間だった。





── いつ釈放されたのですか?



いちど浅草署に戻って、水曜日の夜の9時半に釈放されました。マスコミが外で待っていました。浅草から霞ヶ関に移動するときもマスコミが外にいっぱいいて、すごくショックでした。あんなに集まるとは思いませんでした。逮捕されたときに携帯も全部取られて、外の事が分からなかったので、女優さん、役者さん、歌手みんながメッセージをtwitterやFACEBOOKやブログで書いてくれていたのが分からなかったので、釈放されたときに、車のなかでずっとiPadを見ていて、すごい泣きました。浜崎あゆみさんや冨永愛さん、藤原紀香さん、松任谷正隆さんやいろんなデザイナー、アーティストがみんな自分の名前でメッセージをくれた。不安だった人もいると思いますが、彼らはみんな私のことをほんとうに信じてくれたんだなと、あらためてよく分かった。自分はなんて幸せなんだと、あの夜思いました。




LK5

2月2日「FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」初日の様子



48時間ジェイルにいたけれど、フォトグラファーになってから、初めてそれくらいの時間、誰ともしゃべらず、壁に向かっていました。真っ白ななかで、いろんなものがもっと分かりました。クリアになったのは、やっぱり私は写真に救われた、ということ。あらためてそう思いました。こんなことがあってすごく傷ついたし、世間では犯罪者みたいに見る人もいる。業界のなかでは半分笑いながら、「レスリー・キーってメンズヌードがいちばん美しくて、得意でシグネチャだから、これで捕まってしまうなら、レスリーはなにをすればいいんだ」という反応も多かった。私がヌードをやらなくなると、アメリカやヨーロッパはいっぱいいるけれど、アジアでメンズヌードをやる人はほとんどいないから。だから私はこのメンズヌードを6年、7年前に撮り始めて、自分はこういうコンセプトを身につけられるのが嬉しかった。いつか大きな会場で発表したいなと思いました。仁実さんと会って、会場は大きくないけれど、でもがんばろうと思った。1回目だから、がんばって8冊出しました。それで2回目また頼まれて、ほんとうに去年忙しくて、毎月写真展とイベントをやっていたので、2月2日は仁実さんと約束していたので、やらざるを得ないから、緊急で2冊出しました。



── 2回目は吉井さんから頼まれたのですか?



1回目も2回目も仁実さんから頼まれました。



── アート作品を自分で発表できる場所があるならやりたいと。



もちろん、ファッションとかコマーシャル・フォトだとなかなかないですから。川内倫子さんと森山大道さんはファッションはやらないし、ファッションやコマーシャルとアートは割り切っているから、アート・ギャラリーがキュレーションしてくれるのはすごい嬉しかった。



311の時と同じように、今こそやらないといけない!




── 仕事がいきなりキャンセルになったりしませんでしたか?



実は2月の6日か7日から14日までは旧正月で毎年国に帰るので、もともと仕事も入っていなかったんです。だから仕事がキャンセルされたのは、逮捕された日の撮影と、その後の2日間のふたつだけでした。ただし、いろんな企業に不安にさせたことは、うちのマネージャーは申し訳ないと感じています。



── 不安になっていた企業も分かってくれましたか?



この2週間でなんとか全部クリアしました。私のマネージャー鈴木さんがとても私のアート作品をアピールしてくれました。逮捕されて最初の3日、4日はパニックで、311みたいでした。311のときも私たちは今行くべきだ、と車を借りて、仙台行って、写真をバシバシ撮って人と会ったりしゃべったり映像を撮ったりしました。その時と同じように、「今こそやらないといけないよ!」と。このインタビューも受けるべき、チャンスだから、いま受けないといつ受けるのか、と思いました。クリエイターって発言したいけれど、今まで私は写真で発表しているから、今はこういうメッセージを発表するチャンスだから発表する。世界中の人が私のニュースを知りたいから、今言わないと、1ヵ月、2ヵ月経ったら誰も読まないですよ。私にとっては、オーディエンスがいちばん大事。オーディエンスがいないと、一生懸命撮った写真も映像も音楽で何も意味がない。オーディエンスがいて初めて作品が生きるんです。







── モデルの人たちがわいせつだ、ということになってしまいますからね。



会田誠さんも、あんなにいい展覧会をやっているのにバッシングされたり。だから、自分は日本人じゃないですけれど、一日でも早くこの件で、日本のクリエイターに可能性を広げて、海外のような写真の表現が日本でもできますよ、ということを与えてあげたいなと思います。BECAUSE I LIKE JAPANだから。ほんとうに日本が好きなんです。だって昔の『流行通信』やハナエモリさんの作った作品は素晴らしいのに、そういうものが売れなくなったら、やらなくなってしまう。みんな売れるものしか興味がないんですよ。だから、売れるものはクオリティが低いものが多いんです。ぜんぶじゃないですけれど、売れるために合わせてしまうから、ほんとうのいい作品がない。それがこれからの課題です。まさかこういう経験になってしまったから、これからしっかりこの経験を大事にしながら、この日本という自分にとっての夢の国をもっと夢の国にしたいなと思いました。



── 分かりました。



昨日(2月21日)、写真集を印刷した印刷会社の児玉さんとお父さんも逮捕されたんです。児玉武志さんは私と印刷の件でやりとりしていたけれど、70歳のお父さんの児玉社長まで捕まってしまった。彼らは普通の人ですよ。児玉さんは仁実さんもファッション業界もみんな良く知っている。「レスリーは有名な写真家ですから、断りきれなかった」なんて、メディアが大げさに報じているだけで、児玉さんは私が撮った作品は全てアートをずっと信じてるし、いつも私たちは一生懸命日本のアート界をもっとレベルアップするために頑張ってます。本当にみんな家族みたいに仲いいですから。



児玉さんは日本のアート業界、ファッション業界のために、カタログ、ポスター、写真集などの印刷をいっぱいやっていて、ここ2年間私のすべて出版した写真集も全部やっている。その中の一部がメンズヌードだというだけでしょう。彼とお父さんが一番かわいそう。私はとても悲しい。ずっと泣いていた、心が痛い。私は世界で一番有名な中国のアーティスト、アイ・ウェイウェイをすごく尊敬しています。そんな彼の自由を奪う中国のようだと思いました。



私も児玉さんとお父さんに対して、なにもできないから悔しい。祈るしかないから。実はこれだけSUPERシリーズを作った費用を、半分以上はまだ払っていないです。メンズヌードの写真展をやって儲かって車買って家買って、ってなっていればいいけれど、そんなことはありません。今までの全てSUPERシリーズの写真展も全部入場無料ですし。私はとにかくお金よりも、大勢の人が写真展を見に来る事が一番大事。何故ならば、私は写真展の会場で、きっと人生のプラスになるメッセージを皆に与えることができるから。







── コマーシャルで稼いだお金をアートに全部つぎ込んでいるのですね。





そう。それは私にとっては大事。それが私のライフワーク。悔いもなにもない。世界どこでも応援者が増えてきたし、そうした財産がいっぱいあります。だから今こういう事件になることによって、多少固いクライアントからの仕事は影響されたけれど、アートと音楽とファッション界の仕事はあまり影響ないと思います。自分らはいい写真を撮る自信を持っているから、そのうちまたもっといい内容の仕事が来ると思うし。なによりも私はずっと昔から世界のアート業界で活躍する可能性を作りたかったので、これがきっかけになったら嬉しいなと思った。この前のBlouin Artinfoの記事も何十ヵ国の人が読んでくれた。この事件が起こった最初の何日かはショックで、悲しかったけれど、今考えるともしかしたら必然かな、と思っています。





同性愛の人が社会の法律に合わせなきゃいけないと

苦しんでいるのを変えたい






今日(2月22日)は私の卒業したアシスタントのHAYATOが初めての写真展をやるんだけれど、彼のために私が50万円お金を出して写真集を300部作ったんです。それも児玉さんが逮捕されるギリギリの一昨日まで印刷していて、昨日届きました。今日はレセプションパーティーで、写真展のパネルも児玉さんご一家がやってくれて、ほんとうは会場に来てくれるはずだったんです。



私はメンズヌードの写真を撮って、世の中に愛と平和と希望を与えるけれど、警察にとっては「なぜ男の裸の写真が愛と平和を伝えられるの?」ってバカと思われるだけ。もう話しても理解できないから。ただ変態な奴としか思われないでしょう。2013年だし、日本はすごく進んでいる国だと思えたから、まさかこういうことまで、日本国内ではあまりに馬鹿馬鹿しいことが話題になるっていうことは、本当に理解ができないですね。特にアメリカとヨーロッパのメディアの記事を読んだら、日本はアートに対して理解のレベルがこんなに低いって、私はとてもショックです。



でもがっかりした部分も大きいけれど、落ち込んで日本が嫌、ということになっちゃいけないから、今は、こんな人たちも含めてもっといろんな日本人にお世話になっているということを感じています。ずっと社会貢献しているし、チャリティーが好きなので、社会に受けられるフォトグラファーになりたい。でも私がいちばん興味を持っているのは、お金がどうのこうのではなくて、マインドの社会貢献。日本人は素晴らしいものを持っている。ものづくりの丁寧さでは、中国と韓国は負けていると思う。あとはマインドをもっと広げれば、もっともっとすごい国になるでしょう。






2月13日に、フランスでもアメリカみたいに同性愛結婚がOKになったことがニュースになりましたよね。だからほんとうにアジアのなかでいちばん同性愛結婚ができる国は日本。日本が同性愛結婚ができたら、どれくらい日本の経済が良くなるでしょう。



──アジアから日本にみんな結婚式を挙げにくればいいですね。



それもあるし、例えばロスはアメリカ人男同士の結婚はいっぱいあるでしょう。経済的に男ふたりは強いから、2人とも働いていることが多いから、アートを買ったり、家を買ったり、投資ができたりできる。でも今日本では男と女しか家に入れない。もともと自由だったのに。それがあるから、多くの同性愛者が堂々と暮らせない。同性愛結婚ができたら、アジアは日本はもっと凄い国になります。同性愛の人がたくさんいるのにそれを隠している。社会の法律に合わせなきゃいけないと、苦しんでいる。彼らは何も罪もないのに。私はその考え方を変えたいから、こういうヌード写真展をやるんです。だから、たまたまあなたはここに生まれたかもしれないけれど、アジア人もヨーロッパ人もアメリカ人も、みんな同じだよ。男と女、男と男、女と女も、皆自由な恋愛で素敵な事よ。関係ないから。みんなひとりでも多くの人に、この気持ちを知ってもらいたい。



例えばイスラムの国ならば、同性愛は罪になるかもしれない。ならば、そこまで私は力はないかもしれないけれど、でも私がいるのはこの都会の国・日本だからね。情報も溢れているし、どこよりもAVの世界ではポルノグラフィが多い国なのに、私がアート・ギャラリーでメンズヌードのアート写真展を開催した事が問題になるなんて、どうしたのと思って。浅井さん、なんで?



── 今回の容疑はわいせつ図画の展示ではなく販売でしょう。販売は買った人がどこかに持っていって、見せる可能性があるからだと思います。展示は、ギャラリーという限られた場所だし今回は容疑にはなっていない。ただし、販売に関しては6,000円という高い写真集で、子供は買わないし、興味ない人は6,000円も払わない、しかも販売していたのはギャラリーの中なので僕は問題はないと思うのですけど。



これがもし500円でコンビニで買えて中身がオールヌードだったら、それは見たくない人も見られるから、そういった場所での販売は取り締まってもいいし、僕も反対です。表現の自由を100%担保した上でゾーニングすることは必要だと思ってます。ドイツではポルノの販売は街角のポルノショップで行われている。でも通信販売は禁じられている。買う人が子供かもしれないからです。でも今回のレスリーの件は、アート・ギャラリーだし、写真集も、ほしい人が買っている。もし、今回、ギャラリーで写真集を買いたい人から先にお金を払って住所を書いてもらい、後日宅急便で発送するという方法をとっていれば状況は違ったかもしれませんね。



会場では子供も入れていないし、そういうところは注意してます。



── であれば、どんな写真でも僕はOKであってほしい国であってほしいと思う。でも残念ながら日本は違う。



浅井さんがメイプルソープの写真集を出したのはいつですか?



── 1994年です。僕がメイプルソープの写真集を日本で作って販売したときは段ボールの箱に入れてシュリンクして、ビニ本のようにして普通の書店で販売しました。売っている書店の人に迷惑がかからないようにして、朝日新聞にも広告をうって、1999年に僕はいったん海外に持っていって持って帰ってきて税関で提出したら、これは輸入してはだめだと言った。それでやりとりがあって、国が決めた輸入禁止には反対です、と2000年に行政訴訟として国を訴えました。僕が原告で国が被告です。メイプルソープ写真集は日本で売っていた本だし、国会図書館にも入っていた。僕は日本のルールを変えたかったから、確信的に外国に持ち出し、再び国内に持ち込んだ。そこから裁判がはじまって、最初の地方裁判所では僕が勝ちました。国が上告して、高等裁判所ではわいせつだということで負けました。それを不服として、最高裁に上告しました。最終的には国が負けたのです。最高裁の判決が2008年ですので、訴訟を起こしてから8年、裁判を起こす事を前提に出版してから14年かかりました。



この数百ページの写真集のうち、メイルヌードが何ページでパーセンテージが少ないとか、モノクロの写真だから、もちろんロバート・メイプルソープという写真家の写真だ、という理由で、わいせつでなくアートだということになりました。わいせつを禁じる法律を変えることはできないので、裁判で勝つためにはわいせつかアートかで闘うしかありません。だからレスリーがアートと言い切ることは正しいし、アートを展示する場所でやっていたから、公然ではなく限られた場所での展示、限られた場所での販売は、どんなに男性器が勃起している写真だろうと自由であるべきだと思います。



現状の日本はそういうことをやっている。いつ変わるんでしょうか。



── 僕は2008年に最高裁の判決が出て、日本の表現の自由は少しは変わったと思ったんだけれど、またこういうことが起きたのが残念です。



5年前ですか。



── その時は新聞のトップにも出ました。せっかく僕が、ここまではOKという裁判の判例を進歩させたので、2013年にレスリーの写真集がだめというのは残念です。現在起訴猶予ですが、このまま起訴だったら、レスリーや吉井さんは裁判で無実を主張するでしょう。検事さんたちはメイプルソープの写真集の判例は知っているので最高裁までこの裁判を維持できるか考えるでしょう。僕は、起訴しても最高裁迄いけば検察が負ける可能性は高いと思うので、不起訴にしてほしいと強く思います。



僕は“未来の表現の自由”のために裁判をやり判例を作ったのですから。



ありがとう。私の作品を愛してくれる世界中の人々がたくさんいるのですから、本当に幸せ!未来の表現の自由はこれから、日本のアートと写真業界の課題になるでしょう。



今回の事件で、私が良く分かった事、現在は日本はまだアートについての理解が、思ったより進歩していないね。でもきっと10年後、20年後、いろいろ変わって来ることを信じたいですね。

日本でなかなかこの件について語ると話せる人がいないから、今日は浅井さんと会えて本当に嬉しいです。これからも是非一緒にこの国で、たくさんの素晴らしいアート作品を作って、輝く日本の未来のために、頑張りましょう!とにかく、私は夢をあきらめない、私はアートも捨てられない、私は死ぬまで、自分の作品を通して、世界中の人々に愛と希望と勇気を与え続けます!



(2013年2月22日、渋谷アップリンクにて インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)










s_aki_H1-H4

2011年の「FOREVER YOUNG」写真展で発売された8冊のSUPER NUDEシリーズ



webdice_ForeverYoung-25Nov2011

第1回目の「FOREVER YOUNG」写真展、ギャラリーhiromiyoshii roppongiにて。
(2011年11月25日-2012年1月31日)








webdice_Super-Tokyo-Ref_edited-1

2010年4月23日より2週間表参道ヒルズで開催された写真展「SUPER TOKYO」、来場50,000人。写真集『SUPER TOKYO』は“愛と平和と世代”をテーマに、東京で出会った1,000人のヌードを撮り下ろすというプロジェクト。収益の一部は国連人口基金「お母さんの命を守るキャンペーン(UNFPA)」に寄付された。




webdice_Super-LoveHope-New_edited-1

世界32カ国の女性セレブリティ200人のポートレイトを収録したチャリティ写真集『TIFFANY supports "LOVE & HOPE" by Leslie Kee』。表紙を飾るのは浜崎あゆみ。表参道ヒルズにて写真展開催。売上げの全額が東日本大震災の義援金として寄付された。



webdice_Leslee_2

レスリー・キーが撮った世界の歌姫 レディー・ガガ、ジェニファー・ロペス、クリスティーナ・アギレラ、ビヨンセ、ヒラリー・ダフ、アヴリル・ラヴィーン




webdice_SUPER-NUDES

アジア人のヌードをテーマとしたコラボレーション。上から『SUPER A/X HOPE』、浜崎あゆみのPV「BRILLANTE」、月刊シリーズの『月刊 MISS UNIVERSE』、雑誌『anan』より「美しいオトコのカラダとは」特集




▼「SUPER LADY GAGA by LESLIE KEE」(2012年)





▼「SUPER YOHJI YAMAMOTO」デザイナー山本耀司とコラボのポップアップストアと写真展 (2012年9月8日-25日)


[youtube:dYNZA7z54Nc]

▼「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」(2012年)

[youtube:FciQ31UjBlM]










【関連記事】

[DICE'S EYE]メイプルソープ写真集裁判、最高裁猥褻の基準見直し!映画からボカシがなくなる!?(2008-02-19)

http://www.webdice.jp/dice/detail/27/










レスリー・キー プロフィール



1971年シンガポール生まれ。1994年来日。日本語を学びつつポートフォリオの作成を始める。1997年東京ビジュアルアーツ写真学校卒業。1998年独立。ファッションを中心に香港、台湾、日本とアジア各地で活動。2001年より5年間ニューヨークにベースを移し、活動の場を広げる。2006年東京に戻りファッション・フォトグラファーとアート写真家として活動。写真集『SUPER STARS』を発売。表参道ヒルズにて写真展開催。300人ものアジアのトップアーティストの協力を得て、津波の被害者に捧げられた。『VOGUE』『25ans』『anan』『ViVi』等多数の日本雑誌社の仕事を行い、またアパレルやビューティーを中心に幅広く企業広告「SHISEIDO」「ユニクロ」「NTT」「SOFT BANK」「JR」「VISA」宝塚の公演ポスターなどを手がけている。東日本大震災チャリティー写真集「Tiffany supports LOVE & HOPE by LESLIE KEE」がAPAアワード2012にて経済産業大臣賞を受賞。2012年は西武渋谷店にて写真展「SUPER POWER PEOPLE」、「ANTEPRIMA supports THE COLORS OF HOPE 」、デザイナー山本耀司とコラボ「SUPER YOHJI YAMAMOTO」、スーパーモデル冨永愛15周年写真展「SUPER AI TOMINAGA」、ユニクロ x kitsonコラボ「SUPER MAMA」をユニクロ銀座店にて開催など。また5万人来場した松任谷由実の40周年記念の史上最大の写真展『YUMING FOREVER by LESLIE KEE』を表参道ヒルズにて37日間開催。

http://www.lesliekeesuper.com/

https://twitter.com/lesliekeesuper

http://www.facebook.com/lesliekeesuper

女装の世界をきっかけに自分らしく生きる道へ踏み出す〈はじまりの物語〉『僕の中のオトコの娘 』

$
0
0

映画『僕の中のオトコの娘』より (c)2012『僕の中のオトコの娘』製作委員会


社会との関わりに悩むひとりの若者が、女装を好む男性・女装娘(じょそこ)という現代日本独自の文化に傾倒していくことで、自己を確立していく様とそこでの葛藤を描く映画『僕の中のオトコの娘』。昨年12月のロードショーに続き、3月9日(土)より渋谷アップリンクでのアンコール・レイトショーが決定した。今回の上映では、受付で女装をしてきて申告すれば適用される女装娘割や、本広克行監督や細野辰興監督、女装美少年専門誌の編集長によるトークや、女装入門とも呼べるワークショップも行われる。




ゲイでもオカマでもなく、性的趣向は関係なく、趣味や選択として男子が女子の格好をする女装娘の世界。なぜ描こうと思ったのか、窪田将治監督に話を聞いた。



「初めて女装の世界に触れたのは今から7年前、偶然行った新宿三丁目の店が女装BARでした。女装娘やトランスジェンダーといった方々はその頃も多くいましたけど、当時は女装と言うカテゴリーがまだ浸透してない状況で、解りづらいという理由から映画化は見送られました。僕は、ゲイでもオカマでもトランスジェンダーでもない、曖昧というか“曖昧なんだけど芯がある”人間臭さ、その世界が非常に日本人らしいというか面白いと感じて、この映画の企画を立てたんです。いまやグローバルに情報が共有できる状況ですが、当時は違いましたよね。悩みも共有できるようになって、状況は一変したのではないでしょうか。人間は一人で生きれるほど強くないと思いますから」。



webdice_窪田監督

映画『僕の中のオトコの娘』の窪田将治監督



川野直輝が演じる『僕の中のオトコの娘』の主人公、足立謙介は父と姉との実家住まいをしながらも、社会生活になじめず、ひきこもってゲームやネットサーフィンにふけっている。隠れた自分を表現できる場、として女装娘に惹かれていくが、監督のなかで女装娘とはどんな存在なのだろうか。




「自分自身を女装と言う姿で表現したと言うような、一つの作品のように思います。1人で映画を撮って恥ずかしいから誰にも見せない人もいるでしょうし、YouTubeにアップする人もいれば出品する人もいます。女装も、自宅でひっそりやっている人もいるでしょうし、街中を歩きまわる人もいます。僕の中では映画と同じ、作品かもしれませんね。女装を追及している女装娘はやっぱり尊敬しますよ」。



webdice_bokunakaメイン

映画『僕の中のオトコの娘』より (c)2012『僕の中のオトコの娘』製作委員会



女装バーやイベントといった女装娘たちの活動の場とともに描かれるのが、息子となかなか語る場を持とうとしない父親や、献身的に弟を支える姉など、現代の家族の在り方。監督は今作に登場する足立家のような「家族の誰かが何かを始めたら応援するような」家族が理想だと語る。




「僕はまだ独身なので、家族の一員としての家族観になりますが、仲間意識が強い家族が良い家族のような気がしています。『血は水よりも濃い』と言うくらい、家族の血の繋がりは強いですよね。良いことでも悪いことでも何か起こしてしまったら最終的には親兄弟が守ってくれると言う安心感はあります。ただ本当に難しい話なんですけど経済的にある程度の体力がないと、そうは言ってもままならない場合もありますよね。さっきの話ではないですが、情報が目に見えて共有できるような時代になったと思ったら、すぐ傍にいるはずの家族とのコミュニケーションが不足してしまったり、子を捨てる親がいる世の中ですから。そんな世の中でも、家族は必死にお互いを応援するような、今作の足立家のようなものであってほしいですね」。



webdice_bokunakaサブ1

映画『僕の中のオトコの娘』より (c)2012『僕の中のオトコの娘』製作委員会


今回の女装娘のほかにも、2009年の作品『スリーカウント』では女子プロレスをテーマにするなど、狭い世界で必死に生きようとする人たちに非常に惹かれるという窪田監督自身も、現在の社会に生きづらさを感じているという。



「映画を創る時は特に感じています。いまはご存知の通り、脚本から全てオリジナルの映画が創りづらい世の中ですから。しんどいですよ。でも結局は、何をやるにも自分自身に負けない事なんだと思います。手を抜こうと思えばいくらでもできるわけです。予算が無いからこれくらいでもいいかとか、これくらいのテイクが撮れればもう十分だろうとか。でも僕は諦めたり手を抜く人間は嫌いです(笑)。自分自身にプレッシャーをかけてやっていかないと、倒れ込んでしまいそうになることもあります。どうせ倒れるなら前のめりで倒れたいじゃないですか」。




webdice_bokunakaサブ4

映画『僕の中のオトコの娘』より (c)2012『僕の中のオトコの娘』製作委員会


女装娘の世界にのめり込むことで、家に閉じ籠っていたときには感じることのできなかった自由を感じることができた謙介はしかし、ある出来事をきっかけに、女装したままの姿で「自分が嫌いだ」とつぶやく。家族や女装BARのママたちとの関係を丹念に描いていく本作のなかで、静かではあるが最もエモーションを感じるシーンだ。



「あのシーンは謙介の本質だと思っています。自分自身の仕事への対応、家族を含め他人への興味など30年間、言わば戦わず過ごしてきたのだと思います。そしてやりたい事を見つけ女装の世界に飛び込んでみたものの性格なんか変わる筈も無く抱え込んでしまう。見た目は変わっても中身は変わらない。そんな自分が嫌だし嫌い。そんな謙介の心情を表現する為に何が必要かと考え出来たシーンですね。

僕自身もそうなんですけど誰にでもそう言った瞬間ってあるんじゃないでしょうか?「人生は切り開いていくもの」だとよく聞きますが、僕は『人生は切り開いてもらうもの』と思っています。今、僕は38歳ですけど自分の人生を振り返るだけでも〝出会い”がすべての転機になっているように思います。

僕は映画界と言う狭い世界で生きて、映画なんかやって馬鹿じゃないの?とか普通に働いたら?とか色々言われ続けていたわけです。今後も言われ続けるでしょうし(笑)。あまりにも言われ続けるとやっぱり不安になるんですよね。このままでいいのかと。やりたいのであれば不安なんかに負けずにやり続ければ良いのに。ただ一人でやるには辛すぎるんです。僕がやれているのは一緒に映画を創ってくれるスタッフやキャストと言った仲間がいて、そして何より応援してくれる親がいて兄弟がいる。誰かに出会い、物事に出会うことで自分の人生はどんどん変わっていっている。生かされている感じがしてならないです。

謙介もまた仲間や親兄弟の助けで一歩踏み出すわけです。今後、どうなって行くかは謙介自身の問題。まさにそれも僕自身と一緒ですね。この映画は〈はじまりの物語〉ですから」。



(構成:駒井憲嗣)











窪田将治 プロフィール


1974年、宮崎県出身。1997年日本映画学校卒業。在学中には脚本家・池端俊作氏、映画監督・細野辰興氏に師事。2006年に『zoku』で劇場映画デビュー。2009年には女子プロレスを題材にした映画『スリーカウント』で長編映画デビューを果たす。2010年の江戸川乱歩原作の映画『失恋殺人』、翌年の『CRAZY-ISM クレイジズム』そして今作『僕の中のオトコの娘』と3年連続でモントリオール世界映画祭“Focus on World Cinema”部門に正式出品され、海外でも高い評価を受けた。その他、テレビ番組の企画・演出・構成作家など多方面で活躍している。











映画『僕の中のオトコの娘』

2013年3月9日(土)より渋谷アップリンクにてアンコール・レイトショー



監督・脚本・編集:窪田将治

出演:川野直輝 中村ゆり 草野康太/河合龍之介 内田朝陽 山田キヌヲ 馬場良馬(友情出演) 柳憂怜/木下ほうか/ベンガル

エグゼクティブプロデューサー:菊池笛人、竹井佑介、三上靖史

プロデューサー:小関智和、斉藤三保

撮影監督:根岸憲一(JSC)

録音:田邊茂男

音楽:與語一平

製作:『僕の中のオトコの娘』製作委員会(マクザム,FAITHentertainment,NEXT LEVEL)

企画・制作プロダクション:FAITHentertainment

制作協力:トライアムズ

配給・宣伝:太秦

宣伝協力:ボダパカ

2012年/日本/カラー/100分/HD

(c)2012『僕の中のオトコの娘』製作委員会



公式サイト:http://www.boku-naka.com/

公式twitter:https://twitter.com/boku_naka

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/僕の中のオトコの娘/238607712927751




イベント情報





【オトコの娘サミット開催決定!】

上映終了後に下記イベントを開催!!


■3月9日(土)本広克行監督 × 窪田将治監督トークショー!



■3月11日(月)≪オトコの娘・教育委員会 ~オトコの娘のイロハ教えます~≫

女装美少年総合専門誌「オトコノコ時代」編集長・井戸隆明氏による女装業界のムーブメント徹底検証っ!



■3月13日(水)細野辰興監督 × 窪田将治監督トークショー!



■3月14日(木)≪女装娘ワークショップ ~新入生歓迎会~≫

女装業界ナンバー1レンタルブティック「Leaf Style」女店長Mによる女装の秘儀と楽しみを徹底伝授っ!


■3月15日(金)松村克弥監督 × 窪田将治監督トークショー!





【パワーアップ女装娘割(じょそこわり)、実施決定!】

チケットカウンターにて、女装をしてきた状態で「女装娘です」と御申告いただくことで、通常料金1,300 円のところを 1000 円で御覧いただける特別サービス。『僕の中のオトコの娘』上映期間中、当作品についてのみ適用。ほかサービス、サービスデイとの併用はできません。




詳しくは下記より

http://www.uplink.co.jp/movie/2013/7525





▼映画『僕の中のオトコの娘』予告編



[youtube:rEseLVkd6GY]

ヴィヴィッドな色彩で人々と時代の感覚を変えたインド映画

$
0
0

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd



インドで公開と同時に爆発的な人気を獲得し、ボリウッド映画の最高峰と呼ばれる映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』が3月16日(土)より、渋谷シネマライズ、シネ・リーブル梅田を皮切りに全国順次ロードショー公開される。今回は、インドでの公開時に現地の熱気を体験している、よろずエキゾ風物ライター/DJのサラーム海上氏が今作の魅力を解説してもらった。



巨大な映画館でマサラシステム状態を体験



『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』がインドで公開されたのは2007年の11月9日、ヒンドゥー教の新年にあたるディーワーリーの日だった。その日、僕は南インド・ケーララ州のヴァルカラ・ビーチにいた。すぐにでも観たかったが、近くに映画館はなく、ホテルの部屋にあったテレビで映画のミュージカルシーンやCMを一日数十回も見て期待を膨らませるだけだった。

映画を観ることができたのはそれから5日後、場所は州都ティルヴァナンタプラムのボロボロの巨大な映画館だった。もちろん超満員で、席番号など誰も守らなかったし、熱気ムンムンでエアコンが全然効かなくなっていた。そして映画が始まると、南インドの田舎の観客だけに、揃って騒ぎだし、いわゆるマサラシステム状態となってしまった。ハハハ。北の大都会ではもうそんなことは誰もやってないんだけどね。

もちろん英語字幕などないし、その頃の僕はまだヒンディー語を習っていなかった。なので、台詞は一切わからなかったが、ストーリーの大半は理解できた。それが王道ボリウッド映画の良さの一つでもある(笑)。




webdice_2007年南イント?て?OSOのホ?スター

『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』のポスター(2007年/南インド)


webdice_2007年南イント?OSO立て看板

『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の立て看板(2007年/南インド)



映画館を出たその足で、町のCDショップに行った。サントラ盤CDには4種類のポスターがランダムに封入されていたので、お土産を兼ねてとりあえず3枚買うと、幸運な事に3種類とも異なるデザインのシャー・ルク・カーンのポスターが入っていた。ラッキー! あと1種類でコンプリート!と思い、後日、更に3枚買ってみたが、今度は同じポスターばかりが続いた。数ヶ月後にDVDボックスを手に入れたが、またしても同じポスター。結局最後の1種類、ヘルメットを被った消防士姿のシャー・ルクのポスターはいまだに手に入らないままだ。日本のAKB商法にダマされることはないが、ボリウッドだとニコニコしながらダマされている僕がいる……。


webdice_OSOのホ?スターやCDなと?

『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』ポスターやCDなど



webdice_OSOCDとDVDなと?

『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』CDとDVDなど



'08年正月、今度は西インド・グジャラート州アーメダバードのシネコンで再びこの映画を観た。封切りから2ヵ月、しかも平日の昼だったが、500人ほどの大劇場の1/4は埋まっていた。インドを毎年のように訪れていながら、映画館でインド映画を見たことがないという日本人のダンサーを連れていくと、「こんなにキラキラして楽しかったのか!」と大喜びしてくれた。その後、彼女はボリウッド映画のミュージカルシーンで踊る外国人ダンサーのアルバイトを始めた。




ボリウッド音楽が欧米ポップ音楽を越えた瞬間


 

この映画の音楽監督は、昨年日本で公開されたボリウッド映画『ラ・ワン』と同じヴィシャール&シェーカル。今でこそ大物プロデューサーとなった彼らだが、'07年当時はまだまだ新進気鋭のデュオと言ったところ。シャー・ルク・カーンが主演し、その年最大級のヒットを期待される映画にはアカデミー賞受賞で知られるA.R.ラフマーン、もしくは売れっ子プロデューサー・トリオのシャンカル・エヘサーン・ローイ辺りが相応しかった。実際、監督とシャー・ルクは最初はラフマーンにオファーしたが、条件が合わず、ヴィシャール&シェーカルが大抜擢されることとなった。

僕は'05年のボリウッド映画『Bluffmaster!』の音楽で彼らに注目し始めた。英米の最新R&Bを見据えながらも、同時に古いボリウッド映画音楽からの引用も行う温故知新&ジャンル横断なサウンド感覚。そんな彼らの音を当時、僕は「ボリウッドの渋谷系登場」と評した。この映画における彼らの音楽もまさにそうした出来だ。懐かしさと新しさ、インド臭いメロディーと洗練されたサウンドが同居する。




webdice_OSO2-106_2

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd




「ざわめくディスコ(Dard-e-Disco)」はベリーダンス風の打ち込みリズムとイントロを持つミドルテンポの四つ打ちディスコ曲。ブリブリの低音は東京のクラブのサウンドシステムでプレイしてもまったく遜色ない。「ディーワーナギー(Deewangi Deewangi)」は「オーム・シャーンティ・オーム♪」というサビが非常にキャッチーだ。僕はトルコのイスタンブルのクラブでDJをしたときに、この曲をかけたところ、トルコ人たちもこの曲を知っていて、サビを一緒に歌い、振り付けまで真似てくれた。やはりボリウッドは世界標準なのだ!



「パキスタンの宗教音楽カウワーリー出身の歌手ラーハット・ファテー・アリー・ハーンが歌う「Jag Soona Soona Lage」は傷心の主人公を、人を酔わせるカウワーリーのテクニックを応用して歌いきっている。この曲以降、ラーハットは切ないラブソングを歌わせたらボリウッド音楽ナンバルワンの男性歌手となった。



「シャー・ルクとディーピカーの'70年代ファッション七変化が楽しい「Dhoom Taana」はなんとパーカッションだけで85人、ストリングスが45人、コーラス隊が32人、総勢180人の音楽家によって演奏されている。欧米のポップスでもこれほどの人海戦術をかけられるアーティストはもはや存在しない。ボリウッド音楽が欧米ポップ音楽を越えた瞬間だ。




webdice_OSO2-138_2

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd




この映画の特徴の一つである「'70年代末のレトロでキッチュなボリウッド」。実際に当時のボリウッド映画を見直すと、主演俳優や演出は今以上にギラギラしているが、ここまでヴィヴィッドな色彩は当時の照明技術や撮影機材では表現しえなかった。21世紀だからこそ作り出せるキャッチーな色彩だ。この映画以降、こうした「本物を越えて美化された'70年代インド」というイメージが様々な映画やテレビCMなどで登場することとなった。今、デリーの代官山ことハウスカース・ヴィレッジに行けば、これまで二束三文だった古いボリウッド映画のポスターを高値で売る店や、古い映画をモチーフにしたキッチュなデザインの高級小物を並べるセレクトショップが繁盛している。

一つの映画が人々の感覚、そして時代の感覚を変える。『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』は21世紀のインドにおけるそんな作品であったのだ。



2013年2月22日

サラーム海上

www.chez-salam.com



(映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』劇場パンフレットより)











映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』

2013年3月16日(土)より、渋谷シネマライズほか全国順次公開




監督:ファラー・カーン

撮影監督:V.マニカンダン

編集:シリーシュ・クンダル

美術:サーブ・シリル

作曲:ヴィシャール=シェーカル

作詞:ジャーヴェード・アクタル

衣裳デザイン:マニーシュ・マルホートラー(ディーピカー担当)、カラン・ジョーハル(シャー・ルク担当)

出演:シャー・ルク・カーン、ディーピカー・パードゥコーン、アルジュン・ラームパール、シュレーヤス・タラプデー

提供:アジア映画社、マクザム、パルコ

配給・宣伝:アップリンク

原題:Om Shanti Om

2007年/インド/169分/カラー/ヒンディー語/シネスコ




公式サイト:http://www.uplink.co.jp/oso/

公式twitter:https://twitter.com/oso_movie

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/OSO.jp




▼『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』予告編


[youtube:VEbPSoNN7F4]


レスリー・キー写真集販売での逮捕についてギャラリーhiromiyoshiiの吉井氏語る

$
0
0

ギャラリーhiromiyoshii roppongiで取材に答える吉井仁実氏



写真家のレスリー・キー氏が2月2日から開催されていた自身の写真展「FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」で男性器が多数写った写真集を販売したとして、レスリー氏、そして写真展の会場である東京・港区六本木のギャラリーhiromiyoshii roppongiのオーナー兼ディレクターの吉井仁実氏らががわいせつ図画頒布容疑で警視庁に逮捕された。3人は2月4日の逮捕の後、2月6日に3人が処分保留で釈放。その後、写真集を印刷・製本した印刷会社・八紘美術の児玉紘一社長と、次男の児玉武志氏がわいせつ図画頒布幇助の疑いで逮捕、翌日の22日に釈放されている。



webDICEでは2月13日、吉井氏に写真展が行われたhiromiyoshii roppongiで、写真展までの経緯や逮捕の状況、そして氏のアートに対する考えまで話を聞いた。さらに2月22日にはレスリー氏にも取材を行い、3月2日にインタビュー記事を掲載した。

 

アクションを起こしたいという、


社会性や問題意識のある展示だった





── 今回、レスリ・キー写真集事件の事の次第を教えていただきたいと思いました。このhiromiyoshii roppongiで展覧会が行われたんですよね。わいせつ図画販売と報道されていましたが、展示自体は問われなかったのですか。



一昨年の12月にここで展示を行ったのが、1回目です。それまでも彼は、表参道ヒルズのギャラリーで『Tiffany supports "LOVE&HOPE" by LESLIE KEE』だったり、1年に1回くらい展覧会をやっていました。彼がコンテンポラリーのアート・ギャラリーで展覧会をやりたいという話をしているということで、知人から紹介してもらったんです。そのときにレスリーから、「国籍とか人種とか性別を越えて様々な愛と希望を追及する写真を撮りたい」と聞きました。レスリーの作品自体はアートと呼べるかどうかということはまだ明確に自分のなかで理解していませんでしたが、日本の社会において多様性を問うというコンセプトとしては現代美術のギャラリーで扱ってもおかしくないと判断しました。





webdice_yoshiihiromi_edited-1

ギャラリーhiromiyoshii roppongiの外観





表参道ヒルズでは女性の美の追求をやっているから、ギャラリーでは男性の美を追求するような展覧会をやりたい、という話でした。僕はコンセプトが明確であればアーティストのやることに細かいディレクションしたりはしないので、レスリーが男性ヌードの展覧会をやりたい、ということであれば、ぜひやってください、ということで1回目の展覧会を決めました。



終わってから、レスリーから「継続して展覧会をやりたい」と言われました。僕も男性のヌードの展覧会は初めてでしたけれど、日本ではなかなかないですし、とりわけコンセプトが興味深い。そして、レスリーから継続していかなければいけない理由のひとつとして、日本では同性愛について理解が極めて少ない、だから日本で認められるようなアクションを起こす展覧会を続けたいということでした。



アメリカではニューヨークなど州によって同性の結婚が認められていて、レスリー自身もニューヨークで式を挙げています。日本の同性愛者、男女問わず、少しでもアクションを起こしたいというのが目的だったと思います。そういう意味では、社会性とか、問題意識を含んだ展覧会だと思ったので、僕は続けることを決めました。



── 一昨年の展覧会は作品を販売したのですか。



もちろん、写真作品として販売しました。でも写真自体は売れなかったです。なかなか日本の家で女性ヌードをかけている人ってあまりいないですし、男性ヌードはさらに少ない。ただ、レスリーが自分で編集した写真集はある程度売れました。






── ギャラリー・ビジネスとして写真が売れないというのは困ることですか。



もちろん困ります。ただ、長い目で見るということと、売れる展覧会と売れない展覧会があって、売れるからやる、という展覧会をやっているわけではないです。ギャラリーは、実験の場だと考えでいます。アーティストの考えに共感して、表現のひとつとして場を提供していると思っているので、売れるか売れないかというのは大した問題ではないんです。



── 一昨年と今年の展示に関しては、警察から見れば、メイルヌードの露出具合は変わらなかったのですか?



ゲイカルチャーの追及は深くなったと思います。



── 一昨年問題にならなかったんだから、今回も問題ない、というところもあったのですか。



問題になる、ならないということは意識しなかったです。アートだと思っていましたし、今でも思っています。




leslie_kee_flyer

2月に開催された「FOREVER YOUNG Uncensored Edition !!!! Male Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」のフライヤー


── 残念ながら取り締まられた本は見ていないんですけれど、一昨年出版された本と、今年の出版物については?



スタンダードに見ても、そんなに変わらないと思います。さらに過激になったとは思えないです。ただ、前の展覧会のときは他の写真集も売ったんです。レディー・ガガの写真集や、彼がずっと今までやってきた、男性ヌードではない写真集も一緒に売りました。今回は、男性ヌードを中心として、売ったので。そのぐらいの違いです。全部押収されてしまったので、今ここには在庫も残っていません。




レスリーの写真からは、メイプルソープが表現したような、

生命の躍動感、人間の生きる証が感じとれた




── ネットの記事では、レスリーのモデルが許諾をしていないのに裸を展示したり、写真集にされて、それに頭にきた人たちがレスリーをこらしめるためにたれこんだ、というのも出ていましたが。



少なくとも今回の展覧会のモデルは承諾していますし、皆オープニングに来て楽しんで、喜んでいたくらいですから、そんなことはないと思います。




── 図画販売の実績がないと逮捕できないですから、買った人に「買いましたね」と確認したうえで、販売したかを吉井さんに確認したのですね。



確認された人は逮捕されていないですけれど、わいせつ物に値するような本がこの場所で売られているということをそこで確認して、僕に売ったかどうかを確認して「売りました」ということで逮捕されたということです。




僕はアーティストに対して細かい作品のディレクションは一切しないんです。写真集も初日の朝に届いて、中をちらっとしか見てないくらいですから。僕なりに彼と話して、日本において文化の多様性が問われていると意識したんです。人種とか性別とか年齢とか、そうしたコンセプトに対して共感したわけです。また写真を見たとき、メイプルソープが表現したような、生命の躍動感、人間の生きる証がレスリーの写真からも感じとれました。



── 展示している作品と写真集の中身は違うのですか。



同じものもありました。

基本的には展覧会も本を売るのも、未成年者は立入禁止、それから、もし女性が入ってきた場合は、刺激的な表現があるのでそれを了承したうえで入ってください、と伝えることを徹底していました。きっちりと未成年には見せないようにしているので、ギャラリーで展覧会をすることについては、問題ないと思っていました。



── 警察は、展示物も押収したのですか。



押収しました。写真集を買った人がいます、その人が仮にいらなくなって捨てたり落としたりして、それを誰かが見たらどうするか、とも聞かれました、僕はそこまで想定していないと答えました。






webdice_foreveryoung

2011年11月に開催された「FOREVER YOUNG Men’s Nude Photo Exhibition by LESLIE KEE」のフライヤー



── 僕はメイプルソープの裁判でお願いした山下弁護士に「なぜ国家がわいせつを制限するのか」と聞いたことがあります。かつてはポルノばかり見てると国民の勤労意欲を失わせる、というのが理由だったらしい。ただ現代においては、見たくない人の権利を守るためにあると。僕の裁判の前に同じメイプルソープ写真集の裁判があってその時の判決文を読むと、当時の美術館はまだ男性器の出ているメイルヌードを自主規制で展示していなかったので、裁判官はそれを逆手にとって、「美術館でさえ認められていない」ものだという判決文を書いたんです。裏返せば、ある程度年齢制限や注意をしたうえであれば、道路ではないし交通広告でもない、一般書店でもない限られた「美術館やギャラリーであれば、オープンな表現であるべきだ」というのは、裁判官および日本国家も分かってるんです。だから、今回のようなある程度閉じられていたギャラリーであれば、少なくとも、メイプルソープの写真集の裁判例からいうと、ギャラリーでの展示や写真集をコンビニや一般書店ではなく展示をしているギャラリーで販売している事に関しては僕はまったく問題ないと思います。

警察の取り調べで自分はわいせつ物だと認識していない、ということは主張されるわけですよね。



僕は今まで芸術としてずっとやってきたことに確信を持っています。ただ、一般の人がわいせつだとすれば、わいせつじゃないかなということも僕は理解しているんです。芸術とわいせつは同義語だと思うんです。芸術であるしわいせつである、わいせつであるし芸術である。だからわいせつ物としてそれが扱われて、国家の基準に触れるようなことがあれば、芸術だと信じていますが、それはある程度仕方がない。というような話をしました。





── 僕も芸術かわいせつかに関しては、吉井さんと同じスタンスで、国家が嫉妬して検閲するなら、それぐらい価値があるものだと思います。だからそれがポルノグラフィであろうとアートであろうと、表現として僕は認めます。ただ、裁判で闘うには、わいせつ物は違法だ、という刑法175条があるから、「わいせつでない芸術だ」という裁判闘争しかないですね。

メイプルソープの写真集については今回の件で判決文をあらためて読んだら、全体の写真集のなかの比率というところに触れていました。花の写真と静物の写真があって、メイルヌードが何ページある、ということなので、僕はレスリーの写真集は拝見していないですけれど、全ページもしメイルヌードであったにしても、アートだ、ということは今の時代、言い切れると思うんです。



そうですね、でも今、先進国でこのような国はないですからね。



── 5年前でもインターネットでポルノは見られました。それを考えると今や動画見放題ですから。僕の場合は関税定率法による輸入禁止だったので、刑法175条においても、風俗を乱すということでは現在インターネットで海外のポルノグラフィを見放題なので、もうポルノについては実質解禁だと思うのですよね。



僕もそう思います。



── あとはゾーニングの問題ですよね。



だからうちでも、インターネット販売は一切しなかったんです。




webDICE_SUPERGOH2_edited-1

2月の写真展で販売された写真集『SUPER MIKI』(左)『SUPER GOH』(右)


── ドイツもポルノグラフィの販売はOKなんですけれど、ネット販売はできないそうです。相手の年齢が確認できないから。



こういうのを機会にどんどん議論が生まれてくるといいと思います。

この事件があって、アート関係のいろんな方々から応援して頂き大変有難い思いです。アクションを起こしたり、自分の主張を通したり、そうしたことから逃げようとするのであれば、こういう仕事をするべきではないと思います。森美術館の会田誠展もすごく議論を呼んでいますが、会田さんを扱っている三潴さん(ミヅマアートギャラリー)と話しましたが「常に覚悟している」と言っていましたからね。ものを作り出すことや、社会を変えていく、というのはそういうことだと思います。





── 僕もオーナーなので覚悟はできているけれど、もし法律に触れるかどうかの映画の上映をやっているときにチケットを売った受付のアルバイトの子が逮捕されたらいけないから、そうした映画上映の場合は自動販売機にするとか、それぐらい従業員の安全の確保をしないといけないと思いました。

販売した人を逮捕すると、今後は書店側、流通も自主規制をするようになる。昔のビニ本は流通の過程では逮捕者がでないシステムとしてシュリンクして中が見えない、しかも自販機で販売するなどの販売方法が発明がされたのだと思います。



シュリンクされていないで、本屋にあるものだったら、本屋のスタッフが逮捕されてしまう。さらに厳しくなってくるでしょうね。『図書館戦争』という映画のように、これからさらに厳しくなっていんでしょう。覚悟が必要ですよね。今回の経験から、働く人たちも、もちろん危害が及ばないようにしなくてはいけないのは僕たちの責任です。でもスレスレのところで戦っていかなければいけない職業でもあると思うので。

社会に対するひとつのアクションであり、過激なメッセージであり、それらをアートを通して与えることの意味があると思っています。僕は違いますが、アート界には同性愛の人が多いので、そういう人たちにもう少しでも理解のある社会、手助けのアクションができれば、そういう展覧会ができればと思っていました。



── でも実は警察の逮捕よりも怖いのは、例えば森美術館のスポンサーに圧力を善良な市民団体が押しつけてくることですよね。レスリーの今回の写真に嫌悪感をもよおす人もいるでしょう。だから、だめというのではなく、その人たちは見なくてもいいし、買わなくてもいい、というシステムが担保されている社会が必要ですよね。自分が嫌悪感を持つから警察に捕まえてもらっていいというのは短絡的すぎる。



選択ができるということですよね。



── だからゾーニングなり、ギャラリーに入るときの規制をするということが必要だと思います。アートは限られた人であれば理解できる、というものであれば、そこまで立ち入る権力の必要はないと思うし。



いろんな議論が巻き起こって、自由な選択ができる状況になっていけばいいですよね。



── 僕はメイプルソープに関しては、Xポートレートシリーズを映画のR18みたいに18歳未満を入場禁止にしてギャラリーで展示するくらいの展示方法があるといいなと思っています。最高裁で勝っている写真だから、限られた人だけに見せることができるかたちだったら大丈夫だと思います。




コンテクストを理解してもらいたいです。部分だけとってわいせつだ、というよりも全体というか。映画でも全体のなかでその描写が必要なものかどうかでしょう。



── メイプルソープもモノクロだ、ということやページの割合について判決文に書いてありましたから。全体の流れを見て、映画でも性器の露出は、例えば立小便のシーンなどはOKになってきているんですよ。性器自体がダメというのではなく、わいせつという概念が非常に揺らいでいる。

今回もし不起訴になれば、刑法175条的にコンビニなどでなくて限られた販売方法をとって販売するならOKだということですね。これは次への大きなステップになると思います。そうやってわいせつの概念がアップデートされればいいと思います。



そうなってくれれば、僕が留置所に泊まったことが報われます(笑)。




ものを作る人間の心を開放しなければいけない





── もし不起訴なら、このレベルならOKだというサインなのでそれをギャラリストや出版関係者がちゃんと行使すべきなんです。限られたところで少しずつやって、表現をもっと開放してほしいです。



選択肢を持てる世界ですよね。いまは思考能力をそぎ取られているようなものですからね。その閉塞感は感じていて、とりわけ近ごろのアーティストを見ても、概念や価値観、固定概念に縛られているように感じます。



レスリーの写真展をやろうと思う前に、遠藤一郎というアーティストが、アンディパンダン展みたいな公募展を開催しました。作品のマテリアルやサイズなども限定しないで無審査で参加できる展覧会の審査員として協力したのですが、普通ならサイズもマテリアルも選べるのに、みんなこじんまりした作品が揃ってしまった。何人かのアーティストに聞いたところ、ホワイトキューブのギャラリーをイメージして作品を作ってしまっている、というんです。それって、本来自由であるべきアーティストが不自由になってしまっているのではないかととても心配しました。



ということは、ものを作る人間の心を開放しなければいけないんじゃないか。数年前、東京都現代美術館の長谷川祐子さんがクロスジャンルの展覧会、『SPACE FOR YOUR FUTURE』というアートとデザインと建築の遺伝子を組み替えるような展覧会を行なって、ものすごい広がりを感じたんです。逆に、デザインや建築などのほうが、クライアントがいたり制度や決まりがあって不自由のなかでより自由を求める。遺伝子を組み換え合わせていかないと本来自由であるべきアートが自由でなくなってしまうんじゃないかと。



レスリーみたいにコマーシャルで生きている人が、どれだけギャラリーのなかで自由奔放にできるかと。レスリーの前には書道家の展覧会や、建築家の展覧会も開催して、作品をつくっていく自由とは何か?いちばん自由でなければいけない現代美術の人がいちばん不自由になってしまっているんじゃないかなって。





── それはなぜだと思いますか?



アーティストに限ったことではないですが、別の方向で考えてみると、自分自身で考えて選択する、ということがうまくできなくなってしまっているのではないでしょうか。便利になりすぎたんでしょうか。僕は、日本はワンストップの文化の象徴だと思っているんです。コンビニに行ったらぜんぶ事足りてしまう。そうすると知恵を使って、探す、選ぶ、ということをやらなくなってしまった。社会が選択肢をなくすような環境を作っていて、自らも選択肢を与えられなくなっているのではないかと。



── その弊害が現代美術のアーティストにも及んでいると。



クライアントがいるわけでもないし、不特定多数の人に買ってもらうわけでもない。固定概念とか価値観を打ち崩すツールとして、僕はアートがいちばん機能しなければいけないものだと思っているんです。僕自身も閉塞感を感じていたので、レスリーに会ったときに、あんなに自由な人がいるんだと思ったんです。



── 選択肢の多い社会じゃないと国自体の力が弱まりますよね。このままでは、検察や警察には「国益を損ねますよ」と言いたいですね。



長い目でみたらまったくそうですよね。今の日本がダメになっているのもそれが理由の一つではないでしょうか。麻生さんがまんが美術館を作ると言っていましたが、そんなことよりも、その根からやっていかなければいけない。そのためには教育だと思うんです。



── それは東京芸大の入試におけるデッサン至上主義が変わらないと。村上隆も会田誠も絵がうまいですからね。絵がうまくない現代美術家って誰ですかね。



マルセル・デュシャンですかね(笑)。芸術の見方、感じ方を教える事が重要だと思います。

例えばアメリカやヨーロッパに行くと、鑑賞教育が7割ぐらいあるので、美術館に子供がたくさんいますよね。日本は鑑賞教育のプログラムが1、2割ぐらいしかないんです。だから、見て感じる想像力や、自分で選ぶ能力が欠如しているんじゃないかと思っているんです。たとえ絵が描けなくても、見るだけでもアートに参加できて楽しめる、という認識すら持てなくなってしまっているんではないでしょうか。テレビのバラエティのほうが何も考えなくて観ていられるので楽ですよね。美術館に行って絵を見るって創造力を必要としますし、メイプルソープの写真を観てわいせつだと思ってしまうのは、鑑賞教育がないからだと思うんです。子供の頃から感じて想像していくことに慣れていないので、生命の躍動や宇宙的な要素を含んでいたメイプルソープの意図、生きることの喜びや楽しさをあの写真から読み取ること、理解するだけの素養がないのではないかと思うんです。どんどん思考能力が停止していって、与えられたもののなかでやる、という風になってしまっているんじゃないかと思います。僕は、そこまで突き詰めてなにかやろうと思っているんです。社会において常に選択肢があることを、認識していること自体が少なくなっている。アクションをおこしていかないと、特定の権力者の思うがままになってしまうのではないでしょうか。




(2013年2月13日、hiromiyoshii roppongiにて インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)










【関連記事】

[DICE'S EYE]レスリー・キー「私は死ぬまで、自分の作品を通して、世界中の人々に愛と希望と勇気を与え続けます!」(2013-03-02)

http://www.webdice.jp/dice/detail/3801/

[DICE'S EYE]メイプルソープ写真集裁判、最高裁猥褻の基準見直し!映画からボカシがなくなる!?(2008-02-19)

http://www.webdice.jp/dice/detail/27/












吉井仁実(よしいひろみ) プロフィール


1967年東京都生まれ。1999年、HIROMI YOSHII EDITIONを設立。杉本博司、横尾忠則等の版画制作を企画・出版する。2001年、ギャラリービル・六本木コンプレックスを立ち上げ、現代美術ギャラリーhiromiyoshiiを同ビルに開廊。2005年、六本木の現代美術ギャラリーT&G ARTSのディレクターに就任、同年11月にhiromiyoshiiを清澄白河に移転。2010年、清澄より六本木に移転。主に9.11以降の国内外の注目アーティストを取り扱い、海外にも日本人アーティストを積極的に紹介。

http://www.hiromiyoshii.com/



「サイエントロジーの創始者にオーソン・ウェルズのイメージを加えて、欲望に突き動かされるキャラクターを作り上げた」

$
0
0

映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.





『マグノリア』(1999年)『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)など、群像劇や重厚な人間ドラマに定評のあるポール・トーマス・アンダーソン監督の5年ぶりとなる最新作『ザ・マスター』が3月23日(土)より公開される。第二次世界大戦末期を皮切りに、ある新興宗教団体をめぐる人間関係をストイックな演出、そしてホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマンの巧みな演技により描き出している。監督は「まったく予想もつかない、エネルギーの固まりのような人間に魅了される」と、この物語のインスピレーションを受けたサイエントロジーの創始者L・ロン・ハバードについて語っている。




多くの死や破壊を目にした後の問い



── 見終わった後も、ずっと考え続けてしまう。そして考えれば考える程、映画自体が変化し続けるような、すばらしい映画でした。



ありがとう。とても嬉しい感想だ。すごい陳腐な言い方だから本当は嫌なんだけど、何かを終わらせようとしても決して終わる事はない。映画を作るとき、頑張って何かに到達しようとすればする程、状況は常に変化し続ける、とてもいい方向にね。我々は自分たちが探求しているものは何なのかということを、常に探し求めている。ホアキンは、とても独創的で、(次の行動が)全く予期できない俳優で、一緒に仕事をしていて、とてもエキサイティングでスリリングなんだ。その日の撮影現場にやってきて、想像もしていなかったような演技を見せてくれる。いろんな分野において、それぞれがいいものを作ろうと頑張って、それが達成できるというのは素晴らしい事だよ。今回は、作っていくうちにそれぞれのキャラクターにどんどん深みが出てきて、強くなったんだ。一般受けはしないかもしれないようなストーリー展開になったかもしれない。でもキャラクターたちがしっかり観客に伝わってくれていればいいと思っている。




僕は今作で、第二次世界大戦のアメリカで生まれた新しい家族形態の始まり、精神的なつながりを持つ新興宗教を描きたいと考えていた。ことの始まりをたどっていけば、善意が元にあったことが分かる。その火花が、人々の心を突き動かし、自分たち自身と、周りの世界を変えていくだろうと考えたんだ。大戦後、人は楽観的に将来を考えていたわけだけど、同時にその過去には、極めて多くの痛みや死があったんだ。大戦から帰還した僕の父は、その後の人生を不安感にさいなまれて過ごした。スピリチュアルなムーブメントや新しい宗教というのは、いつの時代にも起こり得るものだけど、特に戦争の後という時期が起こりやすい。多くの死や破壊を目にした後、人は“なぜこうなる?”とか“死んだらどこへ行くのか?”ということを考える。この2つは非常に重要な問いなんだ。





69th Venice Film Festival, Lido di Venezia, Italy 29/08 - 08/08/201269th Venice Film Festival, Lido di Venezia, Italy 29/08 - 08/08/2012

映画『ザ・マスター』のポール・トーマス・アンダーソン監督 (C)Kazuko Wakayama


── この映画は多くの点でサイエントロジーの創成期と類似点があります。どんな動機からこの物語を描こうと思いついたのですか。



僕の場合いつも言えることなんだが、映画を作ったあとでは最初に考えていた動機やアイディアを思い出すのは至難の技なんだ(笑)。脚本を書いている途中でどんどん変わっていく。たしかにサイエントロジーから多くのインスピレーションを受けたし、既に発表されているもの(創始者L・ロン・ハバードによるサイエントロジー協議本「ダイアネティックス」)を映画のソースとして参考にしたから、実際映画に出てくる家やその雰囲気も、とても似ている。でも僕は決してサイエントロジーに関しての映画を作ろうとしたのではない。始まりはふたりのキャラクターだった。ランカスターとフレディという性格の異なるキャラクターがいて、ある時点でふたりが出会う。ただそこからストーリーが転がっていくためには、たくさんの要素が必要だった。でも完成した映画を見てくれた人々の感想はみんな、フレディやマスターのことばかりだったんだ。何かしら物議を醸しだそうとか、刺激的なものを作ろうとしてなかったから。



webdice_ザ・マスター:サブ2


映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.



── 前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でも、宗教や信仰心、人知を超えた運命的なものが描かれていました。それはあなたがこうしたテーマに惹かれるからではないのでしょうか。



たしかにそういう要素はあるけれど、正直自分がそこに惹かれるからなのかはわからない。毎回映画を作るたびに、これまでに作ったことがないようなものを作ろうと思って脚本を書き始めるんだ。でも結果的に似たテーマになってしまう(笑)。フレディはとても衝動的なキャラクターで、人物像が固まるのも早かった。一方ランカスターの場合は、多くのリサーチをもとにしている。最初はL・ロン・ハバードのことを研究した。ハバードは素晴らしいキャラクターなんだ。生命力旺盛、エネルギーが満ち溢れていて、常にたくさんのアイディアを抱えている。でもそれはほんのスタート地点で、そこにオーソン・ウェルズのような桁外れな人物のイメージを加えて、欲望に突き動かされるキャラクターを作り上げた。僕は彼らみたいなまったく予想もつかない、エネルギーの固まりのような人間に魅了されるのだと思う。



webdice_サブ3


映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.



── フレディとマスターの関係はとても興味深いですね。マスターは弱さもあります。フレディを操る一方で、彼の存在はマスターにとって徐々に大きなものになっていきます。



ふたりの関係はまさに愛憎まじったラブストーリーと言えると思う。または、父と息子という関係性もテーマになっていると思う。僕はランカスターを、彼が最初に本を出した頃からマスターとして有名になり成功するまで、5つのステップに分けて考えた。その過程でふたりの関係も変わっていく。この役はもともとフィル(フィリップ・シーモア・ホフマン)のために書いたから、彼からは多くの質問を受けたし、いろいろと話しあった。彼は本当に納得しないと演じてくれないんだ(笑)。



webdice_仮サブ2_edited-1


映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.



ホアキンとフィルの組み合わせは本当にパワフルで、

エキサイティングだ



── フレディ役の、ホアキン・フェニックスは、どのように決まったのでしょうか。



彼とは以前から一緒に仕事がしたいと思っていて、これまで何かしらの理由で実現することができなかった。だから今回引き受けてくれてとてもうれしいよ。実はフィルにフレディ役は誰が適役かを聞いてみたんだ。そしたら彼がとてもいい意味でこう言ったんだ、「ホアキンがいいと思う。僕にとって彼は怖い存在だから(笑)」。それで僕は確信したんだ。ホアキンとフィルの組み合わせは本当にパワフルで、エキサイティングだ。ふたりとも互いにとても尊敬し合っていた。




webdice_仮サブ3


映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.



── ホアキンはこの役のためにずいぶん減量したそうですが、それが条件だったのでしょうか。



いや、とくに痩せろと言ったわけじゃない。彼には50年代に撮られたドキュメンタリーを観てもらい、そこに出てくるアルコール依存の人々を参考に役作りをしてもらった。それで彼が役作りのひとつとして減量してくれたんだ。ホアキンは食べるのが大好きだけど(笑)、撮影中はずいぶん摂食していた。彼の役への没頭ぶりは目を見張るものがあったよ。



── 50年代が舞台ですが、どこか現実から乖離した夢のような雰囲気もあります。どのようなものからインスパイアされましたか。



いろいろなものから影響を受けたよ。スタインベックの小説や、当時のヒッチコックなどの映画、ドキュメンタリーや写真集。そこにちょっとだけ、幻想的な雰囲気を加えた。



webdice_仮サブ4


映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.



── 今回65mmのフィルムを使って撮影されたそうですが、なぜそこにこだわったのですか。



元々決めていたわけではないんだ。でもカメラを試してみて、実際に自分の目で見たときにすごいと思ったんだ。この映画、この時代に合っていると思ったんだ。『めまい』(1958年)や『北北西に進路を取れ』(1959年)のようなクラシックで鮮やかな色調にしたかった。いろいろと試し撮りをしたなかで、やはり65mmが一番適していると思ったんだ。あの時代の多くの作品は65mmで撮られていたから。



webdice_ザ・マスター:メイン


映画『ザ・マスター』より (C)MMXII by Western Film Company LLC All Rights Reserved.



── 今作と前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映像スタイルは、斬新的だった初期の作品に比べてとてもクラシックな作りになっていると思いますが、それは斬新さや実験的要素を意識的に排除したのですか?



ほとんど純粋にストーリーに合った映像アプローチなんだけれども、同時に、新しい事にも挑戦したかった。それはとても大変な事だったけどね。カメラを定位置に置いて、正統的な手法で撮影することは(これまでと違って)大変だった。コンパクトかつアカデミックなセッティングで撮影する事がどれだけ難しいか。限りなくシンプルにそぎ落とすということがどれだけ大変か。でも新たなものを探求するハングリー精神だけは持っておきたいんだ。ホアキンのような俳優と画を作って行く場合、セットの部屋の中全てを把握しておかなくてはならない、なぜなら彼がどう動くかは全く予期できないから(笑)。彼が動いた方向に照明がなかったら、そこでやりなおしだし。全てが細かい手作業なんだ。例えば『ブギー・ナイツ』のような映画の場合、躍動感のあるストーリーに合わせた映像スタイルになるし、若い時はどうしても派手なスタイルを見せたがるものだからね(笑)。



── 音楽は前作に引き続きレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが担当していますね。今回はどのようにコラボレーションをしたのでしょうか。



最初はシンプルなアイディアを話し合った。たとえばちょっと牧歌的な感じの雰囲気や、ジャズっぽいものを混ぜたりしたいというような。その後半分ぐらい撮り終わったあとで彼にラッシュを見せて、またそこからイメージしたものを作ってもらった。そうやって9ヵ月のあいだやりとりを続けた。ジョニーは一度エンジンが掛かると簡単に30分ぐらいの長い曲を作ることができる。彼のプレイは本当にユニークだ。僕にとって彼の意見はとても重要で、その音楽に合わせて編集をした部分もあったよ。彼は素晴らしいコラボレーターだし、僕の映画のなかで大きな位置を占めるボイスなんだ。




(映画『ザ・マスター』プレスより)









ポール・トーマス・アンダーソン プロフィール





1970年生まれ。初期短編『Cigarettes & Coffee』をブラッシュアップした『ハードエイト』(1996年)で長編デビュー。1970年代の米ポルノ業界の内幕を描いた『ブギーナイツ』(1997年)がヒットしただけでなく、脚本賞ほかアカデミー賞3部門ノミネートされるなど賞レースに躍り出たことから一躍注目される存在となった。その後、トム・クルーズらを起用した『マグノリア』(1999年)でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したほか、アカデミー賞3部門ノミネート、『パンチドランク・ラブ』(2002年)ではカンヌ国際映画祭監督賞を受賞し、まだ若く寡作ながら一定の評価を得ることになる。さらに、ダニエル・デイ=ルイスが石油王を演じた『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)はベルリン国際映画祭監督賞受賞のほか、アカデミー賞の作品賞を含む8部門にノミネートされ最優秀男優賞と最優秀撮影賞を受賞、さらに全米映画批評家協会賞など多数の賞を受賞するなど、手掛けた作品のほとんどが各国の映画祭で賞レースに参戦している。本作でもベネチア国際映画祭監督賞を受賞したため、世界3大映画祭であるカンヌ・ベルリン・ベネチアにおいて全ての監督賞に輝いている稀有の監督となった。











映画『ザ・マスター』

3月22日(金)TOHOシネマズ シャンテ、新宿バルト9ほか全国ロードショー




監督・製作・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン

出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、ホアキン・フェニックス、エイミー・アダムス、ローラ・ダーン、アンビル・チルダース、ジェシー・プレモンス、ケヴィン・J・オコナー、クリストファー・エヴァン・ウェルチ

製作:ミーガン・エリソン、ジョアン・セラー、ダニエル・ルピ

撮影:ミハイ・マライメアJr.

音楽:ジョニー・グリーンウッド

配給:ファントム・フィルム

2012年/アメリカ/138分



公式サイト:http://themastermovie.jp/

公式twitter:https://twitter.com/themaster_movie

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/themastermovie.jp




▼『ザ・マスター』予告編



[youtube:Pi70-fBvgxg]

「映画学校に行くお金はなかったが、コレオグラファーとしての現場の経験が糧になった」

$
0
0

『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』のファラー・カーン監督(写真:荒牧耕司)


インド映画のお家芸とも言える歌と踊りをふんだんに盛り込み、1970年代と2000年代というふたつの時代をまたいだ恋と友情を描き、国内外を問わず多くの映画ファンに深く愛されている『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』。日本公開に合わせ来日したファラー・カーン監督にこの作品について、主演を務めるインド映画界のスーパースター、シャー・ルク・カーンとの関係について、そしてインド映画業界の現在について聞いた。





10巻リールがあったとしたら、1巻ごとに見せ場を作るような演出法




── 輪廻をテーマにしたこの映画は、公開時にインドでどのように受け止められましたか?



もともとインド映画のなかで輪廻ものというジャンルがあって、10年に1度くらい作られていたので、あるかたちができていました。なので、インドの観客は輪廻ものには慣れていたんです。といっても、これまでの輪廻ものでは、ラブストーリーが多く、男女が愛しあっていたふたりが別れ別れにならなくてはいけなくて、でも生まれ変わって、次のステップに……という話が多かったんです。でも私の『恋する輪廻』は構造が違っていて、ラブストーリーの要素もありながら、もうひとつの要素として、前世で満たされなかったものを次の人生で満たしていこうというストーリーがあって、さらには復讐ものというエッセンスも加えた。その新しさが、観客にアピールしたのではないかと思います。



── 「インド国民全員が観た映画」だと言われていますが、本当なんでしょうか。



小さい町には映画館がないところもあるから、それはないでしょう。インドの人口は12億人ほどですので、その3割くらいの人は観たんじゃないかしら。




── 女性監督が復讐劇を手がけた、ということが興味深かったです。



インドでも女性監督が制作する映画はアートっぽくなってしまうという考え方がありますが、私の映画が大ヒットして、そういう考え方はなくなりました。インドにそれまでも女性監督はいたのですが、子どもができないとか、夫が逃げたというテーマを扱ったものばかりで、なかなかヒット作を生み出すことはなかったんです。私自身もチックフリック(女の子受けする映画)はあまり好きではありません。「自分に合ういい人はいないかしら」と男性を探す、といったプロットは、自分の価値観と合いませんし、それを面白いと思えないんです。
そこで私は最初の監督作『僕がいるから』で、アクションも盛り込み、今までの女性監督という固定概念を打ち破るエンターテインメント性のある映画を作りました。そしてこの『恋する輪廻』では、大好きなコメディやの要素を入れて、最初は悲しい愛の物語から、最後に復讐ものになっていく、という、単なるラブストーリーではない、豊かなドラマ性を築くことができたのではないかと思っています。





webDICE_OSO_02

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd




── 映画業界という男性社会のなかでやりにくいと感じることはありますか?



逆に男性たちにストレスを与えてしまってだいじょうぶかなと思います(笑)。映画の社会では、仕事がちゃんとできている人であれば、男性でも女性でも差別はありません。



── コレオグラファーからキャリアをスタートさせた監督だからこそできた演出法というのはありますか?



私のようなケースはとてもめずらしいと思いますが、インドでもだんだんほかの技術者から監督になるというケースが出てきています。普通の映画のシーンがあれば自分の気持ちを伝えるのは台詞ですが、私の映画では台詞を少なくして、歌を歌いながら自分の気持ちを伝える、ということを見せたいのです。『恋する輪廻』は5年前に公開され、その後もインド映画のVFXは増えていますが、この映画のように、昔の映画と現在の俳優を共演させるようなエフェクトはまだ誰も撮っていません。



私は特に映画学校に行って勉強したわけではないですし、映画のコレオグラフィーをしていたときに、素晴らしい監督やカメラマンと仕事をすることができて、その毎日の経験が映画制作の糧になりました。私がいい、と思ったもの、映画業界で見て理解したものをそのまま伝えることできた作品だと思います。そして、例えばフィルムフェア賞のシーンのように、歌やドラマの盛り上がりであったり、10巻リールがあったとしたら、1巻ごとに見せ場を作るようにしました。







この映画がヒットして、インドでは70年代をベースにしたCMや、70年代の要素を入れた映画が増えました。そして「映画はまだ終わっていない」といった台詞が、普段の会話でも使わるくらい流行ったのです。




── これほどのクオリティのダンスシーンに驚きましたが、インドのダンサーは特別な訓練をしているのでしょうか。



ボリウッドのダンサーは世界でもっともトレーニングされていない人々です。ダンスユニオンがあって、ダンスへの興味があれば誰でもこのユニオンに参加することができます。そして、コレオグラファーがトレーニングするのです。



OSO2-102

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd




輪廻をテーマにしているが、私はどの宗教にも属していない





── 今作はどのぐらいの予算がかけられたのでしょうか?



6年前の予算としては600万ドルだったので、ハリウッドの同様の作品と比べると10分の1程度です。いま作ったとしても1000万ドルくらいでしょうか。男性監督ならもっとかかったかもしれないですが、女性なのでお財布の紐が固いので(笑)、無駄遣いしないようにしていました。



とはいえ、70年代のセットを持ちあわせているスタジオがぜんぜんなかったので、いちから作らなければいけなかった。ムンバイの丘の上に、もともとはヘリの発着場だったフィルム・シティというところがあるのですが、そこにセットを作りました。70年代のスタジオを完全に再現しましたが、最終的には全部燃やしてしまわなかったのは残念ですね。





webDICE_OSO_09

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd





── 輪廻といえばヒンドゥー教の根本にある考え方ですが、ご自身の宗教的背景を教えてください。



母親はパルシー(ゾロアスター)、父親はムスリム、夫はヒンドゥー、子供はヒンドゥーの神話にも触れていると同時にキリスト教についても学んでいます。そのように家族全員異なる宗教観を持っているので、私も特定の宗教を熱狂的に支持しているということははなく、どの宗教に属していないという意識があります。




── どのようなきっかけで監督を目指すようになったのでしょうか?



私の父はB級映画の監督をしていて、家のなかではもっぱら映画ことが話題になっていたので、環境的に映画が自分のまわりに常にたくさんあったのです。しかし父は映画制作で破産をしてしまいました。それでも自分は映画を作りたいという気持ちがあったので、映画学校に行くお金はなかったのですが、助監督として映画の世界に入ることになりました。



同時に、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を見て、コレオグラファーになりたいと思うようになり、ダンスを勉強していました。『勝者アレキサンダー』という映画の撮影中、たままたまコレオグラファーが別の映画で来られない日があったので、自分が成り行きで振り付けをやってみないか、といわれ、振り付けを担当することになりました。なのでもともと監督になりたいとい目指していて、その後コレオグラファーになったのです。



webDICE_OSO_11

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd



── それではインスピレーションの源は?



5歳から15歳までが70年代だったのですが、その頃に観た映画がとても大好きで、70年代映画の衣装やヘアスタイルなどが大きく活きています。今回の作品でも、70年台のスーパースター、ラジェシュ・カンナが実際に使っていた車を使ったりしました。70年代の舞台をするために、エキストラをたくさん呼んだり、ヘアメイクを使ったりしたのですが、実際に70年代に活躍していたものの、現在までの数十年あまり仕事をしてかなった人に声をかけて参加してもらったのは特別な体験でした。






── 『恋する輪廻』にはボリウッドの様々な要素が含まれていますが、ダンスやサスペンス、ラブストーリーだけでなく、もっと深い面、ボリウッドの映画産業の人々がいかに映画を愛しているか、そして、同じ映画産業の人々が家族のように繋がっている、というところが描かれていると感じました。



そうですね、その象徴的な「ディーワーナギー、ディーワーナギー」という曲のシーンでは、31人のスターに出てもらいました。みんな主演のシャー・ルク・カーンに敬意を払って出てくれたというのもあるのですが、彼らはギャラを要求することもなかった。あのシーンの撮影には6日間かかったんですが、ずっとパーティーのような雰囲気でした。普段の映画の撮影では、役者同士は忙しくてなかなかあんなかたちで会うことはできないので、みんな楽しんでくれました。とはいえ、どの人かは言わないですが、あの人とあの人がケンカしていたり、あの人とあの人は仲が悪い、といったいろいろな事情が重なっていたので、あんなシーンは二度と撮れないと思っています。その他のシーンでも、俳優だけでなく監督にもたくさん出演してもらいました。子供時代から映画業界を見てきたことで、映画業界の華やかな部分だけでなく、かなり暗い部分も知っていたんです。でも、あのシーンは映画業界のいい部分を撮ることができたのではないかと思っています。






シャー・ルクと私は映画に対する情熱を同じように持っている





── 主役のシャー・ルク・カーンについては、かねてから彼以外の役者は使わない、と公言されていますが、彼との信頼関係については?



他の役者を使わないとはいえ、『30人殺しのカーン』ではアクシャイ・クマールに出演してもらいました。一方で、シャー・ルクは他の監督の作品にもたくさん出演していますが、他のどの作品よりも私の作品と相性はいいのではないかと思います。監督としていろんな俳優を使うのがいい、という意見もありますが、私は人と人との相性が重要ではないかと思っています。これまで、他の俳優と仕事をして、少しがっかりするところもありますが、シャー・ルクに限ってはそんなことがありません。彼とはとても楽しく仕事ができるし、彼と協力すると、うまくいくことが多いのです。




OSO1-84

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd




── シャー・ルクのどんなところを魅力に感じますか?



映画業界のキャリアのなかでいろいろな人を見てきましたが、シャー・ルクほど情熱を注いで仕事に臨む人は他にはいません。撮影現場に来ると、そのショットに全エネルギーを注いで、周りにもそのエネルギーを与える。全身全霊を捧げてくれます。私は現場でかなり過酷な要求もしますけれど、不満も言わずやります。顔に色を塗ったりするような他の人がいやがることや、体をヘリコプターに繋ぐようなアクション・シーンでも、やってほしいと言われたらやるし、シックスパックを作ってきて、と言ったら鍛えてきてくれる。撮影中だけでなく、完成後のプロモーションについても協力的です。ギャラをもらったらそれで終わりという俳優もなかにはいるのですが、彼は映画の宣伝にも一緒にがんばってくれる。こんな人は他にはいません。



私も映画に対して同じ気持ちで臨んでいるので、撮影にはとにかくふたりとも全力で臨んでいます。シャー・ルクと私は同じような映画に対する情熱を持っていて、例えばうまくいかないことがあっても、自分たちが力を注いでいることなので後悔はしません。ジョークも分かり合えるから、キツいことも言えるし、同じ時期に業界に入ったので、昔話も話したりする。ほんとうに彼とは気が合うんです。






自分が実現できることの規模が小さくなるなら、

ハリウッドではやりたくない




── 映画の世界ではデジタル化が急速に広まっていますが、インドではどのような状況でしょうか?



シネコンの75パーセントはデジタルになっているんじゃないかと思います。それに撮影のときも半分から60パーセントはデジタルで撮っている状況にあります。次の作品『Happy New Year』もデジタルで撮影しています。




KAHN2

インタビューに答えるファラー・カーン監督




── ご自身としてはフィルムで撮るのとデジタルで撮るのではどちらが好きですか?



フィルムには〈マジック〉があるので、どちらかと言えばフィルムで撮るのが好きです。スタインベックで編集して、できあがったものを後から見て、作りなおす、と段階を踏んでいくのが好きなんです。かといって、業界自体がテクノロジーと密接に関わっているので、デジタル化について無視しているとその進歩についていけなくなってしまう。これからデジタルで撮るとしても、このテクノロジーを使って、いいものを撮れるように模索していかなくてはいけないと思います。



── 『Happy New Year』をデジタルで撮影する、というのは予算的な問題ですか?



そう、経済的な面もあって、今年の9月に撮影を始めて、来年には撮影終了予定なのですが、コダックが映画用フィルムの制作を止めたことなどで、ラボにもフィルムのストックがそれほどないので、フィルムがなくなってしまった場合のリスクを負うこともできません。VFXやCGの作業もありますし、フィルムで撮るとテレシネしなければいけない二重のプロセスが必要となりますが、デジタルであれば一回で済ませることができる。予算を詰めていくためにも、デジタルがする必要があります。とはいえ、モニターで観たものがそのまま映ることで、現場で俳優からいろいろと注文を言われてしまう、という問題もあるのですが(笑)。



── 先日、ムンバイにスティーヴン・スピルバーグが訪問したというのがニュースになりましたが、今後ボリウッドとハリウッドの関係はどのようになっていくでしょうか。



インドのリライアンス・エンタテインメンはスピルバーグ監督が創業したドリームワークスに資金提供しているので、そうした関係性は今後も続くでしょう。ボリウッドがこれからどの程度成長していくか、については、インドのVFXチームがハリウッドのために仕事をやっていますし、アイシュワリヤー・ラーイや他の監督が外に行って仕事をする、ということはあると思います。とはいえ、私たちインド人には歌とダンスというスタイルが必要なので、完全にハリウッド化していく、ということはないと思います。





webDICE_OSO_06

映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』より (c) Eros International Ltd





── ハリウッド進出については考えていますか?



私としては、ハリウッドの映画に部分的に参加することはあったとしても、ボリウッドで自分が実現できることの規模が小さくなるなら、ハリウッドでやりたいという特別な思いはありません。




── ボリウッドはアメリカにも進出して、世界的にボリウッドのダンスが注目されています。これまで数多くのダンサーを使っていたシーンでも、今はCGで増やしたりしていますが、そうした新しいダンスシーンについてなにかアイディアはありますか?



インドでは、1曲流行るとその映画が成功する、というくらい、歌と踊りが重要なのです。インドでは文化的に生活に密接していて、人が生まれるとき、亡くなるときにも歌や踊りがついてきます。そして現在では、アメリカだけでなく英国でも、ボリウッド映画だけを上映する映画館が増えていたり、世界的に大きな市場になっています。



MTVインディアがインドに入ってきたとき、コレオグラファーの多くがMTVインディアの振付を真似しました。振付だけではなく、MTV的なカット割りも真似するようになったのですが、そうしたことに私は興味はありません。私は、インドのダンスシーンは「何でも実現できる」というのが特徴だと思うのです。ヒップホップとヴァラタナティアムという古典舞踊、バレエ、サルサを融合させても成り立つ世界がインドのダンスシーンにはあるのです。そして、100人のダンサーを起用する、といっても、インドは人件費が安いので、後でVFXで加工するより安上がりなんです。



── インドの映画業界は現在、どんな映画がヒットする傾向にあるのでしょうか?



この3、4年で、昔ながらのインド映画が好まれることと、それまでだとヒットしなかった作品がヒットするようになっていて、両方の動きがあると思います。最近では『カハーニー』というサスペンス映画があって、それは歌は全く入っていないのですがヒットしました。



そして、どのような規模で作るかによって事情が違います。インドでは、ひとつの映画しか上映しない古い劇場にはお金のない人が行って、シネコンには中流やエリートの人たちが行きます。小規模の作品はシネコンでかけることで回収することが可能なのです。この『恋する輪廻』はシネコンと古い劇場の両方でかけることができたのです。



(取材・文・構成:駒井憲嗣)


























ファラー・カーン プロフィール



1965年1月9日生まれ。父はアクション映画監督で、母の姉妹は脚本家ハニー・イーラーニー(ジャーヴェード・アクタルの前夫人で、監督のファルハーン・アクタルとゾーヤー・アクタルの母)と子役で有名だったデイジー・イーラーニーという一家に生まれる。両親の離婚後、聖ザビエル大学に通うかたわら、マイケル・ジャクソンの「スリラー」に影響されてダンスを始める。ダンス・グループ結成後、『勝者アレキサンダー』(1992年)の振り付けを当時のトップ女性舞踊監督サロージ・カーンの代役として担当。斬新な振り付けが評判を呼んで、以後人気舞踊監督となる。『ディル・セ 心から』(1998年)や香港映画『ウィンター・ソング』(2005年)など、これまでに担当した作品は約90本。2004年の『僕がいるから』で監督としてもデビュー、本作『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』、そして『30人殺しのカーン』(2011年)と3本の作品を世に出している。また、『シーリーンとファルハードの成功物語』(2012年)で女優としても本格的にデビュー。私生活では編集担当であり、監督でもあるシリーシュ・クンダルと2004年12月に結婚。ちょうど本作が公開された直後に、男の子と女の子2人の三つ子を出産した。次回作は、3たびシャー・ルク・カーンを迎える『Happy New Year』。











映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』

渋谷シネマライズにて公開中、シネマート心斎橋にて3月30日(土)より公開、ほか全国順次公開




監督:ファラー・カーン

撮影監督:V.マニカンダン

編集:シリーシュ・クンダル

美術:サーブ・シリル

作曲:ヴィシャール=シェーカル

作詞:ジャーヴェード・アクタル

衣裳デザイン:マニーシュ・マルホートラー(ディーピカー担当)、カラン・ジョーハル(シャー・ルク担当)

出演:シャー・ルク・カーン、ディーピカー・パードゥコーン、アルジュン・ラームパール、シュレーヤス・タラプデー

提供:アジア映画社、マクザム、パルコ

配給・宣伝:アップリンク

原題:Om Shanti Om

2007年/インド/169分/カラー/ヒンディー語/シネスコ




公式サイト:http://www.uplink.co.jp/oso/

公式twitter:https://twitter.com/oso_movie

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/OSO.jp




▼『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』予告編


[youtube:VEbPSoNN7F4]


感動の伝言ゲームを社長からスタッフまで行う気概を持て

$
0
0

『誰がJ-POPを救えるか? マスコミが語れない業界盛衰記』の麻生香太郎氏




「日経エンタテインメント!」創刊時より日本のエンタメシーンを見てきた『誰がJ-POPを救えるか? マスコミが語れない業界盛衰記』の著者、麻生香太郎氏に話を聞いた。あらためて断っておくと、ここでいうJ-POPとは大手レコード会社が産業として作り出した音楽の事である。AKBやモーニング娘。といったアイドルからJASRACやソフトの売上不振など、現在の音楽業界のトピックそして問題点を検証しながら、マスコミ、エンターテインメント全般、ひいては日本全体の問題をするどく抉った本作では書ききれなかった部分を語ってもらった。




今の中高生にとって、「なりたい大人」がいない




── 僕と麻生さんはほぼ同じ世代ですよね。その世代には思い入れのあるソニーの話から始まり、音楽業界、そしてだんだん映画業界の話にもなって、「あれ、ちょっとやばい」と思って。「じゃあアップリンクはどうあるべきか」ということを考えながら読ませてもらいました。この本のタイトルは『誰がJ-POPを救えるか?』ですが、実は、『誰がJAPANを救えるか?』という内容になっていると思います。



どうしてしまったんでしょう。今の僕らは、歴史上一番幸せなはずなんですよ。人類史上始まって以来のユートピアですよ。停電になんかならないし、水道の水を普通に飲める上に、ペットボトルでミネラルウォーターを買っている幸せな国です。コンビニはあるわ、デパ地下もある。アフリカから来た人はみんなびっくりしていますよ。「日本はなんてすごいんだ、世界中のものがあるぜ」ってなにひとつ不自由していない。食べられない、という事がないじゃないですか。ここ数十年戦争もないし、徴兵もない。最近ちょっと尖閣問題とかあるけど、隣国との戦いもない。こんな幸せな国はないのに、みんな不機嫌そうな顔をして朝起きて、ツラそうな顔をして寝てる。これはいったい何なんだろう。



── 自殺はちょっと減ったとはいえども、年間3万人超えですよね。



アフリカの難民と交流がある人に言わせると「この状況の説明ができない」。アフリカの人はみんな「生まれ変わって日本人になりたい」って聞いてくるらしいんですよ。電車がある、とか、エスカレーターがある、とか、部屋の温度の調節をしている、という事自体が分からない。エアコンでびっくりしているんですよ。こんな幸せな国なのにもかかわらず、なぜこんなに幸せじゃないんだろうって。今の中高生にとって、「なりたい大人」がいない。例えばマスコミ業界を志望する人が「ナベツネになりたい」とかは絶対に思わないですよね。海老沢(勝二)のようなNHKの会長になりたいとも思わない。最悪の人間じゃないですか。



── 新聞で読んだのですが、今、「一番なりたい職業」は「ナニー」、子どもを育ててあげる人である、と書いてありました。それはそれでいい選択だな、とも思いましたけど。



僕らの時に比べれば、例えば介護士になりたいとか、ボランティアになりたいとか、海外青年協力隊やNPOになりたい人が増えているから、いいことだとは思うけれども、なんかちょっと不思議ですよね。しかも年金のことを心配して計算しているし。僕らのころは「年金なんかなくてもいいや」という生き様が格好良かったはずなのに、今は違いますからね。若い子たちが何を老後の心配をしているのか、と。



── これはすべて大人に責任がありますよね。



そうですね。たぶん僕にも責任がある。どこかで油断をしましたよね。



── ソニーは、戦後に東京通信工業ができた時からずっと、「技術によって日本人を幸せにしよう」という理念がありました。



『プロジェクトX』の世界ですよね。「会社のため」がみんな「いい国にするため」でしたよね。



── 当時の松下電器もみんなそうでした。でもこの本の最初で書かれているように、ソニーは社長が出井(伸之)さんの時にクオリアを出したところからダメになったと思っています。それまでソニーが作ってきたのは、自分たちの最高の技術を、できるだけ安く、一般の人たちに使ってもらうという事でした。しかしクオリアは全く逆です。技術的には最前線どころか一世代くらいの型遅れで、しかもそれをすごく高い値段で売る。デザインはそれなりに凝っているけど、あれは文鎮みたいなものです。なんで出井さんがあれをやろうと思ったのか。



分かります。たぶん出井さんはそういう人なんだと思います。



── 出井さんを選んだのは?



大賀(典雄)さんになるのかな。でもあの人は14人抜きじゃないですか。誰もまさか出井さんになるとは思っていなかった、というのはあるのですが。



── 実は、日本がダメになった時期って、あの頃とシンクロするのかな、と思います。



いわゆるバブルの、90年代の前半ですよね。



── エンタメやゲームで言えば、任天堂が世界に進出していったところまではまだまっとうなゲーム産業だったんだけど、それはカードリッジを売っていた世界だったから。ところが、DeNAやGREEのように、携帯電話代に乗せて子どもから料金を徴収する時代に入ってしまった。これはバブルの後ですけれども、その頃からモラルが全く無くなってきた。ドコモやau、ソフトバンクといったキャリアがそのお金を徴収している。それでドコモの大株主はNTT、NTTの大株主は財務大臣。要するに、子どもからゲーム使用料を徴収しているのが国家で、日本国自体が子どもに20万円だ、30万円だと使わせることをしている。これはもう国からしておかしい、こんな国はないと思った。



おかしいと思います。だって、僕らが特別会計の存在を知ったのはここ5、6年じゃないですか?昔は年末に予算を語呂合わせで覚える、っていうのがあって、あれが全てかと思っていたら、あれよりもちょっと大きい会計が何かあるらしいぜ、っていうのはマスコミのトップは知っていたんだろうけど。



── で、内閣機密費の存在を民主党政権になったら全部公開すると……。



そう言ってたのに、使い込みやがって(笑)。



── 自分たちが政権を取ったら一切それを公開しないと。なんかもう、絶望ですよね。国民に「幸せになれない」という気持ちをもたらす国なんて。



高級官僚たちですよね。彼らもたぶん、東大法学部から国家公務員第一種試験を受けて合格した時には日本を良い国にしようと思って、青雲の志を抱いていたのに、そこから振り分けられて、キャリアを競っていって、という代々受け継がれてきた慣習に染まっていくんですよね。



一点集約型になる、悲しい、多様化した時代のスーパースター




── 総論で行くとボヤきにしかならないので、各論で話を聞きたいと思います。この本に出てくるエピック・ソニーの亡くなった坂西伊作さんについては、僕もたまたま出会いがあって、彼が監督をした渡辺美里、岡村靖幸、それから矢野顕子の映画をアップリンクで配給させてもらった事があります。本の中ではその当時、丸山(茂雄/エピック・ソニー創始者)さんがなぜ伊作さんを採用したかという理由が書かれてあります。それは、彼を全部引きはがした時に「品があった」とあります。そこに何かのヒントがあるのではないかと思いました。今は携帯ゲーム会社を筆頭に品が無くなった。金が儲かればすべてオッケー、だけど品が無い。エンタメの業界もそうなっていった。で、愚痴はもう分かったので、これからどうすればいいのか。例えば丸山さんは独立して247Musicを立ち上げたけど、そこに答えはあったのでしょうか。



成功しなかったですね。アマチュアの音源を無料で交換させて価値を出そうとなさったんだけどだめで、4年前にひろゆきさんに売って、それを、ひろゆきさんがドワンゴを辞めるのと同じタイミングで今日(2月20日)閉鎖するというニュースがありました。ちょっと時期が早かった気はしますけどね。



── 志は良かった?



うん。みんなが付いていけなかったですよね。音源のアップの仕方も当時はみんなまだ下手だったし。iPhoneですぐにYouTubeにアップできる時代でもなかったのでね。



── エピック・ソニー(エピックレコードジャパン)の今はどうですか?



エピック・ソニーは(この本に書いた頃に比べると)停滞気味。



── 何か参考にできるモデルがあるのか。ドワンゴのニコ動も若い有料会員がニコ動の経営自体をほとんど支えていると書かれています。それで、今度参院選でネット選挙が解禁になったら、この層はどこに投票するのか、と思いました。ニコ動が僕らの新しい未来なのか。ニコ動はその中で演じる人をリングに囲い込む。リングの中に出てくる人は、右でも左でも何でもいい、という感じですよね。だからそのプラットフォームを作る興行主であるという形です。そこに新しい形のプラットフォームはできそうだけれども、社会を変えていく何かがあるのかどうか。



だからリーダーシップを取る人がまだいないし、ニコ動は今はまだマスコミの代わりにはならない、若者達がマスコミの代わりになるだけですよね。あの中には、別に権力を持っている人はそんなにいなそうだし。ホリエモンが帰ってくるらしいですから、ホリエモンが良いのか悪いのかは別にして。すぐ叩かれましたけどね。三木谷さんは巧くやっていますよね。ずるいよね。



── でも、この本は少しずるい、と思ったのは、最後に「10年代がJ-POPを救う」という章を入れているでしょう。それは今の10年代生まれが30代、40代になった時に、何か変わるかもしれない、というのは可能性はゼロではないだろうけど無茶振りだな、と思ったんです。



そうですね。それは認めます。でも、結局「救う」の章を最後に入れてくれ、と言われたんですよ。でもそんなものないから。今は絶望しかない。日本人だけでなく人類はみんな、豊かになった時に豊かさを使いこなせない。文化の成金みたいな感じ。それは今、銀座に来ているような、中国の金持ちを見たら分かるんだけど、決して幸せそうじゃないじゃないですか。なんかアンバランスで、でも金だけ持ってるから何かたくさん買うけど、家族が幸せそうか、っていったら、ルイ・ヴィトンに並んだ日本人の女の子みたいに、金にものを言わせて、レートで考えたら日本より全然安いから買うわ、っていうだけの話。だから、「アジアはこういうものなんだ」って。



── 麻生さんがリサーチを重ねていくなかで、エンタメの中でもここに芽がある、といったモデルはないのですか?



そういう意味では、アップリンクはものすごくいい例ですよ。尊敬してます。



── アップリンクは社長の僕が株式を100パーセント持っているから、僕がブレずに、ボケずにいて(笑)、そしてそこについてくる社員がいれば、会社としてブレない事はできる自信はあります。



他の社長はブレるんです。



── 社長の顔が前に出ている企業で、品があって、尊敬できる企業は?



日本に?いやあ、本当にソニー・ミュージックの丸山さんしか僕は浮かばないですよね。社長として、いろいろ考えてやっているな、と共感できた社長というのかな。



── 丸山さんは次の世代じゃなく、僕らよりも先輩ですよね。



丸山さんはソニー・ミュージックのCEOにまでなりましたが、久夛良木(健)さんに行ってよかったのになあ、と思いますけどね。久夛良木さんは、良い方だから、僕も一回しか会ってないけれども、でも社長になろう、という方でも、普通に話せるんですよ。そういう人はやっぱり素晴らしいです。



── エンタメにしぼった場合では、誰かいますか?



音楽よりは、演劇、テレビ、とジャンルごとに考えていくと……。



── 結局、この本に書かれていたK-POPの連中が日本を研究して、その結果、劇団四季と宝塚、ジャニーズのファンを囲い込んでビジネスにするということに眼をつけた。10万人集めればテレビでの露出などは必要ない。



いわゆるファンクラブシステム、固定票ですよね。そこはなかなか素敵ですけど。だって、SMエンターテインメントのSHINHWAとか東方神起はジャニーズと提携している。飯島(三智/SMAPのチーフマネージャー)さんが大好きなので。本来、ボーイズグループは絶対日本ではデビューできなかったんですよ。ジャニーズがいるので他が遠慮していたし、もしデビューしても全部潰されてきたのが、日本の音楽産業の歴史だから。



僕はジャニーズとかバーニングとかと喧嘩をするつもりはまったくないので。業界にはやっぱり必要だと思っているから、そこは清濁合わせ飲むんですよ。ただここで書いているのは、「正義の味方」が勇み足をしたら、それは腹が立つんです。応援してるのに、君たちが本来、業界という河原乞食からスタートした芸能界で、悪い人もいるけど、でもどんどん良い人がたくさん出てきて、少しづつ少しづつ環境も良くなってきて世間に認められて、ちゃんとしたショービジネスの世界に行こうとしている時に、ソニーであれ、ある音楽プロデューサーであれ、勇み足をして、せっかくいい環境になったのを自分で潰してしまって。



── その音楽プロデューサーは何をしたのですか?



そのプロデューサーに、ちょうど90年代の終わりに話を聞いて、「印税凄いでしょう」って言ったら、「いや、もらってないねん」って。「え、どうなってんのやろ、ヤバそうだな、あんま突っ込まんとこ」って(笑)。ダイレクトな著作権契約ではなくて、事務所あるいは出版社を通しているらしくて、ちょっとかわいそうだな、と思ったんです。その辺が変だな、と思ってから、なにかやっぱりおかしいですよね。



── この本では、例えばつんくは才能の枯渇という書き方で、秋元康は作詞とプロジェクトだけだから、継続できていると書かれていますよね。



それは間違ってはいない。つんくが失速したのは僕も不思議で仕方がないけれど、秋元は、本当は出る幕は無かったんですよ。2005年もめちゃくちゃ苦労したから。秋葉原劇場に全然人が入らないの。それはハロプロの方が面白い。



── なんでひっくり返ってしまったのでしょうか。



だってハロプロのゼロ年代は、ヒット曲がでない10年でしたから。それはファンはどこかに移りますよね。それで、2010年の「女の子元気ソング」で一気に火がついてしまった。ユーザーがみんなアイドルを求めている時期だったので、悪運というか……誰かなんとかしろよ、っていう(笑)。



── 大衆から大きな支持があるということは、それは清濁関係なく、エンタメ業界としてはプラスだと思います。でも、全部一緒くたにされて風景が全部それしかないっていう世の中になってしまっているのが、AKBだと思います。K-POPにしてもAKBにしても、成功している形のポップ・ミュージックを麻生さんは認めるのですか?



オスカーだってavexだって、他のレコード会社もみんな必死になって、アイドルグループを作っていっぱい出しているのに、他のは全然無いですよね。いっぱい出てはいるんだけど。やっぱり一個か二個しか無いんですよね。2個目はSKEだったりするんです(笑)、 あとは、ももクロ(ももいろクローバーZ)かな。



── それはAppleがiPad miniを出して、iPad miniの敵はiPhoneだ、みたいな話ですよね。



だから、マイケル・ジャクソンのことをいつも麻生理論では言っていたんですけど、あの時、ものすごく世の中や物事が多様化したんです。スポーツだって、日本には野球しかなかったのが、サッカーも出れば、F1からK-1から、これだけ趣味が多様化したら、もうスーパースターの出る幕はないぜ、って言っていたら、マイケル・ジャクソンが出てきてびっくりしたんですよ。多様化した時にはやっぱり逆に共通語が欲しくなるんですね。だから突出したスーパースターが出る、という事になってしまうみたいなんですよ。



── 今は多様化しているんですか?



いろんなオタクがいっぱいいるじゃないですか。でも今の若い人にとっては、女の子とカラオケに行ったら、AKBを歌えば全員が一番分かる。K-POPでもそうだと思うんですよ。一点集約型になる、悲しい、多様化した時代のスーパースターのあり方になっていますよね。日本では特に、マイケル・ジャクソン、マドンナ、レディー・ガガ、でAKB、みたいな感じですよね。



セグメントされた小さなオタクが集中するところは、そこで十分回転する




── AKBって、誰がどういう才能を持っているのかさえも僕は分からなくて。



つまり、AKBの賢い所は、各音事協の有力プロダクションにタレントを振り分けているんですよ。おニャン子もそれで半分成功して半分失敗したんだけれども、今J-POPが売れないのでヒーヒー言ってる時なので、各プロダクションにとって天の助けなんですね。例えば、今人気総投票3位の柏木由紀はワタナベプロですよ。恵俊彰が司会の「ひるおび」のお天気のお姉さんに強引に入れたら一気に人気が上がって。



── 露出が多いということですね。



各プロダクションにそういう人をふたりづつくらい持っているので、旧芸能界の強固な音事協システムがものすごくうまく作用してますね。



── 元々閉鎖的な所にきちんと配分をしているので、彼らがよそ者を更に入れない。AKBは出版権はどうなっているんですか。



AKBは、基本的にはパブリッシングをやっているAKSという会社の窪田と秋元康とオフィス48社長の芝の3人が全部儲けていて、あと、レコード会社は基本キングレコードだけど、少し他のレコード会社にもお裾分けしなければいけないという事で、ユニットの分はソニーに少しあげたりして、これもまた昔の音事協の仕組みを使っているから、みんながそれに頼らざるをえないシステムになっている。もう「ザ・芸能界」ですよ。でも排除するほどでもないわけでね。



── 要するに旧芸能界、音事協にきちんと利益を配分している訳ですね。でもそれを突破する、日本の芸能界のシステムを変えていく方法論はないのですか?



あるとしたら、仙台のエドワード・エンターテインメント。GReeeeNをやっているところですよ。あそこに一度取材に行った事があるんです。金野誠さんという方が社長なんですが、元々VAPにいて、またソニーに行って、ずっと仙台にずっといて、その時に仙台周辺のアーティストとは顔見知りになっていて、それで独立して、最初にMONKEY MAJIKを手がけたんですね。意外と当たったから、という事で、そんなに儲ける感じもなく、darwinという自分たちのライヴハウスも作ってそこでコツコツとやっていて。そのGReeeeNを、なぜかユニバーサルが誘って、そしたらミリオンになっちゃった。だから今は困ってないぜ、っていう。それでこの前、ティーナ・カリーナという神戸の女の子が日本中のレコード会社を全部回っていたときに、エドワード・エンターテインメントが声をかけて、彼女は今仙台に住んで仙台から活動している。だから、偉いな、と思いますよ。あちこちちゃんと目配りしてるんやな、聴くのは聴いているんやな、って。



── でもそれってなんら新しい手法でもないですよね。



だから東京にいない、音事協に属さない、テレビに出ない。非常にローカルないい感じの、地方の出版社みたいな感じですね。



── K-POPのファンが10万人くらいで、麻生さんの本によるとそれ以上彼らは増やす気もないし、そこで回していけばいいと。GReeeeNは別に東京に出てきたいと思っていない。



「東京に出たいですか?」って聞いたら「いいや」って言ってましたからね。



── 仙台を拠点にしてちゃんとCDは売れているし、ライヴは満員になるし、それ以上大きな家に住んでスタジオ作って、とかは考えなければ十分やっていける、と。



彼らの夢はなんだろう、って思うくらい、当時は謙虚でしたね。そういう子達もいるんだな、っていう事ですけどね。



── 原盤権や出版は自分で持つのかな?



持っているはずです。



── そこの知恵がちゃんとあれば、今の時代、東京でそんなにあくせくしなくても、いけると。その場合、CDとネットの売り上げという意味で考えるとどうなんですか。



インディーズはボロ儲けになってしまっていますからね。レコード会社を通さない分。曲作って、ライヴ会場で手売りしたら、1,000円なら1,000円丸々丸儲けじゃないですか。



── 最初の話に戻すならば、幸せの基準を変えた人たちですね。バンドでメジャーデビューして金持ちになってどこかに家を買って、自宅にスタジオを作って、それでちょっと金があれば、ロンドンやLAでトラックダウンやレコーディングをは向こうでやる、みたいな、一つミュージシャンの成り上がりの姿がありましたよね。でもたぶん、GReeeeNとかはそんな事は考えていない。



GReeeeNのメンバーは4人とも歯医者をやっていますよ。歯科試験を受けるまでは活動ストップしてましたし。



── じゃあ、必死に汗を流しながらバンドをやってて、音楽一筋、という奴から見ると……。



土日だけ好きな事を趣味でやる、という、昔の小椋佳みたいで、ちょっと腹が立つけどね。



── でも、ミュージシャンとしての成功の形が、従来のワンパターンのステレオタイプだけではない、というですね。それを変えた人が、新しい形で生き残って生きていける、という事?



パンクとビジュアル系は今そうですよね。自分たちだけでやって、武道館クラスが満杯になっていますしね。そういう事務所があるんですけどね。女の社長で、その人も「なんでこんなに入っているのか私にも分からないんだけど、でも幸せだわ」って言って。そういう、ものすごくセグメントされて、小さなオタクが集中するところは、YOSHIKIのXの時と一緒で、そこで十分回転するんです。



── 僕はライヴは観た事はないけど、安室奈美恵は?



安室奈美恵は、あんなにダンスがうまい歌手は日本で初めてです。しかも口パクがうまいんですよ。本当に歌っているようにしか見えない。ライヴはどの程度かは分からないけれども、「HEY!HEY!HEY!」の時に、きくち(プロデューサー)さんが「安室さんは口パクなんだよね」って言っていたんですよね。「嘘でしょ?」って聞いたけど「いやいやいや」って。きくちさん曰く、安室奈美恵は日本で一番うまい口パク。本当に歌っているのか口パクなのかが分からないって。でも「HEY!HEY!HEY!」は口パクでやっているから、明らかにそうなんだけど、誰が見てももう歌っているようにしか見えない。だから、ライヴは知りません、僕もどっちが本当かは。あの技術があれば、口パクでもできる。安室奈美恵は歌唱力あるし、踊りにもキレがあるから。あそこまで素晴らしいアーティストというのは、日本では唯一でしょう。



── 今後、安室奈美恵みたいな欧米型のスーパースターは出てこないのでしょうか。



こういう平和ボケのふやけた土壌からはそんなに人材は出てこないんですよ。それは文学がそうだったじゃないですか。黒人文学、ユダヤ文学、ラテンアメリカ文学、みんな虐げられた所から出てくる。日本の戦後文学もそうだし。虐げられてない所からはアンチとしてのエネルギーが出てこない。スポーツ選手にしても芸能人にしても、尾崎豊みたいな、型破りでメチャクチャな奴は当分出てこない様な気がするなあ。一度「辺境」に注目していた事はあったんですけどね。「辺境」というのは、佐渡島とか奄美大島とか、そういう所に歌姫と呼ばれる方がいらっしゃって、確かにすごかったんですが、今少し止まっていますけどね。沖縄なんかはそうだったんですけどね。父島とかあっちへスカウトに行け、って言っていたんですけど。つまり日本の歌番組が入らない、聴いていない所。カラオケがない所。そういう所に歌姫がいるんじゃないかと。でも元ちとせに始まって元ちとせに終わっているという。



そうなると、今度はアジアの周縁国で日本語を身につけてくる事になるのかなあ。ベトナムとかブータンとかに歌がうまい人がいて、その人に日本語を勉強させてね。K-POPの少女時代なんかはそれをやった訳じゃないですか。日本にいないから韓国からKARAが来て、日本人より歌がうまい、っていう。韓国は歌がうまくないと歌手にはなれないですから。



── それは世界の常識ですよね(笑)。



歌の免許がない、歌がうまくない方が人気出るっていうのは、日本だけですからね。日本のファンって声楽のうまい人には引いてしまうんですよね。



── 確かに。素人っぽい隣のお姉ちゃんの方が商売になりそうですね。



過去のプロデューサーはみんなB級アイドルが好きだっていう歴史をみんな持っているし。



普通の音楽業界ではないところで、何かにものすごく秀でた子がいる




── 個人のアーティストじゃなくて、システム、あるいはレコード会社という形で今注目されている、一つのモデルになるようなものはありますか。



あとはお金を持っている若い人がそういう志でやってくれれば。スプツニ子!って分かる?ああいう人を5、6人集めて、レコード会社のようなものを作るとかね。彼女も現代アーティストで一人で自分で勝手にアップして楽しんでいたけど、探せばああいう人はいるはずだよね。いわゆる普通の音楽業界ではないところでコチョコチョやっていて、何かにものすごく秀でている子というのはいそうな気がするんですよね。



── それを従来の音事協の会社じゃないところがやるということですか。きゃりーぱみゅぱみゅは音事協なの?



「アソビシステム」という会社で、音事協にはまだ入っていないです。一応ワーナーからは出ているけれども、事務所はインディーズですよね。だから非常に地味な会議やってる(笑)。キャピキャピ楽しいんだけれども。それで、プロデューサーが中田ヤスタカなんですよ。あの、Perfumeの。彼のPVを完成させる方法論である、ピコピコサウンドとロボットダンスが大好きな31、2歳。週刊文春に「片っ端から女遊びしている」ってメチャクチャに書かれていましたけどね。でも中田ヤスタカには「日経エンタ」もずっと取材を申し込んでいたけれども、断られていましたものね。



── それは名前が出たくないという事なんですか。



そうでもないと思うんですけどね。自分でcapsuleというユニットをずっとやっている人なので、それで最初にプロデュースしたのがPerfume。それが偶然、徳間ジャパンは当たってしまって、今だから儲かっているのは徳間ジャパンとキングとポニーキャニオンなんですよ。キングはAKBとももクロと声優の水樹奈々。徳間ジャパンがソナーポケットとPerfume(Perfumeは2012年からユニバーサル)。



── Perfumeってそんなに売れているのですか?



儲かっていると思いますね。売れてるし、必ずレコ直のベスト5には入りますからね。あとひとつはポニーキャニオン、そして木村カエラのコロムビアね。全部、昔にアニメをやっていたところなんですよ。徳間ジャパンはアニメージュだし、鈴木(敏夫)さんがいた所だし。キングはずっと講談社のアニメを地道にやっていたし。ポニーキャニオンはずっとフジテレビ系のアニメをやっていたし。やっぱり固定ファンを持っているから、ずっとベスト10に入るくらいシングルが売れていたんです。



── なんかでも未来が見えない話ですね。このインタビューではJ-POPの未来を聞きたいと思ったんですよ。



あったら書いているんじゃないですか(笑)。この本にも書いたとおり、レコード会社は、配信になったので営業が要らなくなった。人減らししなければいけないのに、今の社長にそれを断行できますか、と聞いてもそれは無理だ、と言う。



── そうすると無駄な給料を払うということでリストラするのですか?



僕が聞いた時点では。一年くらい前ですけどね。(人減らしを)するのかな、と思ったら、まだやっぱりCDを売るところらしいですよ。つまり、音楽不況と言っても、世の中に流通している音楽の量は全然変わっていない。



── それはこの本に書いてありましたね。出版会社は二次使用で全然儲かっている。



昔の曲で儲かっても仕方がないけれども、現在あるレコード会社の、新しく作っているCDだけが売れないんですよ。これがレコード会社にとって一番痛くて、展望が開けない。それに今度各レコード会社の付き合いもあるじゃないですか。これをそんなに簡単に「潰します」とは誰も言えないらしいんですよ(笑)。そこが大変で。だから「配信にする」と言うと、いろいろなところから反発を食らうでしょうね。「何を言っているんだ」っていう。でもそれは出版も映画も一緒ですよ。



── この本で書かれている音楽の事は、映画の仕事の問題だと思って読んでいました。映画の方がデータ量が多いだけで、遅かれ早かれ音楽業界と同じ事が起こるな、と。いや、もう起きていることです。



コンテンツ、と呼ばれるものは全部そうなっちゃうんだな、っていうことですよね。データを置き換えて、作り手からユーザーをダイレクトにすれば、ものすごく値段が安くなる。田端信太郎さんという、「R25」をやって、「VOGUE」「GQ」の電子版をやって、今はLINEのNHN Japanに転職した36、37の面白い人がいて、「これからメディアはどうなるの」って聞いたら、彼が言うには、昔マスコミを目指していた若い奴らはもう大学1年、2年の段階で、マスコミを目指さないで、自分でメール・マガジンをやってそれで月に100万、200万儲けるようになって、そっちに行ってしまうと。だからネットの世界でもいいからカリスマになって、そこから派生するもので金を儲けるシステム。ちょっとK-POPに近いんですけどね。音楽はもう無料でバンバン流して、人気を集めるという。



だから、報道も同じで、昔でいう、花田(紀凱)さんとか鳥越(俊太郎)さんみたいな名物編集者が若手から出てきて、そういう人が発信するものをみんなが追いかけるようになるんじゃないか、と言ってはいるんです。それはでも「僕が若い頃に純粋詩がやりたくて、詩人を目指したけれども、現代詩って実は3000部も売れなくて全然食っていけないぜ、って絶望していた時にアグネス・チャンが詩集を出したら20万部売れて、なんかもうこの世界嫌じゃーって思ったのと同じじゃないですか」って言ったら「そうかもしれないですね」とは言っていたんですけどね。だから、「タレント」になるしかないんじゃないのか、っていう嫌な流れもちょっと、田端信太郎としてはあるんですよね。ネットの上でのカリスマ。だからフォロワーはたくさんいないとダメですよね。でもそれだったら、AKBの篠田麻里子にしても、有吉にしても、「あれが良いのか」って言われると、アグネス・チャンとあんまり変わらないじゃないか、と僕は思うから、ちょっとそれもおかしいな、と。しかも、一般記者が、地道に地方で情報を取ってくる人が必要なくなってしまうんですよ。マスコミが解体するなら解体するにしても、それはおかしいんじゃないかと僕は思うし。でもそれをやるのが通信社か、と言われれば、通信社だけでもない気がするし。マスメディア全体が、大変な事が起こりそうですよね。



── 麻生さんが本の中で言っている 「感動の伝言ゲーム」をする人が、昔はライター、評論家などそれなりのプロフェッショナルがいた。



専属で書く場所があって、そこで一応食えていて、っていうのが保証されていた。



── それが、インターネットの時代で、アーティストがユーザーにダイレクトに発信できれば、それでファンを抱え込んでしまえば、「感動の伝言ゲーム」はアーティストがすればいい。



そうですね。アーティストが自分の歌を聴きに来た人に言えば良い、となりがちですよね。それはそれでいいけど、レベルは下がりそうです。本当は、レベルの高いものを「伝言ゲーム」していく人材をちゃんと支えなければいけない。今「メッセージ」を聞きたくないじゃないですか。今の若手の新人の曲も、ラジオとかPVを通じて聴くけど、「まだこんな事を歌っているの?」「違うだろう、なんかもっと全然違う事をやってくれよ」って思うんですけどね。西野カナちゃんとかは仕方がないので置いておいていいですけど、シンガーソングライターたちが、「なんでこんな曲を歌っているんだろう」っていう歌ばっかりですよ。それは今のディレクターが80年代のソングライター、90 年代の音楽プロデューサーの時代にJ-POPで育ってきているので、やっぱりそこにこだわる。当時の「いい歌詞」が今も良い歌詞だと思っているから。



共通語としてのポップ・ミュージックが出てこない




── そのズレってなんなんですか?当時の「いい歌詞」と今麻生さんが聞きたい歌詞との違いがもしもあるとすれば、それは何なのですか?



例えば、自分の生活を歌うのが流行った時期もあるし。でも今はそういうものを聞きたくないじゃないですか。あの当時はそれが新しかった。それまで、「海辺を車で」とか「歩いている女の髪が」とか、そういう歌ばっかりだった時に、非常にリアルな生活感のある、等身大の僕らの自分たちの言葉で、というのがあって、みんなが「それいいね」って言った時代があった。それこそ音楽プロデューサーの時代になるんですけれども。その当時「いいな」と思ったその価値観を、今ちょうどチーフ・プロデューサーになっている人たちは基盤として持っているので。



── 生活感のある歌詞が、いまだに尾を引いている、ということ?



そうですね。リアリティのある歌詞で、ユーミンが世界を変えただろ、っていうのが何か勘違いされたまま受け継がれている感じがあると思います。



── もしヒットをさせるならば、今この時代はどういう歌詞を求めているのでしょうか?



うーん。この本の中でもアニメの歌が意外と新しいという事を書きましたが、アニメの主題歌はちょっと記号的で、エンディングとかオープニングに良いものが時々あるんですよ。そっちの手法の方が良いのになあ、と僕は思っているんですけどね。



── プロデューサーだったら、自分の過去の体験を追体験して、それを新人に書かせたりジャッジしたりするのではなく、アニメの歌詞の中に、今の時代とつながるようなもの、ヒットする因子がある、という事?



あるものがありますね。アニメのPVの方が面白いですね。YouTubeなんかでたくさん再生されるものには、漢字がパッパッと出てきたりとか、ものすごく凝っているし、女の子の声が、デュオでもものすごく可愛いハーモニーが延々流れていたりするんだけど、そういう人は取材を受けないんですよね。名前も仮名だし。ソニーからも出ていますけれど、一番多いのは、ランティスなんです。



── それは、30代以上の琴線に引っかかるものですか?



それは無理でしょうね。ティーンエイジャー。



── ティーンエイジャーに対してアイドルの歌ばっかりじゃなく、そういう手法もありじゃないか、という?



というか、みんなAKBの真似しないでアイドルはこういう歌を歌えばいいのに、と思っただけですよ。



── 音楽ビジネスとしては、そこよりも、もっと上の世代の方が人口的には多いですよね。



これはまたレコード会社がずっとそれを探してきたんだけど、なかなかそれが無いっていう悲しさがある。中高年は一番金を持っているし、すぐに買ってくれるけれど、買いたい曲が無いんですよ。カラオケで練習して歌いたいんだけど、結局新しい曲が無いから、古い曲ばっかり歌っている。絶対に需要はある。だからヨン様の時に、K-POPが売れたのは、カラオケをおばさん達が「自分たちが歌う歌がやっと出てきた」とみんなハングルでやっていたからですね。



── では、かつての「世代を超えてヒットする」曲はもう生まれてこない?



そんなのはもう、1979年くらいで無くなったんじゃないですか?元々、ティーンエイジャーのものだったものがずっと続いているので。音楽産業ってずっとそうなんですよ。ティーンエイジャーしか買わない。



── そうなんですよね。僕がこの本を読んでかつて違和感を抱いた事を思い出しました。エピック・ソニーと仕事をしたときにレコード会社の人は「コドモ」っていう言葉を言いました。映画界では、お客さんを「コドモ」とは言わないです。レコード会社って、CDを買ってくれる人を「コドモ」って言っているのか、と思って、それは凄く違和感を覚えました。なんか上から目線というか。



でも本当に、買ってくれるのは中2から高2なんだけです。



── なるほどね(笑)。



大学入った途端に買わなくなったでしょう?みんな。少なくてもアイドルのシングルなんかは。



── 本気でJ-POPという「コドモ」のマーケットを、大人は作ったわけですね。



日本の音楽産業はずっとそうですよ。50年代、60年代はちょっと分からないですけれどね。70年代にCBSソニーができたくらい、高度成長で子どもにもお小遣いが行くようになった頃に、シングルは確か330円で買うことができた。いわゆるグループサウンズから、郷ひろみの「男の子女の子」(1972年)のあたり。



── ライヴはどう思っていますか?



フェスティバルは人数は落ちてますね。今ライヴは、グッズが売れたら成功なんですよ。



── でもグッズは固定のアーティストじゃないと売れないんじゃないですか?



フェスだと効率悪いでしょうね。やっぱり、ワンアーティストの方が絶対にいいと思いますよ。その会場限定のTシャツを作っていますからね。日付も入っていて。それはものすごく希少価値が高いから。Hi-STANDARDはそうだったじゃないですか。ライヴ会場の物販がすごかった。彼らの会社のPIZZA OF DEATHに、阿刀大志君っていう宣伝の人がいて頑張っていて、今は辞めちゃったんだけど、一生懸命やっていました。今もインディーズでどんどんリリースをしていますけれども、30代、40代ばかりのライヴをやっている、インディーズのライヴスタジオがあるんだけど、そこで自費でCDやっているとボロ儲けです、って言ってますけどね。それは、数は少ないだろうけれどもやっぱり固定ファンなので。満杯になってCDもグッズも売れるので、うまく回っているらしいです。そうした、ゼグメントされたところではそこそこうまくいっている。問題は、広い、共通語としてのポップ・ミュージックがもう出てこない。



── だって「10年代」って言っても、更にセグメント化されて、自分のファンだけに支持されていればやっていけるんだろうし、「成り上がり」のスタイルがまったく変わってしまったんだから。



うん。きゃりーぱみゅぱみゅも、Perfumeも、質素ですよね。



── 豪邸の凄い部屋に住んでいるのは?



中田ヤスタカやプロデューサーはやりそうですけどね(笑)。でも不思議な事に、元々アーティストになる人って共通項として、かなりの貧しさを経験していますよね。だから、「もったいない、もったいない」とすぐに言うし。レコード会社なり、インディーズにしても、プロデューサーなり、途中から入ってきた事務所の人たちの方が、そういう考えを持っている。音事協がそうやっていて、それに対してせっかく音声連が出たのに、音声連が第二音事協になってしまったので、もうみんなバンザイですよね。結局自分たちの権利を守りたかったんかい、って。でもそれは、不思議なもので、マネージメントをする側にもあまりお金が入らない。アメリカのエージェント・システムのようにいわゆる「代理人」のような形にはなっていないじゃないですか。アメリカのCAA(クリエイティブ・アーティスト・エージェンシー社)は、ビッグアーティストは別にしても、マネージャーの方が偉いですし、収入も多い。日本のマネージャーはやっぱり、会社員であるという事もあるし。



── 考え方も仕事も全然違いますよね。アメリカの場合は、アーティストがマネージャーを、エージェントを雇う、っていうパターンですよね。



日本のマネージャーは「付き人兼スケジュール管理」ですよね。ここはなかなか改善されないんですね。浅井さんは、J-POPは聴きます?



── 宇多田ヒカルは好きです。



だからあれが天才が出てきた最後ですよね。98年の終わり、99年の頭からもう出てきていないですものね。宇多田ヒカルだって結局、日本国内にいたとはいえ、「辺境」のパターンで、ニューヨークで、アメリカンスクールで、みたいな。そういう、外からの血ですよね。



── 国内でカラオケ聞いててテレビを見ていてっていう世代からは出てこないと。



出てくるわけがない。だって、レコード会社の社員がみんなそう。テレビを見て憧れて、ライヴに行って好きになって、そのまま先輩のディレクターの真似をしている。



── それは日本映画の一部も同じですね。インディーズ映画を観て育った連中がインディーズ映画を作っているから。



フジテレビのドラマも全く一緒ですよね。大多(亮)、亀山(千広)のコピーばっかりですよね。すごいのが出てこない限り無理ですよ、やっぱり。



── 観ていない奴から探すしかないと。



だってソニー・ミュージックは、昔は音楽を知っている奴は採らなかった。今はたぶん、逆に音楽に詳しい奴を採っちゃっているので。でもそういう奴しかレコード会社は目指さないし。



── うーん。なんか、しかめっ面して電車に乗っている人と変わらない気持ちになってきました(笑)。



なんでコンテンツはこんなに全てフリーになったんですかね。ネットでは、僕らも当たり前だし、ちょっと画面で「315円かかります」「525円かかります」とあった途端に引いてしまう感じがある。このケチくささは何なんでしょうね。日本人だけじゃないですよね。



── 世界でそうですね。J-POP的なものはもう突然変異じゃないと生まれないし、みんな総インディーズでやる、ということですか。



でも音楽も映画も全部突然変異で出てくるものですから。



── はい。そこを期待するしかないと。それが10年代の若い奴らに、ひょっとしたら起こりえるかもしれない。



生まれた時からネットがある人たち。僕なんか最初ネットなんかあまり知らなかったから、ネットって善意でできている、みんなが他人を信用している夢のようなネットワークだ、ということに最初に一番びっくりしたんですよ。でも若い奴らに、「このyahoo!オークションって善意でできているの?」って聞いたら「そうですよ。相手を信用するしかないんですよ」って言われて。僕らの頃は、性悪説じゃないけれども、人を疑って、「なにか騙されているんじゃないか」とか。無論ネットの中にもそういう悪い奴はいるし、2ちゃんねるだってそんなに善意ではない。だけど、9割8分くらいは、善意の塊なんですよね。それで育ってきていた人たちが何を作り出すのか、というのはすごく興味があります。子どもたちにネットに普及したのが2005年だとしたら、まだ7歳、7年目だから、当時12歳だった子がそろそろ大学に入る頃なので、そのくらいから出てきそうな感じじゃないですか。



── それをじゃあ仕切る、プロデューサーになる人は、どういう経歴の人になるんだろう。



今だったら、IT系の人の方があり得るんじゃないかな。音楽を知らない方が良い。今までの音楽をあまり知らない方が良いと思う。歌詞にこだわるとか、コード進行とか分かっていない人の方が。K-POPが本当に、楽器弾いた事ない奴らが作っているんだから。



── K-POPの歌詞は確かに、心に響くというよりは、記号ですよね。



無茶苦茶ですよ。だからもう、YouTubeで早送りして、タイムライン上で合わせたところ全部にサビが必ずないとダメだから、プロデューサーが自分で早送りして、必ずどこにいってもサビが聴けるように作り直しているんだから、当然変な曲になる。それこそ「連呼ソング」みたいな感じ。それでなおかつ売れるようにしなければいけない、っていうまた別のクリエイティブな工夫が必要なので、日本が作ってきた音楽と全然違う作り方なんですよ。スクラップ&ビルドの作り方、を今やらないとだめなのに、日本の主要レコード会社、ソニー、EMI、ワーナー、ユニバーサルは全然それをやっていないんですよ。昔から相変わらない、Aメロ→Bメロ→サビっていう、古い作り方をまだやっている。それはだめになりますよ。



本当に良かったら、自分で「伝言ゲーム」したくなるんです



── 麻生さんは個人的には何を聴くんですか?



やっぱり今一番聴くのはクラシックになってますね。「神の声」が聴きたいので。ときどき「神の声」が聞こえる時あるじゃないですか。僕はもうバッハとモーツァルトしか聴かないですけども、それでやっぱりすごいソリストが弾いている時ってときどき神の声が聞こえますよね。



── それはステレオで聴くんですか?iPodですか?



iPodで聴きます。僕は、別に上の周波数帯の音域をカットしていてもあんまり関係ない。



── 歳をとると大体上の音域が聞こえなくなるので(笑)。



でも、丸山さんはiPodでクラシックを聴くのは嫌だ、と言っていましたけどね。



── 例えば昔ジョブズが、「世界で一番パソコンが好きなのは俺だ。だからマイクロソフトのビル・ゲイツには勝てる」って言っていたんだけども、そういう意味ではJ-POPの会社の社長というのは、自分のところのJ-POPを聴く必要があると思いますか?



全部は聴かなくても良いと思うけども、音楽が大好きであってほしいし。



── 小さい規模の会社であれば、トップがきちんと聴いているから、スタッフも付いていく。



それはトップが聴いていたらスタッフも「あ、俺も聴かなきゃ」と思いますね。トップが聴いてなくてスタッフに「聴け、聴け」と言ってもやっぱり聴かないですよ。



── ところで、この本の出版はなぜ朝日新聞なのですか?



「日経エンタ」で一緒だった小島(清)さんが朝日に行っちゃて、「週刊朝日」もちょうど一緒に小島さんとやっていて、今出版に行っちゃったので、というだけの話なんですけどね。「俺が出版社だったら、もっと売り方違うのにな」とは思います。いろいろ聞きましたけれど、書籍に関して出版社で頑張ったのはやっぱり幻冬舎だけですよ。見城(徹)さんは、計算が入っているにせよ、自分が好きで直接アーティストや作家に会いに行くから。「月刊カドカワ」の時に僕は取材をして、尾崎豊のライヴを見ては直筆の手紙を書いていた。それがきちんと的を射ているから本人もびっくりする訳じゃないですか。それの繰り返しで「じゃあ本を出そうぜ」と持っていく。ユーミンも中島みゆきも、郷ひろみまで全部やっていますからね。それはその下の人たちがみんな真似してます。吉本ばななにも、村上龍にも、五木寛之にもみんな何人かに分けて。



それは、つまり新潮社も文芸春秋社も名だたる出版社はやっぱり作家の先生に書いていただくっていう意識が抜けてないから。見城さんが初めてだから成功して、作家やアーティストがびっくりしたんです。



だからその人と親友になっちゃえばいいのよ。だって本屋やってる人って別に営業に来たからではなくて、自分が良いと思った本を平積みにして自分でポップを書いているだけですからね。だからそれは映画館の人だって、別にこっちから営業に行かなくても、「これ観て、頼むから観て!」って何回も頼まれて、観て、本当に良かったら、もう自分でしたくなるんですよ。「伝言ゲーム」を。その人が自分で知ってる媒体はないかな、と探すじゃないですか。



── そうか、じゃあこの本の未来について考えた事を踏まえたうえで言うと、「感動の伝言ゲーム」を社長がやっているかどうかですね。



グルっと回って極論すればそうですね。



── 社員には志を持っている奴はいるかもしれないけど、上が「感動の伝言ゲーム」を本気でやっているかどうか、自分が感動したものを本気で伝えようとしているかどうかを社員は見ているから。



ものすごく見ている。社員は、「金儲けでやっているんだな」っていうのと、「あ、本気で、自腹を切ってでもやっているんだな」っていうのでは明らかに違いますからね。



── それは、車を売るにしてもパソコンを売るにしても同じ、という事ですね。かつてのソニーファンとしては、元CEOだったハワード・ストリンガーは、ソニーのどこを愛していたのでしょうか。



それは有機ELテレビも、成功しているのに止められたら技術者はどうするのよ。自分のやっているプロジェクトがもうストップになって、「君の好きな研究テーマを思う存分やっていいから、給料3倍出すから頼む」って言われたら、家族を日本に残してでもLGでもサムソンでも「行こうかな」って思うよ。「メイド・イン・ジャパン」じゃなくなってしまうけど(笑)。ソニーが先頭を切ったはずなのに、ストリンガーがそれを素晴らしいと思って、「うわぁ、俺がやりたい」と言い続ければできたんですよ。でも映画人だから知らんでしょう。僕ら程度の知識だと思いますよ。ソニーのあの製品は良かったな、とか、トリニトロンってあったな、とか。そんな事くらいは知っている程度で。今まで映画を作ってきていて、「はい、ソニーのCEOです」って言われて何かをやらなければいけないってことで一応財務諸表とか全部見て、リストラはできるけれども、技術者はどう思っているのか、とか工場でどうやっているのか、とかそういうのをなにも知らないおっさんじゃないですか。それよりも、ソニー・ピクチャーズは一応うちの傘下になったからしめしめ、と「今度のアカデミー賞にどんな服を着ていこうかなぁ」とかそっちの方を気にしている(笑)。




今の10代、20代は幸せになるモデルが変わってきている



── そう考えれば、40代、50代はもういいとして、20代、30代が自分の小さい事務所なり会社なりを作った時に、その今の情熱を維持できるかですね。幸せになるモデルが今の10代、20代は変わってきているから。デジタルネイティブ、ネットネイティブだから、その中での批評性もあるだろうし。ニコ動を見ていても、結局バトルロワイアルのリングでしかないから。ある種冷めた目線は、メディアリテラシー的には、まったくネットにウブだった大人世代よりは、鍛えられている可能性はある。



あると思うし、「節度のある生活でいいや」って本当に思っていますよね。それはバブルも経験していないし、日本が浮かれていた時代を通ってきていなくて、就職氷河期ばかりのこの20年間を生きてきているので、本当にユニクロとしまむらで良いし、ボランティアが当たり前になっているし。



── それを少し強引に結びつけるなら、先ほど麻生さんが「アーティストはみんなどこか貧しさを経験している」って言っていたその意味では、今の10代、20代はバブルを経験していないからこそ、そこから何か出てくるのではないですか。いきなり豪邸を建てて自分の家にスタジオを作る、というのでもなく。



そういうのは「夢」に入ってこないでしょうね。



── でもその世代が事務所を作り社長になり、必死に「感動の伝言ゲーム」をやっていけば、若いスタッフも見習い、面白いものができてくるのではないでしょうか。中小企業が大企業を規模ではなく幸せの尺度では追い抜くと。



クリエイティブな才能というのは必ず一定数はいるはずなのでね。



── 同じものを見ててなぞって出てくるよりも、まったく違った「辺境」である必然がある。



今芸能界の中でも在日三世がいっぱいデビューしているけど、彼らの方が可能性は高そうですよね。弾かれている人のほうが、表現欲求にもハングリーさはあると思うな。



── 今度はそれを観客がいかに支えていくか、だよね。きっと、その半径数メートルの生活の表象の歌詞には飽きているかもしれない。



飽きている。だって今、K-Musical、韓国ミュージカルが凄いんです。基本的にハングルで、日本語字幕ですね。僕も見た事ないのであまり偉そうな事は言えないんだけど、情報だけはいっぱい入ってくるので。



── K-Musicalは、日本でやっているのですか?



アミューズの大里(洋吉)さんが旗を振っているので、劇場も作るし、今年の暮れにはK-Musicalブームになっていると思います。それは、日本のミュージカルが失敗したのは、劇団四季と宝塚は別にして歌が下手だったから。でもK-MusicalはK-POPの有名歌手を主役とヒロインに持ってくるので、歌はうまいし、人気、固定票は持っている。だから満杯になるんですよ。ではシナリオはどうなのかと、この前僕が今担当している本谷有希子に聞いてみたんです。彼女も評判を聞いて何本か観に行っていったらしくて。そしたら「シナリオはすごい」って言うんです。いわゆるブロードウェイじゃなくて、オリジナルで作っている。38度線の問題とかそういうものがたくさん入ってくるんだけれども、感動させるようにきちんとできている。ということは、もう勝ったも同然っぽいじゃないですか(笑)。それは東方神起とか2PMとかハンサムな若い男でも良いし、女性は少女時代とか誰を持ってきてもいい。それでストーリーが感動して、泣けるものであれば、観客は入るわDVDは売れるわ、CDも売れそうだわ、そっちが盛り上がるんじゃないでしょうか。



── アミューズが絡んでいるのですか。



全部ではないですけどね。今、草彅君が一緒にやっている『僕に炎の戦車を』という作品があって、草彅君はずっと向こうに行っていたから「自分でやりたい」と言ってて。日本で2ヵ月やって、韓国で1ヵ月、全部満員なんです。そこはジャニーズは速いですよ。



── 韓国が、日本のジャニーズと宝塚と劇団四季を全部学んだ結果がK-Musical。



歌はうまいし、音楽はかっこいいし、ダンスはうまいし、八頭身。そんな異形の形で違うエンターテインメントが出てきて、その淘汰を経て、また良いものが日本でもできてくるんだろうと思いたい。



── では最後に、今の若いレコード会社の社員に本当に音楽が好きな奴がいたとして、社長が音楽が好きで、「感動の伝言ゲーム」をトップが自らやっていけばいい、という論理だとしたら、現場の若いプロデューサーなりにもっと権限を渡して「発掘しろ」って彼らにもっと権限を与えれば変わっていくんでしょうか。



そうした方がいいと思う。例えばシングル3枚くらいまでは会議なんかせずに好きに作らせてあげる。制作会議とかあれがろくでもないから。ゴールデンボンバーの「女々しくて」みたいに、みんなが良いって言う曲なんて、良い訳がない。みんなが反対するけれども、一人だけ「いや、絶対にこれは良い」っていうものがヒットしてきたのがこのエンタメの歴史じゃないですか。社長も上司も「お前は情熱はあるけど俺にはちょっと分からんわ」っていうものにちょっと賭けてみる、とか。やっぱり頭が固いんですよ。今ソニーのトップになっている人も頭が固い。ソニーらしくないんですよね。ちょっとその辺は残念だなあ。トップになる人って非常に紳士的な方が多いですよね。



やっぱりトップが走り回らないとだめ。走り回っているように見せかけないと。みんなだってトップを喜ばせたいんだから。僕が「日経エンタ」に入った時も編集長を喜ばせたかった。それは他に聞いてもみんな同じ様な事を言っていた。やっぱり雑誌を売って、地位を上げたかったし。当時の編集長は「日経ビジネス」で日銀のキャップやってかなんかやってたんですよ(笑)。若干エンタメにも詳しい、というだけで編集長になった人が一生懸命にやっていたから。ものすごくいい方で、その人のためにやっていた記憶がある。だからあの当時の週刊誌の「日経エンタ」は素晴らしかったと思うし。当時の制作会議で、あの頃「夕焼けニャンニャン」をやっていたけど、秋元康を取り上げたいなんていう事は誰も言わなかったですからね。すごい編集部でした。見識というか。秋元康を出して売ろう、という発想はなかった。それを編集部がみんな共通認識として持っていたからね。



── 今はどうですか?



今は、AKBと嵐とK-POPの3つが順番に出ないと絶対に売れないんです。「AERA」にしても「VOGUE」にしても全ての雑誌がそのどれかを引っ掛けないといけない。



── ところで、この本自体の評判はどうなんですか?



宣伝が行き届いていないのですが、ツイッターで来る返事はみんな熱いからうれしいですね。その人たちが、本当に熱いのが分かっていれば、「感動の伝言ゲーム」をしてくれるはず(笑)。



── 分かりました、では僕も「感動の伝言ゲーム」をしましょう。それに映画の配給宣伝の仕事は正に「感動の伝言ゲーム」なのでこの本は仕事の励みになりました。




(2013年2月20日、渋谷アップリンクにて インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)










麻生香太郎 プロフィール


評論家、作詞家。大阪市生まれ。東大文学部在学中から、森進一、小柳ルミ子、野口五郎、小林幸子、TM NETWORKなどに作品を提供。「日経エンタテインメント!」創刊メンバーに加わり、以降エンタテインメントジャーナリストに転身。音楽・映画・演劇・テレビを20年以上にわたって全ジャンルの業界を横断的にウオッチし続けている。著書に『ジャパニーズ・エンタテインメント・リポート』(ダイヤモンド社)など。

https://twitter.com/asokotalo
















『誰がJ-POPを救えるか? マスコミが語れない業界盛衰記』

著:麻生香太郎



発売中

ISBN:978-4023311572

価格:1,575円

サイズ:19x13.4cm

ページ:263ページ

出版社:朝日新聞出版






★作品の購入はジャケット写真をクリックしてください。

Amazonにリンクされています。






撮影後に反ウォール街デモが起こった。原作は予言的だが、映画はまさに今を描いているんだ

$
0
0

『コズモポリス』のデイヴィッド・クローネンバーグ監督 (C)Kazuko Wakayama



ドン・デリーロの同名小説をデイヴィッド・クローネンバーグ監督が映画化した『コズモポリス』が4月13日(土)より公開される。金融業界の頂点に立つ若き大富豪の1日を、彼が抱える虚無感と、周りをとりまくセキュリティや女性たちとの関係とともに描いている。2003年に発表された小説は、グローバル化・情報化していく現代社会と、その後のリーマン・ショックや反ウォール街デモを予見していたかのような設定だった。クローネンバーグはその先見性に満ちた小説を、独自の非現実的な身体表現と、舞台のほとんどを巨大なリムジンのなかに設定するという手法で映像化。クローネンバーグ監督らしい歪んだ世界観を作り上げている。



デリーロの見事なセリフを元に、6日間で脚本を仕上げた




── ドン・デリーロの小説をご存じでしたか。



いや、読んだことはなかった。パウロ・ブランコと彼の息子のホアン・パウロがやってきて、映画化を勧めてくれたんだ。パウロが「私の息子は、あなたこそこの映画を作るべき人だと考えている」と言った。デリーロの他の小説は知っていたし、パウロのことは彼が製作した多くのすばらしい映画作品で知っている。そこで読んでみる価値はあると思った。これは僕にとって滅多にないことなんだ。僕は通常、自分のプロジェクトを好むほうだからね。でもこのふたりのために僕は「わかった」と答え、小説を読むことにした。2日後、僕は小説を読み終え、パウロに「いいよ。参加する」と言ったんだ。





webdice_『コズモポリス』新メイン



映画『コズモポリス』より (C)2012-COSMOPOLIS PRODUCTIONS INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA



── 自分で脚本を書きたかったのですか。



もちろんだよ。それに僕は6日間で仕上げた。前代未聞だ。事実、僕は小説からすべてのセリフを抜き出して自分のコンピュータにタイピングし始めたんだ。何も変えたり加えたりせずにね。3日かかったよ。それを終えて、僕は「これで一本の映画に十分だろうか? 大丈夫そうだ」と思った。その次の3日間でセリフのギャップを埋めていった。そんな感じで脚本を作ったんだ。それをパウロに送ったら、開口一番「ずいぶん早いな」と言われた。でも結局、彼は脚本を気にいってくれて、船出することになったんだ。



── この小説の何が映画になると確信させ、また何が自分で監督したいと思わせたのでしょう。



すばらしいセリフだよ。デリーロはそれが有名だが、「コズモポリス」のセリフは特に見事だった。いくつかのセリフはハロルド・ピンターにあやかって“ピンタレスク”と言われているが、僕たちは“デリリスク”について話すべきだと思う。ピンターは劇作家であり、彼の会話に対する名人芸は明白だが、小説に関して言えば、デリーロの作品には明らかにひときわ優れた表現力がある。




webdice_「コズモポリス」sub1

映画『コズモポリス』より (C)2012-COSMOPOLIS PRODUCTIONS INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA




僕にとって脚本とは、スタッフや俳優のための計画書であり、製作のツール





── ドン・デリーロの世界観についてのあなたの解釈はどのようなものでしたか。



「リブラ 時の秤」「アンダーワールド」「Running Dog」といったいくつかの本を読んだことがあった。彼の作品はとてもアメリカ的だが、好きな本だ。僕はアメリカ人ではなくてカナダ人だから、とても違う。アメリカ人やヨーロッパ人はカナダ人のことを行儀がよくて、少しだけ洗練されたアメリカ人バージョンのように考えている。でも、それよりはるかに複雑だ。カナダには、革命も、奴隷制度も、内戦もなかった。銃を持つのは警察と軍隊だけだし、武装して暴力を行う民間人と接することもない。僕たちには深い連帯感があるし、全員に最低所得を提供する必要があると感じている。アメリカ人は我々を社会主義的国家とみなしている! デリーロの本とは何となく違うが、僕は彼のアメリカへのビジョンを理解できるし、彼はそれをわかりやすく語っているから共感できるんだ。



── 小説が書かれた時期と映画が作られた時期には10年の開きがあります。それは問題でしたか。



問題ではなかった。小説は驚くほど予言的だからね。この映画を作っている間、小説で表現されていたことが起こった。ルパート・マードックが顔にパイを投げつけられた。撮影後にはもちろん“ウォール街を占拠せよ”の抗議運動もあった。現代に即したものにするために、物語を変える必要はほとんどなかったんだ。唯一の違いは、円の代わりに人民元を使ったことくらいだ。デリーロが株式勘定を持っているかどうか僕は知らないが、そうすべきだと思うね。彼には今起こっていることや、物事がどうなっていくのかということに対する驚くべき洞察力がある。だから小説は予言的だが、映画はまさに今を描いているんだ。




webdice_「コズモポリス」sub3

映画『コズモポリス』より (C)2012-COSMOPOLIS PRODUCTIONS INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA





── 先ほどの“セリフの間のギャップを埋める”というのは、どういう意味ですか。



セリフを抜き出した3日後、僕のセリフは“中途半端”な状態だった。リムジンの中でそれを完成させる方法を、僕は見つけ出さねばならなかった。だから僕はリムジンを詳細に表現する必要があったんだ。「エリックはどこに座っているのか? 他の人間はどこにいるのか? ストリートでは何が起こっているのか? クリームパイ襲撃はどんな設定で起こるのか?」といったことだ。ほとんどはセッティングや小道具を選ぶといった実務的なことだが、それが映画を形作るものになる。僕は他の監督のために脚本を書いたことは一度もない。だから僕が書くときは、常に心の中で演出しながら書いている。僕にとって脚本とは、僕のスタッフや俳優のための計画書であり、製作のツールでもある。そのすべてを一度に考えなくてはならない。「どんな情報がセットデザイナー、小道具係、あるいは衣装デザイナーに必要なのか? これとこれを選んだ場合の財政的な結果は?」といったことをね。




webdice_「コズモポリス」sub4

映画『コズモポリス』より (C)2012-COSMOPOLIS PRODUCTIONS INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA




俳優の選択は直感だ。それについてのルールも教本もない




── どのようにして舞台を選びましたか。



奇妙にもニューヨークの47番ストリートは、トロントのいくつかのストリートと酷似している。我々は純然たるニューヨークの要素をトロントのものと合体させて、映画の空間を創り出した。トロントでは内装を撮影した。映画全体を本物のリムジンの中で撮影することはできない。だからカメラを動かせるようにスタジオでいくつかのシーンを再現しなくてはならなかった。従って車の窓から見える景色は、ほとんどがリアプロジェクションになっている。重要なのはリムジン自体だった。車が精神的な空間になることはほとんどない。リムジンの中にいることはエリック・パッカーの頭の中にいることであり、それが重要だった。



── ロバート・パティンソンをすぐに思い浮かべたのですか。



そうだ。特定の枠にはまった感じは否めないが、彼の『トワイライト』シリーズは面白い。それに『天才画家ダリ 愛と激情の青春』も『リメンバー・ミー』も観たし、彼ならエリック・パッカー役をできると確信した。重い役だし、どのショットにも登場する。同じ俳優がフレームから決して外れない映画を、僕は作ったことがないと思う。俳優の選択は直感だ。それについてのルールも教本もない。



webdice_「コズモポリス」sub5

映画『コズモポリス』より (C)2012-COSMOPOLIS PRODUCTIONS INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA





── 俳優たちには、台本に書かれた通りのセリフを言わせたそうですね。



その通りだよ。俳優に即興させるやり方で映画を作ることはできるし、それを成功させる優れた監督たちもいるが、僕は違う見解を持っている。セリフを書くのは俳優の仕事だとは思わない。最初にこの映画を作りたいと思った理由が、ドン・デリーロ自身によるセリフだったからね。それでも俳優には大きな自由があった。トーンもリズムも完全に彼らに任せていた。特にロバートにとっては面白い経験だった。彼のリムジンにはさまざまなキャラクターたちが現れ、まったく異なる俳優たちが演じていたからね。相手役を務める俳優によって彼の演技も違ってくるんだ。




webdice_「コズモポリス」sub6

映画『コズモポリス』より (C)2012-COSMOPOLIS PRODUCTIONS INC. / ALFAMA FILMS PRODUCTION / FRANCE 2 CINEMA




── 映画を時系列順に撮影しようとしましたか。



できる限りね。ほとんどすべてのシーンがリムジンの中で起こる。ポール・ジアマッティは最後にやってくる。我々が撮影した最後のシーンが、映画の最後のシーンになった。時には実務的な障害もあったが、ほとんどの部分は僕の以前の映画よりも時系列を尊重しようとした。たった1日の中で展開する物語だが、複雑な進化を遂げる。そのやり方のほうが極めて有益だったんだ。



(映画『コズモポリス』オフィシャルインタビューより)










デイヴィッド・クローネンバーグ プロフィール



1943年、カナダ・トロント生まれ。事件記者の父親、ピアニストの母親のもとで育つ。トロント大学在学中に文学の創作に取り組む一方、友人からの影響で映画に興味を抱き、2本の16㎜短編『Transfer』(1966年)、『From the Drain』(1967年)を監督。続いて35mm映画『ステレオ/均衡の遺失』(1969年)、『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(1970年)を手がけたのち、謎の寄生生物が引き起こす惨劇を描いた『デビッド・クローネンバーグのシーバーズ』(1975年・未)で商業映画デビューを果たした。その後も『ラビッド』(1977年)、『クローネンバーグのファイヤーボール』(1978年・未)、『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(1979年)という異色作を連打し、サイキック・スリラー『スキャナーズ』(1981年)、禁断のビデオテープが人間にもたらす影響を描いた『ヴィデオドローム』(1982年)、スティーヴン・キング原作のサスペンス映画『デッドゾーン』(1983年)で熱狂的なファンを獲得した。『ザ・フライ』(86年)では古典SF「蝿男の恐怖」のリメイクに挑み、『戦慄の絆』(1988年)では双子の兄弟の異常心理を映像化。さらにウィリアム・バロウズ原作の幻覚映画『裸のランチ』(1991年)、トニー賞に輝く戯曲の映画化『エム・バタフライ』(1993年)を発表。J・G・バラード原作の倒錯的な愛の物語『クラッシュ』(96年)ではカンヌ国際映画祭審査員特別賞、仮想現実ゲームを題材にした陰謀劇『イグジステンズ』(1996年)ではベルリン国際映画祭芸術貢献賞を受賞した。パトリック・マグラアのサイコ小説に基づく『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』(2002年)を経て、ヴィゴ・モーテンセンを主演に迎えた『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005年)と『イースタン・プロミス』(2007年)の2作品では、人間と暴力の関係を考察して新境地を開拓。クリストファー・ハンプトンの舞台劇の映画化『危険なメソッド』(2011年)で、ユングとフロイトのミステリアスな関係に迫ったことも記憶に新しい。












映画『コズモポリス』

4月13日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館他にて全国順次ロードショー




監督・脚色:デイヴィッド・クローネンバーグ

原作:ドン・デリーロ「コズモポリス」(新潮文庫刊)

出演:ロバート・パティンソン、ジュリエット・ビノシュ、サラ・ガドン、マチュー・アマルリック、サマンサ・モートン、ポール・ジアマッティ

2012年/フランス=カナダ/カラー/ビスタ/DCP/5.1ch/1時間50分/原題:COSMOPOLIS/日本語字幕:松浦美奈/R-15



公式サイト:http://cosmopolis.jp/

公式twitter:https://twitter.com/COSMOPOLIS413/

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/COSMOPOLIS413





▼『コズモポリス』予告編




[youtube:RzaPr3jt8hE]

仕事こそが希望、仕事を持つことで人は自分に誇りを持つことが出来るんだ

$
0
0

映画『天使の分け前』のケン・ローチ監督


イギリスの名匠ケン・ローチ監督の『天使の分け前』が4月13日(土)より公開される。これまでもハードな現実と闘う若者たちを主人公にしてきた彼が、今作ではスコッチウイスキーの故郷スコットランドを舞台に、ケンカ沙汰の絶えない若者が眠っていたウイスキーのテイスティングの才能に目覚め、家族や仲間とともに逆境に打ち勝とうとする過程を、ユーモアと人情を交えて描いている。ケン・ローチ作品の脚本を数多くてがけてきたポール・ラヴァティとともに完成させたこの若き失業者の再生の物語について、監督は「明るくてファニーな面を持った映画をつくりたいと思った」と解説。また、先日4月8日のサッチャー元首相死去の際に「現代でもっとも分断と破壊を引き起こした首相だった。彼女の告別式を民営化しましょう。入札を行い一番安い見積もりでやりましょう。それこそ彼女が望んだものですから」とコメントした監督だが、今回のインタビューでもサッチャリズムについて触れている。




サッチャリズムが人々を分断してしまった




── なぜこの物語を作ろうと思われたのでしょうか?




昨年末、イギリスの失業中の若年層が初めて100万人を超えた。若い世代の多くが自分は定職に就けないと思っている。そのことを映画にしようと思ったんだが、前の映画(『ルート・アイリッシュ』)が、とてもタフな映画だったので、そうではない、明るくてファニーな面を持った映画をつくりたいと思った。この映画が扱ってるのは“失業者”と呼ばれる若者たちで、彼らの生活は厳しいものだけど、それでも彼らだって冗談を言って笑ったりして過ごしているのだから、今回はそういう面を描きたいと思ったんだ。彼らは自分たちが定職に就けないと思っている。それが人々にどんな影響を与えるのだろう?そんな彼らが、自分自身をどう見ているんだろうかと思ったんだ。




webdice_tenshi-main-m

映画『天使の分け前』より 左よりジャスミン・リギンズ〈モー〉、ガリー・メイトランド〈アルバート〉、ポール・ブラニガン〈ロビー〉、ウィリアム・ルアン〈ライノ〉 (c) Sixteen Films, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Urania Pictures, France 2 Cinema, British Film Institute MMXII



── 失業者たちの生き方と同時に、そのバックグラウンドのイギリスの社会的状況も垣間見ることができます。



僕としては、まず、この映画を見た観客たちに、“失業者”と呼ばれている若者たちは、こんなにユーモアがあって、こんなにアイディアや才能があるんだということに気づいてもらえたら、と思っているけれど、この映画のサブテキストには、現代の経済システムから生まれた貧富の差がある、というのも確かだと思う。僕の発想はとてもクラシックで申し訳ないけど、その貧富の差とは資本主義が要求しているものとしか僕には思えないんだ。



この考えは確かに、僕の次の作品となるドキュメンタリー『The spirit of '45』にも共通しているね。かつて戦後のイギリスでは、労働をシェアし、保障をシェアし、人々が助け合い繋がっている社会をめざそうとしたはずなのに、サッチャリズムが人々を分断してしまったんだからね。こういうクラシックな考えは、今やなかなか受け入れらないのかもしれないけれど、45年当時を知らない若者たちに、こういう時代があったということを伝えたいんだ。




この物語に出てくる連中、“ケチな悪党”とか“失業保険受給者”とか何でもいいけれど、そう呼ばれている若者たちとの出会いを楽しんでほしい。そして彼らが穏やかでユーモアがあって、まっとうな人間だということ、そして全員が揃いも揃って統計上、“100万人の失業者”と言われていること、実に希望のない将来に直面している若者たちが100万人もいることを知ってほしい。ここに登場するのは、その100万人の内の4人なんだ。この若者たちと知り合ったら面白いじゃないか。彼らは複雑で貴重で、本当に価値のある連中じゃないか。私は観客に物語を楽しむのと同じくらい、そういう面も見てほしいと思っているよ。




この映画のエンディングに希望を感じてくれる人がいるけれど、僕にとってはOnly hope is jobなんだ。仕事を持つことで人は自分に誇りを持つことが出来る。これだけの失業者を生み出した今の社会を見るとき、僕は、僕ら年長者の世代が、若者を裏切った気がしている。



ウイスキーは味わう以上に嗅ぐことが必要だと知った





── この映画を制作する前、ウイスキーについてはどのくらいご存じでしたか?



ウイスキーについての話は、脚本のポール(・ラヴァティ)のアイディアだ。僕は、あいにくとウイスキーはほとんど飲まないんだ。パブでビールを飲んでサッカーの話をする、という典型だからね。でもポールから話を聞いてとても面白いと思った。スコッチウイスキーはいわば、スコットランドの国民飲料(ナショナル・ドリンク)だ。それなのに、あまりに高価で、この映画に出てくるようなスコットランドの若者は、スコッチウイスキーを一度だって飲んだことがない。彼らだって、スコッチウイスキーを楽しんだっていいじゃないか。そのアイディアが特に素晴らしいと思ったんだ。




映画が完成した今もそれほど詳しいわけではないが、ウイスキーは味わう以上に嗅ぐことが必要だと知った。これは気に入ったよ。アルコールとは、ただ喉に流し込むものではない。ただ意識を失わせるものでもない。念入りに味わうものなんだ。



webdice_tenshi-wisky

映画『天使の分け前』より (c) Sixteen Films, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Urania Pictures, France 2 Cinema, British Film Institute MMXII



── これまでもグラスゴーで何本かの映画を作っていますね。なぜ今回またこの地域を選んだのでしょうか?



リヴァプールやニューカッスル、マンチェスター、あるいはミッドランドのどこか、他にもいくつか同じ物語を作れる街はある。けれどもポールは西海岸出身だし、そこの方言を使うから、この地方を舞台に書くのが一番得意なんだ。そしてグラスゴーはとにかくパワフルなロケーションで、舞台にするには最適に思えた。そこに住む人たちの文化も、ユーモアのセンスも、生活している人たちの言動も、生まれた歴史もパワフルだからね。



── なぜコメディにしたのですか?



ただ正反対にしたかっただけなんだ。人はいつだって予期せぬ道を取りたがる。我々は『SWEET SIXTEEN』という映画を過去に作った。あれはこの映画よりももっと年齢の低い若者が、同じようにあり得ない状況下で、最後には悲劇を迎えるというものだった。けれど、登場人物たちが、人生において時にはコミカルで、時にはそうでもないという事件に遭うことがあるだろう。だから我々は今回、コミカルな時を選ぼうと思ったんだ。




webdice_tenshi-sub2

映画『天使の分け前』より ポール・ブラニガン[左]、ジョン・ヘンショー〈ハリー〉[右](c) Sixteen Films, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Urania Pictures, France 2 Cinema, British Film Institute MMXII



ロビーの父親としてのジレンマに人々は共感するだろう






── 主人公のロビーとはどのような人物なのでしょうか?



ロビーはとてもひどい子供時代を過ごし、暴力に巻き込まれ、少年院に長い間服役していた。そして今は人生を正しい方へ向けようと努力している。彼は賢く思慮深く、大好きな女の子と出会った。2人には子供ができた。けれども彼女の両親から見れば、破滅的な関係だ。なぜなら彼らにとってロビーは青二才のろくでなしだし、彼女の父親はそういった世界をよく知っているんだ。父親はクラブをいくつも所有し、大金を稼いで高級な郊外へと引っ越したが、実はロビーと同じ過酷な下町出身だから、この若者が自力で生活していくチャンスなんてゼロだということが分かっている。それは、ロビーが家族を養っていくのは不可能だということを意味しているから、自分の娘のために2人を引き離そうと“下町のやり方”を使うんだ。その方法にではなく、彼の父親としてのジレンマに対して、人々は共感するだろう。



もし自分に娘がいて、その子が夢中になっている相手が何か暴力沙汰に巻き込まれていて、無職で、この先の展望がないとしたら、もちろん心配になる。この時のロビーは、父親になろう、親になろう、家族を養うために何か仕事を見付けようともがいている真っ只中で、だけど手始めにどうすればいいかも分からず、そのための道も全く見えていないんだ。アカデミックなプロセスがロビーを素通りしてしまったのは一目瞭然だ。なぜなら彼はついこの前までティーンエイジャーの不良で、しかもそれが当たり前の世界にずっと身を置いていたから。だとすると、どうやってこの世界から抜け出せばいい?ロビーは本気だと言っているが、もし彼のような世界に属し、そこがすべてだとしたら、足を洗うことはとても難しいんだ。




webdice_tenshi-sub1-m

映画『天使の分け前』より ジョン・ヘンショー[左]、ポール・ブラニガン[右](c) Sixteen Films, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Urania Pictures, France 2 Cinema, British Film Institute MMXII



── ロビーにとって、ハリーはどんな存在なのでしょう?



ロビーにとって、ハリーは初めての尊敬できる大人だ。ハリーを演じたジョン・ヘンショーは、とても思いやりがあると同時に、非常に愉快な人間だ。もし彼がそうでなかったら、センチメンタルになりすぎるだろう。ジョンはハリーにリアルさを与えるためにぴったりな人間だったんだ。




確かにハリーのような人物は素晴らしい。(脚本の)ポールは、ハリーのように若者をサポートする人にたくさん会ったそうなので、特定のモデルがいるわけじゃないんだ。



アルバート役のガリーは今でも清掃の仕事をしている




── 出演した俳優について教えてください。まず、ロビーを演じた主演のポール・ブラニガンは?




彼は素晴らしい才能の持ち主だ。すでに俳優としての仕事のオファーもたくさん来ているようだよ。彼は、とてもタフな人生を送って来ていて、12、3歳の頃は路上生活をしていたことがあったそうだ。彼には実際に子供がいて、今はとても安定した生活を送っている。彼のように才能のある若者と仕事をするのはとても楽しい。





── 他のキャストについてはどうですか?




皆、素晴らしかった。ウィリアム・ルアン(ライノ役)とまた一緒に仕事ができたのはとても良かったよ。彼と仕事をするのはいつでも楽しみだ。誰か信頼できる人物がキャストの中にいるのは、いつだって嬉しい。その人を通して、時に他のキャストを監督することもできるからね。私はウィリアムにメモを渡したんだが、彼は最高のプロだから、自分の演技中にそのメモの内容を取り入れられたんだ。おかげで相手の俳優から、ある特定の反応を引き出せたよ。演出されているとは気付かれないでね。





ジャスミン・リギンズ(モー役)は楽しい人。素敵な女性で、とても面白いが、結構辛辣で、シャープな存在感がある。



webdice_tenshi-sub3

映画『天使の分け前』より シヴォーン・ライリー〈レオニー〉[左]、ポール・ブラニガン[右](c) Sixteen Films, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Urania Pictures, France 2 Cinema, British Film Institute MMXII



ロビーの恋人であるレオニーを演じる女性を探すのには、長い時間を要してしまった。彼女の役柄は最も簡単だと思っていたんだけど、実際は最も大変だったんだ。というのは、そのソーシャル・レベルを表現することがとても重要だったからだ。彼女の父親は金を儲けたから引っ越し、中流家庭のバックグラウンドを娘に与えようと必死だった。つまりレオニーはロビーや他の連中と同じグループではないんだ。それなのに、彼女はロビーの世界に近付いて、その世界を理解している。彼女の役にはそのバランスを取る資質が重要で、上流階級ではダメだし、あまりに労働者っぽくても違う、“ロビーが何かを感じる”という点が本当に難問だった。



チャーリー・マクリーンについても話しておくべきだろう。ポールがこのロリーというキャラクターを書いたのだけど、その前にウイスキーのエキスパートとしてチャーリーに会っていたので、もちろん彼が念頭にあったんだろう。チャーリーはアドバイザーとして参加する予定だったが、演者として参加することは避けられなかったんだ。もし誰かがあのキャラクターを演じる場合、チャーリーのような外見を得ることはできるけれど、ウイスキーの知識や、関心度、楽しみ方なんかを得るのは至難の技だからね。




webdice_tenshi-police

映画『天使の分け前』より (c) Sixteen Films, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Urania Pictures, France 2 Cinema, British Film Institute MMXII



そしてガリー・メイトランド(アルバート役)は、最近は全然演技をしていないと思うんだが、以前、我々の2本の作品『SWEET SIXTEEN』『明日へのチケット』に出演していた。彼は、我々を笑顔にさせる。ガリーには彼以外の人とは別の法律のパラレル・ワールドに住んでいるような雰囲気がある。けれど一方でとても温和でユーモアがあって、大惨事が起きれば同情したくなるような人物だ。



最後に、ガリーで面白い話があるんだ。彼は日頃は清掃の仕事をしているんだ。その日も、グラスゴーの大通りで清掃の仕事に精を出していたら、ガリーの前に“カンヌ映画祭の受賞作『天使の分け前』”と大きな広告が車体に描かれたバスが停まった。その日が、『天使の分け前』のグラスゴーでのオープニング・デイだったんだ。ガリーはその広告を見て通りをゆく人たちに“これは俺だぞ!”と叫んだんだ。みんな、目を丸くして驚いていたらしいよ。えっ、ここで清掃をしている人が、カンヌの映画の俳優なの?ってね。とても楽しいエピソードだよね。





(映画『天使の分け前』公式インタビューより)










ケン・ローチ プロフィール


1936年6月17日、イングランド中部・ウォリックシャー州生まれ。電気工の父と仕立屋の母を両親に持つ。高校卒業後に2年間の兵役についた後、オックスフォード大学に進学し法律を学ぶ。卒業後、劇団の演出補佐を経て、63年にBBCテレビの演出訓練生になり、翌年演出デビュー。67年に『夜空に星のあるように』(67)で長編映画監督デビュー。2作目『ケス』(69)でカルロヴィヴァリ映画祭グランプリを受賞。その後、ほとんどの作品が世界三大映画祭などで高い評価を受け続けている。カンヌ国際映画祭では、『麦の穂をゆらす風』(06)がパルムドールを獲得し、国際批評家連盟賞を『Black Jack』(79/未)、『リフ・ラフ』(91)、『大地と自由』(95)が受賞、本作同様、審査員賞には『ブラック・アジェンダ/隠された真相』(90/未/WOWOWにて放映)、『レイニング・ストーンズ』(93)が輝いている。最新作はドキュメンタリー映画の『The Spirit of '45』(13)。











映画『天使の分け前』

4月13日(土)より銀座テアトルシネマほか全国順次ロードショー




監督:ケン・ローチ

出演:ポール・ブラニガン、ジョン・ヘンショー

配給:ロングライド

2012年/イギリス・フランス・ベルギー・イタリア/101分/35mm/1:1.85/ドルビーデジタル、カラー

原題:THE ANGELS' SHARE



公式サイト:http://tenshi-wakemae.jp/

公式twitter:https://twitter.com/tenshinowakemae

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/pages/天使の分け前/406330342795950













▼『天使の分け前』予告編


[youtube:DKow2J2r7nc]

「感動することを忘れかけたような人間ではなく、本気で目をキラキラさせて演じられる人と撮影ができた」

$
0
0

映画『ウィ・アンド・アイ』のミシェル・ゴンドリー監督


アート系映画からハリウッド大作までを監督するミシェル・ゴンドリー。『グリーン・ホーネット』の次に選んだ企画は、25年前に思いついたという路線バスを舞台にそこに乗り込んだハイスクールの学生たちの群像劇。iPhoneで撮られた映像やYoutubeの映像が挟み込まれたり、ほぼバスの中だけでの撮影といったようなインディーズスタイルの本作は、ハリウッド映画を制作した反動で作ったとゴンドリー監督は語っている。

カメラは乗客の学生たち全員を主人公として各自のエピソードを紹介する。群像劇特有の最後の大団円は起こらない、なぜなら、ニューヨークのブロンクスを走るバスは進むにつれ停車駅で一人二人と降りていくからだ。カラフルな人物描写で始まる映画は最後に夕刻を迎える。それが、決して寂しく終わらないのは、また明日があることを想起させる毎日のバスだからなのだ。





若い子たちの変化に応じて脚本を書き換えた




──『ウィ・アンド・アイ』のアイデアを思いついたのはいつでしたか?




もう25年以上前になる。当時はパリの80番線バスを利用してたんだけど、ある時どこかの高校前の停留所から20人ぐらいの生徒が乗ってきたんだ。その子たちは別々の停留所で降りていくんだけど、残った乗客が少なくなるにつれて、彼らの話す内容や振る舞いが変わっていくんだよね。そのとき閃いたんだ――ただし会話劇ではなく――アミーナ・アナビのミュージックビデオ用のアイデアがね。僕はつねづね集団心理というものに興味があるんだけど、それは僕自身がどんな集団にも属したことがないから。第三者として観察していると、ひとの人格は一人の時と群れている時とでは別ものだってことがわかるんだよ。奇妙なことだと思ったね――僕らはあんなに「自分自身であれ」と教わってきたのに。素のままであるべきだって。



webdice_We&I_main

映画『ウィ・アンド・アイ』より (C)2012Next Stop Production. LLC


──そのアイデアを映画化しようと思ったのはいつですか?




少しずつ、ほんとにじわじわとだね。僕の頭の中は、温存中の映画のアイデアが山積み状態になっている。書き留めたものもそうでないものもね。5~6年前にようやく、20ページ程度の人物ノートを書いた。たとえば、80年代の後半、セーヴルの高校で音楽仲間だった連中や、僕が実際に知ってる人間をモデルにしたんだ。3~4人の男たち、それから太めの女の子が1人いつも僕らにくっついて来てた。というのも、僕らはその子に対してまわりの女子がやるような邪険な態度をとれなかったからさ。でも、仲間たちだって彼女には不親切で、それが僕には耐え難かったんだけど。まあともかく、そんな感じで彼女も一緒だった。この映画のテレサのキャラクターは、その子自身をヒントにした部分もあったんだ。



──その原稿を元に、どんなアプローチで脚本の執筆を進めていきましたか?




ニューヨークの学校でグループを組んで撮りたかった。強力なストーリーを背負った何人かの生徒たちを登場させ、映画の始まりから終わりまでその子たちの変化を追う形にしたかったんだ。卒業後カレッジに行く子と行かない子、あとは下級生たちなんかもいた。撮影をしたブロンクスのいわゆるコミュニティ・センターは、別名「ザ・ポイント」って呼ばれてる。放課後の子供たちが写真や演技を習ったり、ただ運動をしたりして、大変な熱気に溢れてるんだよ。積極行動プログラムまであるんだ。今でも厳しい生活を強いられてる住民が少なくないブロンクス地区で、「ザ・ポイント」は地域の人たち全てに開かれた場所だ。僕はそこを基点にして若い子達にインタビューを始めた。3年も費やしたよ。その間に彼らも成長していくから、単なる子供のお話の世界では収まらなくなる。僕はその変化に応じて脚本を書き換えた。子供たちの生活にも、悲喜こもごもの色んなことが起きた。父親を亡くした子もいたし、どうしようもない卑劣漢から性的虐待を受けた女の子もいた。人の注目を集めたいばっかりに、友だちを秘書のように扱ったりする子もいたしね。



──彼らへのインタビューはご自身で行ったんですか?




僕自身、大量にこなしたよ。それから『グリーン・ホーネット』などの別のプロジェクトで現場を離れなくてはならない時は、何人かの脚本家に僕の後を引き継いでもらった。ポール・プロックとチャーリー・カウフマンには何年間も協力してもらったし、最後はジェフ・グリムショーにも助っ人を頼んだ。けっこう混乱していたよ。彼らが本筋から大幅に脱線しそうになった時は、僕が最初に書いた20ページの草稿を読み返してくれって言ったんだ。連続ものの寸劇ドラマみたいな映画にはしたくなかったから。




webdice_We&I_sub01

映画『ウィ・アンド・アイ』より (C)2012Next Stop Production. LLC


あの子たちの日常をそのまま作品に活かしたいと思った




──集団的側面という概念は、昨年あなたがポンピドゥー・センター内に設立した「アマチュア・ムービー・ファクトリー」とも関係性がありそうですね。一般社会における創造的活動の可能性を信じていますか?




『僕らのミライへ逆回転』でトライしたのがまさにそれだった。ニュージャージー州のパセーイクの若い製作集団と一緒にファッツ・ウォーラーのビデオ作りのアイデアを出し合ったんだ。組合の規定で、子供たちは俳優ではなくダンサーとして雇用していたから、彼らには何か振り付けを考えてくれと言ったよ。大ホールの中をウジャウジャしてる子供たち60人を相手にしたおかげで、僕は自己管理のやり方を身につけたね。メチャクチャになんかならなかったよ。うまくいった。街を上げての行事やお祭りなどの地域文化がすごく好きだし、クリエイティブな仕事に興味がありながら運悪くこの世界に縁のない人たちに、その機会を提供したいという気持ちもあったんだ。「ザ・ポイント」に集まった子供たちにも同じことが言える。いつの間にか、彼らと僕の間には道徳的な決めごとが出来上がっていた。インチキは一切なしで映画を作るべきだと信じるようになっていた。例を挙げるなら、バスのドライバー役にも女優ではなく本物の運転手を起用するとかね。感動することを忘れかけたような人間ではなく、本気で目をキラキラさせて演じられる人と撮影ができるなんて、本当に素晴らしい体験が出来たよ。



──出演者はみんな自分自身を演じたのですか?




かなりの部分はそうだけど、時間差が生じて手こずったところもある。例えば、当初テレサ役に決まっていた女の子は精神的な問題を抱えていて、撮影が始まる前に降板してしまった。それで、可愛くてちょっと大柄でオーラもある別の子を選んだんだ。もともとその子がやるはずだったのは、母親がケーブルテレビの料金を滞納してるだの、週末にタダ働きをしろだの言って他の子をいたぶる何人かの女の子役の一人だった。そのくだりを残したくて苦労したよ。映画の主題に関わるシーンではないけど、あの子たちの日常をそのまま作品に活かしたいと思ったから。




webdice_We&I_sub03

映画『ウィ・アンド・アイ』より (C)2012Next Stop Production. LLC


結末が決まらないまま始まってしまった映画を目撃したような気分になってくれたら



──撮影が始まったとき、脚本はどこまで進んでいましたか?




あまりにも長くなり過ぎた!こんなの撮影不可能だろうって言われたけど、僕には若い連中との道徳的な取り決め――尺の長さに関わらず彼ら自身の物語を撮ることと、全員が少なくとも一度は画面に登場すること――があったからね。この上なく単純な、やや愚かでもある約束ごと――「アマチュア・ムービー・ファクトリー」の規定みたいだけど――それはつまり、民主主義のやり方を通すってことだ。出演者全員を撮るって決めてしまったんだよ。自然な演技ができなくて、カメラをまともに見ちゃうような人間も含めてね。バスが発車する場面ではまだ誰が主人公かわからないでいて欲しいんだ。連続ものの寸劇ドラマが始まるような雰囲気でね。次第に何本かの糸が撚り合わされてひとつになっていく。アメリカ式の脚本の書き方はよく考えられていて、観る人の心を巧みに操作するようになっている。スクリーン上のさまざまな出来事から人生のエッセンスを搾り取る感じ。映画の中のどの断片もストーリーの一部を成しているし、僕にとってはその全てがそれぞれ違う意味を持っている。エンディングまで観たとき、物語は始まったばかりだという感覚になると思うよ。結末が決まらないまま始まってしまった映画を目撃したような気分になってくれたらいいなあ。



──撮影は順調でしたか?BX66番線というバスは実在するのですか?




実在はしない。あの路線は僕たちが考え出したんだけど、使ったのは本物のニューヨークシティ・トランジット・オーソリティのバスだよ。ブロンクスで長距離ドライブをする気にはならないかもしれないけど、動物園やヤンキー・スタジアム、イースト・リバーや公園、それに大規模産業エリアなど、街の景観は変化に富んでいる。僕らは毎日、10分単位で循環ルートを組み立てたんだ。20日間の撮影期間で、20種類の路線を走行した――その結果、切り返しのあるショットもうまく押さえることが出来た。



──もはや心の旅といってもいい映画ですね。人生そのものの暗示というか……。




そうだと思う。この映画は、開発が進む街の中、バスが河に近づいていく夕暮れのシーンでエンディングを迎える。実はちょっとだけズルをしたんだ。太陽が沈み始めたから、僕たちは大急ぎで最後のシーンの撮影スケジュールを組み替えたよ。これを除いたほとんどのシーンは、ストーリーの順番どおりに撮影していった。この方法の素晴らしいところは、出演者が物語を追体験できることだ。表面的な作りものの世界からより深い次元へと到達できる。ただし骨も折れるけどね。なぜなら子供たちの反応はストレートだから。たとえば、これは僕の失敗談なんだけど、準備期間中からテレサに金髪のカツラをかぶってもらったんだ。それで彼女がバスに乗ったらみんな大騒ぎになった。だけど子供だから、最初に彼女を見たときの驚きの表情を何度も再現したりはできない。彼らをもう一度ビックリさせなきゃと思って、パッとしないオレンジ色のカツラを探し出す羽目になったよ。



webdice_We&I_sub04

映画『ウィ・アンド・アイ』より (C)2012Next Stop Production. LLC


アレックスはマイケル・ジャクソンみたいだ




──チェン家の子供たちがバスを降りる場面にはドキッとしました。彼らの態度が一変した理由がわからなくて。姉妹の動画を観たせいなのか、それとも何か別の原因が?




彼らの気分の変わりやすさを伝えたかったんだ。文字画面から写真そしてムービーへと、次々に移り変わる携帯の画面と同じようにね。僕らにはひとつひとつの情報をじっくり噛み砕く時間なんてないよね。たとえばマイケルは常に携帯をチェックしてたから、彼とは話をすることができなかった。あの子は撮影中、叔母さんの訃報を携帯で知らされたんだよ。あとは、イライジャが演じたのとそっくり同じことがあの子の友人の身に起こったんだ。その子はたった10ドルのために路上で刺殺されてしまった。チェンの親友だった子だよ。彼はエンディングでその部分を演じた。つらくて出来ないなんてことはなかった。彼らにとって悲劇は日常茶飯事なんだ。明日は我が身と言うことだ。僕はよく、自分の息子やその友人たちと彼らを比べて考えてみる。もしもうちの子やその仲間が悪さをしでかしたら、親たちはすぐに警察に駆け付け、家に連れて帰るよね。彼らが地下鉄の自動改札バーを飛び越えでもしてごらん、そのまま朝まで留置所にぶちこまれたままだろう。





──最後に映画の中心人物になるのはアレックスですね。彼は実際にお父さんを亡くしたのですか?




違うんだ。最初にあの役に決まってた子が降板してね。その子はアレックスよりも人間味や洗練度に欠けていた。アレックスのことは気に入っていたけど、本来あれは彼の役ではなかったんだ。他の子たちとは対照的で、虚勢を張ってるつもりでいながら本当は自信がないタイプだ。彼も役を降りようとしてたんだよ。あの子たちの日常は楽じゃない――家計を助けるために自分も働いてるからね。アレックスは母親を亡くしてて、体に麻痺のある祖母の面倒を見なくてはいけなかった。何とかして現場に残れるよう、彼には製作スタッフ側の仕事を用意したよ。それで、あの役にも取り組んでくれたんだ。



──以前あなたが言ったように、アレックスはあなたの分身だと考えてもいいのでしょうか?




違うんだ!彼は僕なんかよりずっと強い子だよ。人の気持ちを和ませるし、いざとなったらボス面した奴に対してもはっきりものを言えるようなカッコいい奴なんだ。あんな存在感を出せる子は他にはいないよ。大勢の子供たちの中でも、あの子は初めから目についていた。彼をよく知らないうちからね。で、あるとき彼がダニエル・クロウズを読んでたんだ。違う本だったかもしれないけど、まあそんなやつだ。彼は最高だよ。僕はマイケル・ジャクソンみたいだと思ってる。



webdice_We&I_sub05

映画『ウィ・アンド・アイ』より (C)2012Next Stop Production. LLC



──この映画には『グリーン・ホーネット』を撮ったあとの反動――超大作のあとのリアルなインディ系作品――という部分もありますか?




そう思われても構わない。ただ、これと同時にアニメ作品も手がけていたけれどね。当時の僕にはやるべき仕事が山ほどあったんだよ。『グリーン・ホーネット』を撮るために子供たちの元を離れなければならなかった。彼らにはせめてものお詫びとして、『グリーン…』のDVDを進呈したよ。あの子たちはこの映画が大好きだからね!



(公式インタビューより転載)










ミシェル・ゴンドリー プロフィール


1963年フランス・ヴェルサイユに生まれる。ビョークの「ヒューマン・ビヘイヴィアー」の他ダフト・パンク、ケミカル・ブラザーズ、ザ・ホワイト・ストライプスといったミュージシャンたちのために作品を提供し、その評価を高める。2001年の『ヒューマンネイチュア』で映画監督デビュー、第77回アカデミー賞脚本賞を獲得。『ブロック・パーティー』(05)、『恋愛睡眠のすすめ』(06)、レオス・カラックス、ポン・ジュノとのオムニバス『TOKYO!』(08)の後『僕らのミライへ逆回転』を発表。ジャック・ブラック主演のこの作品は、彼のアマチュアによる映像表現の新鮮さに対する評価を示す重要な作品であり、その後ポンピドゥー・センターで開催された『アマチュア・ムービー・ファクトリー』における映像制作の指導や実践につながってゆく。また、本作『ウィ・アンド・アイ』に採用されたアマチュア高校生たちとの撮影もこの考え方に沿ったものである。2011年にハリウッド大作『グリーン・ホーネット』を発表、並行して製作を進め2012年に発表された今作『ウィ・アンド・アイ』がカンヌ国際映画祭監督週間のオープニング作品として上映された。最新作は2013年春フランス公開予定で、ボリス・ヴィアンの小説『うたかたの日々』を原作にした『L’ecume des Jours(原題)』。











映画『ウィ・アンド・アイ』

4月27日(土)よりシアター・イメージフォーラム、シネ・リーブル梅田にてロードショー




監督・脚本:ミシェル・ゴンドリー

出演:マイケル・ブロディ、テレサ・リン

2012年/アメリカ/カラー/ビスタ/ドルビーデジタル/103分

原題:THE WE AND THE I

配給:熱帯美術館




公式HP:http://www.weandi.jp/





▼映画『ウィ・アンド・アイ』予告編



[youtube:xxH90tXCWIo]

ワン・ビン監督「カメラの方を見るのも彼女達の生活の一部だと捉え、カットしませんでした」

$
0
0

新作『三姉妹~雲南の子』を発表したワン・ビン監督



ワン・ビン(王兵)監督が新作『三姉妹~雲南の子』公開にあたり来日。初の劇映画だった前作『無言歌』を経て再びドキュメンタリーのフィールドで新しい作品に取り組んだ監督が、中国で最も貧しいと言われる雲南省の山中の村に暮らす10歳、6歳、4歳の幼い三姉妹の生活を捉えた今作について、そして『三姉妹~雲南の子』ロードショーと同時に特別公開される『鳳鳴─中国の記憶』『鉄西区』について語った。




彼女たちの生活の時間と撮影した時間は、ほぼ一致している




── この『三姉妹~雲南の子』を撮ることになったきっかけを教えてください。



2005年のことですが、友人のユイ・シーツンが私に『神史』という長編小説を推薦してくれました。それはスン・シーシャンという作家が書いた作品で、その時はまだ出版に至ってはいなかったのですが、私はその小説を読んで非常に興味を覚えました。そこに描かれているのは『三姉妹~雲南の子』の撮影場所である長江上流域を舞台にした物語でした。長江上流の雲南省、貴州省、四川省の3つの省が交わる辺りに、三姉妹の村はあるのですが、このあたりは非常に高い山々に囲まれた深い山地で、(雲南省というと少数民族を思い浮かべる人が多いですが)そこに住んでいるのは少数民族ではなく漢民族なのです。

2009年になって、私は、その場所の出身である作家の家に、作家の両親や兄弟を訪ねました。実は、この作家は、本の出版前に若くして亡くなってしまったのです。今から遡ると、亡くなって10年になります。私は、そのお墓参りに訪れたのです。そして、墓参りの帰り道に、たまたま通りかかった村でこの三姉妹に出会いました。それが三姉妹との最初の出会いでした。



そして、2010年の秋、当時私はパリに滞在して、前作の『無言歌』の最後の仕上げの仕事をしていたのですが、パリのテレビ局のプロデューサーからドキュメンタリーを一本撮らないかという依頼をされました。そこで私はこの三姉妹に出会った話をしました。非常に興味深い題材であると案を出したところ、プロデューサーも賛同してくれて、この企画なら短期間でドキュメンタリーを一本撮れるだろうと、とても喜んでくれたわけです。そして、その年から三姉妹の村での撮影を始めました。



2010年の10月に、この村に行き、撮影を始めたのですが、ずっと村に滞在したわけではなくて、3回に分けて撮影を進めました。1度目は10月、2度目は11月、この時に私は高山病にかかってしまい、高地での撮影ができなくなりました。代わりのカメラマンをたて、最初からのカメラマンとともに2人のカメラマンで翌年の2月にもう1度訪れてもらい、撮影してもらいました。全体として撮影期間は20日間しかありませんでした。高山病になってからずっと私は体調がすぐれず、なかなか編集が出来ませんでした。ようやく2012年になって編集ができて、こうして完成したわけです。




webdice_sanshimai_zhen

映画『三姉妹~雲南の子』より




──子どもたちの輝きや生命力を感じさせてくれる映像でした。子どもたちがカメラを全然意識しているように見えなかったのですが、それはどのようにして可能だったのでしょうか?撮影することに関して子どもたちはどのように感じていたのでしょうか?



撮影は2台のカメラで始めました。できるだけ彼女たちの生活を邪魔しないように距離を保って撮るように気を配りました。撮影にかけた日数自体は僅かですが、毎日かなり長時間、彼女たちの生活に密着してカメラを回しました。ほとんど朝起きてから夜寝るまで、ずっとほぼ2台のカメラで撮影していきました。ですから彼女たちの生活の時間と撮影した時間は、ほぼ一致しているのです。



なるべくカメラが生活の邪魔をしないように気を配ったと言いましたが、それでもやはりカメラ自体はそこに存在しますし、我々撮る者がそこにいるわけです。透明になることは出来ません。彼女たちは時々カメラの存在に気づいて、カメラの方を見たりします。我々撮影クルーと色々話しをすることもありました。ですが、それも彼女達の生活の一部なのだと私は捉えました。ですから、編集の段階で、彼女達がカメラを見ている場面をカットしてしまうようなことはしませんでした。残してもいいところは編集段階でも残しておきました。このような撮影には、彼女達との信頼関係がとても非常に重要だといつも考えていました。信頼関係があればカメラが回っていても、彼女たちはあまり気にせずに普通に生活できます。それで私たちはとても客観的に撮影ができました。わざわざ自然に見えるようにと、余計なことをしたりする必要もありませんでした。とにかく普通に生活をしてもらい、そしてそれを記録できるようにと気をつけました。




その人物の人生の経験をより理解したい、その人と共有しあいたいと思う





──2台のカメラの分担は?手持ちと据え置きのカメラと両方を使っているのですか?




もう一人カメラマンのホアン・ウェンハイさんと、どこをどう撮っていくか、カメラの分担はだいたい決めておきました。どういう役割分担をしたかというと、子どもの行動範囲は広いので、例えば、私が山の方に行った子どもを撮るとするともう一人のカメラマンは家の中を撮るとか、家を撮るとしても内と外とを分けて撮るとかそういう風な分担にすぎません。カメラは、二人ともハンディカメラで撮っています。






webdice_sanshimai_family

映画『三姉妹~雲南の子』より






──一番初めに三姉妹に会った時にどういうところに惹かれたのでしょうか?



彼女たちの家の前を通りかかった時、三人の子どもはちょうど泥まみれになって遊んでいました。この地域は非常に雨が多く、その日も雨が降った後で道はどろどろになっていました。そこで泥んこになって遊んでいる子どもたちがいたので、私は話しかけてみたわけです。その子たち以外、ほとんど村人たちの姿は見えず、村の佇まいは本当にガランとしていました。そういう村の中なので、三人の子どもは一層際立った存在に見えました。私は彼女たちに話しかけ、しばらくお喋りをしたのですが、やがてインインが家に案内してくれました。そして色々と家族の話を聞くうちに分かってきたのは、母親は三年前に家を出て行き、父親も出稼ぎでいないという事、彼女たちには誰も面倒をみる大人がいなくて、子ども三人だけで暮らしているということ。そういうことがわかりました。彼女たちは当時、映画で見るよりもっと小さかったのですが、一番上のインインは妹達の世話を見て、母親役をしていました。家に入った時、私はとても驚きました。その家の貧しさは、中国語で「赤貧洗うが如し」という言葉がありますが、まさにその言葉の通りで、私の想像をはるかに超える貧しさだったのです。それでもインインはジャガイモを囲炉裏で焼いて私にくれました。私たちは一緒にジャガイモを食べました。彼女たちの貧しさは本当に心が痛くて辛くて、強烈に印象として強く残りました。しかし、その貧しさの中にあっても、彼女たちは三人で寄り添って生きている。そして、その強さがより私の心を打ちました。



──これまでどんな想いで映画を撮ってきたのか、映画を撮る原動力について教えてください。



毎回ある人物に出会った時にその人を撮りたいと思い、強烈に撮りたいという欲望が湧いてきます。どういうことかというと、その人物の人生の経験をより理解したい、その人と共有しあいたいと思うのです。そういう人からとても刺激を受けるわけです。もっとその人を理解したいという欲望から映画を是非撮りたいと思う、それがまず原動力です。例えば『鳳鳴(フォンミン)~中国の記憶』の時は、和鳳鳴(ホー・フォンミン)さんはかなりご高齢でしたが、彼女が経験してきた人生には我々の想像を超える壮絶なものがあったわけです。そういう彼女が生きた時代とはいったいどういう時代だったのか?それを理解したいと私は思いました。それは三姉妹についても同じです。彼女たちはとても貧しい生活環境に置かれ、この侘しい村でどうやってこれから生きていくのだろう?その興味から、彼女たちを理解したいと思ったのが、撮りたいと思ったきっかけでした。彼女たちは子どもですから、生命力に溢れていました。貧しさに負けないくらいの生命力の旺盛さ。これこそ人間本来の持つ素晴らしい力です。そこをきちんと撮りたいと思いました。



──カメラは2人で分担して撮ったということですが、現場スタッフは全部で何人くらいだったのでしょうか?



4人でこの撮影に臨みました。私を含めて2人がカメラの担当、1人がプロデューサー、そしてもう1人はこの地域に詳しいガイド的な役割の人です。撮影の時はカメラをできるだけ安定させ、長く回しました。子供たちが移動する時は、2人で分担して、後からついて撮っていきました。編集前の素材の段階では、20分、30分という長回しのシーンが多くありました。カメラはできるだけ客観的に静かに、彼女たちの生活を写すように心がけましたが、カットが多いと編集がやりにくいので、できるだけカメラを長く回したわけです。こういう方法で撮れば、スタッフも少なめですみますし、費用も少なくてすみます。
この村は雨が多く湿度が高い地域にあります。そして、秋から冬にかけてはとても寒い場所です。私はできるだけ、その湿度の高さ、湿った感じや冬の風の冷たさ、そういうこともカメラで表現できるように考えました。また、光線についてですが、三姉妹が住んでいる家は非常に中が暗いんですね。窓が極端に少なく、光は入り口の扉から入ってくる光しかありません。建築上そうなっているわけですが、その自然光を生かして、なるべく壊さないように撮りました。自然光で、明るいところは明るく、暗いところはそのまま、ありのままで撮りました。そうすることによって、彼女たちのその家の様子、他とは違う様子が表現できると思ったからです。



──録音の担当はいなかったのですか?



特に録音担当の人は頼みませんでした。私が使っているのはHDVという小型のデジタルカメラで、これは非常に軽くて高機能のカメラです。距離の調節も楽にできます。録音担当の人をわざわざ入れると、割りとオールドスタイルの映画製作の雰囲気になってしまいます。せっかく新しい軽くて優れたカメラを持っているわけですから、スタッフ構成を昔風のスタイルにせず、マイクをカメラの上に付けて録音をするというやり方にしました。そうすることで、なるべく被写体の生活に影響がでないよう、なるべく邪魔しないような形で撮影ることができたわけです。




映画を撮ることを通して今まであまり知られていなかった中国を理解したい




──高山病にかかったというお話でしたが、それほど撮影の状況は困難だったのですね。他にスタッフの中で病気にかかった人はいたのですか?撮影の場所には毎日通って撮っていたのでしょうか?



4人のスタッフのうちで病気になったのは私だけでした。私達は、撮影時、この映画に出てくる父方の2番めの伯母さんの家に住まわせてもらっていました。食事も彼らと一緒に同じように食べていましたから、別にそこの生活が大変だからといって病気になったわけではないんです。ただ、ある時、私は長女のインインがお爺さんと一緒に向こうの山に行くのを後から追いかけながら、撮影していました。インインは子どもで元気なので、すごく歩くのが速いんです。飛ぶように走っていくんですね。それを追いかけて撮っていたら私も思わず早足になってしまって、高山病に注意する事をうっかり忘れてしまったんです。ちょうどインインとお爺さんが山を越えて下るところに差しかかった時、私は物凄い心臓の動悸を感じ、今まで感じたことのないような苦しさを感じました。本当にこれは私の不注意から高山病になってしまったというわけなんです。高地ではあんまり急に早く歩いては危険だそうですね。


webdice_sanshimai_pub3

映画『三姉妹~雲南の子』より




──監督は北京に住んでいるそうですが、今一番個人的に興味のある人・物・ことは何ですか?



今いくつか企画がありますが、自分が最も興味を持っているのは、長江一帯の地域に対してです。私自身は黄河流域の村に育ったので、これまで長江一帯の地域に対してあまり理解していませんでした。ドキュメンタリー映画を作りながら、長江一帯を理解していくことに今一番興味を惹かれています。ですので、その地域を舞台にして、これから何本か作品を撮るつもりでいます。なぜその地域なのかといいますと、中国経済は今非常に発展していますが、その経済の発展を担っているのが長江デルタ経済圏とも言われる中国のデルタ地域です。長江は上海から海に流れ込みますが、その上海を一番東としてそこから遡り、どんどん西へ行き、今回の三姉妹の村は長江の上流域にあります。私は、自分が映画を撮ることを通して今日の中国社会を、今まであまり知られていなかった中国を理解したいと思っています。今、農村の労働力は大量に都市に流れこんでいます。東は上海、南は広東の珠江デルタへ、どんどんと流れ込んでいますが、そういう人の流れの変化や、それによって起きる現代社会の人々の変化をドキュメンタリーを通して理解したいと思っています。



黄河流域を舞台にした映画は、これまでに、中国の第五世代の監督であるチャン・イーモウやチェン・カイコーはじめ多くの人が作品にしています。ですので、自分がその黄河流域を舞台にした映画をそこに加える必要はないだろうともと感じています。ところが長江流域に目を移しますと、小説もあまりありませんし、映像作品としてもそれほど多くありませんので、映画を撮るという行為でこの地域を理解し、多くの人に知って欲しいと思っています。




『鳳鳴』は言葉を映画の第1要素とすることで映画というものを成り立たせることができるか試した




webdice_tetsu_main


『鉄西区』より


──今回『三姉妹~雲南の子』公開の前に上映される『鉄西区』と『鳳鳴─中国の記憶』についてもお聞かせください。『鉄西区』を3部作で構成した理由は?



1992年、魯迅美術学院に入学するため、瀋陽の街にやってきました。私はよく鉄西区の工場や線路沿いを歩き回り、写真を撮って過ごしました。時間を重ねるうちに、私はゆっくりと鉄西区を理解していきました。1999年に『鉄西区』の撮影を始めました。当時、私はまだ若く、何もすることがありませんでした。瀋陽の学校を卒業し、北京に移り住んだものの、ほとんど仕事もなく、映画界の商業的なシステムの中で居場所が見つかりませんでした。それで瀋陽に戻り、再びあちことを歩き回りながら、今度はデジタルカメラを回し始めたのです。撮影を始めた当初、実はドキュメンタリーというものを良く知りませんでした。学校でも先生たちはドキュメンタリーについてはほとんど教えてくれませんでした。



『鉄西区』はドキュメンタリーについての意識もあまりないままに撮り始め、撮っていく中で方向性を見つけていった作品です。『鉄西区』は大きな三部構成になっていますが、膨大なものをどのように構成していくか、全体をどのように捉えていくか。また、群れのなかの一人一人をどう撮っていくか。そういう点を常に考えながら撮影を進めました。最初のアイディアでは、3つの導きの糸を持った3つの物語が、平行して進むというものでしたが、それでは複雑過ぎ、うまくいかないことがわかりました。そこで、3つの導きの糸を尊重し、全体を3つに分けました。「工場」「街」「鉄路」と名付けられた各々のパートは単独で見ることができ、自立した意味を持っています。しかし、他の2つのパートを見ることで補完されることでしょう。



webdice_Fengming_main


『鳳鳴─中国の記憶』より



──それでは『鳳鳴─中国の記憶』についてですが、登場する和鳳鳴を撮るにあたってどのような手法を考えていたのでしょうか?




『鉄西区』の時はしっかりした準備ではなく、大きな枠だけ決めて撮りに行きましたが、『鳳鳴』はかなり準備をしてから撮影を始めました。ドキュメンタリー映画とは、何を撮るか、どんな出会いがあるかによって、撮り方も準備の仕方も異なるものです。和鳳鳴さんという方は、私の劇映画『無言歌』の準備のために取材をしたたくさんの方の中のお一人でした。『鳳鳴』を撮った時には、すでに彼女とは友人関係にあり、お互いに信頼しあっていましたし、彼女がどんな暮らしをしていて、どんな人物なのかを良く知っていました。そこで私は、この映画は「言葉」でいこうと思いました。




映画とは映像ですが、言葉を映画の第1要素とすることで映画というものを成り立たせることができるか、その可能性を試したのです。『鳳鳴』について問われる時、必ず、3時間にわたってカメラが動かないことを尋ねられますが、私は形式を優先した事は一度もありません。和鳳鳴さんだからこそ、私はこのスタイルを選んだのです。当時私はこう考えていました。自分がこれから撮るのはテレビ番組ではない、映画である。映画には、ある定まった本質というものがある。映画というのは、映像によって起伏の激しい物語をわざわざつくる必要はない。それがテレビとは違う点で、それが映画の魅力だと思います。『鳳鳴』では、がらんとした彼女の一人暮らしのあのほの暗い部屋で、言葉だけ、語りだけに頼った物語を撮っていくということ。これが特別な経験になります。『鳳鳴』で私が考えていたことは、歴史に対してどう向かい合うかということでした。歴史とは、それを記憶する人がいて、記憶してこそ歴史になり得るものだと思います。歴史を記憶し、第三者の目を持って様々に異なる作品で歴史というものを記録し、歴史を残していくこと。それこそが過去に生きた人々、我々の先達に対する尊敬の念なのだと思います。



(2013年4月9日、イメージフォーラムにて)












ワン・ビン(王 兵) プロフィール



1967年11月17日、中国陝西省西安生まれ。魯迅美術学院で写真を専攻した後、北京電影学院映像学科に入学。1998年から映画映像作家としての仕事を始め、インディペンデントの長編劇映画『偏差』で撮影を担当。その後、9時間を超えるドキュメンタリー『鉄西区』を監督。同作品は2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭グランプリはじめリスボン、マルセイユの国際ドキュメンタリー映画祭、ナント三大陸映画祭などで最高賞を獲得するなど国際的に高い評価を受けた。続いて、「反右派闘争」の時代を生き抜いた女性の証言を記録した『鳳フォンミン鳴―中国の記憶』で2度目の山形国際ドキュメンタリー映画祭グランプリを獲得。2010年には、初の長編劇映画『無言歌』がベネチア国際映画祭のサプライズ・フィルムとして上映され、世界に衝撃を与えた。











映画『三姉妹~雲南の子』

5月25日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー



監督:ワン・ビン(王 兵)WANG BING

配給:ムヴィオラ

フランス、香港/2012年/153分/16:9/stereo



公式サイト:http://www.moviola.jp/sanshimai










映画『鉄西区』『鳳鳴─中国の記憶』

5月11日(土)より24日(金)までシアター・イメージフォーラムにて上映



『鉄西区』(全三部)

第一部「工場」240分*途中休憩あり<新字幕>

第二部「街」175分

第三部「鉄路」130分

1999-2003/中国語



『鳳鳴(フォンミン)―中国の記憶』

フランス、香港/2007年/184分



http://moviola.jp/sanshimai/tetsu_feng.pdf











▼映画『三姉妹~雲南の子』予告編


[youtube:y6qAce8iVCo]

ブランドン・クローネンバーグ監督「セレブを崇拝する今の風潮を写し出したアンチテーゼ」

$
0
0

『アンチヴァイラル』のブランドン・クローネンバーグ監督 ptoho:AI IWANE


ブランドン・クローネンバーグ監督の初長編監督作『アンチヴァイラル』が5月25日(土)より公開される。セレブリティのウィルスが闇で売買されるという世界を舞台にした今作。『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で注目を浴び、グザヴィエ・ドラン監督(『わたしはロランス』)の新作『Tom à la ferme』(原題)にも出演するケイレブ・ランドリー・ジョーンズを主演に、彼の父であるデイヴィッド・クローネンバーグ監督の『コズモポリス』『危険なメソッド』に出演する女優サラ・ガドン、そして名優マルコム・マクダウェルも加わり、この異様な世界観を作り上げている。





ジャンル映画としてスタートしたわけじゃないが、

創っていく間に強烈なSFホラーの要素を帯びた映画に発展していった




── この映画は、とてもユニークなアイデアを持っていると思います。ウィルスをテーマに取っているところがそもそもおもしろいのですが、そこにセレブリティに夢中になる現象や、違法コピーという今日の社会情勢まで盛り込んでいますね。どうやってこの構想を考えついたのでしょうか?




このストーリーを思いついたのは2004年、24歳のことだ。ライアソン大学映画学科に通い始めたばかりの頃、インフルエンザにかかってね。その時、熱に浮かされて夢を見た。他人から何か菌のようなものをうつされて、それが体中を冒していくという夢だ。そして、自分の体が誰か別人の体になってしまうのではないかという奇妙な想像を描き始めたんだよ。いったい何が僕の身体に感染しているのか? 僕の細胞は誰かほかの人からもらったものなのか?そしてその相手に対し、一種の親近感を覚えてるんだ。そこから 熱狂的ファンがセレブと病気を共有し一体感を得たがるという構想が膨らんだ。とくに、セレブリティにみんなが執着する今の世の中では、興味をもちそうなアイデアではないかと思い始めたのさ。




僕は、熱心なファンがどうして魅力を感じる対象物に対してつながりを持つのか、その理由を理解し始めた。例えばアンジェリーナ・ジョリーに風邪をうつされて喜ぶといった感じさ。そしてそのつながりの親密性は、セレブリティへの執着心を掘り下げるうえで、いい基本骨格になりそうだと思った。そういったアイデアが僕の大学1年目のプロジェクトだった脚本執筆のベースになり、まずはその脚本のワン・シーンから短編映画『Broken Tulips』(2008年)を作ったんだ。これは決して大げさな話じゃない。セレブを崇拝する今の風潮を写し出した一種のアンチテーゼなんだ。そして、今の社会にすでにあるほかの現象も、誇張し、皮肉りつつ入れたんだ。



??????????

映画『アンチヴァイラル』より (C) 2012 Rhombus Media(Antiviral)Inc.







── この映画独自のSFの世界観を作る上で、何か参考にしたものはありますか?



いや、とくにないな。この映画に強烈に影響を与えた過去の映画を特定することはできない。この映画は日常的な制限と、すばらしい驚きから生まれたんだ。もちろん無意識のうちに影響を受けたものはあるだろうけど。たぶん、知らないうちに多くの人の影響を受けているだろうな。でも、僕がやりたかったのは、現代社会の誇張したバージョンだったんだ。現代のトロントを少し誇張して描く作品になるはずだった。僕らが生きるのとは違うバージョンの。一応トロントの風景は出てくる。でもトロントだということを強調しないようにはした。特定の都市だということにはしたくなかった。



30以上の草稿を繰り返して最終的な脚本にしたから、作品は大きく進化している。アイデアは全部そのままだが、昔の探偵物語のようなプロットを見つけるのに時間がかかった。ミステリー性が観客を引き込んでくれる。観客は主人公と一緒に情報を発見していくんだ。この企画はジャンル映画としてスタートしたわけじゃない。でも創っていく間に、強烈なSFホラーの要素を帯びた映画に発展していったんだ。





血の色が飛び出して見えるように、

真っ白なセットデザインにした



── キャスティングについて、主演にケイレブを選ぶまでに、どれくらいの時間がかかったのでしょうか?それからサラは『コズモポリス』にも出ていますよね。あなたはサラを『コズモポリス』で気に入ったからキャストしたのですか?



ケイレブに会う前に、何人かには会った。ほかの俳優ともちょっと時間は過ごしたけれど、彼に会った時に、彼しかいないと思った。サラと会ったことはなかった。『危険なメソッド』で見てはいたけれどね。本作では すばらしい存在感を放ってくれたし、いろいろ話し合う機会もあった。彼女の根性には脱帽さ。




??????????

映画『アンチヴァイラル』より (C) 2012 Rhombus Media(Antiviral)Inc.



── 撮影現場の様子は?





撮影の間は完全にパニック状態だった。長編映画を作るのは短編よりも強烈な経験だけど、僕の家族の多くがこの業界にいるから映画製作の構造には慣れている。ひょっとすると人々から、父親に仕事をもらってカメラの後ろにいるような奇異な目で見られるかもしれないと思った。でも僕の映画作りに反対する人はいないだろう。僕は引っ込み思案だから、60人もの人たちと1日12時間も仕事をするようなポジションにいるのは、自分の機能体系にとって大きな衝撃だったんだ。



撮影現場では、意図的にケイレブとサラをあわせないようにした。彼らはどちらも、別々に僕に同じことを言ってきた。相手に会わないほうがいいんじゃないかと思う、お互いのことを知らないほうが映画の中でふたりの関係を描く上でプラスになるんじゃないか、とね。それならそうしようと僕は思った。





??????????

映画『アンチヴァイラル』より (C) 2012 Rhombus Media(Antiviral)Inc.






── ビジュアル面でも、とてもインパクトがあります。基本的にはシンプルで白っぽいバックグランド。そこに強烈な血が現れたりします。ビジュアルはどんなふうにデザインしたのでしょうか?




血の色、ビデオクリップ、写真の色が飛び出して見えるように、真っ白なセットデザインにしたかった。たとえば、クリニックの壁がシンプルな白だと、壁にある写真がより引き立つ。観客の目をそこに惹きつけさせることができる。血が出てきた場合もそうだ。後ろが白だと強くて際立つよね。それに、セレブリティとその他のコントラストもつけたかった。メディアが彼らをアイドルとして祭り上げているわけだけが、一般人のほうはやや汚いムードにして、対比したつもりだ。それに混沌とした中にも、バランスと構造的な調和のあるフレームがほしかったんだ。




僕たちは何をし、何をしないかというかなり厳格な数多くのルールから出発したが、結局そのルールを破っていった。“クローズアップは避けよう”と自分に言い聞かせたが、ケイレブの表情が面白すぎて避けきれなかった。また絶対に黄色い照明を使わないつもりだったが、ホテルの部屋にシドがハンナ・ガイストの血液サンプルを採取しに行くシーンでは、部屋の黄色い明かりを変更できなかったので、そのまま撮影した。





??????????

映画『アンチヴァイラル』より (C) 2012 Rhombus Media(Antiviral)Inc.




24歳になるまで、フィルムメーカーになんて

絶対になりたくなかった




── あなたはアーティスト一家の出身で、クリエーターの家系ですね。具体的には どんな環境でどんな風に育ちましたか?それから、ご家族が映画に携わっている関係で現場を訪れる機会などはありましたか?カメラに触ったりは?



僕の育った環境はとても普通だったよ。平凡な子供時代だった。常識から外れた育ち方はしてないよ。うちは比較的良識のある家庭なんだ。確かに芸術家がそろってはいるけど、それ以外に取り立てて変わったところはないよ。子供の頃に現場を訪れたのは、ほんの数えるほどだが、父の作品の特殊効果チームに入ってた時期は別だね。監督になろうと決めてからは頻繁に顔を出したよ。実際の撮影を見られてすごくいい勉強になった。さまざまなプロセスを観察することができるし、現場の空気を肌で感じられる。



24歳になるまで、フィルムメーカーになんて絶対になりたくなかったんだ。本当になりたかったのは、レースカーのドライバーだ。あと、科学者にもなりたかった。科学には興味がある。父が映画を作るから、みんな僕も映画監督になるんだろうと思っていて、それが嫌だったんだ。だけど、24歳の時に、それが理由でやらないというのは、ばかげていると思ったのさ。



それまでは多種多様な“創作活動”にいそしんでたね。ビジュアル・アートもやってたし、小説家やミュージシャンを目指したこともあったよ。でも、やりたいことを絞らなければ何も達成できないと気づいた。何か1つに集中しようと思ったんだ。映画には美術や音楽など、僕の興味の対象が全て詰まってる気がした。だけど間違いだった。映画はもっと特殊なものさ。知れば知るほど、より面白くなっていった。



── 父親からアドバイスを求めることはありますか?



時々はね。でも、撮影中はないな。彼も忙しかったし。撮影の前にちょっと話したと思うけど、たいしたことではなかった。



── 父親が世界から尊敬を集める映画監督だということで、プレッシャーは感じますか?



いや、なかったんだけど、みんなが「プレッシャーがあるのでは」と聞いてくるから、今じゃプレッシャーを感じるようになったよ(笑)。でも映画作りには、いつだってプレッシャーがつきものだと思う。多くの人が関わるわけだし、お金も関係するし、良いものを作りたいという願望もあるからね。




(オフィシャル・インタビューより)











ブランドン・クローネンバーグ プロフィール



1980年生まれ。カナダを代表する鬼才デイヴィッド・クローネンバーグを父親に持ち、トロントのライアソン大学で映画を学ぶ。2本の短編映画『Broken Tulips』(08)、『The Camera and Christopher Merk』(10)を製作。『Broken Tulips』は2008年のトロント国際映画祭学生映画部門でプレミア上映され、エア・カナダのエンルート学生映画祭、翌年のトロント国際映画祭スプロケッツ祭で上映された。『The Camera and Christopher Merk』は2010年のトロント国際映画祭でプレミア上映され、同年のシネフェスト・サドベリー映画祭、ニューハンプシャー映画祭でも上映された。『Broken Tulips』では、エンルート学生映画祭の最優秀監督賞に輝き、HSBCフィルムメーカー賞最優秀脚本賞も受賞した。本作が長編デビュー作である。













映画『アンチヴァイラル』

5月25日(土)シネマライズほか全国ロードショー




監督:ブランドン・クローネンバーグ

出演:ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、サラ・ガドン、マルコム・マグダウェル

2012年/カナダ・アメリカ/108分/カラー/ドルビー・デジタル/原題:Antiviral

提供:カルチュア・パブリッシャーズ

配給:カルチュア・パブリッシャーズ、東京テアトル

(c) 2012 Rhombus Media(Antiviral)Inc.



公式サイト:http://antiviral.jp

公式twitter:https://twitter.com/antiviral_movie

公式facebook:http://www.facebook.com/antiviral.movie.jp


▼『アンチヴァイラル』予告編


[youtube:c7KACPBrHwU]

男女間の友情は成り立つ?「もちろん!でも長く付き合った人と友情を築くのは難しい」

$
0
0

映画『セレステ∞ジェシー』のラシダ・ジョーンズ photo:OKAMURA MASAHIR




デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)や『デス・オブ・ア・ダイナスティ / HIP HOPは死なないぜ!』(2005年)などに出演する女優ラシダ・ジョーンズが自らの体験を元にシナリオを手がけ、主演も果たした『セレステ∞ジェシー』が25日より公開。学生時代の恋愛からそのまま結婚、息はぴったりなのに、それぞれが進む道とキャリアの違いから、離婚を前提に別居している男女を描いている。現在、注目の脚本家として脚光を浴びる彼女が、シナリオの作り方を語った。





大人になるに従って向いている方向が変わり、別れていくカップルを描く




── なぜこの脚本を書こうとしたのですか?




私やウィル(・マコーマック/共同脚本)というよりも周囲のカップルが、大人になるに従って向いている方向が変わり、お互いに一緒にいるのも違うんじゃないかとなって別れていくというケースが多かったので、そういうことをホンにしてみようかなと思いました。それに、書くことでイマジネーションをどこまで広げられるかということに興味もあったの。






webdice_セレステ∞ジェシー:サブ4

映画『セレステ∞ジェシー』より (C)C & J Forever, LLC All rights reserved.




── この映画を作るにあたって参考にした作品はありますか?



別れた相手と友達でいられるかというテーマだから、友情と恋愛をテーマにした『恋人たちの予感』や、ウディ・アレンの『アニー・ホール』などは参考にしました。『アニー・ホール』は私の大好きな映画なの。



── この作品ではセレステをどのようなキャラクターとして描きたかったのですか?



ロマンチック・コメディが好きなんだけど、ロマンチック・コメディでいつも気になるのはキャリアも上手くいっていて、欠点は男がいないという女性を描いていることが多いということ。成功しているから、それが邪魔をしているのだと決めつけている描き方が多いの。でもそんなことはなくて、恋人がいないのは女性自身に欠点があるからなのに、そこを描いていないのよ。セレステは仕事面では上手くいっている反面、人間関係が上手くいっていない。見た人に「なんなのこの女」って思わせるような描き方をしたかったの。それに、映画で描かれる別れのシーンは美しいけど、実生活で誰かと別れた時って、女性はメイクもファッションもボロボロになるし、スナック菓子のドカ食いとかしちゃうでしょ? そのリアルさを描きたかった。





webdice_セレステ∞ジェシー:サブ3

映画『セレステ∞ジェシー』より (C)C & J Forever, LLC All rights reserved.


中二病のように精神的に成長しきれていない男性も多い




── 脚本を執筆するにあたり、セレステ役は最初から自分と決めて書いたのですか?




そう、最初は私とウィルが演じるつもりであて書きをしていたけれど、ウィルが精神的に大人になったのでジェシーの役はアンディ・サムバーグがいいだろうっていうことになったの。ウィルはいくつか制作のオファーを貰っていたけれど、キャスティングを自由にできない条件のものがあったので、そういう作品は断ってキャスティングを自由にやらせてほしいという条件がOKなところを探したの。




── 例えば失恋のように、人生ままならないと思うような経験はあなたにもありましたか? それをセレステのキャラクターに反映させましたか?




これはアメリカ的なのかもしれないけれど、20代や30代の女性たちが「セレステと同じ体験をしました」「失恋してずっと泣いていました」「自分の人生を再考しないといけないと思いました」などと言っていました。私の体験をベースに演じたところもあります。私は別れが苦手だから、失恋したら他人の目を気にしなくなったりということも自分が経験したことなんです。





webdice_セレステ∞ジェシー:サブ2

映画『セレステ∞ジェシー』より (C)C & J Forever, LLC All rights reserved.




── ジェシーは現代の男性像を象徴しているように思えますが?



女性がどんどんどんどん変化して進化していく中で、男性は改めて男性性を見直す機会がなかったと思うの。感受性の強い男性も多くなってきたし。男女のパワーバランス的にそうなっているということもあるのでは? 確かに男らしいと思う男性は減ってきているかもしれないわね。中二病(※日本に来てこの言葉を知り、言いえて妙だと気に入る)のように子供である時期が長くて精神的に成長しきれていない男性も多いと思う。





── 自分が書いた脚本ということもありセレステのことを全て判って役者としてはやりやすかったのではないですか?




私はメソッド系の役者ではないので、今まで演じてきた女性のキャラクターは似ていて、頼りがいがあったり、まともで良い恋人、良い妻などでした。今回は強烈で上から目線のキャラクター、そういう役は初めてだったけれど、自分が書いているのだから演じることは難しくなかったです。でも演じた時より脚本を書いていたときの方が私はセレステに似ていたの。撮影が近づくにつれてセレステは何でひとつの方向しか見ていないのかな? と距離ができてきて、そのうちに彼女がかわいそうに見えてきたの。セレステもあんなに突き落とされるとは思っていなかったんじゃない?



例えば、ジェシーとリップクリームやベビーコーンを使ってふざけるシーンはウィルとファーマーズマーケットに行った時によくふざけてやっていたの(笑)最初は脚本に入れていなかったんだけど、下品すぎず、かわいらくて二人の関係性がよく分かるやり取りだと思ったから、盛り込んだの。私とウィルの共通のユーモアはちょっと下品。この人とは下ネタは苦手、というのは友人にはなれないか、相手に恋心があるからじゃない? 友達になるならそういう感覚もシェアできないとね。





webdice_セレステ∞ジェシー:サブ1

映画『セレステ∞ジェシー』より (C)C & J Forever, LLC All rights reserved.




── あなたは男女間の友情は成り立つと思いますか?



もちろん! 親友になれる。現代において男女だと白黒つけることもないし、実際私とウィルもいい関係だしね!でも長く付き合った人と友情を築くのはとても難しいことかもしれない……。



── セレステは自分らしく生きている女性ですが、あなたにとって自分らしさとは何ですか?



20代の時は他人に見られることばかりが気になっていたけど、年を重ねるごとに自分らしさがクリアになってきたと思います。段々と自分の得意不得意が分かってくるの。だから、得意なことをどんどん伸ばして、不得意なことは、できなくてもあまり執着しないようにすればいいんじゃないかなぁと思うの。そして、いつでも自分に誠実であればそれでいいと思う。



(公式インタビューより)










ラシダ・ジョーンズ プロフィール



1976年、カリフォルニア州・ロサンゼルス出身。父親はミュージシャンのクインシー・ジョーンズ、母親は女優のペギー・リプトン。ハーバード大を卒業後、97年テレビミニシリーズ「The Last Don」で女優デビュー。テレビシリーズ『ボストン・ハブリック』(00)、『ジ・オフィス』(05~)等への出演で注目を集める。女優のほか、ミュージシャンやモデルとしても活躍し、雑誌ピープル誌では「世界で最も美しい女性」部門に3回、Harper's Bazaar誌では「アメリカのベスト・ドレッサー」部門に選出される等ハリウッドセレブとしても絶大な人気を誇る。映画の出演作には、デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャル・ネットワーク』(10)、『ビッグ・ボーイズ しあわせの鳥を探して』(10)、『ザ・マペッツ』(11)などコメディからドラマまでこなす多才ぶりを発揮している。

本作は、彼女の執筆パートナーであるウィル・マコーマックと共同で書いたもので、二人はバラエティー誌に”注目の脚本家”としてリストアップされ、2013年もインディペンデント・スピリット・アワードでは第一回脚本賞、ブラックリールアワードでは、主演女優賞・脚本賞にノミネートされるなど、ハリウッドで脚本家としての地位も確立している。













webdice_セレステ∞ジェシー:サブ5

映画『セレステ∞ジェシー』より (C)C & J Forever, LLC All rights reserved.





映画『セレステ∞ジェシー』

5月25日(土)、渋谷シネクイントほか全国ロードショー



セレステとジェシーは学生時代に恋に落ち、そのまま結婚。好きな音楽も、食べ物の好みも、ノリもぴったりなセレステとジェシー。いつも一緒で、ふざけて笑い合う2人は、誰もが羨むパーフェクトな関係。ただひとつ、離婚を前提に別居していることを除いては──。

メディア・コンサルティング会社を経営し、忙しくも充実した日々を送るセレステ。一方、夫のジェシーは、気ままな生活でヒマを持て余す売れないアーティスト。学生時代から変わらぬ彼と、着実にキャリアを重ねる彼女。そんな関係は、30代に突入しても相変わらず。ついにセレステは離婚を決意する。




監督:リー・トランド・クリーガー

脚本:ラシダ・ジョーンズ、ウィル・マコーマック

出演:ラシダ・ジョーンズ、アンディ・サムバーグ、イライジャ・ウッド、エマ・ロバーツ

2012年/アメリカ/92分/カラー/シネマスコープ/ドルビーSRD

(C)C & J Forever, LLC All rights reserved.



公式サイト:http://celeste-and-jesse.com/

公式twitter:https://twitter.com/C_and_J_movie



▼『セレステ∞ジェシー』予告編




[youtube:t-Pjf7YPpTE]

「スタジオからの多くの要求が刺激となり、ワンランク上の作品に仕上げることができた」

$
0
0

『イノセント・ガーデン』のパク・チャヌク監督

『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク監督が、ミア・ワシコウスカやニコール・キッドマンらを迎えハリウッドで完成させた『イノセント・ガーデン』は、広大な庭と自然に囲まれた屋敷を舞台に、事故で父を亡くした少女と母親、そして突然姿を現した叔父の3人を巡り起こる奇妙な事件の連続をサスペンスフルに描いている。日本公開にあたり来日した監督に、自身が惚れ込んだという脚本について、そしてハリウッドと韓国映画界の制作現場での違いについて聞いた。




ト書きの少ない脚本が想像力を呼び覚ませてくれた




── まず、今回監督をするに至った経緯を教えてください。誰から連絡があったですか。あなたは、ハリウッドにエージェントはいるのですか?



実はエージェントもいますし、マネージャーもいるのです。今回はそもそも、マネージャーがこの脚本を手に入れて、読んで、アメリカのプロデューサーは誰なのかを調べて、「これをやってはどうでしょう」と提案したんです。プロデューサー(スコット・フリー・プロダクション社長のマイケル・コスティガン)は「もちろん彼がやってくれたら嬉しいけど、パク監督は自分の脚本じゃないと撮らない人なんじゃないですか」と言うんです。でもマネージャーが「そんなことはないです、いい作品があれば探してますよ」と答えると「そう ですか、では」ということで話がまとまりました。



この作品はスコット・フリー・プロダクションと製作の話がまとまっていたので、スコット・フリー・プロダクションだけでなくスタジオ(フォックス・サーチライト)側にも話を繋げて同意してくれないといけない。でも実は、以前『渇き』でカンヌ国際映画祭に行ったときに、そのスタジオの方と会ったことがあったんです。その時点では「いい作品があったら一緒にやりましょう」という話をしていたんです。そうした経緯もあって、今回マイケルが私の名前を挙げてくれたところ、スタジオも歓迎してくれました。





webdice_『イノセント・ガーデン』メイン

『イノセント・ガーデン』より (c)2012 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.



── 監督はそのマネージャーの審美眼を信頼しているのですね。



もちろんそれもありますし、私も目を通して素晴らしい作品だと確信しました。



── 今回は、俳優ウェントワース・ミラー(『プリズン・ブレイク』)が変名で書いた脚本を気に入って映画化したとのことですが、ハリウッド流の脚本と韓国映画の脚本を比べて、どのような違いがありますか。



書き方や中身はほとんど同じなんですけれど、使っているソフトが違うんです。ソフトの名前を忘れてしまったのですが、アメリカでは、シナリオを書くためのソフトがあるんです。みんなそれを使っているので、見た目はどの脚本も同じなんです。制作の組み立てもしやすくて、それを使うと、1ページが1分の計算になるので、100ページだと100分の映画だと予測することができる。昼間のシーン、夜のシーンと時間帯ごとのリストや場面ごとの一覧も出すことができるんです。日本にはそうしたソフトはないんでしょうか?韓国にもないんです。







── ヤン・イクチュン監督が以前、韓国映画の脚本は分厚いと語ってくれましたが?



日本の脚本は読んだことがないのですが、アメリカの脚本は相対的に、韓国の脚本よりもト書きが詳しいんです。もちろん作家によってはそうでない方もいますし、今回の脚本はそれほどまでにト書き詳しくなかったんです。むしろそれが想像力を呼び覚ませてくれて、私はとてもいい印象を受けたのです。




webdice_『イノセント・ガーデン』サブ3

『イノセント・ガーデン』より (c)2012 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.



蜘蛛のシーンを巡るスタジオとの論争




── ハリウッドに進出した監督には、制約が多すぎて二度とハリウッドでは撮影しないという監督と、そうでない監督がいますが、今回はプロデューサーからの注文は多くありましたか?



今回はプロデューサーよりも、スタジオからの要求がありました。それは私に限らず、新人監督でも巨匠でも、外国の監督でもアメリカの監督でも問わず、常にスタジオ側は監督に様々な要望をしてきます。私はその経験が初めてだったので、非常に戸惑いました。しかしフォックス・サーチライトは今まで素晴らしい作品を撮ってきたという誇りがありますし、実際に仕事をされているのも見る目がある方たちなので、まったく理にかなっていない要求ではないのです。ですから私も多くの討論を重ねることで良い面を生み出すことができたと思います。最初は、やりとりをするのが大変でした。ところが、だんだんスタジオからの注文が映画の助けになることが分かり、逆にこちらもその要求を利用して良い映画を作ることができるのだ、という気持ちに変わりました。今にして思えば、スタジオから「勝手に撮ってください」と言われれば、今よりも良い結果は出せなかったと思います。たくさんの意見を言ってくれたことは、常に私を刺激してくれました。「新しいものは他にないのか」「もっといいアイディアはないか」と考えるようになり、最初の自分の思いよりも、さらに上のレベルのクオリティの作品に仕上げることができました。





webdice_『イノセント・ガーデン』サブ4

『イノセント・ガーデン』より (c)2012 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.




── そのスタジオからの要求で、いちばん刺激的だったことはなんですか?



蜘蛛を例に挙げましょう。最初の脚本では、冒頭で蜘蛛がピアノの上にいて、インディア(ミア・ワシコウスカ)の足元に降りてきて、彼女がそれを踏み潰す、という場面があったのですが、私は「そのシーンは外したい」と伝えました。あたかも予想できそうなシーンですし、最初から彼女が強いキャラクターであるということをスタートの時点で見せていいものだろうか、と思ったのです。しかしスタジオは「このシーンは良いものになるから入れたい」という意見で、しばらくの間論争が続きました。そこで私は、その中間の策として、蜘蛛は登場するけれど、踏み殺すのではなく、彼女のスカートの中に入り込む、そして冒頭からではなく、もう少し後に入れる、という新しい案を提案しました。そうするとスタジオも気に入ってくれました。さらにそのシーンを加えたことで、新たに、映画の後半で蜘蛛を再び登場させるシーンが思いついたのです。ですので、蜘蛛のシーンをなくさないでよかったと思いました。スタジオが「ダメだ」と言ったことに私が素直に聞いていたら、その後半のシーンは撮れなかったでしょう。



webdice_『イノセント・ガーデン』サブ2

『イノセント・ガーデン』より (c)2012 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.



── 撮影監督のチョン・ジョンフンとあなたが韓国人で、他はアメリカのスタッフだったのでしょうか?



VFXのスタッフは韓国人でしたね。




── アメリカのスタッフから学んだことはなんでしょうか?



やっている仕事はアメリカでも韓国でも似ていますので、特にそうしたことはなかったですが、アメリカに新しい家族を作って帰ってきた気分です。それくらい親しくなることができました。今回の作業については全員が満足しています。そのなかで一つ発見があったのは、テンプ・ミュージック・エディターという仕事があるということです。映画音楽をお願いした作曲家が本編に使う楽曲を書き終える前の段階で、編集作業は進めなければならない。そのときにテンプ・ミュージック・エディターは、既存の過去の映画音楽から探してきて、そのシーンにふさわしい曲を用意してくれるのです。それが驚くほどぴったりはまっているんですよ。もちろん監督と相談した上でですが、こちらとしても音楽があることでいろんなことが想像でき、映画のリズムを把握することができて、すごく良かった。アメリカではプレビューというものがあり、映画が完全に完成する前に少数の人に観せて意見を聴くことをするのですが、そのときにも音楽があることが役に立ちましたね。



(インタビュー・文:駒井憲嗣)










パク・チャヌク プロフィール


1963年、韓国、ソウル生まれ。映画監督、脚本家、プロデューサー。現代の映画界に欠かせない逸材の一人として高く評価されている。 ソガン大学哲学科在学中に映画クラブを設立、映画評論に取り組む。2000年、『JSA』で当時の韓国歴代最高の興行成績を記録する。 2003年には、『オールド・ボーイ』でカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞、世界にその名を知られる。 続く『親切なクムジャさん』(05)では、ヴェネツィア映画祭のコンペ部門で受賞、ヨーロッパ映画賞にノミネートされる。 2009年、『渇き』でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞する。 2011年、全編をアップルのアイフォンで撮影した短編『Night Fishing』(原題:Paranmanjang)で、ベルリン国際映画祭金熊賞(短編部門)を受賞する。 その他の監督作は、『復讐者に憐れみを』(02)、オムニバス映画『もし、あなたなら ~6つの視線』(03)の『N.E.P.A.L. 平和と愛は終わらない』、オムニバス映画『美しい夜、残酷な朝』(04)の『cut』、『サイボーグでも大丈夫』(06)など。











webdice_『イノセント・ガーデン』サブ1

『イノセント・ガーデン』より (c)2012 Twentieth Century Fox. All Rights Reserved.




映画『イノセント・ガーデン』

2013年5月31日(金)TOHO シネマズ シャンテ、シネマカリテ他 全国ロードショー




外部と遮断された大きな屋敷で暮らし、繊細で研ぎ澄まされた感覚を持つインディア・ストーカー(ミア・ワシコウスカ)は、誕生日に唯一の理解者だった大好きな父を交通事故で亡くしてしまう。母親(ニコール・キッドマン)と参列した父の葬儀に、長年行方不明になっていた叔父のチャーリー(マシュー・グード)が突然姿を現し、一緒に暮らすことになるが、彼が来てからインディアの周りで次々と奇妙な事件が起こり始める……。




監督:パク・チャヌク

脚本:ウェントワース・ミラー

製作:リドリー・スコット/トニー・スコット/マイケル・コスティガン

出演:ミア・ワシコウスカ/ニコール・キッドマン/マシュー・グード

2012年/アメリカ映画/99分/PG12

配給:20世紀フォックス映画



公式サイト:innocent-garden.jp

公式facebook:"https://www.facebook.com/innocentgarden.jp

公式twitter:https://twitter.com/Innocent_Garden











サイン入りプレスを3名様にプレゼント!



『イノセント・ガーデン』パク・チャヌク監督サイン入りプレスを3名様にプレゼントいたします。





webdice_『イノセント・ガーデン』監督サイン入りプレス画像



【応募方法】


webDICE会員の『webDICE編集部』アカウントまでメッセージをお送りください。

(ログインした状態でのみメッセージ送信が可能です)





■メッセージ送付先


webDICE編集部

http://www.webdice.jp/user/283/



■件名を「パク・チャヌク」としてください



■メッセージに下記の項目を明記してください


(1)お名前(フリガナ必須)(2)郵便番号・住所 (3)電話番号 (4)メールアドレス (5)ご職業 (6)性別 (7)応募の理由


※『webDICE編集部』アカウントにメッセージを送るにはwebDICEのアカウントを取得する必要があります。登録がまだの方は以下ページより、新規ご登録ください。







webDICE新規登録ページ

http://www.webdice.jp/signup.html



■応募締切り: 2013年6月20日(木)23:00


※発送をもって当選のご連絡とさせていただきます。





▼映画『イノセント・ガーデン』予告編




[youtube:iQxOJFircAk]

カラッとした前半はアメリカの撮り方で、後半は日本のホラーを意識して編集のリズムも変えた

$
0
0

映画『クソすばらしいこの世界』の朝倉加葉子監督



『息もできない』のキム・コッビ、『ムカデ人間』の北村昭博など日韓の気鋭の俳優が参加し、アメリカの制作プロダクションとともに、全編ロサンゼルスロケを敢行したスラッシャー・ホラー『クソすばらしいこの世界』が6月8日(土)よりポレポレ東中野で公開される。これまでに女性監督による短編映画上映企画「桃まつり」などに作品を発表し、本作が長編デビューとなる朝倉加葉子監督にアメリカでの撮影の様子を聞いた。





頑なに保守的になる人たちとの出会い



── 最初に朝倉監督とホラー映画との出会いから教えて下さい。



元々怖いものがとにかく苦手で避けてきたんですけど、いままで避けてきたホラーが中学生、高校生くらいから気になるようになって、18歳くらいのときに意を決して『悪魔のいけにえ』を観たんです。そしたらとっても面白くって、今まで見てこなかった反動から見るようになったんです。その後、自分でも映画を作るようになり、そういったものを作りたいなと思うようになっていました。




webdice_『クソすばらしい~』メイン

映画『クソすばらしいこの世界』より (C)2013 KINGRECORDS




── 日本人と韓国人の留学生がキャンプで襲われる、という本作のストーリーはどこから着想を得たのですか。




スラッシャー映画のひとつの典型として、田舎に若者たちが遊びに行くと怖い目にあうというものがあるんですが、ここに日本人が乗り込むことによって、いままでスラッシャー映画であまり見ることのない言葉の問題や人種の問題でトラブルが起こるだろうなということを盛り込んでいけたら面白いのかなと思いました。



私自身は留学経験はなく、英語がそもそも話せないんです。アメリカに旅行で行ったときに、つたない英語で話す私の話を全く聞いてもらえなかったという経験があって、それが原体験にはなっているかもしれません。アメリカでも日本でもそうだと思うのですが、頑なに保守的になる人たちってどの国にも時代にもいるだろうなと思って、そういった人たちとの出会いを描きたかったんです。



日本語と英語を組み合わせた台本




── 撮影中の現場の様子を教えてください。




今回日本からアメリカへ行ったスタッフは私だけなんです。カメラマンだけは、いつものスタッフがたまたまアメリカに居たのでお願い出来たんですけど、前から知っているスタッフというのはごく少数で、初めてのスタッフ、しかも半分近くが日本人ではないスタッフという編成でした。



私が英語を話せないということもあり、通訳には入ってもらっていました。スタッフのかたは日本語も英語も出来る方が多かったので、スタッフ同士での情報共有はスムーズにできました。





webdice_『クソすばらしい~』サブ1

映画『クソすばらしいこの世界』より (C)2013 KINGRECORDS


── 脚本は日本語版と英語版の両方作ったのでしょうか?アメリカ人のスタッフとの通訳を通してのにコミュニケーションで難しかったところは?



脚本は私が日本語で書いたものを英語に訳してもらいました。実際の撮影では日本語と英語と両方台詞があるのでそれを組み合わせたものを作ってもらって各スタッフに配って撮影しています。



英語がわからない私も、映画製作の局面だと彼らが何を言っているのかは結構わかるので聞く分にはあまり問題ありませんでした。こちらの意図を伝えてもらうにもスタッフに日英両方できる人が多かったのでそんなに苦労はありませんでしたね。





── ロサンゼルスで撮るということで、演出の面ではどのようなところに気を遣いましたか。




ちゃんとアメリカが舞台のスラッシャー映画に見えるように、特に映画の前半はカラッとアメリカっぽく見えるよう、アメリカ映画のやり方で撮ろうと意識しました。逆に映画の後半は日本風というか、アメリカ映画に寄らないように撮り分けました。編集のリズムも変えているんです。後半のホラー表現は日本のホラーを意識して撮りましたね。






webdice_『クソすばらしい~』サブ2

映画『クソすばらしいこの世界』より (C)2013 KINGRECORDS


アメリカの若いスタッフは、映画業界で働くことを気楽に楽しんでいる



──アメリカ映画のやり方で撮ろうとした、というのは具体的にどんな作業だったのでしょうか?



私が今まで日本でやっていたのはシナリオの頭から順にカットを割って、撮影の順番を効率よく前後させながら撮るやり方でしたが、今回前半部はアメリカで主流のショットリスト方式でやってみました。いわゆるマスターショットを撮ってから少しずつ狭い画を撮り、最後にクロースアップやピックアップを撮るやり方です。これらのやり方は一見似ているのですが考え方が全然違うと感じています。カット割り方式は撮影時の割りを編集で再現し繋いでいく感覚ですが、ショットリスト方式は編集時にゼロから立ち上げていく感覚があります。



webdice_『クソすばらしい~』サブ3

映画『クソすばらしいこの世界』より (C)2013 KINGRECORDS



──アメリカのスタッフから学んだこと、アメリカ映画界ならではだな、と感じたことはなんでしょうか?



「プロダクション・バリュー」という言葉を今回初めて教えてもらいました。すごくいいショットが撮れた時に、「予算1000万の映画が2000万の映画に見えるようになったね=プロダクション・バリューが上がったね」という風に表現するんです。それが撮れると皆のテンションもあがるし、その為にクルーは頑張るものなんだ、と。今回は、ポスターに使われているシーンの撮影の際にそれを言ってもらえて、ごく短いシーンなんですが私がすごく大事に思っていた箇所だった上、私もいい画が撮れたと思ったので本当に嬉しかったです。



また、日本での私や私の周囲ではどこか「映画が好きだから、お金にならなくてもつらくてもやっていく」という意識があるのですが、アメリカでは若いスタッフでも映画業界で働くことを気楽に楽しんでいる人が多いように思いました。これはアメリカの映画産業が大きいので純粋に夢を見られる余地があり、将来の可能性を身近に感じられるのではないかと思います。うらやましかったですね。





怖さがエンターテインメントになる



── 劇場公開前には、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭での上映されましたが、現地での反応は?



夕張へは初めて行きました。そもそもホラー映画を受け付けない方もいらっしゃったんですが、生まれて初めてお客さんが走って来てくださって「面白かったです」と行ってもらえる経験もして。「こういう映画を初めて見ました」という感想を頂いたり、日本のスラッシャー作品として評価していただいたりとか、人物をクローズアップして考察して下さった方もいらっしゃいました。とても暖かく受け入れていただき、非常に良い経験をさせてもらいました。




webdice_『クソすばらしい~』サブ7.jpeg

映画『クソすばらしいこの世界』より (C)2013 KINGRECORDS



──朝倉監督にとってホラー映画の魅力とはどんなところでしょう?



怖さがエンターテインメントになるんです。私は面白さが膨れあがるのをホラー映画で始めて実感したんです。今でも魅力はそこにあると思っています。また、ホラー映画には「怖い」「怖くなかった」だけでも話題に出来る間口の広さもある。それがホラー映画ならではの感想の持ち方な気がしています。



── なんともいえない余韻を残すラストですね。



『クソすばらしいこの世界』は、スラッシャー映画というジャンルから引き出せる娯楽性と、いろんな人種や立場の人がいる中で起こるディスコミュニケーションの恐怖を描いていますが、結局は個人の問題で解決していくしかないんだという混沌とした結末を導き出せるラストにしたくて作った作品です。そういう映画ってあんまりないと思うので、是非多くの方に見て頂きたいなと思います。



(オフィシャル・インタビューより)










朝倉加葉子 プロフィール



山口県出身。東京造形大学在学中に映画制作をはじめる。大学卒業後、テレビ番組制作会社でアシスタントディレクターをつとめたのち、2004年に映画美学校に入学。同校修了制作作品『ハートに火をつけて』が2008年に「映画美学校セレクション2008」の1本として劇場公開される。2010年に女性監督による短編映画上映企画「桃まつり presents うそ」で自主制作作品『きみをよんでるよ』が劇場公開。同年、テレビシリーズ「怪談新耳袋 百物語」(BS-TBS)の一編「空き家」で商業作品デビューを果たす。ほかの作品に、高橋洋監督作品『恐怖』バイラルムービーとしてネット配信された(のちに『恐怖』DVDに特典として収録)短編『風呂上がりの女』(2010年)、カンヌ映画祭マーケット部門Short Film Corner2013参加作品『HIDE and SEEK』(2013年)など。










kusosubarashii_poster


映画『クソすばらしいこの世界』

6月8日(土)より、ポレポレ東中野にて3週間限定レイトショー



国家間、人種間の溝は決して埋まることはない。

日本人留学生のグループに、L.Aの田舎町へキャンプに誘われた韓国人留学生のアジュン。彼女たちは、冷酷な殺人と強盗を生業とするホワイトトラッシュの兄弟に、ひょんなことから命を狙われることになるが……?




監督・脚本:朝倉加葉子

出演:キム・コッビ、北村昭博、大畠奈菜子、しじみ

製作:キングレコード

制作:ブースタープロジェクト

協力:ゆうばり国際ファンタスティック映画祭

2013年/日本映画/78分/カラー



公式サイト:http://kusosuba.com/

公式facebook:http://www.facebook.com/kusosuba










▼『クソすばらしいこの世界』予告編




[youtube:NmLGNHsV490]

キム・ギドク監督「人は本来の自然の姿に戻るべきか、システムに適応するべきか」

$
0
0

『嘆きのピエタ』のキム・ギドク監督


第69回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得したキム・ギドク監督の『嘆きのピエタ』が6月15日より公開される。親なしに育ち借金取り立てで生計を立てる男と、彼女の母親と名乗る女との関係をサスペンスフルに描く今作。次作『メビウス』が韓国で映像物等級委員会から制限上映可判定(非倫理的、反社会的な表現のため制限上映館でのみ上映が可能)を受けたと報道されるなど、常にセンセーショナルな作品を世に送り出し続けているギドク監督が、子供への強靭な母の愛というテーマを選んだ経緯や心情について語った。




人間には動物が持っている本能のようなものが内在している





webDICE_「嘆きのピエタ」main

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved




── 主演二人が素晴らしい存在感でしたが、ギドク監督の映画の登場人物たちは、いつも突拍子もない行動を見せるので、まるで動物のような人間たちに見えます。そういった人物を描き続けるのは何故ですか?




人間は社会を構成したり、生きていくためのシステムを作るので動物とはかけ離れていると思われがちですが、大きな意味では人間も動物だと思います。動物が持っている本能のようなものも内在しているのではないかと私は考えます。なので、私の映画の中にはそういう人物像が写るのです。私の映画に出てくる人たちは自然そのままなのです。動物としての片鱗があるので、本能や自然のままの姿が表れているのだと思います。



これは私が映画を作る理由でもあるのですが、人は本来の自然の姿に戻るべきなのか、それともシステムに適応する人間になったほうが良いのか、常に私の中で混乱がありました。でも最終的には、自然のままの姿に戻ったほうが魅力的なのではないかと思っています。




webDICE_「嘆きのピエタ」sub2

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved



ローマのバチカン聖堂のピエタ像からインスピレーションを得た




── 今回の映画の舞台である街、清渓川(チョンゲチョン)のロケーションは、素晴らしいものがありましたが、この街で撮ることに決めた理由を教えてください。




今は周辺が開発されて高層ビルが建っているので目立たないのですが、チョンゲチョンという街は、ソウル市のど真ん中にあるんです。韓国でのIT産業の象徴であり、機械産業のメッカと言われていた場所なんです。色んな機械のサンプルなども売られていて、秋葉原みたいな感じですかね。アナログの部品が今でも生産されていてそこに行けば買えるという非常に重要な場所なんですが、もうすぐ無くなってしまうのです。私も若い頃に工場地帯で働いていたこともありましたし、子供の頃の思い出も詰まっている場所なんですね。そして韓国の歴史においては産業の発展を象徴するような街でもありますし、今回の映画で撮っておきたいと思いました。




webDICE_PIETA (34)

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved


── 10日間という短い期間で撮影されたと伺ったのですが、とても驚きました。ギドク監督は、事前に綿密な演出プランを練った上で撮影に臨まれるんでしょうか?




私は撮影に入る前に、撮影場所の近くの安モーテルに10日間ほど泊まり込んで色々なイメージを考えるのです。どんな風にこの空間を使ったら良いのかといったことを考えます。その時はスタッフは連れて行かず、一人で行って深く考えるのです。なので、撮影期間は短いのですが、そういった準備の時間は長くとっています。







webDICE_PIETA (14)

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved



── タイトルの「ピエタ」と言えば、死んだキリストを抱きしめるマリアの彫像や絵画のことですが、「ピエタ」というタイトルを冠した理由を聞かせてください。




ピエタ像は、ローマのバチカン聖堂にありますよね。実際に見てインスピレーションを得ました。当時、私は母親という存在が息子にどんな影響を与えるのかということに関心を持っていたのです。キリスト教の中でもカトリックとプロテスタントがあって、捉え方がそれぞれ違うのですが、いずれにしても、私はピエタというものの中に「母親」という要素を感じることが出来たんです。今回の映画も母親と息子についてのものですので、今回の作品に合っているかと思い、『ピエタ』というタイトルを付けました。





── 母性の象徴である彫像だから、ということが大きな理由なのですね。




はいそうです。この物語のテーマが「母親と息子」ということ。そして、構想を練ったときに「母親とは何か」と考えていたからです。



webDICE_PIETA (24)

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved



現代社会が資本主義によって色々な問題を抱えていることを強調したかった




── 本作はある意味、復讐劇とも言えますが、監督のキャリアの上で、しばらくの沈黙の後、『アリラン』を経て、この題材を復活作に選んだのはなぜですか?




以前からタイトルが『ピエタ』と決まっていたわけではないのですが、暴力団の人たちの、母親を題材にしてみたらどうかと考えていました。この社会には本当に残忍で残酷な人が多いじゃないですか、日本のやくざのように、韓国にも組織暴力団がいるんです。そんなふうに、この世界には人を傷つける人たちが沢山いると思ったんです。「暴力は悪いことだ」と彼らに悟らせるにはどうすれば良いのかということを以前からずっと考えていました。そこで思いついたのが母親の物語だったんです。つまり暴力を振るう人の母親を、例えば誘拐したり拉致するようなことがあれば、暴力を振るっていた人は「暴力は悪だ」だと悟るのではないかと。そういう思いが、『嘆きのピエタ』に繋がっていきました。




webDICE_「嘆きのピエタ」sub1

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved


── 監督のキャリアの中で、特に今作はエンターテイメント性が強い作品かと思われますが、いまのタイミングでそういった作品を作った理由は?




韓国でも「とても商業的だ」と言われましたが、そんなことを考えていませんでしたし、意図していませんでした。今回の映画で強調したかったのは、現代社会が資本主義によって色々な問題を抱えているということなのです、それは韓国に限らず日本もそうですし、ヨーロッパも例外ではなく、資本主義体制による様々な問題がありますよね。それが今や他人事ではなく自分のことになっていたり、周囲から見聞きするようになっていると思うのです。ですので『嘆きのピエタ』は普遍性を持っていると観られたのかなと思います。





webDICE_PIETA (62)

『嘆きのピエタ』より (c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved



お金や名誉などを巡って多くの人が傷ついている





── ギドク監督の映画は、いつもラストシーンがとても印象的ですが、今回の映画のラストは、早い段階から思いついていたのですか?




私は昔から、人が本当に苦しみ抜いて死ぬ姿をどんなビジュアルで見せれば良いのかということを良く考えていたのです。イメージの状態では頭の中にあったのですが、どの映画のどのシーンに使うかということは全く決まっておらず、そういうイメージだけが頭の中に、ぼんやりあったんですね。それで今回の映画のラストの死は、自殺でも他殺でもないものにしたかったんです。つまり、神に何か貢ぎ物を捧げるような死のイメージだと思いまして、以前考えていたイメージが今回の映画のラストに合うと思いまして、使ってみました。




── では今回の映画の製作が始まる前から考えていたのですね。




そうです。映画監督というのは、どこに使うか分からなくても、常に何らかの物語やエピソードを持っているほうが良いですよね。でもそれは間違って使うと失敗しますので、上手く使わないといけないでしょうね。残酷なシーンを想像するのは嫌ですが、ドラマと関連づけて、そういうシーンを入れることで、観客を説得するということも大事なことだと思います。




現代社会はお金や名誉などを巡って多くの人が傷ついている社会だと思います。そんな現代社会の中で、小さいながらも、人間と人間、そして家族と家族が幸せに暮らせると良いなということを夢見て撮った映画ですので、その点を感じ取ってほしいです。




(オフィシャル・インタビューより)











キム・ギドク プロフィール




1960年12月20日、慶尚北道・奉化(ポンファ)郡の山あいの村に生まれる。1996年『鰐(ワニ)』で監督デビュー。その後17年間で18本の作品を発表している。低予算かつ短期間で撮影された作品群はそのストーリーの暴力性から、発表される度に韓国映画界で物議を醸し、国内評論家やフェミニストの批判対象となる。一方、海外の映画祭では次々と受賞を重ね、“世界のキム・ギドク”として新作が熱望される存在となる。日本に初めて紹介された作品は2000年の『魚と寝る女』で、以来熱狂的なファンを獲得している。2008年『悲夢』以降映画界から姿を消すが、3年後の2011年、隠遁生活を送る自分を撮ったセルフ・ドキュメンタリー『アリラン』を発表。2011年カンヌ国際映画祭で<ある視点>部門最優秀作品賞を獲得し、ベルリン(監督賞-『サマリア』)、カンヌ(『アリラン』)、ヴェネチア(監督賞-『うつせみ』)の世界三大映画祭で受賞という快挙を成し遂げ、復帰を果たす。カンヌ映画祭で渡欧中に撮影した実験作「アーメン」を同年に発表。久々の本格的劇映画となる『嘆きのピエタ』は12年ヴェネチア国際映画祭で韓国映画初となる最高賞、金獅子賞に輝いた。ヴェネチアでの受賞効果もあり、国内で60万人を動員するなど興行成績も好調だったが、キム・ギドクは大作がスクリーンを占有し続ける韓国映画界の現状を批判し、国内での上映を4週間で自ら打ち切った。










映画『嘆きのピエタ』

2013年6月15日(土)よりBunkamuraル・シネマ他にて全国順次公開




生れてすぐに親に捨てられ、30年間天涯孤独に生きてきた借金取りの男ガンド。冷酷無比な取り立ての日々を送る彼の前に、突然母親だと名乗る謎の女が現れる。女は本当にガンドの母親なのか? なぜ今、現れたのか―?疑いながらも、女から注がれる無償の愛に、ガンドは徐々に彼女を母親として受け入れていく。ところが突然、女が姿を消して…。





監督:キム・ギドク

出演:チョ・ミンス、イ・ジョンジン、ウ・ギホン

撮影:チョ・ヨンジク

美術:イ・ヒョンジュ

照明:チュ・ギョンヨプ

サウンドデザイン:イ・スンヨプ(Studio K)

録音:チョン・ヒョンス(Sound Speed)

音楽:パク・イニョン

製作:キム・ギドク フィルム

エグゼクティブ・プロデューサー:キム・ギドク、キム・ウテク

プロデューサー:キム・スンモ

韓国/2012年/104分/カラー/ビスタ/デジタル

英題:PIETA

提供:キングレコード、クレストインターナショナル

配給・宣伝:クレストインターナショナル

(c)2012 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved



公式サイト:http://www.u-picc.com/pieta/

公式twitter:https://twitter.com/u_picc

公式facebook:http://www.facebook.com/nagekinopieta



▼『嘆きのピエタ』予告編


[youtube:-FDubRSQQZw]

「被写体は常に無防備で、撮影者はそこに付け入っているという感覚を忘れてはならない」

$
0
0

土屋豊監督(左)と想田和弘監督(右)



実在の少女による母親毒殺未遂事件をモチーフに現実と非現実が融合するハイブリッドな世界を作り上げた土屋豊監督の『タリウム少女の毒殺日記』、そして台本やナレーション、BGMを排した方法論「観察映画」により2011年4月の川崎市議会選挙に立候補した山内和彦氏の奔走を追った想田和弘監督の『選挙2』がそれぞれ7月6日(土)より公開される。今回は、雑誌「創」2013年7月号の特集『映画会の徹底研究』に掲載された両監督による対談を掲載。お互いの作品についてはもちろん、インディペンデント映画製作における問題点と可能性が浮き彫りになる対話となっている。



「タリウム少女」の本質的な問いかけ



──まず、想田監督から見た土屋監督の新作『タリウム少女の毒殺日記』についての感想をお願いします。2005年にタリウムを用いて母親を毒殺しようとした少女が逮捕された事件をもとにイメージした作品ですが、全体はフィクションで、その中にドキュメントふうの科学者のコメントなどが入っているという独特の映画ですね。



想田:すごく面白かったです。こんなに本当のことやっちゃっていいの?と思いました。主人公の「タリウム少女」は異常な世界にいるということになっていますが、実は彼女だけじゃなくて、我々はみんなそういう世界に住んでいるのに、そうでないかのように私たち自身が振る舞っている。



「人間と動物と何が違うの?」って、もっともな疑問だと思うんです。違いなんて本当はない。人類が人類だけで「人間には人権がある」というふうに取り決めをして、「人間以外の動物には生存権を認めない」と決めちゃっただけで、両者に本質的な違いがあるはずないんですよ。だけど、違いはないと認めちゃうとこの社会が成り立たないから、見て見ないふりをしているだけ。タリウム少女の問いは本質的だし、それを映画で上手く見せているなぁと思ったのは、本物の科学者に話をさせるドキュメンタリーな部分があるところです。この社会でちゃんと地位を持っていて、認知されている人たちが言っていることと、少女の言っていることは変わらないことに気づかされる。



たまたま少女は高校生で、しかも親を毒殺する実験台にしてしまったから、猟奇的な殺人未遂事件として名を馳せてしまったけれど、同じ構造の「実験」は合法的にシステマティックに社会の中で行われていることがよくわかります。非常に上手いコントラストですね。





webdice_タリウム少女_sub3

映画『タリウム少女の毒殺日記』より



土屋:人間と動物が本質的には変わらないということを基本にしながら、この映画では、生物とか人間というものを、プログラムとして見る、数値として見るというふうに、シフトした目線で見てみたらどうなるだろうと考えました。要は、プログラム的観点から見れば、人間と大腸菌ですら大して変わらないんですよね。ゲノム的な意味では大した違いはない。人間の個性なんてものも、「どれだけ個性ってあんの?」っていうところまで客観的に、引いて見ることができるわけです。



人間と動物にはほんのわずかな違いしかないと捉えた場合、どういうふうに人間が見えてくるかというのが表したかったことの一つです。もう一つは、バイオテクノロジーを研究している学者も映画に出てくるんですけど、その研究の先端を見ていくと、人間の臓器を豚の中で作ったらどうなるのかということを前提にした実験を実際にやっている。ここ数年で実現しちゃうんじゃないかと思いますが、そうなった時、豚肉は美味しく食べるけど、豚の中で作った臓器は嫌だということの違いは何だろうか、というところも表現したかった。



2005年に実際に事件を起こした少女がどう考えていたかはわかりませんが、少女が今の現実を見たらどんなふうに捉えるかを表現したかったんです。バイオテクノロジーの観点からもう少しずらして、監視社会やマーケティング社会的な観点から見ると、人間はもう完全にバイオ的プログラムというよりも、消費者としてプログラム化されているじゃないですか。サイトのクリック先とクリック回数によってお勧め広告が開くし、監視カメラは自分がどの経路を通ってきたかを記録してるし、動線をどう引けば物を買ってくれるかというのもプログラムによって算出されている。そういう世界にあなたはいますよ。それってどうなの?ってことをやりたかった。



「観察映画」ですまない『選挙2』



──一方、想田監督の映画『選挙2』は2007年に公開され、世界中で話題になった『選挙』の続編ですね。前作は想田さんの同級生だった「山さん」こと山内和彦さんが自民党の落下傘候補として川崎市議会選挙に出馬してドブ板選挙を闘う様子を追ったドキュメントでしたが、今回はその山さんが2011年4月の川崎市議会選挙に無所属候補として出馬したのを追った。ちょうど震災・原発事故の直後だっただけに、山さんは、その問題を提起して闘った。土屋監督は、この『選挙2』をどう見ましたか。




土屋:もう、想田さんが提唱してきた「観察映画」なんてことを言っていられなくなっているところが面白かったですね。観察している想田さんの主体そのものがばればれになっている。カメラを回しながら対象とコミュニケーションを取っていかなければいけないし、はては撮影をめぐって自民党の候補者と「訴える訴えない」という騒ぎにまで至っていく。「参加」しなきゃならなくなった想田さんの視線がすごく面白いなと思いました。



要は想田さんの視線の映画なんですね。例えば映画のポスターにもなっている、山さんが防護服を着て選挙演説している場面が象徴的ですが、演説中の山さんだけ撮るのがありがちな視点とすれば、想田さんはちょっと待てよ、と引いて見て、横で遊んでいる子供の方をメインで撮っている。想田さんが何を観察したいかという興味をすごく純粋に表していると思いました。編集の仕方にしても、何を引っ張ってくるかというところに想田さんの観点が表れている。今回は一層そんな感じがしました。




webdice_senkyo2main

映画『選挙2』より (C) 2013 Laboratory X,Inc.


──確かに『選挙2』は、作品の中に想田監督自身が登場する度合が高いですね。



想田:そうならざるを得なかったんです。まず山さんも前の『選挙』という映画ありきで僕と関係を結んでくるし、奥さんに至っては何か撮ってると、「そのアングルから撮らないで」「私がラーメン食べてる時はこっちから撮って」とか(笑)言ってくる。すごく警戒しているんですよ。街を歩いていて、他の候補者が僕に「また山内くんの選挙?」と話しかけてきたこともありました。僕は会ったことのない人なんですけど、続編を撮っていることを誰からか聞いて知ってるんです。少なくとも川崎の候補者の世界、政治の世界の人たちはみんな『選挙』を見ていて、それが前提になっているんですよね。



だから、誰も僕のことを放っておいてくれない。僕は参加したいと思っていないのに、その場に引きずり出されちゃう。観察者としての観覧席みたいなものはなかったんだ、と思い知らされました。2作目の『精神』( 08年)以来、僕は自分の観察映画を「参与観察」であると位置づけていて、自分も含めたこの世界の観察というスタンスで観察していこうと思ってやっているので、構わないんですが。



土屋:参与し始めたら、結局は相手とのコミュニケーションですよね。観察する側と撮られる側というより、その相互でどうコミュニケーションを取りながらやるかというふうに映画自体がなっていく。



撮る側と撮られる側とのせめぎあい



──『選挙2』で山さんが「脱原発」を掲げていました。原発の問題は、想田さんの中にテーマとしてあるんでしょうか。



想田:僕は80年代から原発に異を唱えてきましたから、原発の問題にはもちろん関心は高かったです。でも、これはいつもそうですが、そういうテーマの映画にしようと思ったわけではなくて、今回はたまたま山さんが脱原発を叫んでいたので、自然にそういうものにカメラが向いた。あと、ちょうど告示が原発事故直後の4月1日で、原発は最もみんなが気にしていることだったので、自然に映り込んできた感じです。



僕は東日本大震災が起きた当時はニューヨークにいたので、撮影の時が震災以降、初めての帰国だったんですよ。川崎でこの映画を撮っている時は「なんで被災地行かないの?」っていろんな人に言われて反発を感じていた。なんで俺が行かなきゃいけないんだ、なんで行くことがスタンダードなんだよって。僕は天邪鬼なので。



ただ、反発はしつつも一方で、東北であれだけ大変なことが起きているのに、なんで俺はそっちに行かず、川崎で何もやらない山さんを撮っているんだろうという変な焦りはありました。すごく変なところにいて、変なものを撮っているという。だから撮ってた時には、原発事故直後の日本なんて、そんなものはあまり映ってないと思っていたんです。だけど、後から映像を見ると、「なんだ川崎も被災地だった。関東、日本という国全体が被災地だったんだ」って感じました。






webdice_senkyo2sub1

映画『選挙2』より (C) 2013 Laboratory X,Inc.




──取材拒否した自民党議員と激しくやりとりする場面をそのまま撮影して映画の中で使っていましたね。




想田:僕を放っておいてくれない最たるものが、自民党の2人の議員でした。前の『選挙』に出ている方々ですが、あまり前作のことを快く思ってなかったんですね。それは山さんから聞いていたんですけど、あんなに怒られるとは思ってもみませんでした。




土屋:普通、思わないですよね。「社会人として常識をわきまえなさい」とか言われながら、それをも撮影していましたが、あれがいちばん面白かった(笑)。



想田:そもそも選挙運動は税金も使われる公の活動だし、公の場所で、公人たる現職議員が選挙運動をやっていて、それを撮らせないという発想は考えられなかったんですよ。



特に自民党の議員でしょう。あんな大きな原発事故が起きたら、自民党が原発を推進してきたわけだから、少しは恥じ入るとか、負い目を感じたりするのかなと勝手に想像していた。まさか食ってかかられるとは思わず、正直びっくりしました。だからカメラを回しながら、ここで回すのを止めたら負けだ、という感じがあった。本能的なものだと思いますね。



土屋:偉そうな高圧的な態度で言われたら、撮っている人間は絶対に止めない。あんなふうに「撮るな」って言われたら、こっちはすごく燃えるでしょう。



想田:たしかに(笑)。でも、「撮るな」と言われている映像をそのまま作品に残すことには、相当のためらいもありましたし、不安もありました。撮影後、自民党の弁護士から「映像を使うな」という文書が送られてきましたから、訴えられる可能性もあります。だから自分を守るためにも「モザイクをかけた方がいいんじゃないか」と一瞬思ったりもしたんですが、『精神』で精神科の患者さんにモザイクなしで出てもらったのに、現職の議員にモザイクをかけるのもねえ(笑)。





webdice_senkyo2sub2

映画『選挙2』より (C) 2013 Laboratory X,Inc.





ドキュメンタリー撮影の際どい綱渡り



想田:僕は、『精神』の時にかなり際どい綱渡りをしました。誤って子供を死なせてしまったお母さんがいて、撮影中にその話をしてくれた。彼女もその時はよかったんですが、公開が近づくと、映画を見た人が自分をどう思うのか、もしかしたらすごい非難されるかもしれない、村八分にされるかもしれない、と恐怖を感じられたんです。それはもっともな恐怖ですよね。



それで「公開をやめてほしい」「やるなら公開日に自殺する」とまで言われた。自分の映画のせいで彼女が死んでしまったら、と究極の選択を迫られた。彼女に会いに行って話をしたり、診療所がすごく協力的でカウンセリングをしてくれたり、別の患者さんたちが「この映画は世に出したいから協力する」と言って話をしてくれたり、それで彼女も不安が収まり、公開することができたんです。



結果として、公開しても彼女が恐れていたことは何も起きませんでした。それで彼女は自信をつけることができたんです。でも、今考えると相当危ないことでもあるわけです。そういうこともあって、自民党に脅されたくらいで自主規制するわけにいかなかったんですね。







土屋:取材された側は、やっぱり撮られたことで変わりますからね。その後も人生は続くわけだから、直後はOKだったけど5年後に気分が変わったり、10年後に映画を見たことで傷ついたり、一生付き合わなきゃいけない。そのお母さんも今は大丈夫だけど、明日どうなるかわからないし、10年後もわからない。それに対してどう責任を取るのかと言われても、その方法はわからないけど、責任を取る努力を続けるしかないですよね。



想田:それはドキュメンタリーに限らず、実は日常の生活でも同じです。僕たちは日々言葉を交わすけど、その言葉が原因で誰かが死ぬかもしれない。そんな危険を犯しながら僕たちは普段、生活をしているし、それが生きること、あるいは他人と関わるということなんだと思います。ただドキュメンタリーというフォーマットでやると、映像として残るから、ある意味で非常に決定的な、後で修正のきかない関わり方をしてしまうという激烈さはありますね。



土屋:ドキュメンタリーは目の前で取材される側がどんどん無防備に、裸になっていって、そういうところが生々しくて面白いわけだけど、それは表裏一体で、撮られた側は良かったと思う人もいれば、後で死にたくなるぐらいの場合もある。なおかつ、それを観客に商品としてお金を取って見せるわけじゃないですか。簡単に言えば、監督は人の人生を犠牲にして金儲けする極悪人みたいに言われる。森達也さんなんかはそのことを潔く認めているのかもしれないけど、僕は極悪人になりきれない。その方法もわからないのに何とか責任は取り続けたいと言うこと自体が卑怯だという自覚はあるんです。



想田:そのスタンスには共感します。作り手は極悪人にもなりうるし、そうじゃない関わり方もありうると思うんです。カメラを向けるこの世界が白黒つけられないグレーな世界であるのと同じように、撮る側の存在も極悪とは決めつけられない、グレーな存在だという気がします。そのバランスを常に取りつづけるのはしんどいですが、しんどさを引き受けていくしかないんだろうなぁと思います。



いずれにせよ、被写体は常に無防備で、撮影者はそこに付け入っているという感覚を忘れてはならないでしょうね。というのも、被写体と本当の意味で撮影のコンセンサスを得るのは難しくて、それこそ撮られている側は作品で自分がどう描かれるかなんて全くわからない。そんな状況で撮影だけはどんどん進行していく。撮影者と被写体は本質的に非対称なんです。それがドキュメンタリーの面白いところでもあり、やばいところでもある。




webdice_thallium_sub04

映画『タリウム少女の毒殺日記』より




インディペンデント映画でどう資金を回収するか



──次に、インディペンデント映画をめぐる問題について議論したいと思います。土屋さんは、この映画を製作する際、どうやって資金集めをしたのですか。




土屋:製作費は全て自腹ですが、今回は、配給宣伝費を「クラウドファンディング」という新しい資金調達の方法で集めました。2010年に『NEW HELLO』という企画を立てて、東京国際映画祭の企画マーケットに出したんですが、なかなか製作資金は集まらなかった。そういう厳しい状況の中で、インディペンデント作家が製作や配給宣伝の資金を集めやすい仕組みができないかなあと思って、「独立映画鍋」というNPOを2012年に立ち上げたんです。



それでクラウドファンディングという、ウェブサイトインターネットを通じて一般の人から小額の寄付を募る方法をやってみようと、日本でそれを既に実践していた「motion gallery」というクラウドファンディングのプラットホームと提携して活動を始めました。そして、最初の企画を「独立映画鍋」のメンバーから出そうということになって、僕が『タリウム少女』の配給宣伝費の資金募集を開始したんです。




想田:クラウドファンディングはアメリカが発祥です。「キックスターター」というサイトがあって、そこにプロジェクトを掲載し、寄付を呼びかける。寄付金額によって、映画なら「サイン付DVDをプレゼントします」とか、「前売り券をあげます」みたいに特典があったりして、賛同する人はどんどん寄付をする。もともとは、オバマ大統領が選挙資金を集めるために使ったやり方らしいです。



土屋:200万を目標金額にしておいて、結局240万ぐらい集まりました。前作の『PEEP“TV”SHOW』の時もカンパ募集で30万ぐらい集めましたが、それじゃ知り合いにしか広がらない。クラウドファンディングだと、一つのサイトにいろんな企画が上がっていて、全然知らない人が企画を見て「これ面白そう」「ちょっと応援したい」と寄付してくれる。そういうサイトを運営している会社やグループは日本にも5~6社あって、できあがった映画の配給宣伝費の募集もあるし、これから作る映画の製作費募集もある。いろんな企画があがっています。



想田:サイトにプロジェクトをアップする時に予告編をつけたり、概要を書いたりして、いろんな角度からアピールをするんです。で、サポートしたいという人があまり見返りを求めずに、お金を出してくれる。クラウドファンディングがこれからインディペンデント映画を支えて行く可能性はあると思います。プロジェクトのことを知りうる人のベースが広がるわけだから、可能性は増しますよね。



土屋:僕の場合、前作の『PEEP』は200万ぐらいで作りましたが、その時の借金とかが諸々重なって、この8年間新作ができなかった。



想田:僕は『選挙』は第一作目だったので自分の貯金で作って、完成した作品を売って資金回収して、それをまた次の作品に投下するというサイクルでやってきています。



『Peace』の時は、制作してほしいと韓国の映画祭から依頼された。『精神』のときは、釜山国際映画祭の「アジアン・シネマ・ファンド」から応募しないかと誘われて、結局100万ぐらい資金提供を受けました。



土屋:なんで僕にはそういう話が一回も来ないんだ(笑)。



貯金や助成金で何とか作ったはいいけど回収できず、という悪循環に陥るパターンは多いから、想田さんが毎回、回収できてるのはすごいですよ。



想田:そのために相当コストを下げるというのがポイントなんです。続けていくには少なくともトントンにしないといけない。僕はプロデューサーも兼ねてるので、その辺はけっこう気を付けてます。





webdice_タリウム少女_sub4

映画『タリウム少女の毒殺日記』より



土屋:僕も大金をかけて映画を作ってるわけじゃないんです。『新しい神様』なんて、僕の人件費はさておき、必要経費で言えば10万とか20万。だけど、配給宣伝に200万ぐらい使ってしまって、なかなか返ってこなかったし、最終的におそらくプラスは50万ぐらい。最初、1000万は儲かるんじゃないかと勝手に喜んでいたけど、全然違った。



想田:たとえば『選挙』について言うと、お金がかかったのは最初に買ったカメラや編集の機材費と、ホテル代、交通費ぐらいですね。編集も、音のミックスまで自分でやるし、英語字幕もネイティブ・チェックはしてもらいますが、基本的に自分でつけます。カットできるコストは全部カットするんです。カメラマンと一緒にやるとなると、コストは倍になって、だからこそ撮影期間も制限せざるをえなくなる。自分一人だったらいくら時間をかけてもいいわけですからね。



土屋:その間の生活を維持するコストは、前作で回収しているんですか。



想田:そうです。映画だけで回していくために、僕は1~2年に1本の割合で新作を発表することを目指しています。



ただし、どの映画も同じくらいの収益があるわけではなくて、作品によってまちまちですね。『選挙』は、BBCとかNHKとかアルテとか、33カ国のテレビ局が合同でやった民主主義シリーズというプロジェクトで、ワールドセールスをする会社に一括してテレビ放映権を売ったんです。その放映権が1000万ぐらいあって、その他にアメリカで売った放映権が400万ぐらい。だから、テレビだけで計1400万になりました。



まあ、普通の商業映画の世界ではこの程度の収益ではとてもやっていけませんけど、観察映画はもともとコストをかけてませんからね(笑)。その他、劇場公開や非劇場から入ってくる収入もあったので、インディー映画作家としての製作サイクルを確立していく資本金みたいなものはできた。すべての作品がうまくはいかないけど、赤字を出したことはないし、借金もない。『精神』なんかは劇場での観客動員が3万人あって、それだけで経済的に成り立つ数字になりました。



カミさんも製作補佐をしてくれてますけど、なかなか大変です。でも、作っている時は売ることは一切考えてないですよ。映画ができてから、どういう文脈に落とし込んでいくか、どういうアピールの仕方をするか考えるのが自分の方針です。作品そのものは絶対に妥協せずに作るけど、それを売るためにはあらゆることをやるわけですね。



(「創」2013年7月号より転載)











想田和弘 プロフィール


1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ卒。93年からニューヨーク在住。NHKなどのドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。その第1弾『選挙』(2007年)は世界200カ国近くでTV放映され、米国でピーボディ賞を受賞。ベルリン国際映画祭へ正式招待されたほか、ベオグラード国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した。第2弾『精神』(2008年)は釜山国際映画祭とドバイ国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞、マイアミ国際映画祭で審査員特別賞、香港国際映画祭で優秀ドキュメンタリー賞、ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭で宗教を超えた審査員賞を獲得するなど、受賞多数。2010年9月には、『Peace』(観察映画番外編)を発表。韓国・非武装地帯ドキュメンタリー映画祭のオープニング作品に選ばれ、東京フィルメックスでは観客賞を受賞。香港国際映画祭では最優秀ドキュメンタリー賞を、ニヨン国際映画祭では、ブイエン&シャゴール賞を受賞した。2012年、劇作家・平田オリザ氏と青年団を映した最新作『演劇1』『演劇2』を劇場公開。著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs. 映画ードキュメンタリーは「虚構」を映せるか』(岩波書店)。共著に『原発、いのち、日本人』(集英社新書)等。




土屋豊 プロフィール


1966年生まれ。1990年頃からビデオアート作品の制作を開始する。同時期に、インディペンデント・メディアを使って社会変革を試みるメディア・アクティビズムに関わり始める。ビデオアクト・主宰/独立映画鍋・共同代表。

監督作品として『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?』(1997年)[山形国際ドキュメンタリー映画祭、台湾国際ドキュメンタリーフェスティバル等、正式出品]、『新しい神様』(1999年)[山形国際ドキュメンタリー映画祭にて国際批評家連盟賞特別賞受賞、ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭、ウィーン国際映画祭、台北金馬映画祭、全州国際映画祭等、正式出品]、『PEEP "TV" SHOW』(2003年)[ロッテルダム国際映画祭にて国際批評家連盟賞受賞、モントリオール国際ニューシネマ映画祭にて最優秀長編映画賞受賞、ハワイ国際映画祭にてNETPAC特別賞受賞、ミュンヘン映画祭、香港国際映画祭、ウィーン国際映画祭、オスロ国際映画祭、シカゴアンダーグラウンド映画祭、ブリスベン国際映画祭、バンコク国際映画祭、ローマ映画祭、全州国際映画祭等、正式出品多数] 、プロデュース作品として『遭難フリーター』(監督:岩淵弘樹/2007年)[山形国際ドキュメンタリー映画祭、香港国際映画祭等、正式出品]がある。















映画『選挙2』

7月6日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか緊急ロードショー!





舞台は、2011年4月の川崎市議会選挙。震災で実施が危ぶまれた、あの統一地方選挙だ。映画『選挙』(07年)では自民党の落下傘候補だった「山さん」こと山内和彦が、完全無所属で出馬した。スローガンは「脱原発」。自粛ムードと原発「安全」報道の中、候補者たちは原発問題を積極的に取り上げようとしない。小さな息子のいる山さんはその状況に怒りを感じ、急遽、立候補を決意したのだ。かつて小泉自民党の組織力と徹底的なドブ板戦で初当選した山さん。しかし、今度は違う。組織なし、カネなし、看板なし。準備もなし。選挙カーや事務所を使わず、タスキや握手も封印する豹変ぶりだ。ないないづくしの山さんに、果たして勝ち目は?




監督・製作・撮影・編集:想田和弘

製作補佐:柏木規与子

出演:山内和彦 他

配給・宣伝:東風

(2013年/日本・アメリカ/149分)




公式サイト:http://senkyo2.com/



前作『選挙』を6月29日(土)より同館にて特別上映













映画『タリウム少女の毒殺日記』

7月6日(土)より、渋谷アップリンクにて“観察”開始!



科学に異常な関心を示す≪タリウム少女≫は、蟻やハムスター、金魚など、様々な生物を観察・解剖し、その様子を動画日記としてYouTubeにアップすることが好きな高校生。彼女は動物だけでなく、アンチエイジングに明け暮れる母親までも実験対象とし、その母親に毒薬タリウムを少しずつ投与していく…。さらに彼女は、高校で壮絶なイジメにあう自分自身をも、一つの観察対象として冷徹なまなざしで観察していた。

「観察するぞ、観察するぞ…」

≪タリウム少女≫は、自らを取り囲む世界を飛び越えるために、新しい実験を始める。




監督・脚本・編集:土屋 豊(『新しい神様』、『PEEP "TV" SHOW』)

出演:倉持由香、渡辺真起子、古舘寛治、Takahashi

撮影:飯塚 諒

制作:太田信吾、岩淵弘樹

チーフ助監督: 江田剛士

エンディング曲・挿入歌:AA=

日本/2012年/カラー/HD/82分

配給:アップリンク/宣伝:Prima Stella/デザイン:TWELVE NINE




公式サイト:http://www.uplink.co.jp/thallium

公式FACEBOOK:http://www.facebook.com/GFPBUNNY

公式twitter:http://www.facebook.com/GFPBUNNY


















「創」2013年7月号




特集【映画界の徹底研究】

◆東宝/東映/松竹/ギャガ/アスミック・エース/ワーナー

二極分化が進む映画会社の現状と戦略 道田陽一

◆フジテレビ/日本テレビ/TBS/テレビ朝日/他

最大の製作会社テレビ局の映画事業 木村啓司

◆銀座/新宿/渋谷などの映画館をルポ

映画館の実情は今どうなっているのか 木村啓司

気鋭の監督が語る映画論

『リアル』自分の冒険的な部分を前面に

黒沢 清

『さよなら渓谷』答の出ないものを描きたい 大森立嗣

◆【対談】『タリウム少女の毒殺日記』『選挙2』

インディペンデント映画をどう撮るか 土屋 豊×想田和弘

【安倍政権のメディア戦略】

◆【座談会】安倍政権のメディア戦略とは



価格:680円

版型:208×146ミリ

発行:創出版



「創」公式HP


http://www.tsukuru.co.jp/gekkan/





★購入はジャケット写真をクリックしてください。Amazonにリンクされています。












イベント情報




webDICE presents 『タリウム少女の毒殺日記』公開記念トーク

「10年代の幸福論」





カルチャーサイトwebDICEと映画 『タリウム少女の毒殺日記』(7月6日公開)とのコラボレーション企画。注目の論客たちと土屋豊監督が「10年代の幸福論」について語る先行上映イベントを2夜にわたり開催。



企業や組織に属さない自由や、自らが属するコミュニティの中に価値を求めていく在り方など、「幸せ」の在り方が多様化し、変化を遂げている現代。土屋豊監督は新作『タリウム少女の毒殺日記』で、管理社会の窮屈さを自らのケータイのカメラで軽々と飛び越えていく女子高生の視点から、「システムと人間」「プログラムと生命」について新たな考察を加える。本作を題材に、注目の論客たちが2010年代における「幸福」とは何かを語る。




【PART1】2013年6月29日(土)

19:00開演『タリウム少女の毒殺日記』上映スタート/20:30トークスタート/22:00イベント終了予定

会場:渋谷アップリンク・ファクトリー

料金:予約・当日1,800円

出演:朝井麻由美(ライター・編集者)、土屋豊(『タリウム少女の毒殺日記』監督)

ご予約はこちら http://www.uplink.co.jp/event/2013/13282





【PART2】2013年7月4日(木)

19:00開演『タリウム少女の毒殺日記』上映スタート/20:30トークスタート/22:00イベント終了予定

会場:渋谷アップリンク・ファクトリー

料金:予約・当日1,800円

出演:大澤真幸(社会学者)、土屋豊( 『タリウム少女の毒殺日記』監督)

ご予約はこちら http://www.uplink.co.jp/event/2013/13287




▼『選挙2』予告編


[youtube:pe3UR0j5wyI]

▼『タリウム少女の毒殺日記』予告編


[youtube:o-976C5NGZQ]
Viewing all 193 articles
Browse latest View live